guideandanteのblog

「仙台ツアーガイドあんだんて」ホームページ専用ブログです。

先日、宮城の明治村へ行ってきました。

NHK朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」のロケ地として、最近TVでも取り上げられています。

明治村の中でも一番の見どころで、撮影ロケ地になったのはこちらです。

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【旧登米高等尋常小学校校舎】

みやぎの明治村・登米(とよま) | とよま振興公社 (toyoma.co.jp)

ヨーロッパで洋風建築を見てきた数少ない棟梁・山添喜三郎の設計。

懐かしい擬洋風の木造校舎です。

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【廊下・教室】

1,2階とも片廊下式で吹きぬけ廊下。

柱の間にはX字型の欄干がついている。

アメリカ南部などに見られるコロニアル・スタイルを模したものと思われる。

東北地方では、冬の間風雪にみまわれるので、2階の屋根の軒が深くなっている。

採光として教室は両側にガラス窓を贅沢に使用している。

2階バルコニーは校舎全体の中心的な位置にあり、シンボル的な役割を果たしている。

【出典:校舎内の説明、パンフレット】

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現在「おかえりモネ」展が開催中です。

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✦森林セラピーツアー✦

森林セラピー 登米ふれあいの森 (forest100.jp)

個人的には上記ツアーに参加してみたいなと思いました。
森林の中で「森林散策」「樹林気功」「ラフターヨガ」「ノルディックウォーキング」等
ガイドさん付きで楽しめるそうです。

 

まだまだ知らない事の多い宮城&東北の魅力について、これからも掘り下げていきたいと感じました。

ご参考までに、JR東日本企画発刊の「トランヴェール6月号特集」は「擬洋風建築」です。

その中でも「東北は名建築の宝庫」と絶賛されています♪
↓↓

トランヴェール2021年6月号 特集:明治、建築新時代到来 (jreast.co.jp)

(英語/高木美枝)


明けましておめでとうございます。

予想より手ごわい疫病神のようです。 三が日はやはり人込みは避けたいので自重しておりましたが せめて松の内にと思い 大崎八幡神社にでかけました。

平日の午後ですが 思ったより参拝者は多いようです。 しかし 例年の人込みはありません。 

皆さんソーシャルデスタンスは意識され マスクも殆どつけておられます。

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八幡神社表参道二の鳥居から八幡町方面、 例年参拝客が隙間ない程だが今年は疎らです。

二の鳥居には大きな松飾が供えられています。日本一の大きさとか。


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二の鳥居から続く表参道。信じられないほど 人がいません。

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手水舎も今年は 柄杓は無し。 凍ってます。



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ソーシャルデスタンスを取って 拝礼を待ちます。皆さんほんとにお行儀がよろしいです。

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奉献酒樽と並んで松川だるまが仙台らしい。


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正月飾りを納めるどんと祭は 全国的によく知られ 大変な人出だが 今年はどうなることやら。

古いお札を納める場所が設置されている。 毎年 何時納めるか 悩んでいたが 今年は 松が明けたらすぐ納めることに決めた。

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                              例年ここで 正月飾りが納めれれ 裸祭りが行われる。

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今年は縁起の良い丑年となり 景気が上向き 観光業が早く復活することを 祈りましょう。


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 皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。


令和 三年   正月

                                                                                                                                                     Terry






































 


