伊庭貞剛

2007年07月28日

イメージ2工房YAMACHYO活機園での津田さんの話のつづき。
近江の話に限らず、どんな場面でも関連したところに飛んでいくのが津田さんの常であった。

ある晩のこと、天龍寺の峨山和尚がお母さんと親しかったこと、そしてその天龍寺には、お兄さんの友達のSさんがいたこと、そのSさんにまつわる思い出話へと飛んでいった。

その話、なかなか興味深いので整理して書いておく。

□ □ □

昭和3年4月1日に京都府立二中に入学したとき、一年上の兄は同校の二年生だった。中学に通っているうち兄と同じクラスのS君を別に兄から紹介されたわけでもなく知った。

小柄でひ弱な感じのする少年だったが気立てが優しくどこか哀れな感じがあった。病弱な兄と親しくなったのもそういった彼の性格によるものだろう。1年、2年経つうちに彼は私とも親しくなり、春休み、夏休みなどは泊りがけで家に来たりしていた。母も彼をいたわるような気持ちで接したのでますます親密になったが、私より1年年長でもあり、なにか彼のどこかひ弱いものに反発する気分もあって距離を置いていた。

彼の家は吉田山の東麓の浄土寺馬場町にあった。ある夏休み私は兄とともに彼の家を訪ねていったことがあった。焼き板塀の二階建が彼の家だった。
彼のお母さんは階下の一室で臥せっていたらしく、寝衣の上に羽織を引っ掛けて玄関に迎えにでてきた。歳はまだ34,5歳で私の母より少し若く見えた。
病気らしくやつれて顔色は良くなかったが、美しい人だと思った。二階の彼の部屋に一、二時間ほど喋っただけで、近くの吉田山や真如堂などに遊びにいくということもせず帰った。お母さんだけがいて、父親や兄弟らしい姿を見かけないのはどういう家庭なのか、子供心にも不可解だった。

それから4,5年経って、兄からSは中学を出て上の学校には進まず嵯峨の天龍寺の塔頭慈済院の書生になっていると聞いた。たしか高校2年になったばかりの春休みの一日だったと思う。私は彼を慈済院に訪ねていった。まだ嵐山の桜は芽吹く前だった。渡月橋から見る保津峡一帯の景色は早春を告げていた。

絣の着物の彼は私を迎え入れ三畳間ほどの小さい部屋に案内した。
その部屋は彼に与えられた部屋のようだった。小さな机と本箱があり、本箱の上の棚に白布に包まれた遺骨箱が置かれてあった。聞けば彼のお母さんのものだということだった。
夕食は禅寺独特のうどんをご馳走になった。うどんといっても醤油と昆布を湯で煮立てただしを椀に入れ、それに茹でたうどんをすくい入れて食うというものである。

禅寺の庫裡は黒くて暗い。十燭光ほどの電灯が一つ天井からぶら下がっているだけの厨の大机で食ううどんはいかにも侘しかった。
その夜、庫裡の大部屋で4,5人の男たちが机を囲んで喋っているのを見た。僧たちの中に有髪の男も混じっていた。S君に、あれは何という人かと聞く。寺にはいつもああいう有閑インテリが居候していて、ああして毎夜喋っているのだという。寺の掃除をするでもなく、禅の修業をするわけでもない。飄然とやってきていつの間にかいなくなって、またやって来る。住職は別に何も言わないらしい。

S君は、今喋っているあの男は君も知っているだろうが宮嶋資夫だという。私は驚いた。宮嶋資夫といえば大正初期からのアナキスト系の労働文学者として、その作品は我々高校生にも知られていた。S君は友人の一高校生として私を彼に紹介してくれたが、彼はまったく意に介するところもなく、今でも高等学校の文科には数学の時間はあるのか、数学こそ文科の必須科目だと思うが君はどう思うか、と言った。

そんなことが話題になってとても愉快な印象が残ったが、宮嶋資夫という人物がよく分からなかった。
年表を見ると「思想的懐疑のあと、昭和5年京都天龍寺に入り、逢州という号で求道生活を送るに至った」とある。私が慈済院で彼に会ったのは昭和8年3月のことであるが求道の人とは見えなかった。

