彷徨える豊田佐吉 〜蕨町訪問のナゾ〜 潮地ルミさんからの手紙(その1)

2007〜008年にかけて紹介した「彷徨える豊田佐吉」は、蕨市に在住の潮地ルミさんとの出会いによって書くことができた。その潮地さんから久しぶりに手紙を戴いた。
それで知ったのが、蕨市と湖西市が災害時の相互応援協定を結んだということである。
豊田佐吉が昔の蕨町にやってきたことは、湖西市でも知らなかったが、蕨の市長さんがこのブログを読んだそうだ。それで潮地さんから手紙をいただいたのである。


◆豊田佐吉の来蕨について(ルミのひとりごと) ◆2013年2月 潮地 ルミ

2012年8月蕨市は静岡県湖西市との間で、災害時の相互応援協定を締結した。湖西市は1867年豊田佐吉が生まれ育った土地(山口村が後に湖西市の一部に)である。そんなことから、豊田佐吉が昔蕨に来たことについて知りうる事柄を現在の私の可能な範囲で綴っておかなければと思い、筆をすすめた次第である。

豊田佐吉の来蕨については、昭和40年代金子吉衛氏に依頼され、夫婦で『蕨綿織物業史』の執筆を始めた際、「明治20年代3回に及ぶと推測される豊田佐吉の蕨町来訪について」記述する予定であった。だが十分な調査研究ができず発表できるまでに至らなかった。

しかし悦三郎は「明治二十四年ころおよび二十七年の豊田佐吉の蕨町来訪」と称して一応原稿は残していたのだった。(原稿は、
その2で掲載)悦三郎没後、私はその後の調査研究を放棄していた。ところが全く思いもかけず2007年、横浜の山口勝治氏から佐吉の蕨来訪についての問い合わせがあり、後日私は山口氏とお会いして悦三郎の原稿をお見せしたのだったが、その後、私としては結論が出ないままこの件については打ち切りと思っていた。(その内容は山口氏のブログを参照)

ところが2012年8月湖西市と協定を結んだ蕨市役所では、山口氏のブログを見て9月初旬市役所広報課の飯田氏から私に問い合わせがあった。
そこで再び(?)私は蕨市のために多少ともわかる範囲で「佐吉の蕨来訪」について書き残しておかなければ・・・と思いたったのである。
              
2012年秋、表記の件について私が考えた(思った)ことは、悦三郎が残した原稿とは多少異なっている。それはその後の各地の研究や私自身の見聞等によるものであるが、以下にそれを綴ってみたい。そしてまた今後多くの学者、研究者のご意見、著書などにより真相が紹介されることを切に望んでやまない。


一、豊田佐吉の第1回蕨訪問について

佐吉の第1回高橋新五郎家訪問は明治23(1890)年彼の豊田式人力織機発明以前だったのではないかと私は考える。
それは明治19年の上京の時ではなかったか、或いは22年か?(「豊田佐吉伝」p65からの類推)
23年の上京の際とも思われたが、
‥時の佐吉の意欲は機械の方に最重要視されていた。
23年の内国勧業博に、蕨では他家は出品していたのだが高橋新五郎家は出品した形跡がなかった。(高橋家当主高橋慶助氏による、また県立文書館の文書等にも見当たらない)
等の理由により23年ではなく、それ以前だったのではないかと考えるのである。
また悦三郎は24年と考えていたが、「豊田佐吉伝」によると、24年佐吉は特許権獲得に奔走し、同年5月14日特許権を得ると知人の勧めによって発明織機4,5台を千束村に運び機屋を開業、関東縮、東京双子などを織り出したという。しかしながら、これらの織物はそう簡単に織り出され、商業化できるとは考えにくい。なぜなら、織りの技術的なことから考えて短時日のうちに商品として織り出すことは到底不可能だと思われるからである。
また第一に生産に必要な資本は?そして織工(女工)の採用、技術習得、製織準備工程等についても疑問が多い。
さらにその間、佐吉はたみと結婚し27年には長男が生まれている。この状況の中で佐吉が高橋新五郎家に泊まり込みできたとは到底考え難い。(一泊くらいなら可能性も・・・?)
そしてこの時期佐吉は、より進んだ人力織機の発明・工夫・改良に頭を傾けていたと思われる。とすればこの段階で7代目新五郎と話し合い、または意気投合したとは考えにくいのである。
したがって私は佐吉が蕨に来たのは23年以前だったのではないかと考えるのである。
(注 高橋家は18年に上野共進会出品時「機業伝記」を差し出しているので佐吉は何らかの方法でそれを見ていたのかもしれない。また「二子織」を盛んに織らせ売り出した川越の商人中島久平から高橋家について聞き伝えられたとも考えられる。むしろこの方が大きいのでは・・・?)
これらのことよりもさらに重大なことは「豊田佐吉伝」の著者がこれを書いた根拠、出典、聞書き等は何であったのかということである。
佐吉が浅草千束に機屋を開いたのは知人の勧めだったというが一体それは誰だったのか・・・住所、職業、経歴は・・・?
そして佐吉は本当に関東縮、東京双子などを織り出して東京の問屋、あるいは仲買人等に売っていたのだろうか?
佐吉は単糸の遠州縞の土地で育っている。後に彼の発明した織機では単糸の織物生産だったのでは・・・?
もしかすると、佐吉が浅草千束で始めた機屋は下機屋であり、知人なる人物が親機であったのでは・・・?
等々の疑問が残るのである。しかし残念ながら今の私にはもはや体力上からもそれらは調査不可能である。


二、豊田佐吉の明治27年蕨来訪について

山口勝治氏によると『西川秋次の生涯』という本の中に、アメリカ行きの船の中で佐吉が若い頃の苦労話を青年西川に語るシーンがある。
「・・・できた糸繰返機は寸法通りで見事な出来栄えにうれしくなったという。それを持って佐吉たちは埼玉の蕨で行商をした。初めて商売をして金を頂いたのである。・・・(略)」
また『豊田佐吉伝』には、「陶製枕木の売り込み運動で或る時翁は米次郎、久八両氏と共に上京したが、運動費に窮したので翁は米次郎と二人で蕨町へ出かけた。蕨町は当時桐生・足利に次ぐ機業地で、東京双子が盛んに産出されていたから、二人は此処で糸繰返機を製作し、それを売って運動費を捻出しようという算段であった。」とある。
当時蕨町が桐生・足利に次ぐ関東の機業地であったかどうかは別として、佐吉がかつて塚越の高橋新五郎家を訪れ、蕨町を中心としてその付近の織物生産についてよく知っていた、また明治26年7月に蕨駅が開設され、蕨駅と中山道を結ぶ駅前通りができたり、織物関係業者の活発な動きが起こっていた事などが、当時の彼の耳に入ってきたので、汽車の便を得て気軽に蕨に来たのではないだろうか。
佐吉はその時初めて商売をして現金を得、そしてその発明した糸繰返機はその後の彼の発明の資金となり、更なる発展のきっかけともなったのである。 


*潮地ルミさんからの手紙(その2)へつづく




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