2017年01月14日

今回は新しい年になってから書くことになってしまった。
それも、またもや西周の講演会だ。

まえから張厚泉さんと、「百学連環」をテーマにした内容が話せるといいですね、と」いっていた。
印刷博物館の樺山紘一館長に快諾いただきコメンテーターとして参加されることになった。

ところで、去る12月2日に、津和野町東京事務所で「百学連環を読む」をテーマにトーク
イベントが開催されたとのこと。
昨年8月、「百学連環を読む」の書籍が発刊(三省堂)され、著者の山本貴光さんのお話
を聞く機会があったが、その内容はとても興味深いものだった。その山本さんがトーク
されたようだ。

西周は多面的な存在ゆえに、これから次の世代やジャンルのちがう人たちによって、
いままでとは異なる視座からのアプローチがあってよいと思う。

いよいよ西周のオープン化が起こりそうな予感がしてきた。


特別講演会: 「百学連環と西周の哲学思想」

とき: 2017年2月19(日)14時から
ところ: 文京区立本郷図書館

内容: 日本初の学問体系である『百学連環』を通して
      西周の哲学思想の原点を語ります。

講師: 張厚泉氏(上海東華大学 日本語学科教授)
    コメンテーター: 樺山紘一氏(印刷博物館館長)
        
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2015年12月29日

またもや一年が経ってしまった。
なにかといろいろあった今年、このブログを消滅させるわけにいかない。
で、年の終わりということで書いておこう。
またもや昨年の年の暮れと同じモード。

「西周講演会」の第三回目が来年、2月28日に開かれることになった。
会場は、いつもの本郷図書館。張厚泉さんのお話は、西周を形成した人々について。
おそらく津和野時代の儒学関係のほか、どんな人物がでてくるのか。
中国人の張さんが西周を研究すること自体面白い。何度も言うようだが、日本人で西周をトータルな人物像として語れる人が、いつ出てくるだろうか。

ところで、今年も良き出会いに恵まれたが、そのひとりが印刷博物館の緒方さんだ。父上はジャーナリストで、私がずいぶん前からお世話になっていたが、この春に逝去された。
昨2014年秋のこと、あるシンポジウムを行うため、緒方さんの父上と一緒に事務所で企画を考えていた。そのとき席から近くの本棚を眺める。どこかで見かけたタイトルだ、と席を離れ本を取り出す。なんと『百学連環』ではないか。

そのときは、そのまま帰った。秘書の方に聞くと私が思っていたとおりだった。父上のご子息が緒方さんだった。
今年の二月、ある会場でお父上を介助してそばに居る緒方さんを発見。驚かれたが、その場から少し離れ、緒方さんに「樺山先生によろしくお伝えください」と添えたていどで、ふかい話はしなかった。
その時が、父上の最期の講演となり熱弁されたと、あとできいた。

偶然の出会いが生む話は、いつもドラマチックだ。その緒方さんが、なんと『百学連環』の編集をしたというのだ。で、この秋に樺山先生、緒方さんを訪問、印刷博物館で張さんを入れ四人で面会ができたのだった。
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2014年12月31日

昨年10月に張厚泉さんの西周講演会が開かれたが、その2回目が来る2月15日に行われることになった。場所は前回と同じ本郷図書館。
昨年は、地元の方々だけでなく西周の故郷、島根県津和野から下森町長や東京在住の津和野高校卒業生の方なども聴講された。
津和野の出身として知られる森鴎外は、文京区千駄木に住み、その跡地に森鴎外記念館が完成したのが昨年春だった。
その記念館の開館式のとき上京中だった下村さんに張さんと一緒に会った。そこで西周の研究発表が本郷で開かれることを伝えたこともあって、当日わざわざ会場に来ていただいた。

その世話人となっていたぼくは、講演のおわりに地元の関心ある方々と“西周のサロン”でもつくりたいですね、と次につなげたいという思いを話した。このほど2回目の講演会ができることになった背景には本郷図書館だけでなく地元根津の小林暢夫さんのご協力も大きかった。

その後の張さんだが、東京大学東洋文化研究所研究員、東京農業大学客員教授などとして、約1年が経過している。今年の春には印刷博物館の樺山館長にもお会いすることができ、『百学連環』についての話を聞くこともできた。

最近、島根県立大学が主宰する「西周研究会」にも呼ばれて話されたという樺山さん、中国人の張さんが西周を研究していることに関心を持ちエールを送っていただいた。できれば、いずれ樺山先生も参加され、例えば「「百学連環」と、西周のアジア連携」のような今日的な意義をテーマに、西周をもっとグローバルな存在として再発見の光を当てる機会を創出できないだろうか。そんな気が強くしているこの頃である。

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2014年12月29日

天神さんのご神水が復活したというニュースが流れてきた。その話、数日前に仕事で天満のお寺さんに行ったときのことだった。

今、NHKの朝ドラは余市のニッカウィスキーが主人公だが、一方で淀川の沿岸、山崎の名水でサントリーが生まれている。
大阪は水の都。淀川の河口近く天満は昔から水の豊かなところだった。江戸時代、大阪四大名水の場所で三十もの酒蔵が並んでいた。九州延岡藩の殿様は途中で大阪の藩邸に寄って、この水を飲むのを楽しみにしていたという。

さいきん、天満の名水を復活しようと地元企業がお金を出し合って井戸を掘ったら、地下七十辰ら昔と同じ水が湧いてきたらしい。今年の天神祭のとき、その冷たくておいしい水を飲みたいという人で大騒ぎになった。

12月25日は、しまい天神なので大阪の人は、お餅つきも見られるし、水をひしゃくで飲めるそうだ。それと天満を発祥地とする大阪ガスは、きれいな薄緑色のオシャレな容器を提供し水を飲めるサービスもするらしい。

それにしても、天満で食べた江戸風うなぎはよかった。大阪ではなかなか巡りあえない、美味なかば焼きだった。

もう一つ関西の話題。
和歌山の寺で、徳川初期、紀州和歌山藩に雇われていた名取三十郎のことが判明したという。これを突き止めたのはイギリス人のアントニーさん。戦時中に焼けてしまったとされていたがこれを調べたらしい。この12月に和歌山で講演会も行われた。

忍者は、自らの存在が知られずに、情報収集や諜報を駆使して相手方に接近して目的を果たす。その手段として、相手の心理を読む術や情報収集、諜報の術を会得する。これらの技術は昔から秘伝とされてきた。「寝息の正しい者がいたら、寝ていないかもしれないから気をつけよ」といった実践行動の要諦はどのように伝えられたのか。

甲賀・伊賀・雑賀の一族には忍術、鉄砲などを戦法として扱う専門集団がいたという。紀州藩の忍者は、徳川家に必要とされた諸藩の情報収集、諜報等の役割をこなしていたようだが、日本三大忍術伝書のひとつ『正忍記』を残した名取三十郎もその一人だった。

それにしても先日のブログで登場した英国人のEさんいわく、日本人の情報リテラシーはかなり高く、日本文学や漫画の多くは世界に通用する普遍性があるとのこと。忍法も同じなのだろうか。ブルーノタウト以来、やはり日本文化の本質は第三者によって発見されるようだ。

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裕子 絵画-01 年賀状 H7年今年も暮れようとしている。
このところお休みが続いているこのブログだが、このあいだ久しぶりに会った友人から「ブログどうした? いつも楽しみに読んでいるけどー」といわれ、嬉しさ半分だった。
その友人にいわれたのが「みさき考」だった。さっき読み直してみた。本当は、こういう遷移モードを書きつづけたいのだ。

ある出来事は、必ず情報を伴いながら移動していく。どこへ飛んでゆくかは分からない。そしてどこかの媒体に情報を授粉する。そのときどんな現象が発生するのか、そして、そこからまた出来事が起こり、さらに次々とそして情報も一緒に移動してゆく。

このような移動の概念を「遷移」という。どのような結果を生むかは分からない、意図することもできない、すべては自然のままの流れだ。その流れや歴史のプロセス全体を眺望するときランドスケープという視座が必要になる。自分の若いころから抱いていた漠としたイメージ感覚をもとにして始めたのがこのブログだった。

そんなこと思いだしながら最近、色々な人と接しているが、世の中だんだんと遷移モードになっているという感じが勝手ながらしている。

それにまつわる話。
日本に住む香港生まれの英国人Eさんのこと。日本の有名電機メーカーで約十年、多くの業績を残し、進化途上だったウェブの世界に転じた。そして今やだれもが利用している検索基幹システムなどの開発を行い、数年前に起業する。が、詐欺に遭うなどして一時はポケットに百六十円だけ。木賃宿を転々とすることもあったとか。まさに遷移のプロセスではないか。

その彼が考案、開発したシステムが、昨年の秋外人記者クラブで紹介された。話を聴いた記者らは、何か特別の感慨を持って名刺交換に列をなした、というのだ。

そのときの発表は「さまざまな価値の数値化」をするというもので、モノの理、数の理を可視化する話だった。理(ことわり)というのは物に内在する条理で、日本らしい考え方で日本書紀や源氏物語でも表現されている。つまり物事の因果関係を見えるようにしたのだ。どうアプローチしたかといえば、ビッグデータを解析し、流通する情報に接した人々の動きを捕捉、世の中に起きた現象(株価、ブランド力、来場者数、旅行者数の推移など)の「要因とその影響力」をリアルタイムに示すのだという。つまり物事の因果関係を“見える化”して明らかにするというもの。

つまり「その現象が起きた要因をリアルタイムで見せる」もので、世界初のシステムだという。ぼくは、それを“遷移の解析システム”と呼びたい。

ランドスケープを背景にしてきたブログも来年で十年がたつ。その間の出来事、そして時間の早さは驚くばかり。なんという世のスピードだろうか。

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2014年07月14日

チェルノブイリ写真展ポスター 1 中筋純先日、キャノンギャラリー銀座の「廃墟」の写真展で出会った中筋さんから案内が届いた。
2007年以降、毎年のようにチェルノブイリを訪れ廃墟となっている原発遺構を撮ってきた写真家中筋さんの一連の展覧会だ。
中筋さんは福島原発で被災した浪江町にも行き、現地のマツバヤが経営するサンプラザショッピングセンターの内部に入り込んで撮った写真もあるとのこと。福島で写真展も開いたそうだ。サンプラザ店内で当日被災した俳人中里夏彦さんに、中筋さんのことを電話で話した。いつもながら人のつながりの奇縁を想う。




無人と化した街の抜け殻が台地に横たわり、その奥に悪魔を封印した石棺が鈍い光を放つ。だがその一方で、自由を得た木々は我先に光を求めその枝葉を伸ばし、再び姿を再現した野生動物が廃墟のメインストリートを闊歩する。文明の荒廃と野性の回帰は一衣帯水である。無秩序に拡散された放射能が豊穣なる大地を分断する。28年の時が流れてもなお、チェルノブイリの街はサイレントリアルである。(開催チラシより)

期間
2014年7月19日〜8月2日

会場
新宿西口プロムナードギャラリー
*公衆ギャラリーのため基本的には在廊いたしません。


チェルノブイリ写真展ポスター 2 中筋純中筋純/写真家を経て中筋写真事務所設立。広告、雑誌等の撮影業務と並行して日本の産業遺構を撮影。2007年よりウクライナ/チェルノブイリ発電所周辺の撮影を開始。
著書
2008年「廃墟チェルノブイリ」
2011年「チェルノブイリ 春」
2014年「流転チェルノブイリ」
 いずれも二見書房刊
個展
「黙示録チェルノブイリ」(全国巡回)
「チェルノブイリ曼荼羅」
「チェルノブイリ福島」
などを各地で開催。

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2014年02月10日

砂糖工場 オレンジ郡 1897創立上海の旧東亜同文書院大学の写真を探していたが、このほどお爺さんが同大学第22期卒業生という方に記念アルバムを見せていただいた。
そのアルバムに目的の建物が写っていて思わぬ確証を得ることができた。

その写真は同大学の学生寮である。
上海で活躍した建築家平野勇造がその設計をしたと聞いていたが、拝借した写真アルバムをみると、寮は本館から少し離れて数棟建てになっている。その特徴的な屋根の外観から彼のものだと判明した。

上海で日本の紡織企業(在華紡)を数多く設計した平野は、明治四十四年,最初に上海に進出した内外綿を手がける。
船運を考え蘇州河沿いに計九カ所の工場を建設した内外綿は、在華紡経営の手本とされた。日本の名門紡績会社、東洋紡や鐘紡も後に「裕豊紡」、「公大紡績」として、それぞれ黄浦江沿岸の楊樹浦路に工場を建設する。その時、社員寮や中国人の従業員施設を含む全体を構想するとき範としたのが内外綿だった。
この辺りについてブログ「西川秋次の上海」がある。

このように平野勇造は三井物産の専属技師という立場もあり、在華紡のほとんどに関わっていた。なぜ彼の仕事が信頼されたのだろうか。そ背景には、米国で工場建築を学んでいたこと、さらに帰国後の明治二十七年に設計した当時の先進企業、鐘紡兵庫工場の建設経験があった(写真:下2)。
上海で、その設計理念や社員処遇の思想に共鳴したのが内外綿の社長川邨利兵衛だった。内外綿社員の子ら向けに建てた学堂(写真:下1)、現在も残っている旧「公大紡」従業員社宅(写真:下3)などをみると、良きカリフォルニア西海岸の建物デザインの明るさの片鱗を感じる(写真:最上部)。

内外棉 水月学堂




タイポグラフィセミナー写真 鐘紡兵庫工場 食堂




裕豊紡 社宅 















写真最上部:サンフランシスコ郊外オレンジ郡の砂糖工場の建物(1880年代)
写真下1:かつての上海「内外綿」の学堂
写真下2:「旧鐘紡兵庫工場・大食堂」
写真下3:楊樹浦路の上海「公大紡績」旧社宅
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2014年02月08日

佐原たみ 産業技術記念館より豊田佐吉が若かった一時期、発明、開発に没頭していた場所に浅草があった。
「傳記」によると、明治二十三年、上野で行われた第三回内国勧業博覧会を見学に上京する。翌二十四年には初めての特許「豊田式木製人力織機」を得るが、だからといって地元では飛びつくような人はいなかった。それで、ますます改良、開発に没入することになっていった。

明治二十五年、仕事仲間の伝手で東京浅草(当時の千束村)の機屋佐久間忠次郎を頼りに上京する。佐久間に「特許を取ったからといって、今は不景気で織機を造ったとしても売れない。それより今人気の双子織を織って売りにいった方がよい」と言われ、荒川を渡った埼玉方面に東京双子や関東縮を売りに行くことにした。そのことが、織機開発にはマーケティング発想が大切なことを知るきっかけになった。

最初の妻たみ(佐原)との縁談話があったのは、その翌二十六年のこと。
いつも資金の足りない佐吉、故郷に戻り結婚するほうがよいと判断したのだろう、友人の妹佐原たみと結婚する。だが、結婚十日ほどで佐吉は一人東京へ戻ってしまう。たまらず、たみも翌年上京するが、東京での生活は楽しくない。織機の研究に夢中になるだけで収入の乏しい佐吉を、機を織って生活を支える、たみは間もなく身ごもる。この時ばかりは佐吉も一緒に郷里へ帰った。だが、出産の後、またも佐吉は出奔し帰ってこない。愛想を尽かしたたみは、出産二カ月後にして子を置いたまま家を出てしまう。

