主とともにあゆむー高原剛一郎

再婚により喪失から新しい地平に歩み出したキリスト伝道者の随想

クリスマス、恵みを思いめぐらす機会

12/6  月曜日


昨日は、大阪市緑橋にある集会で、今年最初のクリスマス特別集会にお招きをいただきました。
会場は大入満員。兄弟姉妹たちの3倍にあたる人たちが詰めかけたのです。 
 
今年も夫婦で招いて下さり、私たちはメッセージの前に賛美 とギター演奏をさせていただきました。
実はこちらの集会には、プロ級の音響専門家の方がいます。
今までこちらでした中で1番良い音質で、会場内にクリアな音で賛美が響き渡りました。
音質が良いと、俄然乗ってきます。といっても、そこは、シロート・チアリ。
乗ってしまうと冷静さを失い、小さなミスをいくつもしてしまいました。
しかし私には、独り子をこの世に与えて下さった神さまを、音楽でほめたたえるさせていただけることが無性にうれしかったです。
ラストから2番目の曲は、アメイジンググレイスでした。
何と言う驚くべき恵み。私のようなものが救われたのだ、と言う意味の歌詞から始まりますが、これは作詞者ジョンニュートンの信仰告白であるだけではなく、私自身の信仰告白でもあります。
もし恵みということが聖書的に理解されたら、人はもっともっとキリストに駆け寄っていくに違いありません。駆け寄っていくに違いありません。特に日本人は、仏教的なカルマの思想に染め上げられているようなところがあります。
良い事は良い人に起こり、悪いことが起こるのは悪い人だからであると言うあの思想です。
しかし神様は、恵深い方なのです。良い人にも悪い人にも、太陽上らせ雨を降らせてくださる神が、とびっきりのアメイジンググレイスを示してくださいました。それはイエス・キリストです。
 
さて緑橋集会には、かれこれ7年以上クリスマスの時に呼んでくださいます。
それでクリスマスの時にだけ教会に来る方々には、私はなじみのMessengerとなっているのです。そういうこともあって、会場びっしりの中で、親しげに話しかけてくださる方もいました。
その中には、私の3人の子供たちが通った、田辺中学校の英語の先生もいらっしゃいました。
3人の子供たちの名前を、今も覚え、そしてクラブ活動の内容まで鮮明に記憶されているのには驚きました。メッセージの後の、デザートタイムも、大いに盛り上がりました。
そして個人的に、キリスト到来の目的や、どのようにして私自身が創造主を信じるようになったのかを説明するチャンスが与えられました。

何より嬉しい事は、メッセージの後で、洗礼を受けてキリストに従っていく決心をした方が1人起こされた事でした。毎週毎週、参加者がいてもいなくても、地道に福音を述べ伝え続けてこられたこの集会への神様のプレゼントのようにも思いました。すべての集会が終わった後で、交わり会をし、そして10数名の兄弟姉妹たちと熱々のうどんを食べに行きました。
責任重大の働きの後でいただく食事は、なんと美味しいことでしょう。
気のおけない兄弟姉妹たちと一緒に、神様をほめたたえ、冗談をいいあい、笑ったり歌ったりふざけたりするのはなんと楽しいことでしょう。
年齢差を超えて、学びについての質問や日本のこれからのことや、腰痛やら好き嫌いの事について、とめどもなく話が続きましたが、本当に愉快で嬉しい時間でした。
  

「 私たちは皆、この形の豊かさの中から、恵の上にさらに恵みを受けたのである。」ヨハネ1章16節
 
 

 

石垣島を後にして

11/30 水曜日


昨日は、午前中に小学校で、午後からは中学校で「いのちの授業」をしました。

小学校では、六年生と四年生が合同で授業に参加しました。
本来は、五年生が参加するのですが、学校行事がすでに入っていたので、六年生だけの授業になるはずでした。
しかし、校長先生が、四年生にも、是非とも聞かせるべきだと強く提案されたのでした。
現場の指導者のバックアップがあると、本当に助かります。