S君はその後どうしたか全く知らない。兄とは消息を交わしていたようだが、私が戦争に行く前、母からSさんは天龍寺管長S師の妾の子だったようだ、とポツリと言った。その後も、学校へ行くからとかいって一度ならず兄を頼って金の無心に来たことがあったようである。

S師は禅僧でありながら祇園に入り浸り、風流をほしいままにしている、と噂が絶えなかった。禅坊主と祇園というのは京都らしい話しだが、あのS君のお母さんは果たして祇園の芸者だったのだろうかと今でも思っている。管長と同姓なので縁があることに間違いないようだ。

満州事変はすでに始まっていた。日本は不況の中に低迷し、左右の思想的拮抗はテロリズムの暴発をはらみ、人心は生気を失い、一部の富裕層が権力と結びついて己が野心と欲望を遂げようとする世相であった。青年将校が昭和維新を唱えた濁世であった。思えば暗い時代だったのだが、高等学校一、二年の僕には漠然と世の中の矛盾に満ちた生気の無さは感じられても、宮嶋資夫やS君が禅寺に寄生して日陰に逼息していることの世相は知る由もなかった。

朝早く慈済院を辞して天龍寺の山門を出ると松並木の道は朝霧に濡れ、渡月橋から見る嵐山には霞がかかり虚空蔵さんの参道の桜の蕾が膨らんで、ほのぼのと春の気配を感じさせた。


ぼくがこの話を聞いたとき、京都にはほかの町にはない独特の世界があることを知った。伊庭貞剛の長女である津田さんのお母さんは、S師とは違い本当の名僧だった天竜寺の峨山和尚と親しくしていた。それが背景にあっての話だったのではないかと今になって思える。
ぼくの若い頃、誰もが知っていた天龍寺の禅僧S管長だが、その裏側に潜む人間の本性を見る思いだった。ごく一部の坊さんに限ってのことだろうが、今の新興宗教の世界にも、似たたような生態を宿している教祖がいる。京都のS君のお母さんの現代版のような女性も大勢いるのではないか。

このなかの昭和初期の無頼のインテリ書生、宮嶋資夫については、最近になって文学者としての再評価が高まっていることをどこかの新聞で読んだことがある。
宮嶋資夫著作集 広告(昭和60年、聞スクラップより)




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2007年07月22日

活機園 入口から園内への石段伊庭は明治33(1900)年1月、住友家の総理事となる。
最高の位に就いた者は長くその位置に止まるべきではない、というのが伊庭の信念であった。就任から四年後の37年7月6日、伊庭は「老人は少壮者の邪魔をしないようにするといふこと」そして「事業の進歩発達に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」と言い残し58歳の若さで引退する。



活機園 アプローチの道から向こうに建物が見える伊庭は、青年の功名心からくる過失はやむをえないが、老人が地位と名誉に拘泥することには耐えられなかった。老人がいつまでもはびこることは、上下の意思疎通を欠き、そのことが後進のやる気をなくし、ひいては組織を崩壊に導くものと感じ取っていた。





活機園 庭から日本家屋を見る(1)同年、伊庭は17年前に買いおいた大津石山の山林に別荘活機園を建てた。
家屋の木材は、別子職員一同から餞別として贈られた木材を用い、別子在勤の記念とした。活機園に隠棲後は、幽翁と号して、悠々自適の日々を送り、この地で大正15(1926)年10月23日没した。「活機」とは、俗世を離れながらも人情の機微に通じるという意味である。



活機園 日本家屋の部屋から庭を見るかつて川田順は、東海道列車が瀬田の鉄橋を通過する際、車中の住友人は窓ガラスに顔を押し付けて「あそこが伊庭さんの亡くなられた別荘だ」となつかしく思い出すらしいと記している。(以上は住友グループ広報委員会資料よる)






活機園 日本家屋の隣に建つ洋館この活機園には思い出がある。
今は重要文化財になっている活機園だが昔は、住友関係に務める社員の宿泊施設だった。何度もここに泊まっては琵琶湖周辺を歩いたことがあった。いつも伊庭貞剛さんの孫である津田さんが一緒だった。




