大西洋クロマグロの全面禁輸を求めるモナコの提案が否決された。日本の関係者は喜んでいるようだが、いろいろと考えさせられる問題である。

 その一つは多くの発展途上国の支持はだれの力によるものか、ということである。日本政府も努力はしたのであろうが、おそらくは中国がアフリカ・中東の票の取りまとめに当たったことが大きいのではなかろうか。

 韓国の新聞の中には、日本はマグロを、中国はふかひれを守る、と書いていたところもあった。その通りかどうかは不明だが、そのようなこともあったかもしれない。

 このようなことがあると、なんというか、日本の食文化を守れとか、日本の伝統を否定するとか、西洋中心主義の押し付けだとか、あたかもマグロに日本の威信と国益のすべてがのっかっているかのごとき議論が出回りがちである。

 本当にそうだろうか。

 それが特に顕著なのが日本の孤立が目立つクジラの問題である。

 捕鯨反対派の連中が言うことには首肯できないものも大変多い。

 いわく「クジラは知能が高い」。「感情を持っている」云々、である。

 それなら無理やり餌を押し込んでフォアグラを作っているのは動物虐待ではないのかなどなど、いろいろ反論出来そうな気もするのだが、大体凝り固まっている連中は聞く耳を持たない人たちが多い-限られた経験の範囲ですが。

 他方日本側の捕鯨支持派のことを考えてもどうかと思うことがある。

 例えば捕鯨やクジラ肉の食用はそれほど日本全体の伝統、などと言えることだろうか。

 民俗学者の宮本常一によれば、日本人は地元でとれるものを食べてきたのだ、ということになる。とくに江戸時代まで、あるいは明治に入ってもかなりの期間、そうだったのではないか。

 新潟の文人鈴木牧之は、秋山郷という山間地域の風俗を絵と文章で残しているが、19世紀前半のその地域ではコメが取れず、雑穀や木の実で生活していたことを書き残している。

 だからと言って今日新潟でドングリなどを食することが伝統の食文化だと言っている話は聞いたことがない。

 クジラ肉にしても、大洋に面した一部地域で行われた捕鯨の経験が江戸まであり、それが全国的になったのは、明治以降それが産業化され、安価な蛋白源として広まったということに尽きるのではないか。

 だとすればそれは何より産業の問題であり、食糧確保の問題である。

 クジラが絶滅の危機にあるか否かについては専門家ではないので何とも言えないが、少なくとも目くじら立てて日本の名誉や国益がかかっているかのごとく論じるのはいかがなものか。

 少なくともこの件で日本の国益や対外的環境を悪化させる必要はないように思われる。

 もう少し実際的に考えたほうがいいと思われるのである。