西川秋次の上海

2007年05月06日

「大正9年(1920)極司非而路の2万坪の土地に1万坪の大紡織工場が完成した。
工場敷地は九つの区画に分類し、そこに紡績工場、織布工場を並べた。すべて周囲を煉瓦で囲み、屋根はのこぎり型でスチールを敷くことにした」(『西川秋次の生涯』宮地治夫著)

と、書かれているように、いま見学しているこの構内には何棟もの工場が建てられていたことになる。


旧事務所の見学を終え、振り返ると、構内へ入ってくるときにみかけた工場が見えた。眺めるとノコギリ型をしている。あれが最初につくられた紡績工場の建屋ではないのか。

見学の人たちから離れて、旧事務所のすこし向こうに廃墟のような姿を晒す建物が目についた。そばまで近寄っていった。
外観は破壊がはげしい。壊れた窓枠から顔をいれて中を覗くと、金属の機械部材のようなものが積まれている。奥の暗がりのなかに部品棚が並んでいるのが見える。かなり広いスペース。物置き場として現在も使われているようだ。

この廃屋の倉庫や、さっき見かけた当時の紡績工場も、旧事務所の建造物と同じように保存をすることはできないのだろうか、ふとそんな思いに誘われる哀しい光景なのである。


かつての紡績工場だろうか。
上海 豊田紡織廠 63 旧工場外観 ノコギリ屋根2







廃墟のように残っていた建物のまわりを徘徊する。
上海 豊田紡織廠 63 旧工場外観 旧事務所脇上海 豊田紡織廠 65 旧工場外観 残影上海 豊田紡織廠 66 旧工場外観 残影2








上海 豊田紡織廠 67 旧工場外観 残影3上海 豊田紡織廠 68 旧工場外観 残影4上海 豊田紡織廠 70 旧工場外観 残影6







上海 豊田紡織廠 77 旧工場外観 残影13上海 豊田紡織廠 71 旧工場外観 残影7上海 豊田紡織廠 75 旧工場外観 残影11 







上海 豊田紡織廠 78 旧工場外観 残影14 









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2007年05月05日

事務所の内部に入る。
西川秋次が陣頭指揮をとっていた部屋、がらんとした事務室。
最近までここを使っていたのだろうか、中国企業の会社スローガンや作業指示書が壁に残されていた。

戦後、60年のあいだに何度も内装替えがあったのだろう。むきだしの電設器具の残骸、壊れた蛍光灯。時の長さを感じる。
一階壁面のよごれたシミはとてもアートだ。

上海 豊田紡織廠 42 旧事務所内部 1階フロアを歩く 上海 豊田紡織廠 41 旧事務所内部 1階フロア 扇風機上海 豊田紡織廠 27 旧事務所内部 1階フロア(1)








上海 豊田紡織廠 44 旧事務所内部 1階フロア 壁アート1上海 豊田紡織廠 46 旧事務所内部 1階フロア 壁アート3上海 豊田紡織廠 50 旧事務所内部 1階フロア 壁アート7








上海 豊田紡織廠 49 旧事務所内部 1階フロア 壁アート6 上海 豊田紡織廠 48 旧事務所内部 1階フロア 壁アート5上海 豊田紡織廠 43 旧事務所内部 1階フロアの外 








上海 豊田紡織廠 29 旧事務所内部 1階フロア 窓上海 豊田紡織廠 24 旧事務所内部 階段(1)上海 豊田紡織廠 30 旧事務所内部 2階へ行こう













上海 豊田紡織廠 26 旧事務所内部 階段(3)上海 豊田紡織廠 34 旧事務所内部 2階フロア(窓)上海 豊田紡織廠 32 旧事務所内部 2階フロア(2)








上海 豊田紡織廠 31 旧事務所内部 2階フロア(1)上海 豊田紡織廠 33 旧事務所内部 2階フロア(窓)上海 豊田紡織廠 35 旧事務所内部 2階フロア(蛍光灯)








上海 豊田紡織廠 36 旧事務所内部 2階フロア上海 豊田紡織廠 37 旧事務所内部 2階フロア(電設器具残骸)上海 豊田紡織廠 38 旧事務所内部 2階フロア(電設器具残骸)