この津田さんとの関係についてはこういうことである。
ぼくがN社の大阪勤務時代の上司と部下のつながりということなのだが、会社を35歳でぼくが途中退社した後も、変わりなく一緒に各地を旅して歩いた。京都人らしいリベラルさを持っていた方ゆえに、会社にはいつも距離をおきながら脱俗の人であった。そういうことからすると、芭蕉における曾良よろしく随伴者というかお供をしながら、会社という俗の世界を離れて師事してきたといってもいいだろう。
津田さんが7年前に亡くなるまでの30年近く、その間には何人かの仲間も増え行動を共にするようになった。日本の随所をめぐり、山野跋渉しながらこの国の歴史のこと、人物や産物のこと町の成り立ちのこと、様々万々に探訪し、思い、考えるお仲間としてお付き合いさせていただく関係であった。


活機園 洋館の木立と空活機園は野口孫市という明治の著名な建築家の設計によるが、今のように修復される前はまだ気楽に部屋を使うことができた。
日本家屋の隣の洋館、その応接間で津田さんの”近江講話”がいつも繰り広げられた。




活機園 園内の歌碑(全体)当時50歳を少し出たくらいだった津田さんだが、博覧強記そして話力のスタミナは驚異的だった。なので話を始めると休む暇がない。
すでに老師の趣があり、“貞剛2世”という人もいるくらいお祖父さんの「幽翁」にそっくりな風貌とあいまって、いまこの部屋で話しているのは、もしかして幽翁ではないのかと錯覚するような不思議な感覚になるのだった。




津田さんの随伴記をまとめた、原稿用紙5百枚ほどのメモがある。それを読み直してみると、その中に「石山・大津紀行」というのがあって、大体以下のようなことが書かれている。

□ □ □

話はいつもながら夜を徹して延々とつづく。腹が減ると厨房にゆきおにぎりを持ってきて食べながら聞く。
大津の町の商家では、ガラス戸がなぜ綺麗に磨かれているのか。明治天皇の教育係杉浦重剛の家が簡素であることのわけ。ロシアの皇太子が遭難した場所に残っている逸話。そこから飛んで、比叡山の焼き討ちは無かったという。これは滋賀県の教育委員会から聞いた話であること。

まだまだ話題は連鎖して近江商人が北海道へ移住してその子孫と網走で会ってきたこと。また戻って、そもそも近江商人は安曇族と関係が深いとか。そんなことになるので活機園から始まった話題は、真剣に聞けば正味3,4日かかる内容になるだろう。

それが一段落した頃は外は白々となりかける。
翌日は、近江講話に出てきた場所を歩く。前の晩が予備知識、翌日が現場踏査になる。それはいいのだが活機園での朝食を食べた後は、夕方までろくに食べることをさせてくれない。今回も道々アンパンをほおばる程度。途中で食べることなどはじめから念頭にはない。津田老師は“仙人”だから、若いぼくにはこたえる。で、せめてうどん屋でも行きましょうよ、といって路地の小店の、なんとかいう食事どころで薄味のキツネうどんを掻きこむ。そこでもまた話が始まる。うどん屋で1時間半かかる。また歩き出す。

今日は現場踏査するのだけれど、現地で昨夜の話が再燃してくるからまたまた時間がかかる。
内容を大津周辺だけピックアップしておくと、柳屋という料亭と河上謹一、大津事件と児島惟謙、新羅と源義光の関係、フェノロサの墓がなぜ大津にあるか、東洋レーヨンの労務管理、弘文天皇とは何か、これでワンクール。

歩きながら路上で話していると余計なオマケが付いてくる。ちょうど京阪電車の浜大津の通りに来たとき、昔炭屋という店のあった所に出る。ここの2階に下宿していた頃、昭和のはじめだが大津の町の商店の屋並がどうだったか、と思い出しながら路地に入っていく。でも昔の面影がない、もう分からんようなったといいながら引き返す。

ワンクールの現場踏査が済む。途中で写真を相当のカット数撮ったので時間がさらにかかる。浜大津へ戻ると夕方。交差点にある喫茶店に入る。そこで四方山話になる。
伊庭貞剛という人はどういう人でしたか、記憶にありますか?とこちらから聞く。そうやな、活機園で小さな頃に抱かれたときの感覚ぐらいかな、優しいオジイサンのような口ぶりで庭で遊ばせてくれた記憶ぐらいきりないなあ、と。母は、どの道を通って活機園に連れていったのだろうか、と言う話が出る。