その子が豊田喜一郎で、現在の豊田章一郎名誉会長の父にあたる。だから豊田の本流は前妻たみの系統になる。

ところで佐吉が東京に滞在していたころ、実際には効率的な織機を求めるような市場環境には至っていなかった。さらに模索が続き、放浪しながら紡織関係者に会い交流しながら苦心惨憺の日々を送っていた。後世、各地に佐吉が出没した逸話が残されているのはそのころのことだ。

逸話の一つに、埼玉の中山道蕨宿で“機神さま”と言われた高橋新五郎家を訪問した時の話が残されている。その時期は、浅草の機屋のころか、それ以前か。また再び上京し埼玉で糸繰返機の行商をした明治二十七年ころだったか。数回にわたって高橋家を訪れていることは確かであろう。(佐吉の来蕨時期と回数については、正確には不明の点もある)

糸繰返機を持って高橋と会ったときの佐吉の対応にまつわる言い伝えが面白い。そのとき高橋は機械改良の貴重な助言を佐吉に与えたようだが、地元では「佐吉が技術を盗んでいった」と伝えられている。この一件、佐吉の発明に対するあくなき執念と相手の懐に入り込んで心を許させてしまう人間性が伺えて興味深い。

佐吉の蕨訪問については、古老の記憶を聞書きして残された潮地ルミさん並びに潮地悦三郎さん(故ご主人)による論文を、このブログで紹介している。
彷徨える豊田佐吉 〜蕨町訪問のナゾ〜 潮地ルミさんからの手紙(その1)
彷徨える豊田佐吉 〜蕨町訪問のナゾ〜 潮地ルミさんからの手紙(その2)

偶然にも、潮地ルミさんの生まれた場所は浅草千束村だった。

昨秋、ある方の紹介で西浅草の台東区立図書館を訪ねた。その付近が、佐吉のいた旧千束村だったことから、佐久間忠次郎の痕跡を調べに行った。同区教育委員会のご親切な調べで、地元の有力者だった佐久間忠次郎の存在が判明し、その付近の旧地図や当時の紡織業者の名簿も残されていることが分かった。

余談になるが、佐原たみの結末について。彼女は故郷(現在、湖西市)で幸せに暮したそうである。明るくさばけた人柄だったようで、実際のところは発明に明け暮れ、自分に振り向いてくれない佐吉に対し、離縁したのはたみの方からだった。後世、「佐吉傳」を作る段になれば表現を変えたとしても不思議ではない。こういう話は偉人伝によくあることで、名を残した人物の周辺や後の事情が絡んで虚実、曖昧なことが含まれてくる。

もう一つ、佐原たみが東京にいた豊田佐吉に愛想をつかした、その理由にすぐ近くに「吉原」があったからではないか、ということ。これ、若き時代の豊田佐吉を追跡している小栗照夫さんの説だ。

参考:『豊田佐吉とトヨタ源流の男たち』小栗照夫著


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豊田佐吉の若い頃の一時期、発明、開発に没頭していた場所に浅草があった。

「傳記」によると、明治二十三年、上野で行われた第三回内国勧業博覧会を見学に上京した。翌二十四年には初めての特許「豊田式木製人力織機」を得るが、効率のよい織機といっても地元では飛びつくような人はいない。それで、発明、改良にますます没入することになっていく。

明治二十五年、仕事仲間の伝手で東京浅草(当時の千束村)の機屋佐久間忠次郎を頼りに上京することになった。佐久間から「今は不景気で織機は売れない、その織機で今人気の双子織をつくって売った方がよい」と言われた佐吉は、荒川を渡って埼玉方面に東京双子や関東縮を売りに行くことにした。どんな布地が売れるかを知ることが先だ、ということを言われたのだろう。佐吉の浅草時代は一年少しだったが、市場を知るという意味で貴重な経験ができた期間だった。

最初の妻たみ(佐原)との縁談話があったのは、その翌二十六年のこと。
いつも資金の足りない佐吉、故郷に戻り結婚するほうがよいと判断したのだろう、友人の妹佐原たみと結婚する。だが、結婚十日ほどで佐吉は一人東京へ戻ってしまう。たまらず、たみも翌年上京するが、東京での生活は楽しくない。織機の研究に夢中になるだけで収入の乏しい佐吉を、機を織って生活を支える、たみは間もなく身ごもる。この時ばかりは佐吉も一緒に郷里へ帰った。だが、出産の後、またも佐吉は出奔し帰ってこない。愛想を尽かしたたみは、出産二カ月後にして子を置いたまま家を出てしまう。

その子が豊田喜一郎で、現在の豊田章一郎名誉会長の父にあたる。だから豊田の本流は前妻たみの系統になる。

ところで東京滞在期の佐吉は、特許を取ったものの織機をつくっても、まだ普及できるような時代ではなかった。そのころ徘徊、放浪しながら各地の紡織や織機の関係者に会い交流しながら改良に苦心惨憺していた。各地に佐吉が出没した逸話がいくつも残されている。その一つが、中山道蕨宿の高橋新五郎家に伝わる佐吉訪問の逸話である。このブログにもあるが、糸返繰機の売込みにきた佐吉のことを記憶していた地元の古老がいた。そのエピソードを聞書きした記録がブログで紹介されているが、偶然にもその書き手、潮地ルミさんの生まれた場所が浅草千束村だった。

昨秋、現在は地名が変わっているが西浅草の台東区立図書館を訪ねた。その付近が佐吉が機屋を営んでいた場所だったことから、地元の佐久間忠次郎の痕跡を調べに行った。明治期に地元の有力者だった佐久間忠次郎がいたことが判明し、その付近の旧地図や当時の紡織業者の名簿も残っていた。豊田佐吉伝説は、まだまだ残っているかもしれない。

たみの結末だが、彼女は地元で幸福に暮したそうである。英語も話せたそうで実際のところだが、離縁したのはたみの方からだった。後世、佐吉が有名人になったために実像は塗り替えられたようである。




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2014年02月06日

西周は津和野を脱藩する。そして江戸へ出てオランダへ留学、帰国後、徳川慶喜の側近となり、大政奉還へ。明治四年、東京神田の育英舎で「百学連環」を開講する。それに至るまでの西周の活動を、川嶋保良著『西夫人 升子の日記』からの引用、要約でまとめた。

西周の動静を記した夫人の「日記」は、激変する幕末、維新の様相を夫人目線で実況中継のようにとらえている。馴染みにくいといわれがちな西周を、実際に近い姿で知る上での裏面史のようになればと作成してみた。


1 津和野を出る西周

石見の国(島根県)津和野の人。文政十二年(一八二九)生まれ。升子とは十二歳違い。西家は代々津和野藩主亀井氏に仕えた藩医。当然、長男の周助(後の周)も父の跡を継ぐべく幼いころより祖父、父について学び十二歳で藩校「養老館」へ入学を認められた。
彼は土蔵の三畳間を勉強部屋とし母屋に行って食事をするのは時間がもったいないと、お握りを土蔵に持ち込んで勉強に打ち込んだ。取りかかった一つごとにけじめをつけないと気が済まないという、幼い頃の性格は升子との新婚生活にも晩年になってもうかがわれた。

学問熱心が藩主亀井茲監の耳に達し、十七歳の時に中扈従格として藩主のお側に仕えることになった。彼の才能を見込んだ藩主は二十歳の時「一代還俗」を命じ、周は医家としての修業を中止して儒学を学ぶことになる。
二十一歳、大坂での遊学を願って二年間、大坂の松陰塾、岡山では熊沢蕃山創設の岡山学校で学んだ。
この時、後に深く交わる松岡隣や中嶋玄覚らと知り合う。
嘉永六年(一八五三)六月、ペリーが浦賀に来航。山陰の山間の地にあって進取の気性に富む藩主茲監は藩士数名を江戸に派遣することとし、周も参加を命じられた。江戸に出た周は、国元では学べなかった新しい学問に取りつかれ、算術、オランダ語、英語などを学んだ。新しい学問修得への一途な気持ちが湧き起こり、松岡らに相談、藩務にわずらわされては学問への志は遂げられないと、彼は藩主、父、同僚あてに書き置きし、先祖代々禄を受けた恩顧ある主家を脱藩する。武士にあるまじき恥ずべき行為とされていたが、江戸末期、尊王攘夷、あるいは尊皇か佐幕かで藩論が大きく割れた藩には、脱藩藩士が少なからずあった。周が脱藩した六年後の万延元年三月三日、桜田門外の変が起きたが、井伊大老を襲ったのは水戸の脱藩藩士十七名と薩摩藩士一名であった。
周の脱藩は許されるものではなく、身を隠した中嶋玄覚宅を探し当てられて一度は召し捕られたが、同僚がかばってくれたので、藩主茲監は周の意思を理解してか「永の御暇被下」の沙汰で事なきを得た。

2 脱藩後の西周

脱藩した周は本郷の中嶋宅に同居、オランダ語、蘭学、英語の習得に励んだ。周のその後の運命を拓いたものが佐倉藩士手塚律蔵が本郷元町に開いていた蘭学塾、又新堂への入門である。手塚は英語を修得し、安政四年、幕府の蕃所調所教授手伝として、ハリスの条約交渉文書を翻訳した人物。
手塚は周防国熊毛郡周防村(山口県光市)の生まれ。長崎に遊学、シーボルト、高島秋帆に蘭学を学び、嘉永四年(一八五一)、佐倉藩に召し抱えられた。佐倉藩主、堀田正睦は早くから藩内に蘭学を奨励、安政二年(一八五五)に老中主座となり日蘭、日露の追加条約を結び、ハリスとの日米修好条約案をまとめる、など積極的に諸外国と接触した。その堀田に手塚は重用されたのである。手塚は西周の学力、意欲を高く評価し、西と義兄弟の契りを結び、安政四年(一八五七)五月、西を義弟として蕃書調所教授手伝並として推挙した。
周は、佐倉藩士の人々と後々まで交わり、ことに手塚律蔵(後に瀬脇寿人と改名)の娘、好子は幕末から維新にかけての動乱期、西夫妻の養女として育てられた。


3 オランダ渡航準備

西周と升子の新婚生活はじまる・(安政六年 1859)
桜田門外の変・(万延元年 1860 三月三日)
オランダ行きの吉報・(文久元年 1862)
十一月に入って吉報が届いた。
周がかねてから幕閣に希望を出していたオランダ行きが認められたのだ。
もともとアメリカ留学の内命があったが、アメリカで南北戦争がはじまり、オランダ行きとなった。正式決定は文久二年四月十三日。『西周全集』の「西周略年譜」によると文久二年(一八六二)六月十一日、「軍艦操練所に召され軍艦奉行井上信濃守清直よりオランダ留学の命を受く」とあり、升子の日記では四月十三日となっている。

オランダ派遣の本来の目的は、幕府が軍艦を注文するためであり、西周と津田真道は随行者にすぎなかった。品川出帆は六月十八日で、旅支度のため四月十三日以降、升子は紋付、袴、襦袢、ヘコ帯の準備に大わらわである。中嶋玄覚に頼んで仕立物のできる年寄を寄越してもらった。滞在期間も三年余と長く、白木綿の襦袢二百枚、ヘコ帯三百枚仕立てるなど、今日と違って買って揃えるわけにいかず、仕立てに追われたことだろう。荷造り、送り出し、出入りの人たちの応対と、目の回る忙しさだった。出発の前夜は午前二時まで起きていた。

前日まで夫の周はあちこちへ暇乞いに出かけ、この日からは別れを告げに来る人が次々訪れ、そのたびに酒肴を出せと升子に申し付ける。出発前夜も酒肴を出したが、今回の旅立ちに当たっても同じ。三年半後、周が帰国した時も、お祝いに来る知人たちへの応対に、升子は夫とじっくり語り合う時間もない。
升子は結婚してから、周の外遊中を除くと、来客のもてなしに夜遅くまで、時にはその後の片付けに、あるいは明日の来客の酒肴の準備にと明け方まで追い回される。冷蔵庫もない夏、肴のやりくりも大変だったろうと同情する。

西周のオランダ行きの経緯は『西周全集』の「自叙伝」に詳しい。
先ず、咸臨丸乗船までは順調だったが、二十三日夜、下田に着いてからが大変だった。艦内に麻疹が発生、周、津田ら数人を除いて乗員上下を問わず皆かかり、周は「余等初メテ年長ヲ知リタリシナリ」と面白いことを述べている。同行の海軍関係者は三十三歳の周より皆若かったのである。周らは当分出港できないと下田に上陸する。
 家を借り、なすこともなく七月まで過ごし、死者一人を出したが、あとはどうやら全員回復して、八月二日出港した。下田に三十九日間も留ったことになる。
二十四日、長崎に上陸、九月某日、乗り換えた帆船で出港。赤道を過ぎたころ座礁して沈没、一行は近くの小島に上陸、救助船を待ってバタビアにたどり着き、オランダに帰る船を捕まえた。船内では青い海を眺めるだけの毎日がつづいた。
船中の周は、一行の頭取である内田正章から洋算法を教わり、内田へオランダ語を教えた。アフリカの南端、喜望峰を過ぎ大西洋に出て、二月九日、セントヘレナ島に寄ってナポレオンの墓に詣でた。オランダのロッテルダムに達したのは、升子に送られて家を出てから十一ヵ月後の文久三年五月。多難な長い航海であった。この航海の要所を記した日誌も前記「自叙伝」に収録されている。*オランダ留学期間の内容は省く。


4 西周、京都へ召しだされる

慶応二年(一八六六)の年は、東北から近畿地方にかけて各地で大凶作が起き、米価が高騰。全国的な窮民の暴動、打壊しが発生、その規模、件数とも江戸期最大といわれた。
六月、幕府は第二次長州征伐を始めたが、それより早い一月、薩摩藩は長州藩と密約を結び逆に討幕を計画していた。
そうした折、七月二十日に将軍家茂が大阪城で死去、八月に慶喜が徳川宗家を継ぐ。中国、四国の雄藩が幕府の征長に反対、八月、幕府と長州は休戦協定を結ぶ。
慶喜は十二月、将軍に任ぜられるが、それ以前の九月、西周、市川兼添(斎宮)、津田真道ら洋書調所の三教授を京都に呼ぶ。同十九日、周は勘定奉行小栗上野介や蝦夷地を調査した松浦武四郎らと築地から軍艦に乗り込み二十五日、京都に入る。

升子は好子と宅に残り、十一月に深川佐賀町の大火で焼け出された瓜生君に米一俵を送った。升子は、「旦那様にきき合するまもなし」と夫の許可を得ずにしたことに気遣いを見せている。十二月末には本郷の大火で中嶋玄覚宅も焼けた。立ち退き先を探して弁当をこしらえて届けたり、家が新築されるまで、定子、菊姉妹を預かったりした。


5 升子夫人 京都へ

そうこうして過ごすうち、慶応三年八月十四日、周から、江戸の家をたたんで京都に来るようにと手紙が来た。瀬脇(旧姓 手塚)、加藤(弘之)に伝え、長兄、次兄にも連絡すると、兄弟そろって訪ねてきた。京都は騒がしいようだから上京は延ばしたらいい、それに蒸気船は地震と雷が一度に来たようなという話もあり、女には無理だという。それでも気丈な升子は船で行くことにした。

前年九月、慶喜のお召で江戸を発ち一年、周は京都で何をしていたのだろうか。京都へ来たものの翌年の五月まで、将軍から何のお呼びの声もかからなかった。「自叙伝」では次のように述べている。