30分間、和やかに進みましたが、真剣な話の時には、みな静まり返って聞いてくれました。

午後からは、中学校で一年生を対象に授業です。
実は、この学年は四六時中騒がしいと聞いていました。
昼間から、集団で学校を抜け出して、教室に姿がないということが起こるのです。
元気があるとも言えますが、落ち着きがなく、収集がつかなくなる傾向があります。
会場に入っただけで、すぐにそれはわかりました。
なんとなく、ふてぶてしいのです。
挨拶にしても、集団になると「こんにちは!」ではなく、「ちぁーっす!」です。

私は、主をお呼びして、この場を支配してくださるように祈りました。
すると、数人の生徒たちがやって来ました。
「私は、先生を知っています。去年、小学校ではなしてくださったでしょう?」
そう言って、実に詳細に、昨年話した内容を説明してくれました。
気がつくと、講師席の周りは黒山の人だかり。
今回は、何を伝えてくれるのかと、ワクワクする生徒たちが少なくともいることがわかりました。
主の励ましです。
話が始まると、全員食い入るように聞き入っている姿に、神様の働きを見ました。
話の後で、生徒たちから質問が出ました。
話の中で紹介したある事件について、しりたがったのです。

それは、気の弱いクラスメートを使って万引きさせていた女子生徒の話でした。
彼女もまた、上の学年のグループに脅かされていたのです。
そのグループには、覚せい剤の問題が絡んでいました。

覚せい剤は、三回人間を殺します。
一回目は、脳を殺します。
二回目は、覚せい剤欲しさに、平気で裏切り、嘘をつき、盗み、売春し、友を売ります。こうして、人生を殺します。
三回目は、肉体的命を殺します。

辛いことがあるからといって、安易に薬物に手を出すことは自殺行為です。
人生は、何でも経験だという考え方も、幼稚です。
ある種の経験は、一度でも経験してしまうと、経験する前の自分に戻れなくなるからです。
静まり返って聞いてくれたのは、幸いでした。

夜は、石垣集会の兄弟姉妹たちと、じっくりと主にある交わりをいただきました。
特に、A兄弟の一代記は、私をチャレンジしました。

外からみるとかなり過酷な人生にも見えますが、悲壮感が欠片もありません。
辛いことがありますが、ウンザリしていません。
基本的に、キリストにあって主体的に生きています。
させられてではなく、押しつけられてではなく、主に対して自発的、能動的です。
そして、いつも提供者側に立ちます。
だから生きている、生かされているという実感に満ちています。

貰いなれてしまうと、期待している物が貰えなくなれば、不満が出ます。
これは集会生活でも言えることだと思います。
満たしてもらうために集う生活からは、満たしよりも不満が生まれます。
嫌な状況が来ると、逃げ出します。
居心地の良し悪しでみこころを判断します。
そこにあるのは、家族としての意識ではなく、サービスを受けるために来たお客さんです。
お客さん扱いは、確かに気持ちよいものですが、成長は期待できません。
キリストは、仕えられるお客さんとしてではなく、仕えるしもべとして歩まれたからです。
キリストにお会い出来る場所は、地上においては面倒くさい所かもしれません。
たくさんキリストに会ったA兄弟から、学ばされることでした。


「わたしに仕えるというなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕えるものもいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」ヨハネ12:26

神の感動に与る

 11月28日月曜日


昨日日曜日の聖書講演会には、一昨日にも勝って大勢の人が集会に押し掛けました。
メッセージの後で1人の求道者の方が来てくださいました。
彼女は、福音のアウトラインを理解していました。
しかしながら、信仰告白に踏み切ることができなかったのです。というのは、三日坊主の性質が染み付いているので、自分のする信仰告白を信頼できないと言うのです。
信仰告白した時点では、誠心誠意、真心から出たものであったとしても、しばらく時間がたつと飽きてしまい、長続きしないのではないかと考えてしまうのです。
そんな頼りない信仰告白を、とてもする気にはなれないとおっしゃるのです。 
そうかといって、キリストのない人生を歩たくはないと言うのです。自分の本心がどこにあるのか、考えすぎてわからなくなってしまっているのです。