                                次回へつづく
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2007年07月15日

致良知伊庭貞剛の出生地は、現在のJR東海道線能登川駅の西にある伊庭という地区である。
この琵琶湖の周辺は、かつて海をこえてやってきた農耕生産・土木技術の渡来集団によって開拓された。近江八幡から安土にかけては、古代秦氏のグループが湖のウォーターフロントを干拓し農地としていった場所である。安土の近くにある観音寺山(別名きぬがさ山)は秦氏が養蚕を起こしたところで、桑の実寺もそれに由来している。伊庭一族もその開拓集団としてやってきたのだろう。

秦氏のグループに佐々木一族がいた。佐々木氏は安土町にある少彦名の神を祭る沙沙貴(ささき)神社が氏神である。ぼくが、津田直次さん(伊庭貞剛のお孫さん)と一緒に佐沙貴神社を訪ねた折、宮司の岳(おか)眞杜さんから西川吉輔の存在を聞いた。
宮司 岳さんは、伊庭貞剛と西川吉輔の関係について研究している人である。

この岳さんは、近江八幡市の名前のもとになっている日牟礼八幡の神官から、沙沙貴神社の宮司になった人である。
日牟礼八幡のことに触れておけば、祭神は、海の神さま宗像神で、近江商人の守護神でもある。江戸時代の初めから近江八幡の商人は東南アジアに出かけていた。その当時、安南交易に使われた船の絵が日牟礼八幡の絵馬に描かれている。近江商人の冒険的な商人体質は、彼らの先祖が遠く西のほうからやってきた、その記憶遺伝子によるものかもしれない。

沙沙貴神社の氏子でもある伊庭家に生れた貞剛は、幕末の文久3年、近江八幡の西川吉輔の私塾に入門する。すでに剣道は児島一郎から免許皆伝を許されていた。慶応4年、京都御所禁衛隊に編入。維新後は新政府の弾正台巡察、つまり検事となった。
翌明治2年、兵部大輔大村益次郎が暗殺される事件が起こった。このとき巡察官だった伊庭は、刺客で知られた大楽源太郎が嫌疑をかけられたことを非として、大楽の斬罪を止める挙にでた。このときの彼のとった行為は、のちに伊庭自身の行動思想の芯になっていく。(この大楽源太郎という人物の負った悲劇的な生涯には魅かれるが、別に書いておきたい)

伊庭にとって青年時代から終生変わらなかったこと、それは事に当たり身を挺して向かうという、強い意思である。これは陽明学の思想による影響もあった。

それは近江湖西の小川村(現滋賀県高島市)出身の陽明学者、中江藤樹の存在が大きい。藤樹に傾倒していた伊庭には、彼の行動指針「致良知」が一貫していた。

伊庭が影響を受けた中江藤樹のことである。
藤樹は少年期に祖父とともに山陰の米子、加藤藩に移る。そのご、加藤家の転封に伴い伊予の大洲に移り支藩の新谷藩で過ごす。27歳のとき、故郷の年老いた母親のもとに帰りたいと、大洲での武士の道を捨てて帰郷。この親孝行の話は修身の教科書に登場していたから、中江藤樹といえば"近江聖人”と、昔の人は知っていた。

「致良知」とは、中国の陽明学に由来するらしい。「良知」は良心といった解釈で、王陽明は致良知を”良知を致す”と言い、良知の実践を説いたそうだが、中江藤樹の場合は”良知に致る”と説き、自分の心を信じ良心を磨くこと、と教えた。

さらにもう一つ伊庭にとっての軸がある。それは西川吉輔を経由しての平田鉄胤(かねたね)である。

伊庭の先生である西川吉輔は、平田鉄胤とは国学の師として結びつくが、それと別に鉄胤から見れば各地からの情報を提供してくれる貴重な役を西川が背負ってくれた関係でもあった。おまけに、偶然にせよ、その鉄胤の故郷、伊予大洲、は、かつて中江藤樹が出仕していた場所でもある。西川は、国学と陽明学の両方をあまり区別せず吸収できたのも、奇縁とはいえ二つの土地が相談したようにつながっていたからである。