「上京はしたものの久しく何の指示もなく、初めは御池屋敷内某の座敷に津田氏も仮住まいした。この頃、川上(当時、開成所の図工教授。後に画家となり冬崖と号す)、津田、市川と自分は同居していたが、余りにも狭いので上京榎町中立売下ル黒門通の柳屋甚三郎の家に移った。暇つぶしに公法訳本の校正などをし、他にすることもないので酒食にふけって、毎日を過ごしていた。そのうち、津田、市川とも御用なしということで間もなく江戸へ帰された。
升子は、京都へ来るよう連絡を受けたとき、津田はすでに江戸へ戻っていたので、津田に自分の京都行きを告げた。

周が慶喜の前に呼び出されたのは、京都へ来て八ヵ月後の翌年五月十七日、十八日頃である。五月二十一日に奥詰を仰せつけられ、「慶喜にフランス語を教えよ」とのこと。奥詰とは、将軍の諮問に応えるため、隔日に将軍のお側近くに詰める大名を指す。将軍を護衛するため、講武所の武士から奥詰親衛隊員という者たちを任じたが、周は武術を身につけていないが、旗本ながら大名格になった。

ここで注目したいのは、上京して退屈の余り酒食にふけって日々を過ごしていた、と述べているくだりである。周の文章は「校正ナドニ従事シ余ハ酒食ニ日ヲ消セリ」である。「日ヲ消セリ」とは時間をつぶすこと。飲食だけではなく、酒の席で女性とも戯れたのだろう。升子が周に呼ばれて京都へ出かけた翌年の明治元年、周に男の子ができた。その母親のことは京都滞在中の升子の日記にも出てくる。

好子の兄たちは、「女には蒸汽船は無理だ」と言ったが、二十日届いた周からの手紙には、「本がなくて困っている。本箱ごと本を全部送ってくれ、蒸気船だから大きな荷物も大丈夫」、とあった。これで、蒸気船で行くことを決めた。出発前日の二十六日、相澤兄は夫の友人たちを招いて升子の歓送会を開いてくれた。二十七日午前九時、開成所の役宅を出て小網町から品川沖の蒸気船へ乗り移った。京都へ行くのは升子、好子、供の佐市郎。長兄とその娘の志賀、次兄の岡野は蒸汽船の見物も兼ねて品川まで見送った。

升子の荷物は船底の一番奥に運び込まれたため、七日の昼近くなって、やっと届けられた。八日午後、京都伏見に到着、身ごしらえする。塾生十九人が迎えに来てくれ、駕籠で三条の屋敷に着いたのは夜中の十一時だった。肝心の周は出迎えず床にふせっていた。主婦のいない家の中はどことなく荒れていて、掃除も行き届いていないようだ。福住は「旦那様は少しお風邪気味で」と言ったが、升子は「左にあらず」と記している。そこは妻の勘である。

三条の組屋敷はそれほど広くなかったが、屋敷の部屋にも、門まで続く長屋も学生でいっぱい、三十人はいる。鴎外の『西周伝』によると、この時期は更雀寺(現在の中京区錦大宮町)に居住し、塾を開いている。学生数は五百人。通学の者は毎日ふえている、とも書きとめているが、慶喜のフランス語の勉強も政務多忙で中断、升子は夫がそのような状態のときに京にやってきたのだ。

九月十九日、時雨は降りみふらずみ、やはり晩秋だ。
米(よね)の母や出入りの者三、四人が升子の無事到着を祝ってやってきた。升子は、用意の江戸みやげを一人ひとりに渡した。この米が周の子(後の勃平)を生んだ女性である。


6 維新騒乱の最中、京都の生活

十七日までに荷物は残らず届いた。家の中も片付き、一段落した二十日朝、玄関の外が騒がしい。米のことで塾生たちが腹を立て、三十八人が退塾するといって机、木箱などを箱車に積んで出ていくとのこと。以前から米と塾生との間でもめ事があったと、出勤してきた福住はいう。升子は「私が謝るから留まってください」と頼んだが、塾生たちは「奥様のお為になることだから聞き入れられない」と七、八人を残して出ていってしまった。帰宅した夫に今日の騒ぎを話すと「米を実家に戻そう」と帰した。
 
米については後年、升子の日記に出てくるが、周の「宿に遺すべし」という言葉から推測すると、米は塾生の生活の面倒を任される一方、升子に代って周の世話もしていたと考えられる。周の妻、升子が来たのに、なお居残っている米を塾生たちは許せなかったのではないだろうか。集団退塾するとは、師や塾のあり方に対する不満でもない限り当時としては礼、信義をわきまえぬ行動である。塾生たちは周の学識をしたって来た者たちである。米と師とのあり方を面と向かって師に諫言できず、升子の上京を機会に集団退塾という行動に出たのではないだろうか。
二十九日、山本覚馬という人が周を訪ねてきて、「塾生たちは先生のお許しがあれば戻りたいと言っております」と塾生に代って詫び、周も山本の報告を聞きいれ円満に解決した。

升子は周に呼ばれ、京都での夫の生活の世話をしに行ったのだが、周の孫たちの間には、そう伝わってはいない。周が京都で子供をつくり、その母子の扱いに困っているようなので、升子は手切れ金を用意して単身京都に出かけ、決着をつけにきた、という言い伝えも残っている。周も「自叙伝」に米のことはひと言も触れておらず、升子も取り立てて米のことを日記に留めていない。

米が生んだ子は明治四年に東京に呼び寄せられ、西家の一員として升子が育てることになった、そのことは、升子の日記にも書かれている。後年、周も日記にわが子の名をひんぱんに記しており、西家の子孫もそのことはよく承知している。

十二月八日、開成所で同僚だった薩摩藩の松本孝庵のちの寺島宗則(明治政府の参議、外務卿を歴任、条約改正交渉に当たった)から薩摩屋敷で話をしたい、という手紙をもらった。周は使いの者に「行く」と返事をしたが、升子は「いろいろ風説があるから」と引き止めた。かつての、長州屋敷での手塚律蔵の出来事が頭にあったのかもしれない。九日、また手紙が来て、会いたいという。二条通りの茶屋「八新」で早い時刻に会うことにして、周は午前十時ごろ出かけた。下僕の佐市郎が息せき切って戻ってきて「二条城がたいへんでございます。戦さが始まります」との知らせ。城を守っている会津藩の兵士たちは甲冑に身を固め、大砲を引き出しているという。急いで佐市郎を「八新」に走らせ、お城でのことを伝えた。周も驚き、松本孝庵に置き手紙をして帰宅。登城支度の合間を縫って、これからも役立つと思う本をあれこれ並べ出し、まだ塾に残っていた藤堂藩士二人に暇を出すとともに「藩の屋敷に預かってほしい」と頼んだ。二人は快く引き受け、升子は言われるとおりに本を納めた箱に鍵をかけた。二人がすすめるので周が西洋から持ち帰った品々を詰めたままの大きな箱も預けた。

登城した周は、十一日、少しの間、自宅へ帰りお金の貸し借りの始末をした後、升子、好子に別れを告げて城へ戻った。升子は、好子と周付きの下僕、利介と三人で家に残り佐市郎が周に付き添った。


7 京都を脱出する夫人

この後、周、升子夫妻は別れ別れになって江戸に逃れる。途中、大阪で二度連絡をつけるが、無事再会できたのは年も改まった慶応四年、つまり明治元年の正月二十二日である。この一ヶ月余で幕藩体制は崩れ、近代日本に移行する、長い一ヶ月であった。
日本全体が大きく揺れ動いた時、升子は震源地の京都に居合わせたことになる。
京都滞在はわずか三ヶ月足らず、しかも終りの一ヵ月は逃避行。十二月十日から翌年の正月二十二日、夫と再会するまで、升子はその日々の思いを込めて日記に綴っている。


8 江戸から東京へ

政情、世情が見えないところで急変しているとは、周自身思いもよらなかった。妻子を江戸から呼び寄せたのだが、十二月九日、状況は急変する。
妻子を江戸へ帰さねばと、その方法をはっきり指示できないまま、十二日、升子、好子を京都から離れさせるのがやっとだった。実際、将軍慶喜も、彼を取り巻く会津、桑名両藩主や老中、板倉伊賀守らも二条城にあって何も謀ることができない。

この年、慶応三年末から翌四年(明治元年)正月にかけて、長州、薩摩の軍勢は着々京を目指し、三日に旧幕府軍と薩長軍は鳥羽伏見で戦い、四日に旧幕府軍は敗退する。周は三日夜、大阪城の天主台に上り、伏見に火が起こるのを見ている。

その元日付で周は目付を仰せつけられた。目付は若年寄の直属で、旗本、御家人の行動の観察をはじめ、布令、用部屋から廻ってくる願書、伺書、建議書の内容について意見を具申し、あるいは殿中の巡視、評定所への列席など、その任務は広範にわたる重職であった。四代将軍家綱が一七二三年に制定した目付の石高は千石であった。

周は六日夜、若年寄、永井玄蕃頭に呼ばれ指示を受けた。武蔵忍(行田)の城主、松平下総守の邸に行き、藩士を守口に派遣して警備させ、その状況を看視して復命するよう伝達することだった。
松平家を訪れ、その旨伝えると家老は早速承諾、兵の準備が終るまで待って欲しいという。朝方まで待って、隊が整ったので家老と守口へ同行したが、兵の姿も、隊列も見当たらない。周は永井の命令も忍藩の兵の動きも何のことかさっぱり分からず、ともかく復命しようと大阪城へ戻った。御目付部屋に行っても、同僚は何も聞いていないという。一人、保田作太郎という者が親指を動かしていうには「是昨夜遁逃」す、という。昨夜、将軍慶喜は忍藩の兵に守られて海路江戸へ引き上げたのだ。永井はそのことを話さず、忍藩の兵がいなければ将軍は無事江戸へ向かった、というわけで、配下の目付の周にも真相は明かさなかったのだ。今日でも組織の長を示すのに親指を用いるが、旗本が将軍を示すのに親指を用い、生真面目な周はそのまま描写している。ちなみに『近代日本総合年表』(岩波書店)によると、慶喜の大阪出帆は一月八日、江戸着は同十二日となっている。升子の日記によれば、江戸着は八日夜である。升子の慶応四年一月九日の日記に「昨夜上様御帰城」とある。そして明治元年の正月「大坂にものし給ひし背の君いまだかへりまさず如何にしたまいしとおもひつづけて」と二首詠んでいる。

江戸に戻った升子は、深川霊巌寺近くの西尾藩主・松平和泉守の屋敷内の長兄宅に落ち着いた。正月も二十日過ぎたが、周から便りはなく、兄や兄嫁たちも心配してくれる。升子はその後の京の状況を知っていると思われる人を頼って尋ね歩き、下谷御徒町中通りに住む守野という人から「大坂からの帰り道、たしかにお目にかかったから御安心なさい。上様にお供して帰って来られなかったのはお役替えがあり、御目付になられたからです」と聞かされた。周の無事を聞いて安心し、帰宅して兄たちと目付への昇進を喜んだ。

待ち焦がれていた升子のもとに、周は正月二十二日夜九時頃、忍提燈(光が一方だけを照らすようにした提燈)を提げて帰ってきた。
周は翌日から早速、三人分の弁当を持って登城する。しかし、着る物がないので相澤の兄の着物、羽織、袴を借りた。深川からお城までは少々遠いので、二十五日、不用となっていた和田倉門内の会津藩上屋敷の物見部屋に移った。江戸へ帰る船中で一緒になった、会津藩家老の内藤介衛門という人と親しくなり、江戸で住居がなければ私どもの藩邸へ来るようにと言ってくれたのだ。

周は江戸に着き、一旦登城して、下城する際「御目付ノ登城、下城ニハ通行ノ諸門ニテ門番ノ役人下座シテ平伏シ皆制シ声ヲ揚ケテ其往来ノ人ヲ避ケシム例ナリ」と説明している。

升子も二月一日、京都で塾頭をしていた福住の妻せんを連れて町まで出かけた折、「御門番、辻番所皆土下座致すのは困りたり、お帰りの上、右お話申し」と述べている。幕府は崩壊しても江戸時代の封建社会のしきたりは一朝一夕には崩れなかった。
会津屋敷に移った升子は、毎日夫が登城した後は、一日なすこともなく窓の下を通る人びとをなんとなく眺めては、世の行く末、身の上を考えていた。升子二十七歳の春である。

二月八日、新暦でいえば早春の三月一日、晴れていたが小雨が降り始めた。夜九ツ時というから真夜中である。窓下でびしょびしょという音がした。夫は跳ね起き、窓を細目に開けて外を見た。升子も夫の後からのぞく。蓑笠わらじ履き、蓑の下に手丸提灯を灯して七、八人の武士たちが通って行った。まん中の方が将軍であろうといわれた。雨は降りしきる。お忍びで上野の東叡山に入られ謹慎されるのだ。恐れ多くて涙が止まらなかった。

この夜の将軍の東叡山入りは、升子の日記が正しいのか、周が将軍といったのは人違いで将軍は逃げもかくれもせず、昼間、威儀を正して上野の山へと向かったのではないだろうか。『西周全集』の「西周略年譜」では、「二月十二日、奥詰に任ぜられ、翌日慶喜の東叡山屏居に従う」とある。これは自叙伝でも同じである。他の慶喜に関する年譜でも二月十二日である。また、周の上野勤務も自叙伝では翌十三日からであるが、升子の日記では三月八日となっている。二月十三日は新暦では三月六日であり、暦の新旧を混同したとしても日付は合わない。雨の降りしきる暗闇の夜中とはいえ、周が将軍とその一団を見間違うことはないと思うのだが。
在京の頃の日記から、升子は周のことを「御前様」と記すようになった。周の地位にふさわしい呼び方である。


9 慶喜の水戸謹慎へお供する

慶応四年四月十一日、前将軍慶喜は、上野の東叡山大慈院を出て水戸に移った。弘道館で謹慎することになり、周も供を命ぜられた。升子の日記では、升子は残って相澤兄の家で過ごすことになり、周の供をして出かけた利介が戻ってきて「水戸行きは延期を仰せ出された」と言い、夜中、周は帰宅した、とある。慶喜の水戸行きは十五日で、十時に駕籠が出たとされ、升子は相澤へ移っている。慶喜の上野発駕を十五日としているのは升子の日記だけである。ところが、水戸市史には「四月十五日、前将軍徳川慶喜が水戸に到着。藩校弘道館至善堂で謹慎することになり」と記されている。さらに、慶喜の水戸退隠は実は朝廷の命によるものだった、とある。この背景だが、周は後年、「自叙伝」をまとめる際に慶喜に関する資料を参考にし、それによると「四月十一日」が上野退去の日になっているので、あえて十五日に変更したことに触れなかったとも考えられる。十五日に江戸を離れ、同日水戸着は考えられず、水戸市史にも十日出立の命令を十一日に変更した理由について「慶喜は後年『今確かには覚えおらず』と明言を避けている、とあるから、「十一日発十五日着」はあくまで公式の記録で、実際には升子の日記が正しいのかも知れない。