上海 豊田紡織廠 53 旧事務所内部 2階フロア 壁アート1上海 豊田紡織廠 39 旧事務所内部 2階フロア(中国語の標語)上海 豊田紡織廠 53 旧事務所内部 1階食堂側出口を見る







上海 豊田紡織廠 61 旧事務所 貼り紙









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長いトヨタの歴史にとって、トヨタ前史ともいえる上海の豊田紡織廠(しょう)時代のことはほとんど知られていない。

その豊田紡織廠の旧事務所が保存されることになり、タイミングよく建物を見学することができた。


豊田佐吉が念願の上海にやってくるのは、大正7年のこと。
蘇州河のほとりに広大な敷地を購入し紡績工場の計画が始まる。中国での第一歩がスタートするのはその2年後。工場が建設されると、豊田佐吉の大番頭といわれた西川秋次が工場の経営を取り仕切ることになった。

それ以来、上海の紡績事業で稼いだ収益は名古屋へ送られ、G型自動織機の開発と織機事業拡大の資金として活かされた。

終戦後も上海に残った西川秋次は、在華紡各社に勤務していた日本人社員を率い、中国政府への紡績事業引渡しと技術指導に尽力する。昭和24年3月、蒋介石の国民政府が台湾へ移ると同時に、秋次らの残留組も日本へ帰国した。

西川秋次の上海時代は約30年つづいた。今回見学したのは、秋次がその間過ごした豊田紡織の旧事務所棟である。

今は中国側の施設となっている工場敷地の一隅にその建物はあった。
赤いレンガづくりの簡素な二階建。廃墟になる寸前のたたずまいで、ようやく来てくれたか、と私たち見学団をむかえてくれた。

旧事務所棟の横に、食堂として使っていたレンガ建ての小棟があった。その脇には時間が止まったように昔のままに残されたトイレがあった。

かつて、工場の正門は蘇州河に面して建っていた。いま、その門はコンクリートでブロックされ塀でふさがれている。
修復の工事が始まっているのだろうか、壊されたレンガやコンクリートブロックが塀に沿って積まれている。


建物のまわりを低徊する。
西川秋次が事務所の出口からひょっこり姿を現した。白昼、そんな幻影を見る事務所の裏庭であった。


旧事務所の周囲を歩いてみる。

上海 豊田紡織廠1 旧事務所全景上海 豊田紡織廠 2 旧事務所 2階の外側窓上海 豊田紡織廠 3 旧事務所玄関の上窓








上海 裕豊紡 4 旧事務所玄関側の上部を見る上海 豊田紡織廠 5 旧事務所 食堂側入口上海 豊田紡織廠 6 旧事務所 食堂との間








上海 豊田紡織廠 6 旧事務所 食堂との間上海 豊田紡織廠 9 旧事務所 トイレ越しに食堂の建物上海 豊田紡織廠 10 旧事務所 男子トイレの表示








上海 豊田紡織廠 13 旧事務所 食堂の屋根庇上海 豊田紡織廠 12 旧事務所 塀と建物の間上海 豊田紡織廠 15 旧事務所 玄関側の壁面








上海 豊田紡織廠 18 旧事務所 トイレ付近の壁の残骸上海 豊田紡織廠 17 旧事務所 男子トイレ入口上海 豊田紡織廠 19 旧事務所 残影のショット








上海 豊田紡織廠 21 旧事務所 壁の木製小窓上海 豊田紡織廠 22 旧事務所 正門のあった付近を見る上海 豊田紡織廠 23 旧事務所 旧正門前の敷地(工事中)









上海 豊田紡織廠 16 旧事務所 トイレ上部?上海 豊田紡織廠 80 旧事務所 食堂の屋根上海 豊田紡織廠 81 旧事務所 女子トイレの表示







上海 豊田紡織廠 11 旧事務所 塀側の側面











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2007年04月18日

明日から4年ぶりに上海へ。

隠れた人物、上海の西川秋次の歩んだ跡を訪ねてくる。

偶然、昨17日、”トヨタの源流、60年ぶりの回帰”との中日新聞の記事をみて驚愕。
現地で、西川秋次を検証する動きが急展開している。豊田紡織の戦前の工場遺産も保存されることになった。