話は「近江聖人」としての中江藤樹のことである。
藤樹は日本最初の陽明学者である。中国から直輸入した普通の人間にとって難解な陽明学ではなく、普段の生活の中につなげた普及をしたところに「近江聖人」として知られることになった所以がある。
母親のためには侍の道も捨ててもよい。それが人間の正直な気持ちだ、という考え方である。郷里へ帰ってしまったのは、武士の世界が嫌になったからだ、というのが本当のところだが、むしろ陽明学の実践の証にはそのくらいの明快さがちょうど良い。

若い頃、津田さんと近江今津の藤樹書院に何度か訪れたが、そこの簡素な建屋に「致良知」の扁額があった。書の写を買い求めて表装し、我が家の書斎に掛けている。
本来の陽明学を知っているわけでもなく、ただあやかりたいだけのことである。

ぼくが20歳代で”藤樹さん”に出会って、藤樹の『翁問答』を読んだ。その中にある「人間の究極の願望は心の安楽である」という言葉には予感的な共感を覚えた。深い境地を想ったことだった。


伊庭貞剛に戻ろう。
明治7年函館裁判所に判事を命ぜられ、同11年大阪高等裁判所判事を辞めるまで、貞剛は司法界に身を置いた。官の世界に嫌気がさしたことが辞任の理由だが、伊庭の性格とは相容れないものがあったようだ。それから間もなく同郷の叔父、広瀬宰平に誘われ、住友に入社する。

前に書いた別子銅山の煙害解決に対する処置、58歳で隠退を決するときの態度、彼の中には身の処し方、事業を取り巻く情勢への認識が明晰だった。これは、西川吉輔から学んだ広範な学識、それと陽明学の現実的実践感覚であった。
天竜寺の僧峩山と親しくしていた貞剛だが、どこか現実を呑み込みながら、突き放して事に当たるところに禅的なものが感じられる。

維新前後の錯綜する街道筋、近江八幡で伊庭貞剛は西川吉輔から豊富な学識を得ることができた。でも、貞剛が西川吉輔から受けた最も大きな影響は、大義を生きることではなかったろうか。これが晩年の「活機」の境地につながってくる。


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2007年07月10日

近江八幡 水郷近江は日本の商人の発祥地である。

近江八幡の豪商に、“ふとんの西川”で知られる西川家がある。その系統に西川伝右衛門という商人がいた。
近江商人は昔から各地に進出していたが、蝦夷での商売が有利になると見た伝右衛門は、寛文年間(1661〜73)に蝦夷の松前に店を出す。現地から北前船で産物を関西方面に廻し商いを広げていく。さらに、御用商人として蝦夷沿海の「場所請負人」になって海産物の大商いをする。

北前船を使い米、麹、塩、酒などの生活必需品を東北地方へ運び、近畿地方へは鮭、鰊、鱈、鮑、昆布などの海産物をもたらした。いわゆるノコギリ商法である。京都の「にしんそば」や数の子を食べる風習にも西川伝右衛門が貢献している。

西川吉輔は、その西川伝右衛門家の分家の長男として、幕末の文化13(1816)年に生れた。生家は、肥料や米穀を扱う問屋だった。
江戸時代から庶民の衣服にも麻だけでなく綿布が使われていく。その綿の栽培には鰯を干した“ホシカ”と呼ばれる肥料が用いられた。

やがて地引網の普及によって鰯の大量漁獲が始まる。当時、三河や大阪の河内地方などの綿の産地ではホシカが最も多く使われた。鰯の大量捕獲方式と廻船問屋の配送システムの合体は、日本の衣料品の生産革新に寄与したことになる。江戸期に商品経済が起こった背景に、このような日用品の需要に応じた船舶物流、内陸流通の配送ネットワークがダイナミックに働いていたわけだ。

時は幕末になる。干鰯問屋を切り盛りする西川吉輔は、商売に従事するかたわら、国学を学ぶ。師には平田鉄胤がいた。西川は、安政の大獄や足利三代木像梟首(きょうしゅ)事件に連座したというが、それが”平田国学”の影響であったのかどうかは分からない。
木像梟首事件とは、京都の等持院に置かれていた足利将軍三代の木造の首を抜きとり、鴨川の川原に晒した勤皇派によるデモンストレーションで、これが尊王攘夷のムードを一気に発火させたともいわれている。

