2008年05月

2008年05月29日

水系 4泉州は中国と日本にある地名だ。

 中国の泉州は、東シナに面した福建省の大都市であった。古くはアジア、インド洋までの広大な海域を交易を通じて繁栄した港町である。

 マルコポーロは『東方見聞録』に、「アレクサンドリアと並ぶ世界最大の港」と書いている。宋・元の時代、泉州から絹や茶が中近東から、ヨーロッパにまで運ばれ豊かな財を成した。中国の内陸世界とは異質の国際都市として栄華を誇ったが、今はその面影がわずかに残るのみだという。
 
 なぜ日本にも泉州があるのか。こちらは和泉の国、泉州。
それをたどれば古代、本家である中国福建省の泉州から大阪に移住した集団がいた。福建省の出先である倭(和)の泉州、それをだれかが「和/泉」と名づけた、とぼくは想像する。

「住吉祭礼屏風図」南蛮人の仮装をする人と堺の町を描いた絵(一部分)堺市博物館かつての堺も南蛮貿易で賑わう湊だった。ヨーロッパやアジア諸国からの異国人が行きかい、そのムードは本場中国の泉州に似ていたとおもう。

 さらに倭寇の本拠地は中国大陸の沿岸で、泉州付近からも倭寇の船が日本の海域にも出没していた。その倭寇の血を引くグループが堺にもやって来たとしてもおかしくはない。

 岸和田のダンジリ祭や野球の清原選手の出身地が泉州と聞けばなるほどと思う。気性の荒っぽいところ倭寇の末裔らしく合点がいく。中国の泉州も日本の泉州も海洋交易の発祥地だし、どちらも言葉の抑揚が似ている。

 飛躍するけれど大阪人のルーツは福建省から蘇州にかけての中国南岸ではないかと思っているが、以前にブログでも書いた仮説だけれど、実感的に真実味がありそうなのだ。

 堺の市役所21階に360度ひらけた展望室がある。ここから泉州全体が一望できる。堺がどういう位置にあるのか、町がどう発達したのかが景色をみながら分るようになっている。
  
 西が大阪湾だ。旧堺港のあったところがわずかに見えるが、説明員の人に言われないと判別できないほど建物が込み入って分かりにくい。昔は海がすぐ近くまで迫っていたが、戦後、海岸を埋め立て新日鉄などが進出し堺臨海工業地帯となってしまった。たしか大リーグに行った野茂英雄は新日鉄堺のピッチャーだったなあ、と彼の腰周りの偉大さが浮かんできた。昔見た煙突が消えている。その新日鉄堺工場跡も近々のうちにシャープの新鋭工場に変るらしい。「鉄は国家なり」とは爛熟した経済大国の象徴的用語だったが、その変遷を目前にした風景なのである。

 海に向かって右手に大和川が流れ込んでいる。ここが摂津と和泉の境界らしい。昔から大和川は何度も川の付け替えがあったので境界はどのあたりだったか定かではないらしい。堺の意味は、「摂津・和泉・河内の国境」にある場所から付いた名前だという。三国ヶ丘高校の出身の友人がいたことを思い出したが、校名の由来はそこからなのだ。

 左手の遠くが和歌山方面で、金剛・葛城の山々が連なっている。東北の方角に小さくとがった山がみえ、それが二上山だ。二上山とこちら葛城山の中腹にかけて竹之内街道が通じている。

 そもそも堺の沿岸は4、5世紀頃から開拓されてくる。その最初の地域が現在の天王寺から住吉にかけての上町台地であった。それ以前の堺付近は、大和川河口が氾濫する葦原の大湿原だったろうか。
 上町台地には大昔からの住吉神社が応神天皇の母を祀り、その地べたの続きは系統がおなじで仁徳天皇に関係深い百舌鳥の土地となる。その昔、大阪湾をやってきた船から標高差36メートル、幅400メートルでに横たわる巨大なマウンドをランドマークのように見ていたにちがいない。
 近畿の古代史を考えるとき、大阪湾から畿内に向けてのアプローチは船からの地勢的視座から把握することが必要ではないかとおもう。

 さきの竹之内街道は、堺へ陸揚げされた外来の産品を大和へ運搬するルートで日本最古の国道である。だから瀬戸内海と大和を結ぶ最短の古道ということになる。途中に聖徳太子の墳墓や「近つ飛鳥」と呼ばれる奈良の飛鳥より古い古代集落を経由している。その街道のスタート地点は今の堺市内、開口(あぐち)神社のあたりだと聞いた。大和と外国を結ぶ接点、開口集落が今日の堺の原点となるのか。それで大阪湾の守りのシンボルとなる神様をそこの社に祭ったのだろう。