戦前の上海で約40年にわたり活動した"在華紡”。どのような波瀾のなかを紡績企業各社は上海へ進出していったのか。




西川秋次西川秋次の上海

〜 豊田紡織廠と騒乱の上海 〜

1.はじめに

在華紡の発展の裏側には、上海租界時代の特異な状況があった。とくに明治末期からの日中関係、とりわけ日本軍の侵略と日中戦争に至る過程で、その落とす影に現地の日系企業は苦渋を味うことになる。

すでに今から100年前、在華紡は中国の現地従業員を雇用する経営を行っていた。一方、政情不安の中で“労働争議”や、政治的要素が絡んだ騒乱が頻発する。日中関係史としての、在華紡を背景にした「上海」をどのように位置づけるのか、そんなことにも思いが巡ってくる。

4年前のこと、陳祖恩さんの案内で内外綿工場を見学した。そのとき構内で外壁に彫られたレリーフを見かけた。それは大正14年5月15日(1925)、内外棉工場の労働争議で日本人警備員に射殺された顧正紅の殉難碑だった。この事件が発端となり5.30事件が起き、多数の犠牲者を出す。この年、孫文が死去、日中の関係がきしみはじめる頃のことである。

その内外綿訪問のとき以来、日本の紡績会社がなぜ上海に進出することになったのか、会社は現地労働者をどのように扱い、その裏にはどのような苦労があったのかを考えるようになった。

その後、豊田佐吉が上海に渡り豊田紡織廠を設立したこと、その事業を献身的に支えた西川秋次という人物がいたことを知った。このほど、その豊田紡織廠の工場遺産を訪ねるにあたって、西川秋次翁を偲ぶための一章を記してみた。


2.豊田佐吉の上海行き

豊田佐吉が初めて上海に行くのは大正7年のこと。

「西川さん、あんたが大将の上海行きを止めてもらわないと困る。明日も分からん危ない所へ、いくら藤野さんや児玉さんの応援があるとしても出かけることはない」
と、中国行きを決意していた豊田佐吉を引き止めようと、栄生の工場の技術屋、利蔵が心配そうに西川に言った。西川は、
「皆さんが反対されても、大将が国を思い、豊田の事業の行く末を考えた上で決めたことです。ぼくはたとえ、それが炎の道であっても、大将のお供をする覚悟でいます。どうか皆さんも大将の気持ちを汲んで、従来どおり大将の考えを尊重していただきたい」
と、秋次は本心から深く頭を下げた。(『西川秋次の生涯』宮地治夫著P231)

よほどの決断があったのだろう、秋次は、豊田佐吉のもと、上海の工場責任者として上海に渡る。
上海の工場経営の現場で彼を待ち受けていたのは何だったのか。中国人の従業員たちとどのように接し、いかに仕事に取り組んだのか、様々な想像が浮かんでくる。

上海という都市での中国人との接触・交流、そして豊田佐吉の夢の実現、それらがすべて秋次の人間観、上海観と深く結びついているように思える。後に、“人づくりの西川”と言われた原点、豊田紡織廠で彼はどのような経験をしたのだろうか。

豊田紡織の会社設立と同じ頃、大正10年に東洋紡績が上海に工場を建設する。名称は中国名で「裕豊紡(裕豊紗廠)」と呼んだ。去年、上海在住の福本さんから送られてきた「裕豊由来記」(岡滋著)には、その頃の在華紡を取り巻いていた現地情勢、労働・雇用環境のことが克明に描かれている。

豊田紡織のみならず在華紡の存在は、上海で重要な位置と役割を持っていたにもにもかかわらず、現在まで上海をベースにした検証は殆ど行われていなかった。

近代工業の黎明期に豊田佐吉が紡績事業と結びつきながら上海に移住し、佐吉亡き後、それを西川秋次が継承し、さらに戦後まで中国紡績と関わったことの歴史的な意義は深い。また、その象徴としての豊田紡織廠の工場施設が残されていることは、日本の産業史、紡績事業史にとっても貴重である。

上海 豊田紡織廠(正門に立つ陸戦隊の門衛)







3.東洋紡が上海に進出した頃(「裕豊由来記」より)