近江商人は、彦根藩の庇護のもとで日本中をまたにかけ商品と情報の流通伝達の活動していた。とくに関東から東北にかけて、網の目のように近江商人のルートができていた。彦根藩は東西のクロスポイントに位置し、幕府の中枢情報を扱う立場であった。近江商人がその情報収集の役割をしていたという説もあるが、実際にかなりの機密情報が近江商人ルートでもたらされたようだ。

話は逸れるが、江戸幕府の末期、海外への危機意識が加速する。これにはロシアが深く関係している。
すで江戸期の半ばから、帝政ロシアの南下の動きが始まっていた。それがのちに日本にとっての脅威の始まりになる。その最初の動向は蝦夷地のアイヌ情報や、大黒屋光太夫や津太夫などの漂流者がロシア船で返還されとことからも伺えたが、19世紀になると幕府のみならず、各藩でも英米、露国への反応が出始めてくる。

たとえば、早くから近江商人として蝦夷の取引に活躍していた藤野家は、松前藩の下で文政期には根室、網走を拠点にオホーツクの漁業権を得る。当時のロシアの南下は、中国北部を狙うというものだが、そのような動静は絶えず地元近江には伝えられていた。幕末の幕府中枢、井伊直弼の海外対応の判断のなかには、このような豊富な海外情報が含まれていたと思われる。

ところで、西川吉輔が国学に関心を寄せたのも、商売を通して諸外国の情勢をキャッチしていたことが影響していた。自国意識が目覚めるときというのは、今に限らず、外国からの圧迫とそれが国内情勢の不満と相乗するとき、一挙に捩れた形で表れてくる。

彼が国学へ傾斜していった契機の一つには、国内と海外の両方の情報解釈がミックスされていたようだ。

幕末の「攘夷か開国か」の背景は、反幕府側の攘夷思想と徳川側の立場の違いがあるだけで、客観的に見れば当時の日本国内の体制崩壊の兆しを、西洋諸国の接近、中国でのアヘン戦争の恐怖、など西洋列強への脅威観念は同じであった。むしろ、朝廷の許可を得ず独断で、アメリカとの和親条約を結んだという、徳川側の判断は幸いであった。

色々な見方はあるだろうが、井伊直弼のみならず当時の幕府の状況判断にはかなり高度なインテリジェンスがあったとみてよい。
明治以後の薩長中心による軍国化への誘導と産業近代化の実現、そのギャップのなかで日本は帝国主義へ傾斜していく。少なくとも第二次大戦での敗戦のあと、結果的には米国との関係のなかで国民国家としてのバランスを得たことになる。この歴史プロセスは、幕末の井伊直弼の判断につながると見てよいが、この井伊の評価については、近代150年史のスパーンのなかで、もっとクールな見直しがされてよいと思う。

西川自身は、どんな気分で国学を学んでいたのか、少なくとも硬直的な国学カブレではなかっただろう。長崎との交流や近江商人のネットワークによって当時の外国情報を咀嚼していた彼は、日本の将来は外国との関係なくしては成り立たないこと予想していた。西川には、相対的に英・仏・露・米を観るだけの合理的な判断材料を持っていたのである。

特に、伊予大洲の支藩、新谷藩の碧川家から平田篤胤の養子になり平田国学を継いだ鉄胤。鉄胤と西川は、国学での先生と弟子の関係以上に特殊なつながりのあったことが重要だと思う。

維新後の明治元年(1868)、西川は明治新政府から皇学所御用掛を任じられ、翌年には、太政官より大学少博士に任じられた。

その西川吉輔のもとで伊庭貞剛は青年期を送る。





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2007年07月03日

伊庭貞剛 広瀬宰相と伊庭貞剛展カタログ伊庭貞剛が別子鉱業所の支配人を辞め本店に戻ったのは54歳のとき。翌年、広瀬宰平の後を継ぎ第二代住友総理事になる。その4年後、58歳で隠退してしまう。

「事業の進歩発展に最も害をなすのは、青年のあやまちではなく、老人がはびこることである」

との信念からだった。

明治12年、32歳のとき大阪上等裁判所の判事から住友家に転じて以来、伊庭の関わった事業は数多い。
大阪商船の設立、大阪紡績(現東洋紡)創立、大阪商業学校(現大阪市立大学)校長、住友銀行を開業、住友伸銅場(現住友金属・住友電工)の開場、大阪中之島図書館寄贈、など。