 そういう海からの目線で堺を考えたい。そうすることで大阪湾の沖から近畿全体のランドスケープが見えてくる。大阪平野から奈良、京都のずっと奥までの地理的なひろがりが把握でき、泉州堺という場所が東アジアや中国南部の海洋都市と手をつないでいたであろう風景が立ち上がってイメージされてくるのだ。

 例えば、中国大陸から瀬戸内海を移動してきた船から見える風景はどうであったか。右手には紀州の山、その左へ視線を移すと葛城金剛の山並み。振り返った左手、西の方角に六甲から摂津池田方面の山々が、そして正面には高槻から茨城、大山崎付近の小高い山容。そのあいだが少し空白で、その奥が山城、すなわち京都へと入り込む大阪湾の入口が待っている。そんな空間的ナビゲーションは昔の船乗りが得意だったはず。

 外来の船だとすれば、便利な大和川河口へと向かったであろう。そこには中国江南の泉州と似た港町、堺の集落があり、降ろされた産品はそこから最短距離で大和に運ぶことが出来た。
 水利を使うなら大和川を遡り泉南の奥まで船で運ぶ。その先は生駒山と葛城山の間を抜け大和盆地に至る。そこは奈良の中心地である。中世の13世紀ごろから橿原の今井の庄には流通業者が待ち構えていたのだ。

 つまり、昔から今井町は大陸の物資が集散するところだった。古代の隋や唐との交流が頻繁だった大和文化の裏側を支えた場所もこの付近ではなかったろうか。
 大和川をさらに遡ると初瀬川となる。桜井から名張へと山あいを流れているが、そこまで行くと船から陸の運搬になる。今井の庄の商人たちは川沿いを名張から伊勢方面へと進んでいったようだ。

 日本の歴史では、当時生きていた圧倒的多くの普通の人間、その衣食住には興味がないようで、ほとんんど語ろうとしていない。どんな産物や食べ物、情報があって、それがどこから運ばれ、どこに流通倉庫や情報センターの機能があったのか、などには触れようとはしない。
 そんなことに疑問が起こってくるのもランドスケープ的な見方だからだとおもう。

次回は、その橿原の今井の庄と堺の関係について。




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2008年05月18日

道路からのランドスケープイメージ前回も書いたが、幕末の会津は二つの「忠」の間で苦悩した。その結果、主君への忠に殉じた白虎隊は散華し、会津藩は逆賊となった。

この士魂の発揮は、すでに遡ること「忠臣蔵」にあった。そして素行の影響深いものがある。

素行は、時の藩主保科正之によって江戸から赤穂に流される。その赤穂藩に、後に家老となる大石蔵之助がいた。素行は若き蔵之助に直接教育を行っていたのだ。素行が許されて江戸に帰るころ(1675年)、蔵之助17歳でありおそらく蔵之助への教育期間は長くはなかったろう。でも素行の赤穂在留期間は前後19年にわたっていたから、その間蔵之助の祖父、大石良欽や後の義士原惣右衛門らも素行の指導を受けたはずである。


「忠臣蔵」の吉良邸討ち入りは元禄14年暮(1701)。白虎隊の自刃はその166年後のこと。この二つの出来事に山鹿素行が深く絡んでいたのだ。さらに飛んで幕末の長州では吉田松陰が素行の山鹿流軍学を学んでいる。

ぼくが八丁堀のことを調べていたとき、荻生徂徠の旧宅跡が茅場町にあったという説明板を見かけた。
徂徠の赤穂義士と吉良家に対する考え方はどうだったのだろうか。彼は、まず赤穂浪士に対しては「赤穂浪士が主君のために復讐するのは、自分を正しく律するやり方であり、それ自体は義に適うものである」とし、一方の吉良家に対しては「実父が討たれたのに、手出しすることを止められた上杉家の願いは、そのことで満たされるだろう」と両者にとって武士の忠義に叶う道である、と判断した。その提案が幕府に受け入れられたようである。まだ儒者が武士の倫理観に筋を通すことを言える時代のことである。

このときの山鹿素行の見解を聞ければよかったが、すでに亡くなっていたから分からないけれど、元禄の世に武士の「義」の有り方を見せつける場面として絶好の機会だと思ったのか、荻生徂徠の説は理に合っていた。
後世になって「忠臣蔵」が庶民の勧善懲悪の心理と結びつき、歌舞伎や映画になって広まっていった。情報公開など無縁の時代だったから世間の人気を取るにはどちらかを悪者にしたい、その相手が吉良上野之介だった。今の世なら、吉良の立場にも立ってあげたいところだが、当時はそんなことはどうでもよかったのだろう。