升子の次兄の岡野周吉の二男で、のちに長兄の相澤朮家の養子となる岡野英次郎は、明治元年(七歳)四月十一、十二日の出来事を次のように語っていたと記されている。
 「四月十一日、討幕軍は江戸へ入城、父(岡野周吉)は増上寺警衛の任を解かれて藩邸へ帰った。ところが、藩主はすでに小見川へ移った後で、藩邸は上へ下への大騒ぎ。翌十二日、家中一同、小見川へ引越すことになり、小網町から船に乗ったる船中で水戸へ退去したのであるが、船頭が互いに先を争って喧嘩になったのを、父が鎮めて大事に至らなかったと聞いている」

二十四日、升子が中嶋玄覚を訪れたら、玄覚は周が慶喜に付いて水戸まで行ったことにあきれ、上様の悪口もあれこれ言った。これは升子の癇にさわった。大議論して挨拶もせずに帰って兄へ報告、兄妹で玄覚に対して腹を立てた。玄覚には周と結婚して以来何かにつけ世話になっているが、この時ばかりは夫のこと、前将軍のことを悪しざまに言う玄覚を許せなかった。「玄覚殿」と形式張って呼んでいる。後に、玄覚の家が火事で焼ければ娘たちを引き取り、娘が嫁入りする時は、きちんとお祝いしている。この時にかぎって、よほど腹にすえかねたようだ。

京へ呼ばれて夫の居宅へ着いた時、夫の身の回りに「何かあるな」と感じ取った升子だが、それについて日記には一言も触れておらず、どのような時もひたすら夫の身を案じ、自分を没している升子である。玄覚に向けたように、升子は秘めた強さを身につけていた。それが周を一学者として終わらせなかった内助の功というものであり、けじめをはきりさせる彼女の秘めた強さが後のちの西家の強い基盤となっている。

慶応が明治と改元されたのは陰暦の慶応四年九月八日(陽暦十二月二十三日)。ちなみに、我が国が太陽暦を採用したのは明治五年十一月九日(陽暦十二月九日)で、陰暦明治五年十二月三日を陽暦明治六年一月一日とした。
その頃、周が帰るというので升子たちは、会津屋敷物見部屋から茅場町の池田藩屋敷に移っていた。池田藩士たちもほとんどが、国元の岡山へ引き上げていた。水戸表では、洋学者は闇討ちされる、というので周は警護の御小人目付を従えて戻った。二十一日も登城している。江戸城は一ヵ月前の旧暦四月十一日であり、升子は「登城」と書いているが、田安家の邸が幕府の政堂になっていた、と周は記録している。
周も升子も人が訪ねて来るのをいとわなかった。というより歓迎した。かつての教え子、佐々木慎思郎や師というべき手塚律蔵、塾でともに英語を学んだ佐倉藩士の大築保太郎を連れて帰宅し、二人を泊めている。佐々木は後々まで西家と交際があり、保険業界、炭鉱業界で活躍、東京商業会議所特別議員を務めたが、関東大震災の折に亡くなった。周も升子も友人を大切にしていたが、西周日記にもそれが読み取れる。
   

10 上野 彰義隊戦争

五月十四日夜、上野の山周辺が騒がしくなった。人々は荷物をまとめて逃げ仕度。忠吉の家内が来て「奥様早くお逃げ遊ばせ」というが、主人一人置いてどこへ行くあてもない。
官軍の兵が幕府の人びとを捕えて殺しているという。周は幕府に仕えたとはいえ、代々の家臣ではなく、目付に任じられたが、幕府が滅びた今なお、その職にとどまっているほど厚顔ではない、とたまたま寝込んだのを口実に出仕を止めた。十五日は早朝から銃声が聞こえ、池田邸内の望楼に登って上野の方を見ると、不忍池の上の方から上野の山門を砲撃していた。十数発の後火の手が上がり彰義隊は逃げ出し、夜やっと静まった。

この騒ぎの最中、逃げてきた石川金太郎君というのは、将軍の侍医、石川良信法印の息子である。石川良信は周が将軍の奥詰となってから水戸へ下るまで親しくしていた人で、周が登用されたのも石川良信の推挙のおかげ、と周は述べている。その子金太郎は、前夜吉原で遊んでいて変に遭い、助けを求めてきた。金太郎は「ここにいては貴方も家族も危ない。逃げたほうがいい」という。自分はまだ幕士だが家族が危ないとあっては、と周は升子、金太郎、利介らを連れて神田小川町辺りへ避難することにした。しかし、浅草見付で官兵が通してくれず引き返した。「橋の上で斬殺されている光景を見て、皆恐怖におののいた」と周は自叙伝に記している。

鴎外の『西周伝』によると、和田倉門内の会津屋敷の望楼住まいは、食事をつくる道具も場所もなく、会津の家臣、内藤介右衛門が西夫婦の食事を運ばせるなど不便である。知人の池田藩士の原田吾一に相談したら、自分が居る池田邸に空宅があるから、畳建具二十五両を払ってくれれば借りられる、というので二月十四日、浅草鳥越の池田政詮(岡山藩の支藩鴨方藩主)の邸に移った、とある。周が水戸から戻った閏四月十五日、升子は朝、手土産を持って、池田邸へ「またよろしく」と挨拶をしに行っている。

九月七日、肩に錦の認識票を付けた池田藩士がきて、徳川の家臣を屋敷に置くことはできない。官軍になるならいい、という。早速引き払うと返事して、川上様(洋書取調所の同僚で、共に京都で生活した冬崖と思われる)へ相談に行き、近くの今井という人の座敷を借りることができた。京都から引き上げる折、家財道具を失い、またあわただしい引越し。このような状況なのに西夫婦の面目躍如なのは、客を呼んで食事を出すのはいいが、茶椀の数がないので、客が済んだ後、西が食事するところだ。

二十八日、吉木順吉という人が蒲焼を沢山持って加賀から訪ねてきた。途中、あちこちで官軍につかまり、嘘をつきつき命拾いしてたどり着いたという。
吉木は石見(島根県)の人。養父は津和野藩主の侍医吉木蘭斎。蘭斎は手塚律蔵と同門の友人で、周が脱藩後、幕府に仕えることになったので藩主に周への許しを求めてくれた人。しかし、藩主慈監は許さなかった。吉木順吉は苦学してフランス語を習得、塾を開いていたが、この春加賀藩に招かれて移った。その後、攘夷論が広がって遇されず、江戸へ戻ってきたのだ。周は徳川家が設立した沼津の兵学校へ就職が決まり、前述の大築保太郎に同行、十月十九日、江戸を発つことになった。出立の日を尋ねた吉木は、ぜひ見送り申し上げます、という人二、三人と酒を飲みに出かけてついに帰らなかった。その友人から周が聞いた話だが、翌朝家を訪ねたら、部屋にはお金や本が散らばっていた。吉木は金沢にいた頃から洋学者としてにらまれていたから、恐らく暗殺されたのだろう。盗みや殺しが白昼横行する。周は吉木の死を惜しんだ。升子も日記に書き、周も自叙伝に述べている吉木という人物、西夫婦にとって忘れ難い好人物だった。


11 西夫妻、沼津へ移る

西夫妻は大築一家、川上冬崖、静岡まで行く今井という人たち(部屋を貸してくれた人か)を連れ、沼津へ旅立った。今井は京都で西の塾生であり、荒井筑後の夫人は升子と同船して京から帰った人で、今井はその供をしていたというから、賑やかな旅になった。
十一月十五日、旧沼津城内の御殿が役所となり、十九番屋敷に落ち着いた。周は沼津兵学校頭取として、ここで二年近く過ごすことになる。
十一月二十日、将軍の侍医で慶喜について静岡に移り、静岡藩病院の副長をしていた林梅仙が、子供を預かってほしいと連れてきたので、西夫妻は承知した。梅仙は洞海ともいい、
周がオランダに留学した折、長崎から同行した医師、林研海の父である。「預かってほしい」と梅仙が西夫妻に頼んだ子息紳六郎は、研海の十六歳下の弟である。

十二月一日、梅仙は息子の紳六郎を連れ同夜、西家へ泊った。紳六郎は一晩で升子になついたようだ。
十二月十七日、周は兵学校の数学教授、赤松大三郎を訪ね、林の息子紳六郎を養子として迎えたいから林へ申し入れてほしいと頼んだ。この赤松大三郎後に則良は、江戸の生まれ。長崎海軍伝習所で測量、造船など海軍の諸技術を学び、万延元年一月、最年少仕官として咸臨丸で渡米、一八六二年には周と共にオランダに留学した。幕末および新政府においても軍艦建造に力を尽くした。後に佐世保・横須賀鎮守府司令長官を歴任して海軍中将となった。二十五日林自身が静岡から沼津へやってきて、息子、家内とも喜んでお受けするゆえ、よろしく頼むとのことだった。ここで紳六郎と西家との養子縁組が決まった。後年、今度は赤松の末子、酉乙(とりおと)が紳六郎の養子となる。

譜代の家臣ではないから、幕府なき今、徳川家から離れても問題はない、と考えていた西周である。沼津兵学校にはいつまで勤めるつもりだったのだろう。彼は、もともと兵術には縁遠い人。オランダ、フランスでは政治学を学び、将軍慶喜にヨーロッパの政治について進講した。  

(時期は前後するが)升子が京都について間もなく、周の塾生たちの退塾さわぎがあった。実は、その原因となった女性、米がこの年、つまり明治元年に周の男子(後に勃平と名付く)を産んだのだ。当然西家の跡取りとなる子だ。だが、升子にはそれは絶対に許せないことであった。男子誕生が伝えられた後、この日記からは読み取れない何かが周と升子の間に生じたが、同年十二月、紳六郎を養子に迎えて跡取り問題は落着した。この裏で、勃平を養子に迎えることを升子は承知せず、急ぎ紳六郎の養子を林・赤松・周の三者でまとめた、と理解したい。

西周は、それ以前「西周助」だったが、新政府に勤めてから「西周」に変えた。


12 新政府に採用される西周

沼津にいた周に対し、新政府から出仕するようたびたび連絡があったが、周はそのつど断ってきた。新政府は藩知事、徳川家に周の状況を命じたため、周も出仕を承諾した。
明治三年九月二十一日出立、幕臣時代の格式を保ったのか、当時まだ危険が残っていたのか、侍の銀四郎を供に、彼より先に新政府に勤めていた赤松宅に落ち着いた。十月十五日には浅草鳥越西三筋町に家屋敷を求め、升子にあてて沼津を引き払って上京するように書き送った。西三筋町は現在の台東区三筋町一丁目で鳥越神社の北側あたり。新堀通りと左衛門橋通りに挟まれたところである。ここは慶応四年九月、池田邸を出て、川上冬崖の世話で移り住んだ家の近くと思われる。当時、何くれと面倒を見てくれた酒屋の萬屋の主人が、今回はその持家を提供してくれたので塾を開いた。

升子は閏十月九日、沼津の地に別れを告げて紳六郎、佐々木慎四郎らと上京した。
二十六日には沼津時代の塾生で、越前の人、永見裕はじめ六人が上京した。周の日記によると塾生は十人で塾頭は佐々木慎四郎である。
周は上京直後の十月二十八日、太政官から辞令を交付された。一通は兵部省出仕、地位は少丞准席、もう一通は学制取調御用掛兼勤である。当時の日記によると、一日おきに兵部省と学制局へ出て、勤務は午前中、午後は連日のように加藤、神田、津田、稲田ら旧友と会い「晩帰(帰る)」としている。たまに、「退出後在家、晩酌、無事」とある。「丞」とは律令制の名残りの官職の階級の一つである。幹部に四等級あり、その三番目で准席と付くから少丞補というところか。兵部省では丞の上に輔(次官)、さらに卿(長官)がある。明治四年には准席が取れて少丞に、七月には大丞に昇進する。今日の上席課長か局長職だろうか。

明治四年(一八七一)
八月十八日、参内して大丞を仰せつけられた。塾生も増え浅草の借家は手狭となり、同月二十二日には神田西小川町の旧大名屋敷跡へ引越した(現在の地下鉄「神保町」駅の北側、白山通りと専大通りのほぼ中央あたり)。夕方、塾生たちがやってきて夜、帰って行った。
九月三十日、瀬脇兄の世話で村春兵衛が京都へ、米と子供を迎えに行った。「瀬脇兄の世話」とあり、瀬脇を交えて周と升子が話し合った結果であろうか。米と子供は十月二十六日に着いた。子供は周三郎と名付けられていたが、周自ら勃平と改名した。勃平は、幸田露伴と同じ小学校で、露伴伝によると、勃平という名前は中国の周勃と陳平からとった名前だと威張っていたという(相澤英次郎年譜)。紳六郎がいるため周も「周」の一字にこだわったのだろうか。
勃平の母、米は明治七年五月十五日に京都の両親の世話をするために帰って行くが、二年半滞在していたことになる。升子の日記には、この間「米」の名はまったく出てこない。

四年の暮から津和野の両親が上京、中嶋玄覚が亡くなって娘のきくを引き取る。塾生が来ればもてなし、夜に多い周の来客に酒肴を出すなど、升子には自分の時間がない毎日が続く。周も同じだった。役所勤めの多忙な身であったにもかかわらず、自邸内の塾の育英舎で「百学連環」を開講している。
兵部大丞に任ぜられた同日、宮内省侍読も命ぜられた。九月五日には、初めて「英国史」を御前進講し、十日には「博物新篇」を進講、六年六月「生性発蘊」を校了、七年二月、明六社に加盟。「明六雑誌」へ第一号から寄稿している。やがて政治にも関わるが、この時期、官僚として、また学者として多才を発揮している。


13 西周の頑固な性格

こうと思ったら、断じて行うというのが若いころからの周の生き方で、その表れの一つが脱藩である。升子の日記にも、オランダ行きの再三の請願、引っ越しの強引ともいえる決め方、慶喜を慕って沼津へ移住すること、何度の督促にもかかわらず新政府に仕えようとしなかった、など周の性格をよく記している。
やがて結婚十年、升子も夫の性格をかなり理解したはずだが、またまた困ったことが起きた。明治七年一月十三日の日記にこう述べている。養女同様にしていた好子のことである。七年間育み、維新の折にはともに難儀しながら京都から逃げ帰った好子を、その父親の瀬脇寿人から「いい縁談があり、嫁がせたいから好子を帰してほしい」と言ってきた。相手は海軍軍医で豊住秀堅という。周に伝えると支度料として百円贈り、好子を瀬脇の許に帰した。ここまではいいのだが、瀬脇は是非祝の席にと周、升子を招いた。当然である。だが、周は「出ない」という。自分に相談もしないで縁談を決めたことが周の気に障ったのか。升子は困ってしまう。結婚後、好子夫婦は周の晩年までしばしば西家を訪ねている。
夫の豊住秀堅は、後に海軍軍医総監となった。

五月十五日、二年半滞在していた周の両親が津和野に帰ることになった。同じ時期、一緒に暮らしていた勃平の母、米も両親の世話をするため京都へ帰ることになり、京都まで周の両親のお供をする。紳六郎と勃平に横浜まで見送らせた。舅、姑に、夫のかつての愛人との生活を終わらせ、升子はさぞかしヤレヤレであったろう。

八月半ばから紳六郎に英語を教えてくれることになった山辺丈夫は津和野の出身。その母は升子の日記に「山辺の老母」と書かれ、周の両親と一緒に上京してきた人。西を慕ってその育英舎で学び、のち、升子の長兄、相澤朮(おけら)の二女、定子と結婚する。明治十年、津和野藩主の息で、亀井茲明の英国留学に教育掛として随行し、ロンドンの大学で経済学、機械工学を学び、大正三年、東洋紡績の初代社長を務めた男である。


