2006年01月19日
上海の平野勇造 その5 帰国した勇造

勇造はサンフランシスコでカッペレッティを迎え、初めて建築の師を得てその世界を知った。そのとき日本の建築事情や、アーキテクトのスピリッツのことも聞かされただろう。
どんなことを聞かされたのか。イタリア系の建築は日本では主流にはなりえないこと。欧米と日本では建築に関する意識が違うこと、もし日本で行き詰ったら早くに見極め自分の環境を変えるほうがよい、との助言を受けた。
勇造は帰国後、東京で建築事務所を開き仕事を始める。ところが彼の作品とされる建築物がほとんど確かめられていないのはなぜなのか。
芝の愛宕山五重の塔と丸ビルの設計を行ったと言われているが、実際にどのような立場で関与したかについて検証されていない。

『写された港区』(港区みなと図書館・昭和56年)には次のように書かれている。
「明治22年の末、愛宕館という旅館兼西洋料理店が開業し、そばに五階の愛宕塔が建てられた。八年後に愛宕館のほうは廃業したが、愛宕塔だけは大正まで残った。高さは十丈、煉瓦作りで、石柱八本で支えてあった。形は八稜、中に螺旋形の階段があり、塔の上に備えつけの遠眼鏡をのぞくと、遠くは浅草の十二階あたり、眼の下は芝の海岸で潮干狩りしているのが見えたという。・・・関東大震災まで残っていたというから、浅草の十二階と同じ寿命だったことになる。」
「愛宕塔」のことは、ぼくも岳父(中西祐一)から“平野のオジサン”が作った、という話を幾度か聞いていた。そのときは「愛宕山の五重塔」と言っていた。五層の塔のことを当時はそう呼んでいたかも知れない。
では実際にだれの設計によるものだったのか。(「館」と「塔」があるので少々ややこしいが・・・)
愛宕館について村松氏は、
「彼(伊藤)が設計したほかの建物のように<計画>という設計を意味する言葉がその冒頭にない」と書いている。また伊藤為吉は自分が設計したとは表現をしていない。
また、「不思議なことに自慢話の多い為吉の<手記>に、この愛宕塔にふれたものが皆無なのだ。何かの事情によるのかも知れない。」
とも村松氏は言っている。
勇造と伊藤為吉はサンフランシスコ時代、一時カッペレッティの建築事務所で一緒に仕事をしていた仲間でもあった。これは推測だが、先に帰国した伊藤は、在米中に愛宕館の設計プランを勇造に相談していた。そのプランを持って建築に取り掛かり、勇造の帰国する前年、明治22年(1889)に竣工させた。
あるいは、こういうことも推定できる。堺家の資料では勇造が「愛宕山の五重塔」を設計したのは、帰国した翌年の明治24年(1891)となっている。先に伊藤為吉が愛宕館を建てた。その後、勇造が帰国してすぐに開設した自分の設計事務所の初仕事として、こんどは愛宕塔を設計した。上記の資料では、愛宕塔がいつ建てられたのかはどこにも触れていない。つまり「館」と「塔」とは別々に建てられたのだろう。だから村松氏が言うように伊藤為吉は「自分の設計」とは言えなかった。そういうことではなかったか。
ぼくは建築の専門ではない。明治初期からの建築に関することをそれなりに調べているがその全体風景の中で、どうも勇造の姿がハッキリと見えてこないのである。
ぼくは想像する。
この背景には師であったカッペレッティの影響を受けた勇造作品が、コンドルのイギリス系を主流とする「明治期建築モード」が席巻している状況下では、正当な評価がされなかったと。
あるいは、カッペレッティが来日当初味わったようなことはなかったか。著名な建築において隠れたところで、それなりの活躍があったのか、その辺りも分かっていない。
いずれにしても勇造にとって、帰国後の10年間は「傍流のアーキテクト」という位置に甘んじていたのかとも思う。
こんな風に見てくると、若くして欧米の流儀を身につけた勇造にとって、その感覚を開花させようとしたのは、また別の方向だったかも知れず、それに向かって羽ばたくまであと数年の時間が必要であった。