6/15 水曜日


今日は、心斎橋の日航ホテル「心斎橋クラブ」で講演しました。
このクラブは、心斎橋筋商店街のオーナーの集まりです。
一時間で、アメリカ大統領選挙の行方、日中関係の将来、イスラム国の衰退について語りました。
講演では聖書については一切語りませんでした。
しかし、食事の二時間、びっしりと聖書について語りました。
なぜか自然に、聖書の話になってゆくのは、主の導きとしか言えません。
敢えて言うなら、自分自身の中で、聖書的な世界観を確立していることです。
聖書的世界観の持ち主が目ざとく反応するのは、聖書的終末観に合致するものです。
聖書的世界観の持ち主が語る一般論には、直接聖書に触れた話題でなくても、言葉の端々になんとも言えない聖書の魅力が見え隠れするものです。
私は充分に証をさせていただくと、急いで帰宅しました。
家を出る直前、母が体調を崩して一騒動あったからです。
家内に母を託して行きましたが、心の奥底に胸騒ぎのようなものがずっとありました。
幸い大事に至らず、感謝しました。
枕元で、いろんな話をしました。
いつの間にか、小さく、シミだらけ、あざだらけ、同じことを繰り返す母を見ていると、力を使い果たした器のように見えました。
私という人格を作り上げるのに、神が用いられた器です。
私のためにも、持てる力を出し切ってきた器を目の前にすると、私は何も言えなくなります。
主がこの人に、穏やかな晩年を与えてくださいと願わずにはおれませんでした。


「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」イザヤ46:4