「裕豊紡とは東洋紡が上海共同租界に建設した紡績工場の現地風の呼び名である」

と、「裕豊由来記」は冒頭で記している。以下、由来記のさわりの部分を、補足をまじえて紹介してみよう。

大正10年8月岩尾徳太郎を指揮官とするメンバーが上海に到着する。工場長は東大機械科を出た新鋭、西村利義であった。
一行は南京路の三井銀行の二階に本部を置いた。工場の設計陣は内外綿の工場に仮寓し平野勇造の設計・サポートによって建設に着手する。第一工場は大正11年5月に、第二工場は12年10月に完成。工場は黄浦江に沿って細長く伸びる共同租界の端に建てられた。

黄浦江に面して、その向こうに浦東の田畑が広がっていた。西側は米国系の発電所である。東側は租界外のポイントアイランドという荒野で、週末には租界のヨーロッパ人が狩猟を楽しんでいた。北側にはポイントホテルというドイツ人経営のホテルがあり、猟に来る外国人をあて込んで建てたようだ。そのような場所に泊まる人間はどれほどいたのだろうか。

裕豊紡工場は楊樹浦路に面し、北に向いて正門があった。やがてポイントホテルを買収し、そこを会社の倶楽部とした。その周辺に邦人社宅を建て、少し北に土地を入手し華人用住宅が作られた。付近の従業員だけでは手が足りず、出稼ぎにきた人の華人用集合住宅が必要になった。
すでに楊樹浦路のあたりは日系紡績会社の工場が進出していた。やがてこの地域一帯に在華紡工場が集中するようになる。

上海には後発組としてやってきた裕豊紡だが、すでに明治20年代に入手済みだった敷地と併せ約6万坪の用地を持つことになった。工場の建設、機械据付、稼動に当たっては上海の“在華紡モデル”内外綿の支援があり、工場と営業の要員は内外綿で研修を受けることになった。

以上のように、「裕豊由来記」は当時の上海の様子に触れているが、この著者は裕豊紡に勤務していた岡滋さんである。岡さんの記録を読むと、大正10年前後の上海が紡績の世界最大の市場であったこと、英国資本の紡績企業が中国で早くから工場を経営していたことなど、当時の中国紡績事情が見えてくる。そのころ、黄浦江下流域は荒涼とした湿地が続き、遠くにノコギリ屋根の紡績会社の建物が見える、まだそんな風景ではなかったろうか。


4.大正期の紡績産業と中国

その当時、日本の紡績会社の中国進出の状況はどのようであったのか。

大正初期、日本の紡績企業はこぞって上海、青島に進出する。もともと明治中期以来、日本にとって中国は日本綿糸、綿布の有力な輸出市場であった。各社は印度、米国、英国との競争の下で輸出を伸ばしてきた。一方、この時期、中国でも近代紡績業が勃興し自給度を高めていった。それに対応するため、日本の紡績業各社は綿糸から綿布へ、綿布から加工綿布へとシフトさせながら輸出を維持する状況にあった。
大正3年、第一次世界大戦による好況が日本にもたらされると、その影響は紡績輸出にも反映し各社の設備拡張と、新たな企業進出のチャンスにもなった。
しかし中国紡績企業も規模拡大に向かう。このため日本の紡績企業は中国への輸出依存が不利になると予測し、製品の品目転換と中国への進出を図ろうとする気運が高まってきた。

これに拍車をかけたのが日本と中国との原価較差である。日本での生産コストはインフレによる賃金アップもあり次第に高騰する。それに対する中国は豊富で安い労働力、低廉な物価、原料綿花の現地調達が可能であった。
中国進出は、このような有利な条件を目論むなかで高まりを見せることになる。

その半面、中国の不安定な政治情勢は企業にとっても危険要素になっていた。それでも日本租界には、すでに約2万人の居留民が住んでいた。この上海租界は治外法権地域でもあり、日本企業にとって安全性を保障するものとなっていた。
このような状況をバックに中国への投資は急速に拡大していく。

もともと日本の紡績産業の大陸進出は早くから想定されていた。明治28年の日清戦争後の下関条約により、外国人が生産事業を行う権利を得たことから中国の開港場が進出の拠点となっていった。
しかし、実際に紡績事業が計画され実行に移された例は少なく、それもほとんど成功していない。明治35年(1902)に三井物産が上海紡績を設立するが、これは中国紡績企業を買収したものであった。同43年(1910)、内外綿の工場が蘇州河右岸に建設され、以後、大正期に入って日本の紡績各社の上海シフトが本格化する。