歴史というのは不思議なものである。方や播州赤穂、方や会津若松、時代と場所を超えて全く別の士魂が山鹿素行の教育によって実践されたと見ることができる。

それにしても会津という場所は不思議なところだ。たとえば、会津若松にある大塚山古墳のことは興味深い。この古墳、古代東北の歴史を書きかえたという問題の古墳で、豊富な副葬品が発見されたことから、四世紀後半に大和と同じ文化をもった集団がやってきたことが証明されているらしい。

地勢的には東日本の、それも古代の畿内政権からみたら陸奥という化外の地域。そこに今から1500年も前に東西融合の文化ができていたのだろうか。

そう考えると会津は徳川時代のはるか千年も前から、西日本の人や思想が浸透していたのかもしれない。会津人のDNAの中には明治維新まで東西の交差する土地で、長い時間のなかで葛藤を繰り返してきた、それだけに末孫たちの結末はことさら激しいものがあった、と受け止めることもできる。

思想史家の山田宗睦は、「思想の道」が日本列島のいたるところを走っていた、と彼の著書で書いている。その時代を生きた人びとの精神の通い道があって、それを道の思想史として捉えている。人々が通過したその経過地点に日本人の思いが残され継承され“経絡”のような思想スポットを形成していった。

ある一時期を切り取ってみれば、その経絡に当たる場所に人物や出来事が浮かび上がってくる。その一人が山鹿素行であり、その影響を受けた大石蔵之助と赤穂四十七士たち、さらに幕末の会津の武士で斗南藩に移り、北海道余市に渡って生れた医学生小池毅。一見無関係の土地に、地下茎のように結ばれた思想があってあるときふっと顔を見せる。会津スピリッツは、思想のハイウェイを奔っていったようである。(了)

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2008年05月11日

カードボード チェア山鹿素行は元和8年(1622)、会津若松に生まれる。
素行の父、六右衛門貞以は、伊勢亀山藩の家臣であった。伊勢亀山は会津藩の創始者蒲生氏郷の属領地だったことから、会津藩とも関係していた。貞以は慶長年間、故あって亀山を離れ旧知の蒲生氏郷の下臣を頼って会津に来たのである。

素行はこのような縁から幼年時代を会津で過ごすことになる。
6歳の時に父と共に江戸へ出て、9才で林羅山の門下に入った。素行は実践的な孔子の教えの原点に帰ることを主張し、古学の基礎となる学識が次第に認められるようになった。

当時、素行の4歳下に山崎闇斎がいた。闇斎は兵庫県山崎町の出身。はじめ僧侶として比叡山で修業。そのご朱子学を修め京都で子弟の教育にあたっていた。その学問は高遠、厳格で会津藩主保科正之の信任が厚く、藩の顧問儒者となった。だが会津には来ていない。
 
素行は31才の時に江戸で「聖教要録」を出版する。それがもとで素行は突然、幕府から播州赤穂へ流されてしまう。理由は官学である朱子学を公然と批判したことによるものだった。当時の会津藩主、保科正之は徳川家綱の後見役として幕政に参与していた。保科は側近の闇斎と相談して素行の追放を決めたようだ。

素行は64年の生涯のうち19年を赤穂で過ごしたが。その赤穂時代の初期に『武教小学』を書く。朱子学の基礎は中国、朱子の『小学』だが、素行はそれにあきたらず日本における武士の日常心得となるべきものとして、士道の基本『武教小学』を著すと日本中に流布され素行を慕う者が増えていく。
そのなかで重要なことは「君父の温情」の解釈にある。この君父の「君」とは天子を意味している。なので会津では山鹿素行を言うことは禁じられていたらしい。

ところが『武教小学』が刊行されて149年後、会津日新館は、その武教小学の要旨を丸写しにした『童子訓』を作る。しかし、そのなかで「君父の温情」は削除されている。その代わりに「父母の機嫌」と言い、故意に「君」を除いている。ということは
会津では表面にこそ出てはこなかったが、素行の思想だけはひそかに百年以上にわたって浸透していたということになる。

会津藩では朱子学の「君」(藩主)と、素行の「君」(天子)の間で苦悩しながら、二つの君への忠を全うすることが真の武士道だと教えられてきた、といえる。
その矛盾が最も激しく表れたのが幕末だった。片方の君(天子)を守るために京都守護職となった松平容保、そしてもう一方の君(主君、松平家)を守った白虎隊の存在である。そこから戊辰の悲劇が起こった。結局、白虎隊は後者の君、すなわち主君、松平家への忠を全うして散華する。会津は、二つの君への至誠を貫くなかに憤死したのだった。純粋さ、愚直さゆえの悲劇といえるかもしれないが、だからこそ今日まで人の心を撃つのではないか。