14 津和野帰郷

沼津に住んでいた明治二年十一月、西は脱藩してから十五年ぶりに津和野へ帰った。藩主亀井茲監は周が脱藩した時、向学心、探求心をよく承知していて「永の御暇被下」と特別に許してくれた人。そして今、「帰国を許す」の達しがあった。亀井茲監は度量の大きい人だった。周が中央で重用されていることを知り、これからの津和野であるべき学校制度についていろいろ尋ねた。そのようなことがあって十月十二日の日記に見られるように子息(従四位様)に西洋学を教えるよう頼んできた。周は多忙のため旧藩士でもある山辺丈夫に任せた。

その後、夫が自分に相談もなく、三河にいる長兄の相澤朮に二女の定子を東京に寄越すよう手紙を送り、相澤では「それを頼もうと思っていた」と大喜びで、早速定子が上京すると、そのことを少し愚痴めいて日記に記しているが、周の心遣いがうれしく、書き残したことである。
明治八年、九月末に板橋に地所を求め、茶の種をまき付、とある。茶畑を作り、周吉兄が岡野茶園を営んだ。升子の父、有節は前月の八月二十二日に亡くなったが、この板橋では継母も、そしてその後、兄三人もここで亡くなっている。升子は晩年の兄たちを板橋に住まわせたのだ。十一月十八日、相澤兄一家が引っ越してくるので、邸内の長屋を掃除させ、ご飯を炊き、煮物など用意した。升子らしい心遣いである。(了)  
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「百学連環」印刷博物館図録去る2月4日、印刷博物館の樺山紘一館長さんに張厚泉さんをご紹介するために同館を訪問した。
六年前に「百学連環」を主題にした壮大な展覧会が同館で開催された。昨秋、その図録を俳友、亞子さんから見せられ、「百科事典と博物図譜の饗宴」と題する素晴らしい内容と印刷の出来栄え、さらに冒頭での樺山さんの百学連環“賛歌”に感動。即座に、張さんを樺山さんにお引き合わせしたい、と思ったからだ。

「私も幼いころ上海の虹口に住んでいたのですよ」と、樺山さんからのごあいさつがあり、終始なごやかにお話しをされた。「西周のオリジナルな研究を期待しています。いつでもおいで下さい」との言葉に張さん共々恐縮。帰路、地下鉄後楽園駅への道すがら折からの雪、これ「瑞雪兆豊年」とは張さんのメール文で知った。また一年、西周へのめり込みそうな予感がした一日だった。(以下は、図録からの一部分を要約)

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「百学連環」という素晴らしいことばがありました。
百にもおよぶ学知は、ひとつの環をなして連なっている、そんな理想を表現しています。明治の文明開化をになった知識人、西周の造語でありエンサイクロぺディア(Encyclopedia)の邦訳語です。
 印刷文化の伝統とその成果を追求してきた私たち印刷博物館にとって、「百学連環」はなににもまして切実な合言葉といえます。そして百学連環は印刷との間の親密な友情によって結ばれています。

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西周は一八六二年、幕府派遣留学生としてオランダに留学する。ライデン大学で法学から哲学などに広くふれ、それまでの蘭学とはちがう十九世紀半ばのヨーロッパ学問を体得する。そして英国、フランス、ドイツなどの哲学的思考と方法を体に納めて一八六五年に帰国。翌年から開成所教授として洋学を講義する。維新後も新政府の中軸にあって高等教育の新設に身を捧げることになった。
さらに、公務に関わりながら私塾としての「秀英塾」を開設し学生や官僚へ洋学の講義をおこなう。その中心となったのが「百学連環」講義である。冒頭「エンサイクロぺディアとは、一定の分野の知識をおおい、百般にわたる学科を記述・口授するものであり、円環のうちに初心者をかこい入れて教育するための手段である」と定義している。現在の「百科事典」という訳は趣旨においてほぼ相通ずる。

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2013年08月04日

西周 『山本覚馬』中公文庫 表紙いまNHKTVの大河ドラマ『八重の桜』で、山本覚馬の存在がクローズアップされている。妹の八重は新島襄と結ばれるわけだが、その新島にとって覚馬は恩人となる存在だった。
アメリカ帰りの新島の考え方に理解を示した覚馬、というより西洋の普遍的な考え方を認識できた覚馬の背景はどこからのものだったのか。そこに西周が深く影響を与えていたのだ。






西周 オランダ留学中に撮影覚馬と西周の出会いは洋学塾だった。
西は文久二年(1862)オランダに留学し、西洋史や経済学や国際法などを学び、慶応元年(1865)の末に帰国し、幕府の開成所教授となる。その後、京都にいた徳川慶喜に招かれて顧問を務めた。この当時、勝海舟との交流も深かったようだ。慶応二年末には、京都で『万国公法』(慶応四年)の翻訳を完成している。(写真はオランダ留学時代の西周)

翌年(1867)二月、西は四条通大宮西入ルの更雀寺に居を移し、洋学塾を開く。この塾には会津、桑名、津、福井、備中松山などの藩士五百人が集まってきたという。山本覚馬のみならず、幕末の武士たちの多くが英学や『万国公法』という西洋法学、国際法を学ぶ必要性を感じはじめていたのだろう。

そのころ徳川慶喜にフランス語を教え、西洋哲学について体系的思考を固めていた西は、一方で、兵庫開港の対英仏交渉にも当たっていた。覚馬はこの当時、わからないことがあると、すぐ佐久間象山か西周のところに聞きに行ったという。象山の亡きあと、覚馬にとって西の存在は欠かせなくなる。


山本覚馬 明治二十年頃西周の『百一新論』が説くように、教えというのは人の道を教えるということであり、そのなかには人を治める道、つまり正しい法の道がふくまれる。それゆえ、覚馬が「常に国家につくしたい」と願い、まず法律(政治)による改革を考えたのは、治政の道を想う武士として当然のことだ。

明治七年、アメリカから帰国した新島襄に覚馬を紹介したのは、勝海舟だといわれている。それ以前、新島は、アメリカで岩倉使節団の一員だった木戸光允と知り合っており、牧村京都知事は木戸からの紹介によるものだった。

新島は幕末の軍艦教授所に通った経歴を持っていた。函館からアメリカに密航するとき、勝海舟や松平容保とは親しい関係にあり、幕府老中の板倉勝静(備中松山藩主。新島の主君・安中藩主の兄)も助力してくれていた。したがって、勝・松平・板倉という結びつきからも、新島襄と山本覚馬とは自然のなりゆきで繋がってくる。

一方、そのころ山本覚馬は、キリスト教を中心とする道徳・宗教的な方法での日本の精神的革命を考えていた。新島襄がキリスト教系の学校は無理ではないかと予想していたにもかかわらず、覚馬はその学校を京都につくれ、と強くすすめたのもその考えが反映している。これが同志社のはじまり(明治八年十一月)である。

覚馬がこのとき考えていたキリスト教に対するイメージは、西周の友人でもあり山本覚馬自身とも親しかった中村敬宇の「より高く、より大なる孔子の教え」というもの。つまり、中国・日本の東洋にのみ通用した儒教に対し、より国際的である文明を「泰西」(ヨーロッパ)のなかに感知していた、ということではなかったか。

ところで覚馬は、キリスト教に対して何ら違和感をもたなかったらしい。これは、覚馬が西周の『百一新論』を読み、その内容に感心し、みずから出版していたことと関係する。百の教え(洋の東西を問わず、あらゆる宗教・道徳)はすべて一に帰す、という論理を展開した問答書である。そこではギリシャ語源のフィロソフィは「哲学」と訳され、主観・客観、先天・後天、意識、経験、概念、命題、環元などの和製漢語はここで初めて出来上がったのである。

大河ドラマ『八重の桜』では山本八重、その兄覚馬が新島襄と並行して注目されているが、覚馬の描いていた日本国家像の裏に西からの影響が色濃く反映していると思える。このことを、哀しいかな圧縮メディアであるテレビドラマは伝えることはしないであろう。

山本覚馬は、会津藩でも文武にかけては筋金入り。おなじく津和野藩で儒学の先達から学んだ西周。幕末混乱期に出会ったこの二人が、維新前後の大変化する深い溝をまたいで、この国の新体制づくりを裏から支える役割を果たしたのだ。薩長の志士らとは異なる、本来の武士ゆえに培われた底堅い理念と志が通じ合っていた両者に、我々は共鳴と誇りを覚える。

新島襄は明治二十三年一月、四十七歳で没する。そのあと同志社の臨時総長に就任したのは六十二歳の山本覚馬だった。当時の同志社にはまだ、覚馬以外に新島を継ぐにふさわしい後継者は育っていなかったようだ。

*西周の『百一新論』は、最初に山本覚馬蔵版として覚馬によって京都で出版された。森鴎外の『西周伝』には、同書が京都時代の執筆で稿本が存在しない、と記されているらしいが、ということは覚馬の所蔵していたものが原本ということになるのだろう。
参考:『山本覚馬 付・西周「百一新論」』松本健一著


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2013年05月18日

西周 肖像画今年は森鴎外生誕150 周年である。

それを記念して、昨年11月に千駄木に森鴎外記念館が完成した。
森鴎外といえば、彼の生誕地は島根県津和野町である。
初めて津和野に行ったのは20代半ばころ。今でこそ山陰の小京都とよばれる観光地として、小盆地空間の落ち着いた城下町の人気は定着しているが、当時ディスカバージャパンの時代は、訪ねる人もまばらだった。

その津和野を最近訪問した中国人がいる。西周を研究している上海東華大学日本語学部教授の張厚泉さんだ。日本の大学に留学し日本語を学んでいたとき、西周を知った。以来、中国人の目で日本初の啓蒙思想家を研究してきた。そのユニークな視点からの西周論が、この秋に発表される予定だ。

西周は1829年、津和野藩士の家柄に生まれた。森鴎外とは親戚筋に当たり、鴎外が東京に出てくるとき西が面倒を見ている。ちなみに鴎外の結婚相手は西の留学仲間、赤松則良の娘だった。が、一年半ほどで離縁している。

西周が今日ポピュラーに知られているのは、西洋の近代文明の概念を日本語に翻訳したことだろう。その語数は787語といわれ、うち古典によった訳語は340語、新漢語は447語とされる。フィロソフィを「哲学」と訳したことは有名だ。

張厚泉さんによれば、
「中国も日本と同様にヨーロッパから近代文明を吸収したが、その導入・咀嚼の発端は日本の「近代漢語」を大量に借用して以来のことである。それが中国語の語彙にも拡張され中国の近代化に貢献した。一方、「自由」「個人」「哲学」のように、ほとんど推敲されずそのまま中国語に取り込まれた用語も多い。それゆえ中国社会の西洋理解と摂取の仕方が阻害された面もある。また、中国の知識人は「学而優則仕」を短直に信奉し、仕官を成功の象徴として受け止め、日本の福沢諭吉が啓発したような「一身独立」できる、新しい型の知識人が現れなかった」ともいう。

私としては、「近代漢語」のそれぞれの語がいかに翻訳・考案されたのか、日本と中国が取り込んだことによって近代化にどんな影響を与えたのか、につよい興味を持つ。いずれにしても、中日関係がぎくしゃくしている現在、かつて背景を共通にして導入された「近代漢語」を通して、お互いの相違を知り、中日両国の文化認識に橋が架かる貴重な機会になると思う。

講演の開催日程や内容が決定したころにまたお伝えしたい。


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2013年04月09日

6.もう一人の佐吉サポーター 藤野亀之助
次に、もう一人の佐吉サポーター、藤野亀之助に移ろう。
話は少し遡る。西川秋次が蔵前の高等工業学校を終え、佐吉のもとに戻ってくるのは明治42年春のこと。それから2年後、当時、佐吉は三井や関西財界が母体となって設立された豊田式織機株式会社で月給取りの発明家に据えられていた。ところが佐吉はその職を投げだし辞職してしまう。経営陣との考え方が合わなかったのだ。佐吉は資本家との協同で仕事をすることの煩わしさを知り、理想実現のためには自分の思い通りになる会社を起こすことだ、と悟った。それに、なんといっても資金が欲しかった。この一件は、後に上海進出の動機につながってくる。
 豊田式織機株式会社との関係を絶ったあと、悲嘆する佐吉の姿を見ていたのが三井物産大阪支店長藤野亀之助である。佐吉と西川の心機一転のために、欧米視察に派遣したいと三井本社に諮る。益田孝社長の賛意もあり、三井物産の全面的支援によって二人の海外視察が実現する。
 ところで、藤野の佐吉に対する惚れ込みようは尋常ではない。それまで藤野が絡んだ三井物産の豊田支援は数度にわたっている。だが両者の思惑違いもあって、佐吉との協同事業はすべて噛み合っていなかった。それでも佐吉との縁を三井物産は切っていない。藤野と佐吉の人間的な信頼関係を重視していたからにほかならない。藤野個人が介在しての再三にわたる佐吉へのサポート、これを認めた三井物産本社の懐の深さがうかがえる。ひるがえって、現在の日本のベンチャー育成に欠けているのは、長い目で人物を見る投資家の“眼力”だといえる。

7.組織を超えた個人の信頼がすべて
そもそも、最初に豊田佐吉の将来性を見ぬき、三井物産の理事上田安三郎を動かしたのが藤野だった。明治31年の当時、愛知県半田では佐吉の最大の恩人、石川藤八の経営する乙川綿布工場が盛んに稼動していた。乙川綿布の品質の良さを現地に確かめに来た藤野は、この工場で織機の研究、改良に没頭する佐吉と出会った。そのとき生涯に通じる縁を予感する。両者には相当のシンパシーが通じあったのだろう。
三井が関心を示したことで、政府高官の大隈重信、井上馨らが乙川を訪れ、佐吉の名前も世に知られることになった。
また、佐吉の令嬢愛子と繊維業界で鳴らした東洋綿花社長児玉一造の弟、利三郎との縁結びをしたのも藤野である。
藤野は、佐吉と同年の慶応3年(1867)生れ。行田を出て渋沢栄一の設立した商法講習所に学び、三井物産に入社する。初代社長益田孝の指示を受け、営業幹部として紡績マーケットの開拓に尽力した功労者である。周囲の反対を押し切って上海へいこうとする佐吉を、利三郎と一緒にバックアップした藤野の姿勢に、会社人を超えた信義の人としての人物像が見えてくる。大正9年(1920)1月、藤野は死去する。訃報を聞いた佐吉は、古市を連れて上海から真っ先に神戸の藤野のもとに駆けつけている。

8.トヨタ源流につながる埼玉の地縁、人縁
このように、埼玉県の行田市、その同じ場所から古市と藤野の二人が豊田佐吉、西川秋次と結ばれていたのは奇縁である。
話は余談になるが、行田に「ものつくり大学」ができたときの大学総長は哲学者の梅原猛だった。あるとき、梅原は大学の支援を外部に依頼する。その相手の一人がトヨタ自動車の総帥豊田章一郎であった。それには背景があった。梅原の父親は知多半島の内海に生れ、東北大学に進んだ研究者だった。戦前、将来のトヨタを担う人材を探していた豊田喜一郎によって、梅原は才能を見出され、戦後になりトヨタに招かれ自動車の基礎技術を担当する。あのコロナの生みの親となったのである。梅原猛と豊田章一郎はすでに親の代からつながっていたといえる。このエピソード、行田市立郷土博物館(元)副館長の塚田さんから聞いた話である。
トヨタの源流である上海、そして埼玉県行田市、それらの場所と人物が見えない糸でつながっていたのだ。豊田佐吉、西川秋次をめぐる縁の不思議を感じる。 (了)                