なかでも内外綿は相次ぐ工場増設によって中国最大の規模を持つ紡績工場となり在華紡の先導的役割を果たしていた。
余談になるが、内外綿や鐘紡(公大)の工場施設は、武藤山冶の”温情主義“の経営思想が影響していた。武藤は楊樹浦路の工場敷地に、幼稚園、プール、病院など整えた”企業福祉ゾーン“を作る。彼は人間尊重の理念を上海を舞台にして実現したいという意図があったようだ。(これは武藤が、租界地、上海なら可能だとして構想した実験ではなかったかとの説もある)
最近、そのような文化的側面からの在華紡研究も行われている(神奈川大学)。ようやく在華紡を多面的に考察しようとする動きもでてきたようだ。
内外綿の工場施設全体は、三井物産の専属技師として上海に移住した平野勇造が設計している。内外綿は会社施設として近代的な食堂、倶楽部、幼児教育施設、病院などの厚生設備を充実させた。これは、さきの武藤山冶の日本人労働者に対する企業福祉ビジョンと重なるが、平野勇造と武藤山治とは三井物産を介した結びつきがあり、もっと遡れば、両者が同じ時期アメリカ留学で知り合っていることから、公大紡績の上海進出に当って、工場施設計画には両者の関与があったとも考えられる。

ところで、第一次世界大戦以後の在華紡は、狙いどおり経営の有利性を生むようになり、大正10年ごろから拡大期を迎える。当時、中国紡績設備の約三分の一を在華紡が占めるようになっていた。
日本国内の認識はどうかといえば、一部には海外投資は国益に反する、自国の産業発展を優先すべだというという反論も生じ、国策から見て中国への投資を問題視する論議も起きていた。

一方で、裕豊紡の親会社、東洋紡績の主力であった綿布輸出の状況は、大正3年時点、天津に輸出された日本綿布は同社の69%を占めていた。それだけ中国は大きなマーケットになっていた。


5.襲撃される在華紡工場

どの在華紡も従業員対策には苦心していた。

排日の気運が高まるなかで、在華紡の華人工場労働者はどのような環境におかれていたのだろうか。
裕豊紡を例にとれば、工場の設備は日本から持ち込んだ新鋭の輸入機によって操業し、混綿などの技術は中国綿業の水準をはるかに越えていた。工場管理方式も英国や華人の紡績会社が採用していた買弁制度や工頭制度を取らず、日本内地と同様に日本人技術者の監督の下に合理的な職制と作業組織によって行われた。

裕豊紡でも、現地の要員の調達は容易だったが文字が読めず、胸につけた番号も判らず、平然と綿花や綿糸を掠めたり、欠勤・離職は気の向くままで工場管理の面では困難が多かった。春から夏にかけてはどこかでサボタージュが起こった。どうやら地下組織でもあるらしく、その指令で狙われた工場で遭うことが多かった。秋になると平静に戻っていたところみると、これらの事件の背景として為政者の交代なども原因していたのかもしれない。

上海の政情が不安定になるのは大正半ば頃からで、波動状に盛り上がる排外運動も絡み合って在華紡はその運動の攻撃目標になった。大正13年(1924)、上海総罷業が発生する。その陰に、上海市の総商会による「経済絶交運動」が排外気運を煽り、学生や急進分子の民族運動、階級闘争を激化させようとする画策があった。華人紡は不振に陥り操業短縮を強いられたことも排日、排貨のムードを醸成する原因でもあった。

大正14年、内外綿の工場内で日本人警備員による、中国人射殺事件が起こる。それが引き金となり同年5月30日、労働者・学生ら約2千人が共同租界で威嚇運動を行い、解散に応じないとみた工部局警察は彼らに発砲、死者、負傷者多数を出す「5.30事件」が起こる。
その後、抗議デモや罷工に入り6月13日には日本工場39ヵ所、6万3千人。英人工場26ヵ所、3万6千人。合計115ヵ所、15万6千人が罷業。工部局は6月1日戒厳令を布告。2日各国軍艦の陸戦部隊が上陸すると、上海市内各地で衝突事件が起きた。事態は上海から中国各地に波及し、デモ、衝突、ボイコットが多発、死者を出す大事件に発展した。事件は8月にはいってようやく収拾され、在華紡各社は9月から復工した。