伊庭は生前、煙害問題の解決を見届けることができなかった。
しかし彼は、事業というものは絶えず現実問題が付きまとう、その現実にこだわらず理想という大きなビジョンを忘れてはならないと語っている。

伊庭貞剛のことは、別子銅山の危機を救った経営手腕について語る人は多い。むしろ広瀬の掲げた「公利公益」の事業理念に共鳴し、それを行動で示し「浮利を追わず」の住友精神を事業活動を以って貫いた、その哲人的ともいえる経営態度を見るべきであろう。


君子財を愛す これを取るに道あり  貞剛


その伊庭に影響を与えた人物、近江の国学者 西川吉輔については次回に。




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2007年06月30日

ユージン・スミス明治34年、足尾鉱毒事件を追及する田中正造は、帝国議会で、別子銅山では経営者の判断で精錬所が瀬戸内海の無人島へ移されたことを評価した。その「四阪島」のことが世に知られるのは昭和40年代後半、各地で公害騒ぎが出はじめたころ。

その当時、水俣に来ていたユージン・スミスは、市民のほとんどがチッソ関連企業で生計を立てているのを知った。企業と行政と市民意識の厚い壁のなかに、公害病患者と家族が閉じ込められている、その実態を生々しいモノクローム写真で訴えた。

その中の「智子ちゃんと母親」という写真が、世界に衝撃を与える。チッソの工場廃液によって身体を犯された幼い智子ちゃんが入浴している写真である。1973年に池袋の西武百貨店で、ユージン・スミス「生―その神聖と冒涜」写真展が開かれた。そのとき見た、湯船のなかで母親の太い腕に抱かれた幼な子の映像は鮮烈だった。

1972年、ユージン・スミスはチッソの工場で、公害病患者と会社側とが交渉するときの状況を撮影していた。そのとき、従業員の格好をした雇われ暴力団員から暴行を受け、片目を失明する大けがをする。この傷がもとで帰国後、脳出血で死亡。

彼の母方の祖母はインディアンの血をひいている。父親は破産の末に銃で自殺したともいわれている。市井の人間の命や社会の影の部分に焦点を当てた写真が多いのも、その出自と無関係ではないだろう。

「チッソ 水俣病」は、産業革命による失策と破壊がもたらした。これからの人類を救うには、人間のための産業革命へ向かわなければならない。とスミスは生前言い残している。

別子銅山は、日本の産業革命期の中で近代化されたが、そこで負わされた重大な課題を伊庭貞剛は「四阪島移転」と「大造林計画」によって解決した。まだ、公害や環境という言葉もなかった頃のことである。

その後の高度経済成長の時期、チッソ以外の公害発生企業もこの問題には蓋をしてしまった。結局それが社会問題化し手遅れとなった。多くの会社は企業責任を回避したり、態度をハッキリさせなかったことで、苦渋を飲むことになる。それ以上に国と行政側の責任が大きいのだが、それをいまだに本心から認めてはいない。

現在の年金問題は、すでにここに端を発している。この国の行政機構の、国民に対する意識の低さ、傲慢な姿勢には狡猾な詐欺団を見る思いがする。

水俣の公害病問題が起きてからから40年がたつ。ようやく「環境」が地球レベルで問われようとしている。


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2007年06月29日

別子銅山 瀬戸内海の四阪島に移された精錬所四阪島を秘密裏に買い取った伊庭貞剛は、明治29年12月、政府に四阪島精錬所の建設願を提出する。
ところが、引退していた広瀬宰平から住友家の家長、友純宛に、伊庭の移転計画に反対する陳情書が届く。

叔父の広瀬はなぜ伊庭の計画に反対したのか。普通であれば事前に甥の伊庭を呼んで、どういうことなのだ、と考えを訊くと思うのだが。

広瀬宰平の友純への陳情は、新居浜から離れることは経済的、信義的に見て問題がある、地元民も移転に反対している、ということでの計画を撤回するようにとの要請だった。

それに対して、伊庭は家長、友純に次のような意見を述べた。
自分たちの都合で禿山にして、それを損害賠償で済ませようとするのはおかしい。煙害被害地を買収するのは経済的、道義的に不可能。四阪島の移転は煙害防止に効果がありコスト的にも引き合う。精錬夫は島に連れて行くので失業の心配はいらない。
など、でこれは本質論である。
結局、伊庭の意見が友純に容れられ、明治30年、四阪島移転工事が始まり、同38年ようやく移転が完了する。