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いまや世界に冠たる自動車メーカー、トヨタ。創始者豊田佐吉は晩年の大正八年に上海へ渡り、織布と織機の製造に乗り出す。後のトヨタ生産方式は上海工場から生まれたもので、現在のトヨタが飛躍的発展を遂げた源流は上海にあったといえる。
上海の工場経営と技術指導の陣頭指揮を執った人物が、佐吉の大番頭と呼ばれた西川秋次である。さらに外部サポーターがいた。上海に行く前、西川と学友だった三井物産社員の古市勉、そして同じく紡績課長の藤野亀之助。この二人、奇しくも同じ埼玉県行田市の出身だった。

                             
1.豊田佐吉にあこがれた古市勉

最初に古市勉のことから。
古市は明治20年(1887)12月1日、埼玉県北埼玉郡忍(おし)町(現行田市)で元忍藩士、古市直之進の長男として生れた。父直之進は明治の頃、忍町長を約20年務めている。
“さきたま”の地名発祥地、行田は足袋の産地として知られ、まわりが農村地帯で織物が盛んだった。古市が中学生の頃、近所に工場を持つ機屋(織物業)があり、時々そこへ遊びに行っていた。工場の織機は三八式豊田織機で木製ながら動力織機だった。石油エンジンでベルトを廻していた。筬は竹製で綜絖は木綿糸で、細い針金の輪を吊りステッキのスプリングには竹製のバネを使っていたという。
子供の頃から豊田式織機になじみ、豊田佐吉にあこがれていたという古市少年は、熊谷中学から蔵前の東京高等工業学校紡織科へ進学する。そこで豊田佐吉の支援で学んでいた西川秋次と出会う。古市の人生はこの西川との巡り合いで決まったといえる。

2.学生の頃の友人 西川秋次

古市勉は、若いころの西川秋次についてこう書いている。
「同級生の中に一種風変りな学生がいた。西川秋次といい、あまり人と付き合わずコツコツと勉強し、特に自分らは紡織科の学生であるから織物や紡績の実習をやらせるのに、西川君は独り機械科の鋳物場に行って砂をいじったり型込めを手伝ったり、鋳物の湯の色を見守っているほうが多かった。この一風変わった人物と私は馬が合って非常に懇意にしていた」
西川の、どこかクールな研究態度と自己を律した真面目な性格が垣間見られ、古市とは対照的な人柄が浮かんでくる。佐吉に見込まれただけに、トヨタ生産方式の基礎をつくった西川らしい人間像が想像できよう。

3.西川と再会、三井へ転進する古市

東京高等工業学校を卒業したあと、古市は下野紡績(現東洋紡)に入社する。数年後、三井物産とは商売敵になる繊維機械商社、高田商会に転じる。そこで再び西川と出会うことになる。
ちょうど豊田佐吉は欧米視察から帰ったあとで、名古屋の栄生に自営で織布工場を稼動させていた。その側近として西川がいた。そして良質な綿布を織るには良い糸が決め手になる、と今度は紡績工場までつくろうとしていた。自動織機の研究資金を織布工場で稼ぎだしたかったからだ。このとき、アメリカで学んできた西川に紡績工場の計画が託され、紡績機を選ぶことになった。当時の紡績機は外国製が使われていたが、佐吉は三井物産からは買いたくない、という。そこで西川は学友の古市に相談し高田商会から買おうとする。ところが肝心の高田商会のトップが勝手に商談を破棄してしまう。それで結局、三井物産からプラット社製を購入することで決着。この一件が契機となって古市は高田商会を退き三井物産に転職することになった。

4.上海で佐吉、西川をバックアップ

三井物産へ転じた古市はアメリカ、イギリスでの体験を積む。帰国すると三井物産上海支店に勤務となった。大正8年(1919)のこと、佐吉が西川秋次を伴って上海に来る。長年の夢だった大陸での事業を起こすためだったが、古市にとって敬愛する佐吉が中国へやってきたのだ。しかも守り役として友人の西川が一緒である。ここ一番お世話をしたい。右も左も分からない二人に代わって、工場の用地探しから身の回りの面倒まで、古市は奔走する。
このような経緯からみて上海の豊田紡織工場は、古市の協力によってこそ建設が可能になったのかもしれない。

5.プラット社への特許権譲渡で介在

古市は、大正12年(1923)内地勤務となり大阪支店紡績課長を命ぜられる。そして豊田自動織機と深く交わるようになった。その頃から、豊田自動織機の性能は著しく向上してくる。イギリスの大企業プラット社が今までとは逆に、豊田自動織機のパテントを買いたいと言ってくる。プラット社と交渉できるのは三井物産の古市きりいない。ここぞとばかり古市はお膳立をする。結局10万ポンド(現在の約100億円)で特許権譲渡の契約が成立した。  
それに至る経緯はこうだった。
自動織機の特許権取引は、英国プラット社から取締役チャダートンが来訪したときに始まる。昭和4年のこと。彼は、豊田紡織刈谷工場で稼動している自動織機500台が高速運転しているのを見てその性能に驚く。英国の工場に適していると判断したチャダートンは本国に報告し、そこから本格的な交渉に移った。契約のあと、手違いなどがあり万事片付いたのは昭和7年9月のこと。
古市勉は晩年のエッセーで、プラット社と豊田の折衝にまつわる話を書いている。そこには洒脱な商社マン古市らしい、英国人重役たちを向こうにまわしての芸当、接待などの裏話が痛快に描かれていた。
後に、古市は親友豊田喜一郎の協力を得て神津製作所を設立。紡織機械の「巻き上げ」に着目し独自の技術を開発する。彼のワインダー技術は先駆をなし画期的マシーン「RTワインダー」が業界を席巻する。後半生をワインダーと共に歩み昭和59年(1984)98歳で死去。

(その2)藤野亀之助へつづく
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2013年03月22日

潮地ルミさんからの手紙(その1)のつづき

以下の論文は故・潮地悦三郎さん(ルミさんの夫)が生前に書き残していたもの。このほど、原稿をワープロ打ちしたものが、ルミさんから送られてきた。


◆明治24年ころおよび27年の豊田佐吉の蕨町来訪◆ 潮地 悦三郎

 1 織機王豊田佐吉

 織機王・発明王とたたえられる豊田佐吉は、昭和5年(1930)に64歳で病没するまで、発明特許84件・外国特許13件・実用新案35件という驚くべき発明活動を展開した。その伝記は、戦前の教科書はもとより、現行の小学校国語教科書にも教材として採用されている。蕨市の児童も現に学んでいる。この豊田佐吉も青年時代に織機の研究と糸繰返機のセールスのため蕨町に来訪したのだった。前者の織機研究のための来町の時期については、残念ながら明確な文献資料を欠くのだが、明治24年(1891)と推定されるのである。後者のセールスは、田中忠治著『豊田佐吉伝』によって、日清戦争開戦の年、明治27年ということが明らかで、おそらく宣戦布告(8月1日)以前のことだ。この両度にわたる来蕨について、『豊田佐吉伝』(1)に依拠して考えてみようと思うが、その前に、蕨町の古老は何といっていたか、その記憶を確かめておこう。

 2 高橋新五郎家来訪

 戦後の混乱期の昭和23年の夏、初めて高橋新五郎家を訪ね、現当主久作氏のご母堂にお会いしたとき、「豊田佐吉も若いとき、うちに織機の研究に見えたことがありましたよ」と、質朴で謙虚なお話の中でさりげなく語られた。(そのころは、マニュファクチュアなど経営形態にのみ興味があって、織機や織法など技術的面には無関心だった。しかし、両者は無関係ではない。くわしくうかがわなかったのは、思えばうかつなことだった。)後年、久作氏もその間の事情を、「その話なら私も父から聞かされました。父の青年時代で、豊田佐吉が何日だかうちに泊まって、一緒に織機の研究をした、ということでした。父も織機の改良とか発明には、子どものころから興味をもっていて、苦心していたようです。父も年30歳以前に、高機の一部分である高能率の捲取機を発明しています。何でもそれ以前の古い話らしいのです」と語られた。ご尊父は慶応2年(1866)の生まれ、佐吉より一つ年上。同年輩でともに織機の研究に打ち込む二人の青年は、おそらく意気投合したにちがいない。織機を前に顔を寄せ合って、ああでもない、こうでもないと、熱っぽく話し合う姿も眼前にほうふつとするではないか。

 3 宿方古老の記憶

 法華田の池上平治氏は、「さあ、いつだってことは、はっきりしませんがねえ、豊田佐吉が織機研究のために蕨町にきたってことは、事実ですよ。高橋家はじめ塚越あたりでは、何といってるんだか私は知りませんが、宿並みや上蕨(法華田・郷・水深部落)の方の年寄りたちは、豊田佐吉が蕨にハタシ(織機)の秘密を盗みにきたって、いっとりましたね。卑屈に思えるかもしれませんが、職人の親方なぞ、弟子に秘伝だのコツだの教えない時代ですからね。そう考えたのも当然でしょう。今だって産業スパイだのなんのって、さわいでますねえ」と微苦笑された。
 糸繰返機セールスについての記憶は後に述べる。まず、佐吉の織機研究のための来蕨の時期を考えてみよう。その前に、彼の生い立ちや織機研究の動機などについて、述べておかなければならない。

 4 織機研究の動機

 佐吉は慶応3年(1867)2月14日、静岡県浜名郡湖西町山口(旧敷地郡吉津村山口)に生まれた。父の伊吉は、農業のかたわら大工の業を営み、長男の佐吉も13歳の時から父に従って大工の仕事に出かけた。15,6歳のことであった。隣村の新所小学校を増築する仕事に、父と毎日のように通ったが、ある日「佐田」という先生の授業の声を校庭で何気なく聞いたのだった。毎日新聞社編『生きる豊田佐吉』は次のように述べている。
  「イギリスのリチャード・アークライトは貧家の13番目の子として生まれ、50歳をすぎてから読み書きを習ったほどです。なのに水車を動力にした画期的な紡績機械をつくりました。・・・・・・同じように紡績織機の改良に苦心したジェームス・ハーグリーブスも貧しい大工でした」
  佐吉少年は、ハッとした。窓越しに教室をのぞき込んだ。「西国立志伝」と、黒板にある。佐吉は知らなかった。英国のスマイルズの『自助論』を、漢学者・中村正直が翻訳して、明治4年に出版した。独立独歩で、道を切り開いていった欧米300余人の実話を集めている。“天は自ら助くる者を助く”の格言に始まるこの本は“明治の聖書”とさえ呼ばれ、若者に勇気を教えた。(中略)
 「その年で、女工をからかうのは、まだ早いぞ」―――尾崎という機屋。やはり隣村。佐吉は毎日のぞきに行った。女工さんをみるためではなかった。20台ばかりの織機が動いていた。当時では、新しい部類のものだった。「まだまだ改良できるはずだ」と佐吉。とうとう主人にとがめられた。わけを話した。「そうか、やってみろ」と尾崎は言うのだ。
 「あほ豊」とささやかれる。あほうの豊田というのだ。静岡や愛知県の機屋の前で、ポカンと一日中、立っていたことがある。そのうち「気ちがい」と言われだした。山ぎわの小さな納屋にこもった。一徹な父。母のえいが、そっと、にぎりめしを運んでくれた(2)。

 5 最初の発明

 もともと浜名郡地方は、遠州木綿の産地として聞こえていた。それは、もっぱら農家の副業として、ハタゴと呼ばれる原始的な手織機で織られていたのであり、佐吉の少年時代には、まだ工場組織の機屋は少なかった。母親の織る姿を小いときから見なれていたから、織機の改良・発明を志したのも不思議ではなく、それを決定的なものにしたのは、明治18年(1885)4月、専売特許条例の公布を、やはり佐田先生から教えられたからである。発明によって社会・国家への奉仕を発願したのだ。村の青年たちと、夜学会を開いて勉強もしていた。しかし、女子のあつかう織機に熱中する若者は、村人に奇人・狂人としかうつらなかったのである。寝食を忘れる苦心惨憺の結果、明治23年11月、ついに最初の発明、木製の豊田式人力織機を完成した。

 6 三度の東京出奔

 それまでに、彼は三度も無断で家を飛び出し、上京していた。明治19・22・23年で、最初のときは、ろくに旅費もないため、東海道を歩いて行った。東京の工場や横須賀の造船所などで機械類を見学し、第3回内国勧業博覧会(23年4月1日〜7月31日、東京上野公園)では、出品された外国製の機械の前に連日すわりこんで見、監視人にとがめられるというエピソードさえあった。小学校卒業だけの無学な彼の研究には、おおいに役立ったのである。こうした広く知識・技術を吸収しようとする熱意・態度のしからしめるところであった、ともいえる。

 7 バッタン機の改良

 彼の最初の発明は、ひとくちでいえば、明治5年(1872)京都からフランスへ派遣された伝習性の持ち帰った織機、バッタン機を改良したものだった。バッタン機は当時、遠州でも、蕨地方でも使われていなかった。例えば発祥地の塚越村(明治22年蕨宿と合併して蕨町大字塚越)でも、古老の記憶によると、明治10年代末には東屋・吉野屋などの大きな機屋もふくめ、60数軒におよぶ農家が機を織っており、明治21年ころはとくに盛んだったが、バッタン機が導入されたのは、明治24年ころだという(3)。
 バッタン機も手織機であるが、わが国では思いもよらなかった飛杼(とびひ)装置のもの。すなわち、滑車につけたヒモを右手で引くと、シャットル(ヨコ糸を通すヒ〈杼〉が往復し、左手でオサ〈筬〉(タテ糸の位置を整えヨコ糸を織り込むもの)を打つ仕組み。手でシャットルを移動するより数段便利。豊田式木製人力織機は、このバッタン機をさらに一歩進めたものだった。「特許第1195号」の付属明細書によると、「ソノ目的トスル所二ツアリ。第一、ヒモヲ引クノ一手ヲ省キ、身体ノ労ヲ減少スルコト。第二、杼ハ筬ノ進ム二シタガイテ走通シ、ソノ筬ノ進退ヲ急速二スルトモ、決シテ杼ノ通行ノ遅ルルコトナク・・・・・・・」筬を打つ。それだけでシャットルも飛ぶようにしたのである(4)。試験的に織った布もムラがなく、能率も五割方上がるものだった。

 
 8 東京市外千束村で機屋

 「翁は最初の発明を完成すると上京して特許権の獲得に奔走した。そして獲得した特許権【引用者注、翌24年5月14日】を活用すべく知人の勧めに依って東京市外千束村(現在の浅草区)〔戦後台東区〕に機屋を開業した。翁の目的は発明そのものに理解を持たぬ父から独立して生活することであったが、如何にせん当時は織布熱が一般に普及されていなかった上に、不景気で各事業とも萎縮していた時代だから、折角の翁の発明も一部の機屋さんに歓迎された程度で、大なる刺戟を与うるに至らなかったのである。そこで翁は国元で自己の発明織機を4、5台制作して東京へ搬び、千束村に一戸を借りて織布業を始めたのである。
 その織機で関東縮、東京双子などが織出され、問屋筋の賞讚を博したが、不景気はいよいよ深刻になって来て、翁は年を逐うて生活苦の渦中に巻込まれて行った。が、後年の織機王にとって、このささやかな最初の独立自営は決して意味のないものではなかったのである(5)。〔傍点引用者〕