このとき、豊田紡織廠にも暴動が波及。外部から暴徒が侵入し自動車に乗って駆けつけた社員が拳銃で撃たれ一人が亡くなった。このとき同社の常務だった西川秋次は被害者の一台先を走っていて難を逃れた。おそらく在華紡各社でも同様の事態がおきていたと思われる。

このような緊迫する市内情勢をきっかけに、この年「在華日本紡績業同業会」が発足した。


6.豊田紡織の設立と上海構想

ここで、話は豊田佐吉のことになる。

そもそも佐吉が上海へ向かうことになった背景には、佐吉の事業拡大への構想があった。自動織機の製作工場と紡績工場を名古屋の隣り合った場所に作りたい。そのためには莫大な資金がかかる。その資金を集めるには上海で紡績事業をやること、それが秋次に明かした佐吉の上海へ向かう理由であった。
佐吉は、自分のひらめきは信じるが、それを裏付けたい情報収集と執着心が旺盛だった。すでに三井物産の中国通から大陸での綿布需要の見通しや上海での在華紡の動向を聞いていた。同じく三井物産の名古屋支店長、児玉一造からもキャッチしていた。それ以前にも、佐吉は大陸願望の夢を、多くの人に語り、さらに海外経験のある人間を探しては、事細かに外国情報を得ていたようである。

佐吉の上海行きの本当の理由はどこにあったのだろうか。
大正初期の国内状況は第一次世界大戦による戦争景気とその反動、インフレ、社会不安が増大する。
その当時、名古屋での豊田佐吉の織布工場は秋次の紡績部が1万5千錘、佐助の織布部が織機千台へと大きな飛躍をしていた。佐吉は見通しのたつ人だったから、世界情勢の変化と綿布貿易が需要を増やし、設備増強が起こることを読んでいた。そして、今までのように日本国内だけを視野においていては、将来の紡績産業は困難になるだろうと予見していた。

ここでまた三井物産との繋がりが出てくる。
大正6年(1917)、そのころ佐吉の弟、豊田平吉が経営していた兼松寅之助、服部兼三郎と共同出資による織布工場は業績悪化で閉鎖し、平吉個人の押切紡織株式会社とし、一方、末弟の佐助が菊井紡織株式会社を設立。総帥の佐吉はいよいよ自動織機の事業化到来の時と考え、三井との結びつきを考える。それまでも再三再四、三井とはギクシャクしながら破綻と再起を繰り返してきた。今度の自動織機の事業化にはさらに多くの財源が要る。その資金をどうしたらよいか。織機開発の事業資金捻出のため、その方策を本格的な紡織事業から稼ぎ出したいと構想する。
そこで生まれたのが豊田紡織株式会社の設立構想だった。

佐吉は三井物産とのかかわりを念頭に入れて新会社を考えていた。過去のパターンを繰り返してはまずい、との考えから株主に豊田一族と三井物産から、取締役に藤野亀之助が、常務には同社名古屋支店長の児玉一造の弟、利三郎が就任した。
その後のことになるが、三井物産名古屋支店の林虎雄や高田商会から三井物産に移った古市勉も上海に行く。しかも、のちに二人とも豊田紡織廠に深く関わることになる。
豊田佐吉と三井との結びつきは不思議にどこまでも繋がってしまうのだ。

こうして大正7年(1918)1月29日、栄生の豊田紡織が産声を上げた。このとき西川秋次は、豊田佐吉、児玉利三郎から取締役就任を要請されたが固辞した。上海に骨を埋めるつもりでいる、という言い方で秋次は断った。すでに上海進出を前提にしての豊田紡織会社設立だったのである。
佐吉の上海行きには慎重派だった弟、佐助・平吉は最後には折れて、佐吉を上海に送り出すことになる。

7.上海の西川秋次

中国で排日運動が激しさを増す最中、西川秋次が上海へ発つ。佐吉が出発した翌年、大正8年(1919)のこと。

上海には、すでに日本紡績企業が5社進出していた。同じ時期、東洋紡の工場建設も始まろうとしていた。

先に上海へ到着した佐吉は、フランス租界にドイツ人が所有していた白亜の三階建、前に芝生が広がるという5千坪の屋敷を購入する。そして工場建設のプランに着手する。敷地は蘇州河の右岸に1万坪の土地を購入する。
工場建設のほうは、西川がほとんど任された。