研修(輪王寺2)
今日はあんだんての研修を行いました。コロナ禍だからこそ地元の名所を改めて学びます。

今回は大崎八幡宮と輪王寺をメインにその界隈を歩きつつ、藩政時代から現在につながる仙台を探ろう、というテーマです。メンバー2名が企画しガイドを行いました。

すでによく知っている仙台の町のつもりですが、こうして改めて見学すると知らないことが沢山あって、担当した私もとても勉強になりました。

まずは大崎八幡宮。
七五三ということで、お参りするかわいい子供たちを沢山見かけましたが、目出たいことは七五三ばかりではありません。今日は伊達政宗公が元服した日でもあります。仙台の町を歩いていると、政宗に関係してないところ見つける方が難しいくらいです。名所は政宗と共にあり、観光に訪れる人々は政宗の足跡を見に仙台に足を運ぶのですから、ガイドをする私たちはあらためて政宗公に感謝しつつ、研修をスタートしました。
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伊達政宗公の命により、豊臣家召し抱えの当世随一の巨匠を招き、造営された国宝大崎八幡宮御社殿は、5年に及ぶ平成の大修理を平成16年に終えたので漆塗りが黒々と美しく、金色の金具を引き立てています。いわゆる色彩豊かで絢爛豪華な桃山様式、というのとはちょっと違う趣があり、そこは政宗のセンスを感じさせてくれます。
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大崎八幡宮といえば、どんと祭です。一度イタリア観光客をどんと祭に案内することが出来ました。寒い上に大勢の人でごったがえす祭りですから、どのような反応が返ってくるか少し心配しましたが、この日、ここだけで繰り広げられる伝統、風習というものに価値を見出すイタリアの人たちは、とても喜んでいたのでほっとしました。町行く裸参りに目を丸くし、赤々燃える正月のお飾りを焚き上げる火の山に高揚していたようです。

研修はその後、八幡界隈を歩きました、庄司醤油店は江戸末期から続くみそ・しょうゆの製造販売をしているお店で、現在の趣ある店舗は昭和初期の商家建築です。

近くに宮城生協がありますが、以前はそこに天賞酒造がありました。黒塀がずっと続く様子は門前町に趣を添えていましたが、現在は黒い門だけが残っています。天賞酒造の店舗は、200年以上も前に建てられた由緒あるもので、現在は生協東側に移築し「八幡杜の館」というギャラリーとして、お庭とともに開放され、地域の人びとの憩いの場になっています。

その先、十二軒丁と八幡町大通りが交わる場所に、モニュメントとして置かれてあるのが仙台城石垣の石材です。ごろんと置いてあります。こうして丁寧に街を歩いてみると、意外な発見があります。

なぜここに仙台城の石垣があるのか?道路を渡って、「石切町」と呼ばれた界隈へ行ってみます。400年前、築城のため、堺など関西方面から石切職人が呼ばれ、このあたりに住まわせられました。大阪城も手掛けた石工たちは、最新の技術を携えてやってきたのです。

石切橋のそばに建つ小梨石材店は、なんと藩政時代から続く店。またその近くには赤い鳥居が建っているのですが、遠方はるばるやってきた石工たちが天然石を彫って守り本尊とし、この瀬田谷不動尊を建立しました。
7月のお祭りには、石工たちが周辺の住民と「羽っこ踊り」という踊りを奉納したそうですが、それがスズメ踊りの原形だと言われています。
「瀬田」というのは琵琶湖の南方にある地域の名で、故郷を懐かしんで石工たちがつけたのだろうと思われます。

その先に建つ春日神社の由来を説明した後、神社の前を流れる四谷用水の本流が暗渠となっているところを歩いて進み、人々の生活水としてなくてはならなかったことがわかる洗い場跡も通りました。昭和30年代に暗渠になるまで、洗濯や炊事にとみんなに親しまれた用水だったことを感じます。
「夏には、蛍が佃煮するほど沢山飛び交い、カニを獲って遊んだものだった」という話を、現在80代の方から聞いたことがあります。

四谷用水もまた政宗によって作られたものです。毛利の家臣であった川村孫兵衛重吉という人材の抜擢があってこそ、完成した四谷用水ですが、この人はその他、北上川の治水や貞山掘りなど、仙台藩のために力を尽くした人物です。

四谷用水は、いったんこのような高台に引き上げ、高低差を利用して城下町の隅々にまで行き渡らせました。当時としてはものすごい知恵と技術です。孫兵衛重吉あっぱれです。
研修(江巖寺)
その後、江巖寺と大願寺をまわりました。

江巖寺には政宗公と愛姫の間に生まれた三男、竹松丸君の霊廟があります。今日は扉が閉まっていましたが、通常は祀られているご位牌を拝観できます。両脇の位牌は殉死者2名のもの。
三男が7歳で夭逝した年、松島瑞巌寺が落成します。当時、政宗43歳。微笑山江巖寺の「微笑」に父親の想いを感じます。

一方、大願寺の見どころは、政宗の灰塚と、四代藩主の夫人、仙姫の墓所の門であった山門。
灰塚というのは遺体を収めていた棺桶などを焼却し、その灰を集めて塚にしたもので、他ではほとんど見あたらない、伊達家特有の風習なのだそうです。しかし五代藩主吉村が、過度の葬礼ということで廃止します。四代藩主までの灰塚も北山にあったはずですが、現在は不明。政宗と母の保春院(永昌寺)の灰塚のみが現在残っています。