歴史の綾は数奇だと思うのは、その会津から秩父宮皇妃が出ている。会津藩主松平容保の4男、外交官の恒雄の長女勢津子だ。この皇室入籍で会津の人々は長年の鬱憤を払ったといわれる。勢津子の名前、もとは節子だったが、秩父宮雍仁親王の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」と同名だったため、天皇家ゆかりの伊勢の「勢」、松平の会津から「津」をとって同名異字にしたという。

もう一つ、山鹿素行の思想が思わぬところに影響を与える出来事が起こった。時代はずっと遡った元禄時代のこと。 (つづく)

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2008年05月07日

「経験とモラル」 網戸武夫会津の領地支配者は何度も入れ替わっている、ざっとこんな流れだ。

蒲生1→上杉(越後から)→蒲生2(宇都宮から)→加藤(伊予松山から)→保科・のち松平に(出羽最上から)→明治維新

最初の会津支配は、秀吉の奥羽仕置によって白河、石川、岩瀬、安積、安達の地域が蒲生氏郷に与えられたときからである。

その後、伊達政宗の手を離れた田村、信夫、伊達、刈田、長井の諸郡が氏郷の支配地となって90万石の領地大名となる。本拠地は黒川(会津若松)となった。蒲生氏郷は文禄4年(1595)40歳の若さで死去。その子の秀行が後を継いだがお家騒動があり3年後、宇都宮に18万石で転封される。

この蒲生秀行の後に会津に入ったのが越後からきた上杉景勝で、越後に持っていた上杉の領地を併せ120万石の大領主になった。

この上杉もわずか3年で関ヶ原の戦いを経た後,慶長6年(1601)米沢に去る。代って再び蒲生秀行が宇都宮から復帰して会津60万石に納まった。秀行の妻が徳川家康の娘だったので関ヶ原の戦での論功が効いたようだ。

そして秀行の後の忠郷に子供がないまま死亡したので寛永4年(1627)伊予松山から、勇名を馳せた加藤嘉明が来ることになる。

その次、加藤の後に会津に来たのが保科正之だった。寛永20年のこと。正之は将軍秀忠の4男で保科家の養子になり信州高遠、出羽最上を経て23万石で会津に封じられた。藩主正容(まさかた)のとき「松平」の姓をもらい以来、幕末の容保まで松平が続いた。

江戸幕府の巧妙な政策に幕藩体制があった。徳川幕府と藩(大名)による二重の領主権力が支配していた。幕府は全国の土地と人民を支配する領主であり、藩は将軍の土地・人民を表高として恩給され全国に分権国家を形成していた。
徳川家が戦国以来の領主間の権力闘争に勝ち抜き、秀吉に従っていた大名を外様として服従させることが徳川幕府統制の最大の眼目だったようだ。

慶長8年の江戸開府から明治4年の廃藩置県までの約270年間、中途廃絶を含めると藩の総数は500にのぼる。それらの藩が入封、移封を頻繁に繰返し、そのつど藩主と部下たちの移動が起こる。絶えず日本各地を武士が移住して歩いていた。のみならず城下町の文化、習慣もそれに合わせて他の町へ運ばれていった。

ちなみに最も多い藩主の交代劇があったのは保科正之も行ったことのある出羽国山形藩で、最初の鳥居氏から最後の水野氏まで12氏を数え、左遷大名の藩となった。さしずめ、いまなら企業の買収や合体によって会社丸ごと移動、移転するようなものでサラリーマン社会にも共通していると思える。

たしか記憶は定かではないが、佐倉藩の藩主入れ替わりが13回で最大ではなかったかと思う。この「藩の移動史」には興味深いものがあって、いつかコンピュータで藩の移動マップが作れないかと考えたことがあった。藩主が交代すれば、それに関係して出入りの先々で相互移動が起こる。また一旦移動してから次にどこへ移ったか、玉突き状態になってそのシフトが一斉に替わる、その時系列のマップというのもできると面白い。

ここで、最初の「日新館」のことに話を戻そう。

日新館の教育は藩祖氏郷の遺訓を継承している。
「文」は漢学を主とし、天文学、蘭学、化学(舎密せいみ学)など。今の小学校から大学までの教科があったという。
「武」は兵学、剣術、槍術、弓術など。その水準は当時の藩校でも群れを抜いていたらしい。