 9 蕨町来訪の時期

 蕨市で「豊田佐吉が織機の秘密を盗みにきた」、高橋家で「豊田佐吉がうちに泊って織機の研究をした」と伝えるのは、この“千束村時代”ではなかったろうか。それ以前の三度の東京出奔の時期も考えられなくはないし、後述の糸繰返機セールスのときを「機械の秘密を・・・・・・」と考えられることも可能である。しかし、もっとも妥当なのは“千束村時代”だ。研究熱心の彼のことだから、「その織機で関東縮、東京双子などが織出され、問屋筋の賞讚を博」する前に、よりよい織法と織機の探求のために、その生産地蕨町を、そして東京双子創始の機屋・東屋高橋新五郎家を、訪れないわけはないだろう。千束村と蕨町とは、いわば目と鼻の先きだ。しかも、主要機業地には、機織の改良・発明を志す者の一人や二人はかならずいる。何らかの新工夫を施した織機も動いている。発明のヒントも得られるにちがいない・・・・・・。彼がこの時期に来訪しないとすれば、むしろ不思議といわなければならない。来訪しなかったものなら、すでにそれ以前に来訪していたから、ということになる。

 10 社会経済的背景 

 明治24年(1981)来蕨と推定するゆえんだが、この年ころから蕨町塚越でバッタン機が導入されたことと思い合わせて、興味深いものがある。当時は、わが国産業・経済発展の歴史の上からも画期的な時期だった。すなわち、明治22年の凶作による物価騰貴を契機として企業界は破綻を生じ、物価・株価の下落が始まり、翌23年、わが国最初の近代的経済恐慌“1890年恐慌”が起こった。綿業に視点をおけば、「発展してきた日本の紡績業が、せまい国内市場と、それに輪をかけた農村の凶作のために(6)」起こった、ともいえる。そして、国際綿糸に依存しつつあった綿織物業も同じ市場関係にあったのである。
 「一般に明治維新以降1890年にいたる過程は、資本の本源的蓄積の過程として捉えられており(7)」、1890年恐慌は、その後に来たるべき産業資本確立期の過程、「その開始時の矛盾の発現(8)」とされる。豊田佐吉の発明活動は、この時代背景のもとに理解されなければならない。いわば時代の所産であった。その後の発明活動も、産業資本確立期の過程に展開され、産業革命を推進する役割を果たした。明治30年(1897)には木製の動力織機(翌年特許)、34年には木製の最初の自動織機(翌年特許)と、次々に発明・改良を続けていったのである。
 しかし、社会現象的には発明はつねに時代に先行する。ただちに社会に歓迎され、社会的需要を生むものだろうか。最初の発明が、わが国最初の資本主義的恐慌・過剰生産恐慌下であったことは不幸だったが、それでなくとも、機業界がただちに採用したであろうか。

 11 蕨の織機の変遷

 蕨地方機業界には、高橋新五郎家のように百人におよぶ機織奉公人ないし機織伝習者を労働させる大規模の機屋が幕末期から存在した。維新後の政府の殖産興業政策によって、農業資本および宿場的商業資本を機屋経営に投入する者が激増した。マニュファクチュア(工場制手工業)であるが、その大半はダシバタ(出機、デバタともいい農家副業の賃機へ出す)やシタバタ(下機、他の機屋へ下請けさせる、そこからさらに農家賃機へ出機することも少なくない)を伴っていた。賃機制生産の基盤に立つものだった。また人身売買的機織女工や農婦という低劣・廉価な労働力による低コスト生産に頼るもので、キバタ(生機、織り上げたままのもの、問屋からハリヤ〈張屋〉へ織物整理に出す)のまま買継商(および仲買人が間に入ることもある)を通じて東京の問屋に運んだ。最末端の農家賃機からみれば、まことに中間搾取の多いものだった。このような労働関係や経営形態・生産基盤にある蕨町機業界は、豊田佐吉の木製人力織機の高能率を知っても、その優秀さのゆえに、かえって採用することはできなかったろう。
 幕末から、高橋新五郎発明の高橋機(高機に多少の新工夫を加えたものと思われる)や高機を使用してきた蕨町塚越において、ちょうどこのころバッタン機が導入されたというが、進歩・発達のテンポは速まりつつも一段と後れていたのはやむをえまい。(恐慌時に導入をみたことは、一見不思議にみえるが、不況を乗り切ろうとする意欲的・進歩的な機屋の存在がうかがわれる。古老のこの記憶は、恐慌の塚越機業界への派及・深刻化と結びつき、強く印象づけられて記憶されたものだろう。)その後、塚越においては、明治40年ころ足踏織機(足踏みによるクランク軸の回転によって、すべての機械部分が自動的に動き、手は織ることから解放された、と古老はいう(9)。この足踏みという人力を、動力におき換えるということは、技術的には単なる時間の問題にすぎなかったと思われる)、大字蕨においては、これより若干早く導入されたようで、石油発動機による力織機も、中山道沿いの下町北田新蔵氏によって明治39年(10)、同じく下町小宮直吉氏によって41,2年ころ導入されたといわれる(11)。

 12 日清戦争前夜

 つぎに、豊田佐吉の蕨町における糸繰返機の制作・販売を、『豊田佐吉伝』に依拠しつつ述べよう。(おそらく、わがさ去れる後の噂もおもひやる(啄木)ことすら忘れての上京であったろうが、明治26年暮れ、千束村における機屋は閉鎖に追いこまれ、帰郷のやむなきにいたった「佐吉翁は憂鬱だった。翁が帰村したことが判ると村人たちはまたしても“狂人佐吉”の噂を立て始めるし、父母は父母で大工か農業かいずれかを選べと迫るし、今までの翁の苦心、発明の偉大さなど理解してくれる人は一人もなかった。」まさに四面楚歌、またもや、石をもて追はるるごとくふるさとを(啄木)飛び出さざるをえなかった。「明治27年正月始めの事で、世上では日清国交の蛮行はげしく、何となく物情騒然たる時だった。」
 いわば日清戦争の前夜ともいうべきときだった。ここで、時代背景としての日清戦争を、その歴史的な性格を、次のように理解しておきたい。従来、1890年恐慌に伴う日本の産業資本の朝鮮市場獲得要求の 烈化と、甲申事変(明治17年、朝鮮における清国の勢力を排除し、親日政権を樹立しようとして起こしたクーデター)後の日本の政治的後退との矛盾が、日清戦争を必然ならしめたとする意見や、日清戦争の前史を、条約改正(産業の保護育成や財政収入増加をはかるなど日本資本主義発展のためにも、不平等条約の改正は必要だった)をめぐる政府と政党の抗争の歴史に求め、対外硬派の主張が政府をして戦争にひきずりこませたかのような意見があった。これに対して中塚明氏は、日清戦争を明治政府が明治初年以来追求してきた朝鮮制圧政策の上でみていない点で誤っているとし、朝鮮の政治的軍事的制圧がおもな動機・目的だったとした。しかし、それは経済的な原因を全く否定しさるものではない。朝鮮の政治的軍事的制圧こそが、経済的にも朝鮮を収奪する近道と考えられていたのだ、とするのである。

 13 糸繰返機改良の動機

 「断然決意して、無断で家を飛び出した・・・・・・翁は初め豊橋市外に伯父に当る森重治郎氏を訪ねたが、そこで従弟の森米治郎氏、親戚に当る伊藤久八氏と親交を結ぶようになって、其後一年ばかり放浪時代が続いた。・・・・・・米治郎氏と久八氏は陶製枕木の売込運動に熱中していた。・・・・・・三河岡崎の松井徳太郎という人が、明治25年5月に特許を得た発明であった。それを鉄道局(今の鉄道省)〔現国有鉄道〕へ売込んで、その製造を一手に引受けようとする大仕事であった。」すでに土地を処分したりして売込運動の資金にあてていたが、多額を要する金策に弱りはてていたのだ。
 この事業に共鳴した佐吉は、資金援助のために糸繰返機(俗称かせくり、糸の束を織機のタテ糸、ヨコ糸用に巻きかえる装置)の制作・販売を思いついた。「当時の糸繰返機は、織布を副業とした一般農家に、非常な需要を持っていたに拘らず、不便で且つ能率が上らなかった。これを改良して、便利で能率の上るものにしたらきっと売れるに違いないと翁は考えたのだ。それに織機の制作のように費用もかからないし、直ちに実用され得る機械であった。翁は米治郎、久八氏が東京や横浜などへ、売込運動に飛び歩いている留守中に・・・・・・夜を日についで苦心した。簡単な機械とはいいながら、実際やり出して見るといろいろの苦心に逢着した。それを考え考えして漸く希望通りの考案――絵図面を作り上げたのは約二ヶ月後のことだった。」

 14 見本機の制作 

 「翁はその精密な糸繰返機の絵図面を持って、豊橋の指物屋や道具屋を訪ねて歩いたが、何処でも作り得る自信がないと云って断られた。というのは翁の考案があまりに精密だったことと、この地方の指物師や建具師は「これこれのものを・・・・・・」と一切を委せて貰う習慣だったからだ。が、翁は根気よく毎日数十軒を訪問して、やっとのことで、豊橋市外下地という所に宅間喜右衛門という指物兼建具師を発見した。喜右衛門氏はどこかに名人肌のある人で、弟子や職人を十幾人置いてやっていたが、翁の考案を見て「これあ面白い、やってみましょう」と引き受けてくれた。此処で予期した通りのものが出来たので、翁は直ちに特許の出願をしていつでも売出せる準備をととのえた。」

 15 蕨町での制作・販売 

 「翁の糸繰返機が初めて制作され需要されたのは埼玉県蕨町地方であった。」しかも、宅間喜右衛門のような指物師も、簡単に見つかったようである。機業地・集散地としての伝統によって、指物師の呑み込みもはやかったのだろう。「陶製枕木の売込運動で或る時翁は米治郎、久八両氏と共に上京したが、運動費に窮したので翁は米次郎と二人で蕨町へ出かけた。蕨町は当時桐生・足利に次ぐ関東の機業地で、東京双子が盛んに産出されていたから、二人は此処で糸繰返機を製作し、それを売って運動費を捻出しようという算段であった。土地の指物師に命じて作らせ、さて売る段取となったが、当時この地方で用いられていた糸繰返機は旧式な坐繰であったから、翁の足で踏む糸繰返機がよく呑み込めない為か、さっぱり売れない。そこで翁は米治郎氏と共に旅館で夜更けまで足の踏み方を練習して、使用法を説きながら売って歩いたものだ。使用法がわかると便利で能率が上ったから、非常によく売れた。」

 16 蕨市の古老の記憶

 これについて、下蕨の山岡光治氏は「父から聞いた話ですが、豊田佐吉が蕨町に滞在して、仲町の何とかいう、忘れちゃいまして思い出せないんですが、指物師にそのかせくりを作らせて、足で踏んで回転させる実演をしてみせながら売った、ということです。その指物師は、その後どこかへ転住してしまったそうですが、仲町の年寄りにでも聞いてみれば、まだ今のうちなら何かわかるかもしれませんね」と、ご教示くださったことがある。
 そこで、仲町の郷土史家・池田喜重氏に、その指物師についてうかがうと、「豊田佐吉のその話は私も年寄りから聞いてました。だが、指物師が誰だってことまでは知りませんね。仲町の指物師といえば、小宮さんの向い側、蕨宿の問屋場跡の二、三軒上町寄りに、たしか「ミーちゃん」とか呼ばれていた名人肌の指物師がいたということです。幕末から明治初期の蕨のいい家の欄間とか建具だとかは、みんなこの人の仕事なんです。実は私の家なんかもそうですが。この人はまた、小箪笥のようなものから大鉢・煙草盆にいたるまで、いろんなものを頼まれて作ったようです。なかなか立派ないいものですよ。そのかせくりを作ったというのは、多分この人でしょうね」ということだった。

 17 日清戦争始まる 

 糸繰返機の発明には二か月を要したというから、見本機の作成や上京・陶製枕木売込運動などの日数を、ある程度考えるとすると、蕨町における制作・販売は、はやければ明治27年4月、遅くも5,6月ころ。
 この年の3月1日には第3回臨時総選挙が行なわれ、5月15日第6回特別議会が開かれた(6月2日解散)。第2次伊藤内閣は、対外硬派六派を中心とするほとんど全部の政党の攻撃と、国内世論のために、倒壊の危機にさらされていた。それを乗り切るためには、まさにクーデターか、条約改正か、対外戦争によって目を外に向けるしかなかった。おりしも、朝鮮では前年に続き東学党の指導による農民反乱が広まっていた。南鮮の全羅道の主邑、全州府の東学党の占領、およびその鎮圧のため朝鮮政府が清国へ援兵を要請した旨の急電が6月2日にとどくと、政府はただちに朝鮮出兵を決定した。帝国主義列強の批難・干渉を恐れていたものの、7月下旬には陸・海軍ともに火ぶたを切り、8月1日に宣戦布告した。豊田佐吉の蕨町におけるセールスは、このようなあわただしい時期に行なわれたのだった。


注 (1)(12)田中忠治著『豊田佐吉伝』(昭和8年初版、昭和30年トヨタ自動車工業株式会社再版)に依った。
  (2)毎日新聞社編『生きる豊田佐吉――トヨダグループの成長の秘密――』(昭和46年)73〜4ページ。本書    は毎日新聞中部本社経済部記者が「正確な資料として、長く生き続けるような内容にし」ようと、「フィクショ    ンの要素は排し、冷静に史実を追うよう」「取材陣は東西に走り“証言”を足でかせいで」「その目的は、か    なり果たしたと自負している」と、あとがきで述べている。
  (3)(9)昭和37年蕨市立東中学校2年川島  さんの祖父、同星野千恵子さんの祖父母からの聞き書き調査    報告による。
  (4)前掲書(2)22ページ。
  (5)前掲書(1)86ページ。
  (6)中塚明著「日清戦争」『岩波講座日本歴史』第17巻所収、129ページ。
  (7)(8)永原慶二編『日本経済史』(昭和45年)214ページおよび222ページ。
  (10)池上平治氏聞書。小学校入学後まもなくの目撃で、入学と結びついた記憶だという。
  (11)金子吉衛著『わらび雑筆』(昭和42年)199ページ。
  (13)前掲書(6)参照

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2007〜008年にかけて紹介した「彷徨える豊田佐吉」は、蕨市に在住の潮地ルミさんとの出会いによって書くことができた。その潮地さんから久しぶりに手紙を戴いた。
それで知ったのが、蕨市と湖西市が災害時の相互応援協定を結んだということである。
豊田佐吉が昔の蕨町にやってきたことは、湖西市でも知らなかったが、蕨の市長さんがこのブログを読んだそうだ。それで潮地さんから手紙をいただいたのである。


◆豊田佐吉の来蕨について(ルミのひとりごと) ◆2013年2月 潮地 ルミ

2012年8月蕨市は静岡県湖西市との間で、災害時の相互応援協定を締結した。湖西市は1867年豊田佐吉が生まれ育った土地(山口村が後に湖西市の一部に)である。そんなことから、豊田佐吉が昔蕨に来たことについて知りうる事柄を現在の私の可能な範囲で綴っておかなければと思い、筆をすすめた次第である。