この界隈はお寺だらけ。山門から見える紅葉やイチョウの秋映えに目を奪われながら街歩きは進みます。こうして最後にやってきたのは輪王寺。

私たちのよく知る伊達政宗は初代仙台藩主ですが、伊達家としては十七世。九世にも伊達政宗という武将がいました。南北朝時代から室町初期にかけての武将です。その夫人、蘭亭明玉禅尼の命によって、孫にあたる十一世持宗が、当時、伊達家の地領であった現在の福島県伊達市に1441年建立したのが輪王寺です。
伊達家の居城は、西川→米沢→会津→米沢→岩出山→仙台と転々とし、輪王寺もそれに従いました。

輪王寺というと、仙台で随一といわれる池泉回遊庭園が有名ですが、明治9年の大火によって、山門以外の七堂伽藍すべてが灰と化したという歴史があります。再興されずそのまま30年もの月日が流れました。今の立派な輪王寺からはまったく想像がつきません。

このことを惜しんだ大本山永平寺と総持寺は、明治36年、輪王寺の住職として、無外和尚を派遣します。この和尚さんがとても立派な方で、寝食を忘れて再興のため一生懸命に働き、大正4年、本堂と庫裡が完成するまでに至りました。また、庭園にも心血を注ぎ、無外和尚晩年には、現在の状態にほぼ整えられたのだということです。
研修(輪王寺1)
曹洞宗開祖、道元禅師は、福井の山の中で、徹底として自然の摂理の大切さを説きました。その教えを受け、境内の膨大な枯れ葉や間伐材を粉砕・発酵させてできた肥料を森づくりに生かしたり、ボランティアの協力を得て3万本以上の植樹を行い、土地本来の森づくりを目指す活動も輪王寺は行っています。

ぞくっとする美しさがある参道は、15年前までは杉の並木がありました。2004年、環状線の渋滞緩和のために北山トンネルが作られることとなり、この参道の真下を走るため、全部伐採しなければならなくなりましたが、この大きな変化も、土地本来の森づくりへの転換としました。参道の脇から続く小道に入ってみると、ふわふわした腐葉土の踏み心地が気持ち良い小さな森が広がっています。


輪王寺には著名な人々が眠っています。
江巖寺は、竹松丸君の菩提を弔うため、父政宗公が建立しましたが、墓はここ輪王寺にあります。そばには愛姫の母の墓石があり、孫は祖母と共に並んで眠っています。竹松丸君は跡取りのない三春の実家へ養子に入る約束の子でした。

赤痢菌を発見した細菌学者、志賀潔博士の墓所も輪王寺にあります。志賀潔は1870年に仙台で誕生したので今年で150年です。母親の家系が代々藩医という志賀家に養子に入り、帝国大学卒業後、伝染病研究所に入り北里柴三郎氏に師事。
日清戦争後、日本で原因不明の病気が流行します。10万人以上が感染、2万人以上が亡くなったそうです。その原因となった赤痢菌を発見したのが志賀潔です。当時26歳というから驚きです。
その後、化学治療を学びにドイツへ留学し、帰国後は再び伝染病研究所に戻り、今度は結核菌の予防・治療の研究をし、結核菌のワクチンを発見しました。

今年は新型コロナで世界が大変な思いをしています。ワクチンが見つからず、その不安はずっと続いているわけです。今年我々はこういう経験を経て、改めて志賀潔の足跡をたどると、その偉業と、その裏に隠された苦労、失敗を重ねてもあきらめず、努力に努力を重ねた彼の人生に思いを馳せます。あの時代にこんなすごい人物が仙台で誕生していたのです。コロナ禍だからこそ、もっと彼の生誕150周年を話題にしなければならないように思うのは私だけでしょうか。
研修(飯森貞吉の墓所)
輪王寺の墓めぐりの最後は、飯森山で自害した白虎隊の中で唯一生き残った飯沼貞吉の墓所です。墓石は会津の方面を向いて建っています。

和歌が刻まれた石碑もあるのですが、是非そちらにもご注目ください。
「あずさ弓、むかうやさき激しくとも ひきなかへしそ もののふの道」
これは貞吉が戦いに向かう時に母親が詠んだ和歌です。したためた紙を襟に縫い付けて送り出したのだそうです。
あずさ弓というのは、神事で使う小ぶりの矢のことで、年端のいかぬ我が子を気高い弓にたとえ、どんなに敵に弓を射られても引き返さないのが武士たるものだ、という思いを詠ったものでしょう。