日新館は5代藩主松平容頌の時代に完成した。白虎隊自刃のときが日新館創立65年目の年にあたっていた。館の学問の中心は他藩と同様儒教で、注目すべきは医学だった。医学寮という医学専門学校がありさらに内科、小児科、外科、痘瘡科、薬科(本草科)のほか蘭学科が置かれた。オランダ語の原書を使った医学、軍事、製薬まで教えていたという。軍事学を教えていたのは全国藩校の中でも2,3校ぐらいだった。

日新館には「六行」(りくぎょう)と「令条」という規則がある。六行とは6つの基本道徳のこと。令条とは18条からなる礼節重視の人間教育の原則のことで朱子学の基本とされた。
日新館に入学できる年齢は10歳からだが、什という組織を通じて幼児教育は6歳から始まる。この幼児教育のなかの「童子訓」というのが重要で、この基本は「三大恩」の理解ということで、「父母」「主君」「師」の恩をいう。

著者の小池明さんの母方のお祖母さんは会津藩士の娘だった。ときどき会津落城の時の話を聞いたそうだ。記憶している話として、「あるとき6歳の侍の子が柿の実を採ろうとして落下した。そのとき運悪く脇差が刺さって重傷、やっとのことで家にたどり着く。迎えた母に向かって「殿の御前でなくて死すことは無念でございます、と言い終えて息絶えたという」幼時にしてこのような意識を持っていたとは恐るべしである。

次回からようやく山鹿素行のことになる。(つづく)

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2008年05月03日

会津若松 日新館 什の掟会津の会津たる由縁はどこから来ているのか。
去年のこと,会津に行ったとき、うまい蕎麦屋があるのでいきましょうと昼食に出かけた。その蕎麦屋、わざわざ東京からも食べに来るという知られた店らしい。

あまり食いものにはこだわらないぼくだが、蕎麦だけは味がわかるつもりなので「これはさすがですね」とか言いながら啜っていると、隣の席にいた白髪の先生風らしき方が若い男性に話しをしている。

その中で“にっしんかん”と言うのが何度も聞こえてきた。青年は身を乗り出して聞きいっていた。こちらも4人づれだったので話はそれっきりなのだが、会津には数回来ているのに一度も“日新館”には行っていないのを思い出した。そのときも行かずに帰ってきてしまった。

それで小池さんから頂いた『会津医魂〜戊辰戦争と小池毅の生涯』を読みはじめたら、冒頭に「会津藩と日新館」が出てきた。

つまり、“会津スピリッツ”は藩校日新館に源流があること。白虎隊は隊士全員が日新館で学んでいたが、日新館精神が強烈に表れたのが白虎隊の最期のときだという。鶴ヶ城を囲む炎を望みながら飯盛山で壮烈な自刃を遂げた19人。そのときの凄惨な自決の様子が、ただ一人奇跡的に救助された白虎隊隊士 飯沼定吉によってはじめて世に知られることになった、と書かれていた。
もしや蕎麦屋の白髪先生が話していたのも、そのことだったのかもしれない。

会津若松 日新館 半成人式小さいときから集団教育で自然のうちに会津藩士の基本を教えられ、子供、年長者それぞれのレベルで覚えていくのが藩の方針だった。日新館の至純のエッセンスを幼年期から教えたわけである。

幼年者10名を一組としてその組織を「什(じゅう)」といったらしい。「什の掟」七ヶ条がある。


1 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
3 虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
4 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5 弱い者をいじめてはなりませぬ
6 戸外で物を食べてはなりませぬ
7 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです

なるほど、今の世の中が狂っているのは当然だなあ、と思う。

会津落城のとき、婦女子の活躍は会津の家庭教育のしからしめるもので、白虎隊が出陣するとき、わが子を叱咤激励して送り出したのはその母親たちだった。

これを封建的とか古いしきたりだ、というのは簡単だが、ではそれに代る何かを現代に生きる我々は見出したのかどうか。人間にとって大事なこと、生きることの上で人間の芯になるもの、それを身に着けずに大人になるまで、いや死ぬまで、その一番肝心なことを知らずに終ってしまうのではないだろうか。

“ならぬことはならぬもの”の教えは教育以前の人としての道のことを言っているのだろう。教育という言葉すら邪魔になる。(つづく)

 上の写真は「半成人式」。
 「日新館大成殿において10歳の少年少女の立志を願う日新館独自の儀式です。次世  代を担う少年少女に歴史を振り返ってもらうと共に,10歳という節目の歳に志を  たてることができるならば、どれほどその人の人生にとって価値あるべきものと  なるか、そんな願いを込めて式を執り行います」(「日新館」のURLより)





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