豊田佐吉の来蕨については、昭和40年代金子吉衛氏に依頼され、夫婦で『蕨綿織物業史』の執筆を始めた際、「明治20年代3回に及ぶと推測される豊田佐吉の蕨町来訪について」記述する予定であった。だが十分な調査研究ができず発表できるまでに至らなかった。

しかし悦三郎は「明治二十四年ころおよび二十七年の豊田佐吉の蕨町来訪」と称して一応原稿は残していたのだった。(原稿は、
その2で掲載)悦三郎没後、私はその後の調査研究を放棄していた。ところが全く思いもかけず2007年、横浜の山口勝治氏から佐吉の蕨来訪についての問い合わせがあり、後日私は山口氏とお会いして悦三郎の原稿をお見せしたのだったが、その後、私としては結論が出ないままこの件については打ち切りと思っていた。(その内容は山口氏のブログを参照)

ところが2012年8月湖西市と協定を結んだ蕨市役所では、山口氏のブログを見て9月初旬市役所広報課の飯田氏から私に問い合わせがあった。
そこで再び(?)私は蕨市のために多少ともわかる範囲で「佐吉の蕨来訪」について書き残しておかなければ・・・と思いたったのである。
              
2012年秋、表記の件について私が考えた(思った)ことは、悦三郎が残した原稿とは多少異なっている。それはその後の各地の研究や私自身の見聞等によるものであるが、以下にそれを綴ってみたい。そしてまた今後多くの学者、研究者のご意見、著書などにより真相が紹介されることを切に望んでやまない。


一、豊田佐吉の第1回蕨訪問について

佐吉の第1回高橋新五郎家訪問は明治23(1890)年彼の豊田式人力織機発明以前だったのではないかと私は考える。
それは明治19年の上京の時ではなかったか、或いは22年か?(「豊田佐吉伝」p65からの類推)
23年の上京の際とも思われたが、
‥時の佐吉の意欲は機械の方に最重要視されていた。
23年の内国勧業博に、蕨では他家は出品していたのだが高橋新五郎家は出品した形跡がなかった。(高橋家当主高橋慶助氏による、また県立文書館の文書等にも見当たらない)
等の理由により23年ではなく、それ以前だったのではないかと考えるのである。
また悦三郎は24年と考えていたが、「豊田佐吉伝」によると、24年佐吉は特許権獲得に奔走し、同年5月14日特許権を得ると知人の勧めによって発明織機4,5台を千束村に運び機屋を開業、関東縮、東京双子などを織り出したという。しかしながら、これらの織物はそう簡単に織り出され、商業化できるとは考えにくい。なぜなら、織りの技術的なことから考えて短時日のうちに商品として織り出すことは到底不可能だと思われるからである。
また第一に生産に必要な資本は?そして織工(女工)の採用、技術習得、製織準備工程等についても疑問が多い。
さらにその間、佐吉はたみと結婚し27年には長男が生まれている。この状況の中で佐吉が高橋新五郎家に泊まり込みできたとは到底考え難い。(一泊くらいなら可能性も・・・?)
そしてこの時期佐吉は、より進んだ人力織機の発明・工夫・改良に頭を傾けていたと思われる。とすればこの段階で7代目新五郎と話し合い、または意気投合したとは考えにくいのである。
したがって私は佐吉が蕨に来たのは23年以前だったのではないかと考えるのである。
(注 高橋家は18年に上野共進会出品時「機業伝記」を差し出しているので佐吉は何らかの方法でそれを見ていたのかもしれない。また「二子織」を盛んに織らせ売り出した川越の商人中島久平から高橋家について聞き伝えられたとも考えられる。むしろこの方が大きいのでは・・・?)
これらのことよりもさらに重大なことは「豊田佐吉伝」の著者がこれを書いた根拠、出典、聞書き等は何であったのかということである。
佐吉が浅草千束に機屋を開いたのは知人の勧めだったというが一体それは誰だったのか・・・住所、職業、経歴は・・・?
そして佐吉は本当に関東縮、東京双子などを織り出して東京の問屋、あるいは仲買人等に売っていたのだろうか?
佐吉は単糸の遠州縞の土地で育っている。後に彼の発明した織機では単糸の織物生産だったのでは・・・?
もしかすると、佐吉が浅草千束で始めた機屋は下機屋であり、知人なる人物が親機であったのでは・・・?
等々の疑問が残るのである。しかし残念ながら今の私にはもはや体力上からもそれらは調査不可能である。


二、豊田佐吉の明治27年蕨来訪について

山口勝治氏によると『西川秋次の生涯』という本の中に、アメリカ行きの船の中で佐吉が若い頃の苦労話を青年西川に語るシーンがある。
「・・・できた糸繰返機は寸法通りで見事な出来栄えにうれしくなったという。それを持って佐吉たちは埼玉の蕨で行商をした。初めて商売をして金を頂いたのである。・・・(略)」
また『豊田佐吉伝』には、「陶製枕木の売り込み運動で或る時翁は米次郎、久八両氏と共に上京したが、運動費に窮したので翁は米次郎と二人で蕨町へ出かけた。蕨町は当時桐生・足利に次ぐ機業地で、東京双子が盛んに産出されていたから、二人は此処で糸繰返機を製作し、それを売って運動費を捻出しようという算段であった。」とある。
当時蕨町が桐生・足利に次ぐ関東の機業地であったかどうかは別として、佐吉がかつて塚越の高橋新五郎家を訪れ、蕨町を中心としてその付近の織物生産についてよく知っていた、また明治26年7月に蕨駅が開設され、蕨駅と中山道を結ぶ駅前通りができたり、織物関係業者の活発な動きが起こっていた事などが、当時の彼の耳に入ってきたので、汽車の便を得て気軽に蕨に来たのではないだろうか。
佐吉はその時初めて商売をして現金を得、そしてその発明した糸繰返機はその後の彼の発明の資金となり、更なる発展のきっかけともなったのである。 


*潮地ルミさんからの手紙(その2)へつづく




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2013年03月15日

流寓のソナタ  中里夏彦_0002
東日本大震災で被災した中里さんが、何度かテレビ番組『ガイアの夜明け』で紹介された。
福島県浪江町の商業施設に勤めていて大地震、福島第一原発事故に遭い現在会社は臨時本部を二本松市に置いている。現在も家族とは別々に暮らす生活が続いている。

被災後に、会社のホームページに入った消息の知らせで社員が徐々に結集する。そこから立ちあがったメンバ―が、知恵を出し苦闘しながら会社を再建しようと頑張っている様子をテレビ局が追いかけて約二年がたつ。昨日聞いた情報によれば、テレビ局がフォローをしてから三回目の番組が流されたという。

被災後、郷里の双葉町の住民は埼玉県に移り、県内加須市にある旧騎西高校の校舎に住むことになった。そのとき加須に避難している中里さんを訪ねたが、一つの教室に五家族が一緒に寝起きしているという共同生活。この生活を二年たった今もまだ続けている家族もいる。

この経験を書いておくといいですねと伝えていたが、すでに「避難所から見える風景」を、彼が所属する俳句同人誌に書いている。その連載が間もなく終わるらしい。

中里さんとの出会いも奇遇だった。
私の関係している仕事の仲間の福田さんが、たまたま中里さんが勤めている浪江町の会社に行っていて、そのとき福田さんが貰った句集が、『鬣TATEGAMI』の「流寓のソナタ」だった。
そして数ヶ月後に、あの大震災が起こったのだった。

中里さんは俳号夏彦、あの『俳句研究』誌「五十句競作」の最年少入賞者である。夏石番矢、澤好魔、藤原月彦など当時の新進俳人が競って話題になった作品群のこと。それを主宰したのが高柳重信だった。その句作が載ったバックナンバーのコピーを入手していた。その中に中里夏彦の句があった。印象に残る俳号だったのでいくつか作品を眼にとめ、それを覚えていたので福田さんがくれた句集で記憶が繋がったとうわけである。

もう間もなく定年を迎えるという中里さん。昨年、福島第一原発事故の解明がまだまだ進んでいなかったころ、仕事を終えて一段落したら語り部となって全国を行脚したいとの想いを言っていた。

『流寓のソナタ』中里夏彦句集(風の花文庫)あとがきより。

「昭和五十二年の或る曇天の日、大学の俳句研究会に入会し俳句を書き始めた。昭和五十三年の初夏の土曜日の午後、大学での句会を終えて渋谷駅まで歩いて帰る途次、先輩の誰かが、ちょうど刊行を開始したばかりの立風書房『現代俳句全集』の話を始めた。曰く、高柳重信は『現代俳句全集』の編集委員に名を連ね、自身も有名な俳句作家でありながら,次代のエディターとしては言うまでもなく、新人を見出すその慧眼のいかに優れているか云々。そう話す先輩も数年前に応募していた。そして話は『俳句研究』の「五十句競作」に及び、第六回の締め切りが近いと言う。やがて、『現代俳句全集」第三巻を手にした僕は、そこに収められた写真の目に衝撃を受ける。「こんな目をしている俳人は見たことがない」とほとんど根拠もなく応募することを決めた。
その年の晩秋だったか入選者の集いが催され、僕はそこで初めて澤好魔、夏石番矢、藤原月彦、水島直之の諸氏と顔を合わせる。ところが場所を居酒屋にかえた二次会の席上、彼らは揃って退席。丁度その日はかつて「五十句競作」に登場した若手を中心とする新しい同人誌『未定』の発行準備会が催されるという。一斉に退席してゆく彼らを見送っていた僕に「本当は君もこの席に残っていないで、彼らと一緒に行くべきなんだよ」と話しかけたのは、なんと高柳重信その人であった。(略)」
 
 
1957(昭和32)福島県生まれ。国学院大学文学部在学中に俳句を始め、翌1978年(昭和53)『俳句研究』第6回五十句競作佳作第二席入賞を機に高柳重信の親炙に浴する。以後高柳重信存命の第9回まで応募。その後『未定』を経て『鬣TATEGAMI』に拠る。

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2013年03月03日

タイポグラフィ連続セミナー
最近ブログが滞っていた。3.11以後、何かと心定まらぬこともあっておろそかになっていた次第。春の陽気にも誘われ再開をします。

まず、最近の周辺の動きから。

その一つが「タイポグラフィの世界・東アジアの近代活字史/全三回」セミナーの開催である。
第一回目は3月9日(土)に開催。講師は中国西安市の西北大学準教授、孫明遠さん。もう一人は宮坂弥代生さん(明治学院大学講師)。会場は阿佐ヶ谷美術専門学校。

そして第三回目の5月11日(土)、私もお話をすることになった。テーマは「平野勇造と上海」。そして印刷活字史研究者の板倉雅宣さんで、テーマは「上海修文書館」。

初めてこの連続セミナーが開かれたのは2010年12月、凸版印刷の中にある印刷博物館にて。このときタイポグラフィ研究家の小宮山博史さんが「上海美華書館」の発表をされた。今回、小宮山さんは全体企画のお役目なので講演はされない。

このブログにもあるが、2010年11月26、27日に上海豊田紡織廠記念館で行われた「近代印刷の源流を訪ねて」のセミナーが契機となって、その二回目を上海で行うことを考えていたが、今回の連続セミナー「タイポグラフィセミナー」を再開させ、ここを発表の場とすることになったようだ。

詳細内容は阿佐ヶ谷美術専門学校のURLで。
http://www.visions.jp/b-typography/

さらに、もう一つの出来事として「津和野の偉人 西周の再発見!」がある。
この「タイポグラフィセミナー」にも繋がった話なので、次回のブログでお伝えしたい。


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2012年06月07日

兵庫県一宮町播州平野は兵庫県南西部に広がり中国山脈から流れるでる加古川、市川、揖保川、千種川などの川が並行して流れ播磨灘にそそいでいる。

播州へ進出した出雲族は、どのようなルートをとったのだろうか。
歴史家水野祐の説では美作経由だったという。出雲から智頭町をぬけ、兵庫県との県境を宍粟郡へ下り,千種町へ。そこから因幡街道と交わる波賀町へ。さらに南下すると10キロほどで一宮町へ着く、という道筋だろうか。僕もそれを支持する。

ここ一宮町は古代播磨の中心地だったようだ。
このあたり揖保川の源流域で、川はほぼ真っ直ぐに瀬戸内海に流れ落ちている。
一宮としての伊和神社は、豪族イワ族の根拠地でここに移動した出雲族と習合して生まれた社だ。
列島各地には、古来から土着していた先住人がいて、その地域の自然を崇める原始信仰があった。ここの場合、西北からやってきた出雲族が祀る土着神オオナムチ(大己貴)をイワ族が受け入れて地域の新とたな守り神とした。それを象徴するように伊和神社の本殿は北を向いている。


兵庫県山町すでに一宮町は宍粟郡で、少し下ったところに中心地、山崎町がある。美作と因幡との街道の分岐点に位置し、現在では中国自動車道を播磨西部へ降りるときの重要なインタ―チェンジがある。

今では近くを中国自動車道が通っているというロケーションからして、中国山地の中だが、大昔の日本列島は海域に住む場所は無く、海洋民にとって、山の中の小盆地空間が開拓の拠点だった。それを示すような場所だ。横たわる中国山系に沿って津山、新見など同じような小盆地文化センターなのだ。

一宮の神社が分布されている場所を見ればわかるが、その多くが山を分け入った地勢の場所にある。もし平地なら武蔵一宮のように、昔海だった場所の台地に浮かぶような土地に社が建っている。そこが縄文時代からの水辺だったからだ。三河一宮の砥鹿神社の場合もそうだ。現在の地理認識にはないアースダイバー感覚のハイパーイメージで降臨したのかもしれない。

出雲族が本州を東へ向けて移動していったという東漸の道筋を追いかけてゆくと、それが弥生文化のたどったルートと似ていたことに気づく。新羅から渡来したとされる出雲人は、現在の島根県の海辺から山岳地域にかけての場所に定住することになった。それが出雲国の始まりだ。一緒に渡ってきた製鉄族とその守護神を司る神官たちも傘下の系列職員のようなものだ。巫女もいただろう。古代大和の三輪付近にいた巫女のひとりが太田田根子。彼女は、やがて瀬戸内海を西から移動して大阪湾に上陸し大和へ侵入した渡来人たち人たちの主導者だったろう。

ところで穴栗郡山崎のことになる。ぼくにとって思いで深いところだ。むかしいた会社で地方に工場を分散する計画がスタートした。その場所として西日本では九州の熊本と近畿では兵庫に置くことが決まった。当時、国土計画プランナー下河辺淳による全国総合開発計画が動きだした最中だったが、兵庫県ならここだ、という意見があり結局決まったのが山崎町だった。自民党議員で三光汽船の社長、当時の郵政大臣河本敏夫から頼まれて土地を買ったのだった。中国自動車道計画ができる以前で、なぜこんな辺鄙な場所を選んだのか、社内でも疑問視されたがその後、結果的には、この二つの工場立地は山紫水明の場所で半導体や通信機器の生産に適していたことが分かり、先見の明が証明された。
その河本敏夫だが、彼の経営的勘がこの土地柄を象徴しているようだ。河本は、旧制龍野中学から旧制姫路高校を首席で卒業するも、マルクスと反戦主義に傾き退学させられる。職工生活を送り日大へ入学、在学中の戦前、義兄らと三光汽船を設立。戦後間もなく兵庫4区から立候補して当選、連続17回当選。政策通、経済通で個性派政治家だったが、1996年47年の議員生活を終えた。個性が災いしてか晩年は不遇だったが天賦の才の持ち主だった。

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