仲間とともに自刃するも、村人に助けられ奇跡的に一命を取り留めます。

実はここ20年の間に、通説となっていた白虎隊の物語が事実とは違うらしいことが判明しています。それは、貞吉のお孫さんが遺品の中に白虎隊の回顧録を見つけたことから始まります。

飯森山から見えた鶴ヶ城が、すっかり燃えていると錯覚し、年端もゆかぬ子どもたちが早合点し、「もはやこれまで」ととっさ的に自害したと長年語られてきました。しかし、この記録によれば、少年たちは城が落ちてないことを確認しており、その後、1時間半から2時間かけて議論を交わし、最終的に「武士の本文を明らかにしよう」という意見に一致します。すなわち、理不尽な新政府の賊軍扱いに抗議するために自刃したというのが真相です。生き残った貞吉だからこその証言であり、これはとても大きな違いです。

また自刃後、命を取りとめた貞吉の1~2年間の行方も不明でしたが、実は、新政府軍に捕らわれ、捕虜として東京に連れて行く役務にあった長州の楢崎頼三という人物が貞吉を見込んで、自分の実家に引き取ったのです。「会津の者たちと一緒にいるのは辛かろう」という気持ちからでした。「死に損ない」と皆に虐げられているのを見て、会津にこのままいれば、彼の人生は駄目になってしまうと貞吉の父親を説得します。

長州で過ごすようになった貞吉は、当初死にきれなかったことを悔やみ何度か自殺を図ります。その時、頼三から諭されます。「外国船が押し寄せている今、長州、会津などと言っている場合ではない。これからは日本が心を一つにして、立派で豊かな国にしなくてはいけない。それを担うのはお前たち若者なのだ。」

戊辰戦争に負けたことを悔やみ続ける貞吉に、会津の汚名を撤回するには、お前が広く人のために役立つようになれば世間は会津を見直す、と諭したとも聞きます。

戊辰戦争後、会津藩は青森南斗に移住させられ、そこでも会津の人々は大変な苦労を強いられます。
しかし、頼三の言葉の通り、現在、青森で立派に活躍する人たちは大抵、会津の血が流れている人ばかり、というのが定説になっているそうです。「あの人のご先祖は会津だからね」と納得してしまうというのはすごいことではないでしょうか。

貞吉を1年半預かった楢崎家と、貞吉の世話をした高見家では、他には絶対に洩らさぬよう、貞吉のストーリーを代々子孫に語り継がれていたことが、最近になって判明しました。長州にとっても、会津の者をかくまっているということは絶対に知られてはならないことでした。

14歳という年齢で時代に翻弄されながらも、懸命に生きた貞吉のことを誇りをもって、四代にわたって伝えていたということは何とすごいことでしょう。10年ほど前、貞吉のお孫さん(当時70代)と、長州の楢崎家と高見家子孫との交流がありテレビ番組になりました。(YouTubeで見ること可)

こうして宿敵であった長州の地で学問をする機会が与えられ、貞吉は通信省の電信技術者になります。電信網の全国設備に伴い、技術者として各地での勤務を経て、近代日本における電信電話の技術発展に大きな貢献をします。

最後の勤務地は仙台でした。1910年のことです。60歳で退職し、昭和6年に78歳で亡くなるまで仙台に住み続けます。

もし自分の死後、会津の方へ葬りたいという話があったら、これをやれと、息子に髪と義歯を収めた箱を渡していました。しかし当時、会津ではこのことを許さず、飯森山の19人の白虎隊の墓から少し離れた場所に、貞吉の墓石が建ったのは、彼が亡くなって27年後のことです。あの戦争から90年が経っていました。会津の墓には遺言どおり、髪と義歯が納められています。


貞吉の墓所からそう離れていないところに、キリスト教を信仰する人々が眠る区域があります。輪王寺は宗教の分け隔てなくこの地に墓を設けることを承諾していて、寺としてはとても珍しいことなのだそうです。
仙台とキリスト教は、政宗公が江戸から宣教師ソテロを迎えたことに始まり、明治には東北学院や尚絅学院など多くのキリスト教学校が作られます。
このキリスト教共同墓地を歩いてみると、近代の仙台を作りあげるのに、こんなにも多くの外国人たちの協力があったことを改めて感じます。教育と伝道に生涯を捧げた多くのミッションスクールの創始者や外国人宣教師たちにも思いを馳せる今回の研修でした。


(イタリア語担当:サトウ)

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