最初のタワー建築

愛宕塔平野勇造が設計し、斬新な建築物として当時人気を集めたものに、東京芝 愛宕山の「愛宕塔」がある。

見晴らしのよい愛宕山の上に明治23年(1891)にできた五層のタワー。その展望台の望遠鏡から北東方面を眺めれば浅草の凌雲閣、通称「十二階」が見えた。凌雲閣は愛宕塔ができたすぐ後に造られ、浅草奥山という盛り場だったこともあり「浅草の十二階」の愛称で呼ばれ観光名所となった。こちらの設計は英国のお雇い外国人バルトンで、塔の高さは52メートル。浅草のランドマークになった。2階から7階までが物品販売所、その上に展望室があった。

勇造の作品「愛宕塔」の上部にほどこされた装飾には、彼の師カッペレッティの影響がみられる。これは推測になるが、勇造がサンフランシスコでカッペレッティの事務所にいたとき、北イタリアの城塞を思わせるロマネスク様式の遊就館の図面を見せられた。そのイメージがデザインに反映しているとみてよい。

勇造が帰国したころから、日本では時計塔や高楼建築(タワー)への興味が起き始めていた。たまたま勇造は、サンフランシスコ時代に欧米のパノラマ館を知っていてそれをヒントにして愛宕塔の設計を考えた。この設計は螺旋状に塔内を登ってゆくもので、浅草の凌雲閣(通称、十二階)も同じスタイルをとっている。

「パノラマ」にしても「塔」にしてもその発想は「物見」であり「展望」である。西洋化のシンボルとして時計を建物の上部に据える形態が好まれるようになった。時計台は、町や集団組織における時刻の共有という意識の芽生えを起こす。欧米で生まれた「主観」と「客観」の分離といえる。時刻の共有観念と同じように、日本では明治初期になって初めて、人々は俯瞰した風景に意味を見出すようになる。パースペクティブな見方、描き方を身につけることになった。

カッペレッティと親しかった高橋由一は、それ以前の慶応2年(1866)、ワーグマンに指南を受けるべく横浜に出向いた。その仲介者の一人が岸田銀次(後の吟香)だった。由一の代表的作品として「麹町三番町風景」「丁髷姿の自画像」がある。その後、藩の遣清貿易使節団の一員で横浜を出発し、上海へ。長江を遡航し、鎮江、蘇州をめぐり各地の画家や文人たちと交友している。上海では岸田吟香と会っている。

由一は早くから「螺旋展画閣」を構想していた。ワーグマンに西洋画を学んでいた影響によるものだろう。「展画閣」とは美術館というよりも、むしろ油画を展示した博物館、すなわち「真画」と言われた油画は、それを描くこと自体が発見であった。真実を見出し描かれた「真画」を通じて、自然や文化の展示・公開する場が展開閣のコンセプトだった。これ、かなり早い発想で実際に初めて日本に本格的な博物館ができたのは明治15年(1883)だから、展画閣を本来の「絵画専門の美術館」と考えれば由一の発想はかなり早かった。

日本で美術専用の陳列館ができるのは明治42年(1910)、表慶館(現国立博物館内)が最初である。その表慶館にしても、陳列作品の多くが明治以前のもので、同時代の美術品を紹介する美術館ができるのは大正14年(1925)東京府美術館が嚆矢とされる。それとても単なる陳列所に過ぎなかった。

油画による高橋由一の「展画閣」のプランのほうが現在の美術館に近いものだった。何事もそうだが、早すぎては普通の人はついてくることができない。

平野勇造は明治23年(1891)に帰国した。彼は、米国の当時の最先端の建築や土木技術、産業に精通していた。そしてサンフランシスコで当時流行していたパノラマやジオラマなどの表現手法も持ち帰っていた。彼が、高橋由一や矢田一嘯と会い、伊藤為吉との再会で、話に出たのはタワー建築でありパノラマ機能を持った建築だった。その米国流が芝の愛宕塔の設計にも反映することになった。

ところで、もし靖国神社の境内に「螺旋展画閣」が建てられたとしたら、NYのグッゲンハイム美術館のように、螺旋状に上りながら作品を見ることのできる展開となっただろう。そして高さ35メートルの高楼が建設されていたなら九段の高台にそびえる、東京のアート的名所となったことだろう。

愛宕塔に隣接して建つ「愛宕館(ホテル)」だが、設計は伊藤為吉だとされている。これに関しては、勇造より一足早くサンフランシスコから帰国した伊藤が、先に愛宕館を建てたということが想像できる。伊藤為吉はカッペレッティを師としていたとされている。もし勇造と同様に師として仰いでいたなら、この建物は二人の了解のもとでの建築だったと思えるが、どうだろうか。

伊藤為吉の伝記『やわらかいものへの視点』(岩波書店)のなかで、著者村松貞次郎は、「愛宕館(ホテル)」と「愛宕塔」についての事情について触れている。
村松は第三者の言っていることとして「愛宕館も愛宕塔も伊藤為吉の設計である」となっている。だが、自慢話の多い伊藤為吉の『手記』に「愛宕塔」の設計に自分が関わった、とする記述が出てこない。また「愛宕館(ホテル)」については、普通、設計したものには「計画」と書くところを、「調整」した、とになっている。だとするなら、そもそも「愛宕館」自体に関しても誰か別に設計者がいたということにならないか。これも謎となってくる。


愛宕山からの眺め 明治初期愛宕山からの眺め。明治初期






地図 愛宕山付近愛宕山付近の地図。愛宕塔と愛宕館(ホテル)の表示がある。大正10年。

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