秋次は工場建設に際して、三井物産の古市勉の案内で先行組の在華紡を見学する。内外綿、上海紡績、日華紡、同興紡績、日信紗廠(日本綿花)など。どの紡績会社も莫大な利益を上げ、それを日本に送金している状態であることの内実を知る。佐吉の自動織機開発の資金は、この上海なら稼ぎ出せることをそのとき確信した。

中国は現地人従業員の賃金が日本の三分の一という安さである。しかし、政局不安に対する国民運動や日貨排斥問題は根強かった。
資料によれば、そのような情勢でも、大正2年から12年間に在華紡績の生産高は13倍と飛躍的に増大していた。豊田紡織廠でも最初2万錘だったが、工場の稼動後のわずか3年の間に3倍の6万錘になった。上海に工場を建設する在華紡の会社数もその後、裕豊紡(東洋紡)などが加わり14社に増える。

約2年間の工場建設の準備期間を経て大正9年(1920)秋、豊田紡織廠が設立される。
中国人が日本人に心を許していないこと知った西川は、工場が稼動する前に現地の人たちの中から現場監督のできる生産技術者を養成し、彼らに中国人従業員を直接監督してもらうことを考えた。
また、西川が中国に来てから実地に各地を回って判ったことは、排日の原因が日本の強引な武力と資本家によるもので、自分たちは現地の中国人と心を通わせ交流することが工場を稼動させる上で重要であると考える。
西川の経営方針は、植民地的な支配を一切排除し、佐吉が理想とする日華親善を実践することであった。例えば、工場では日本人監督者が中国人従業員に暴力を振るうことを禁止し、違反者は内地へ送還するという厳しさだった。
豊田紡織廠は大正10年(1921)11月29日、正式に株式会社となる。社長に豊田佐吉。常務に西川秋次が就任した。
秋次はかつてアメリカで学んだ生産管理の教育と実践に努めた。すでに名古屋の栄生で実証済みだったが、上海では言葉の通じない中国人を教育することは並大抵ではない。それに苦心することになるが、生産性、時間当たりの出来高は上昇し、ほかの在華紡がうらやむほどの成果を上げた。また、工場の整理整頓を徹底的に実行させ、毎月班ごとに競争し、成果を発表させ、歩合による賃金とした。創意工夫の実践ということである。

このような、厳しさとその見返り、人心の掌握、つまり動機付けをはかり、働く意欲を高めることに成功したのである。これはアメリカでの生産管理が合理的に傾きすぎていることを知り、東洋では人間性を配慮すべきこが重要だと考えてのことだった。
最近、トヨタカンバン方式などの”トヨタウェイ“が産業界を席巻しているが、その源流を求めていくと西川秋次のアメリカ見学、それを日本的に咀嚼したトヨタ紡織廠の工場管理の考え方に行き着く。

言葉や習慣の異なる上海で、経営者として技術者として現場を通して得た体験、それが”人づくりの西川“の源になっている。人間はどうすれば仕事へ取組む意欲を持つのだろうか、西川は、若いころ佐吉と一緒にアメリへ行きテイラーの生産管理を知ったというが、その以前に、仕事や経営を支えているベースは人間であること。人間のお互いの信頼が会社を運営する上での基本であることを、ここ上海で学び、それをトヨタ紡織廠の工場で”西川秋次の方法論“として編み出し、実践した。

現在の「トヨタ」の繁栄を思うとき、その最初の井戸を掘った人、発展の基礎を成した人、それが西川秋次だった。起業家、豊田佐吉の構想した事業を、経営実務家として“心張り棒”のようになって支えた。その後の豊田喜一郎による豊田自動織機、豊田自動車工業設立への橋渡し役となったのも西川。今日のトヨタにとって礎石となる人物なのである。

いま、中国と日本は、真の交流をすべきときに来ている。西川秋次から学ぶべきことは多い。

上海 豊田紡織廠(正門、内側の門を入る巡視の陸戦隊)
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