ところが、四阪島精錬所の操業が開始されると間もなく予想外の問題が出てきた。
排煙が、以前よりも広い地域に拡大してしまったのである。
その頃、栃木県足尾銅山の公害訴訟の先導者だった田中正造も、公害問題を解決しようとすると、つぎには「予期せぬ被害」が発生するものだ、と語っている。

亜硫酸ガスの中和脱硫に成功するまで、その後34年間を要した。伊庭貞剛はその姿を見届けていない。

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2007年06月24日

植林されたあとの旧別子銅山付近前回、伊庭貞剛が別子銅山の煙害問題で、精錬所移転を決意したと書いたが、その前段階がある。

まず精錬所の燃料のことから。
山から掘り出した鉱石から銅を取り出し、精錬するには熱エネルギーとして多くの薪や木炭が使われる。その用材は別子の山から切り出されるため、付近の山林は伐採で
荒廃していた。この風景を目の前にして伊庭貞剛は悩んだ。

司法官の道を辞した伊庭を、住友へ誘ったのは叔父で住友総理時の広瀬宰平である。
広瀬の説いた「公利公益」の事業理念に伊庭も共鳴したからだ。

それが、やってきた別子銅山で伊庭は早くも、現実と理想とが正面からぶつかる局面に立たされた。この矛盾をどう乗り越えたらよいのだろう。
山林の荒廃、これは公利公益を謳う住友として、なんとしてでも解決すべきだ、と一大決心をする。山々を元に戻すための壮大な植林計画を立てたのである。

伊庭のプランによる植林は、明治26年から毎年数万本の桧、杉を植えることからスタートし、同34年までには200万本の植林本数となった。やがて別子の山々には緑がもどることになる。のちに、この山林を生かしたことで事業会社としての住友林業が生まれる。

会社が山林保護を方針としたことから、薪・炭から石炭利用への精錬燃料の転換が必要となった。新居浜の平地にある惣開精錬所はエネルギー源を石炭に変えた。高い煙突からいつも煙が流れる光景がみられることになる。すると、ここで新たな矛盾、煙害問題が発生する。またも伊庭貞剛はジレンマに立たされる。

住民補償では根本的解決にはならないと伊庭は考えた。そこで煙の害を受けることの最も少ないであろう場所に精錬所を移す計画を練り、新居浜の沖、20キロのところの四阪島を自分個人の名義で取得する。

これが、四阪島への精錬所移転の決意までのあらすじだが、まだ続きがある。
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2007年06月20日

伊庭貞剛 2 別子銅山 惣開精錬所広瀬宰平の跡を継いだのが伊庭貞剛である。
明治26年、新居浜の瀬戸内海沿岸にあった精錬所から出る亜硫酸ガスで、周辺の農作物は被害を受け農民暴動が起きる。伊庭貞剛は、この騒動の解決のために別子支配人として派遣された。貞剛48歳。

そのとき貞剛は「一身密かに覚悟を定め、妻を捨て、子を捨て、家を捨て、家財を捨て、一身を捨て」と書き残している。煙害問題に捨て身で立ち向っていった。

彼は、煙害問題の原因が自身をも含めた経営上層部を含めた上下の意思疎通の欠如にあったと判断し、採鉱夫や精錬布など現場で働く人びととの交流に心がけた。そして明治28年、精錬所を瀬戸内海に浮かぶ四阪島に移転することを決意した。


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2007年06月15日

伊庭貞剛 1 別子銅山 東延斜坑機械工場17世紀の一時期、日本は銅の産出高が世界一になった。その原動力になったのが四国 新居浜の別子銅山だった。元禄4年(1691)に住友家が開いた銅山である。

幕末期に、アメリカや南米でつぎつぎと銅山が開発されると、産銅国日本の地位は低くなり、幕府崩壊のあと、旧幕府領地だった別子銅山は新政府に接収され住友は経営困難に陥った。

この経営危機に立ち向かったのが、のちの住友家初代総理事広瀬宰平である。
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