そこで私が申し上げたのは次のことです。
あなたは自分の信仰や信仰告白を救い主にしようとしているのではありませんか。 あなたの信仰があなたを救うのではなく、イエス・キリストがあなたを救うのですよ。
イエス・キリストを救い主にする代わりに、自分の信仰を救い主であるかのように取り違えているのではないでしょうか…と申し上げたその瞬間、わかりました!と顔が輝いたのでした。
イエス・キリストに対して信仰の決心を表明する祈りをされるのを、私はそばで聞きながら、感動しました。主イエス・キリストが、感動しておられるに違いないと思ったからです。

初めて集会に来てくださった方も交えて、皆でおいしい夕食をいただきました。
気のおけない仲間達と、様々なことを自由に語り合いました。

さて今日は石垣市内にある、とある小学校で5年生と6年生を対象にお話しをしました。
それは聖書メッセージではありませんでしたが、聖書の価値観に基づいてメッセージです。
大きなテーマとしては、自分を大切にするというものでした。

1人の人間として、罪を憎む事は 大切なことです。
しかし罪を憎む事と、罪を犯してしまった自分自身を憎悪することとは違うのです。
憎しみの矛先が、罪ではなく自分自身という存在に向かうとき、破滅は必然となります。
罪を憎んで、キリストを信頼する。
この単純な真理がわかれば、人生はどんなに楽になることでしょう。
 30分ばかりの公演が終わった後で、10数人の子供たちに取り囲まれました。
中にはふざけて、絡んでくる子どもも思いましたが、講演の内容についてもっと知りたいもっとわかりたい、来年も続きを話してほしいと熱心に訴えてくる子供たちを、いとおしく思いました。
それから、今年82歳になる大先輩のクリスチャン、A兄弟のご自宅に行きました。
私が尊敬する兄弟です。

 
この方にとっても今年1年は試練の連続でしたが、キリストにある見方でご自分の人生をまるで映画を見るように眺め、とらえ、キリストに話しかけながら歩んでいるその生き方の中に、多くの示唆をいただきました。


明日はまた別の小学校と中学校で、それぞれ命の講演会をします。
石垣島の少年少女たちに授業するのもこれで5年目になりました。
生徒たちの前に立つとき 、私は神様の祝福を浴びているように感じます。
神様の恵みを日光浴のように歩いているように感じるのです。
というのは、私は学校の教員になりたいと願っていた時期があり、実際に大阪の教員採用試験を受験した経験があるからです。
結果は残念ながら、不合格となってしまいましたが、今神様が形を変えて私に授業をさせてくださっているのです。
しかも、普通の教科の授業ではなく、命について、人間について、人生について大切なメッセージを伝える授業なのです。
これは私がずっと願っていたことです。神様は、私が考えていたのとは違った形で、私の願いを叶えてくださいました。
しかも私が願っていた形以上の理想的な形で、夢を叶えてくださったのです。
人生は、先に進んでみないと見えてこない意味や答えがあるようです。
若きになぜなのかがわからず、答えが得られず苦しんでいた問題がこの年になってその理由を見せていただくことができています。
これからもっともっと前に向かって進んでいけば、もっともっと不可思議なる人生の全容が見えるようになるのでしょうか。
主と共に歩む事は、恵であり、慰めであり、神の回答をいただく事でもあるのです。


「 主は、私に関わることをすべて成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵は永久にあります。あなたの御手の技を捨てないでください。」詩篇138編8節

 

 

 

 



 

 
 

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