以下は光明日報の記事の翻訳である(http://www.worldtimes.co.jp/wtop/paper/html_fr10/sr100329.html より転載)。
この記事が興味深いのは、中国の民衆の権利が極めて小さいことを明確に述べていることである。ミニブログがその代用をしている、そのために急速に普及しているのだと論じている。
実際この記事だけ見ても、「両会」の代表が指摘しなかった地域の問題が、ミニブログで開かされたとしている。
そして最後には「ミニブログの世界から、われわれは民衆に欠けているのは思想や意見ではなく、権利であることを見て取れる」とまで述べているのだ。
光明日報が政府系の新聞の一つであることを考えると、中国政府自身、社会のあり方に変化をもたらそうと考えている、その兆しかもしれない。
「光明日報(中国) 2010年3月23日
中国民衆の声を代弁するミニブログ
中国の「ミニブログ」は中国バージョンのツイッターと呼ばれるが、それが社会で果たす役割はツイッターの役割をはるかに超えている。
人民代表大会(議会)と政治協商会議(助言機関)は人民の政治参加や人民の発言を代表する権限を付与された機関だが、中国公民は実際には対等の声(の代弁者)を欠いている。これこそなぜミニブログがネット世界で急速に人気を得たかという理由である。
昨年誕生した中国のミニブログは今年の「両会」(全国人民代表大会と全国政治協商会議)で新たな高みに押し上げられた。(3月14日の)両会閉幕後から今日までの間に、山西省での異常ワクチン接種死亡事件、雲南、貴州両省の干ばつ持続・悪化、中国の社会を驚かせた地溝油(下水道の汚水や残飯から作られたリサイクル食用油)事件などが人々の注目を集めたが、それらはミニブログの迅速な情報伝達と無関係ではない。
「両会」では山西や雲南の代表はそうした問題を提起しなかったが、ネット世界を通じて中国のメディアや公衆は広く知るに至った。これこそ、中国の公衆が自らの声を発するメカニズムが普遍的に欠けていることに対する一種の反応である。
伝統的なジャーナリストやメディアは規制を受けるシステムやメディア・チャンネルの中でしか存在できず、ジャーナリストや公共知識人が声を発するチャンネルはみな「規制」を受けている。これとは反対に、ミニブログの世界では、多くのメディアやジャーナリストが流す情報の流動性と伝達はまれに見る自由と開放性を持っている。
中国では特殊な国情下の特殊な体制メカニズムにより、中国公民が持つ発言チャンネルは極めて少ない。だがミニブログの出現で民衆は自らの声を伝達する民間チャンネル・システムの代替品を持つに至った。昨日のブログ、今日のミニブログは民衆の日増しに強まる人権擁護意識や政治参加意識の向上を体現したものにすぎない。たとえ、ブログやミニブログがある時点で消失するか失効するとしても、中国の民衆は依然として新しい代替品を探し出すことができるであろう。
ミニブログの世界から、われわれは民衆に欠けているのは思想や意見ではなく、権利であることを見て取れる。民権を持たない中国公民はネット世界においてのみ本来持つべき民権を体現しているのだ。ミニブログは中国社会構造のアンバランスを映すもうひとつの鏡となっている。」
この記事が興味深いのは、中国の民衆の権利が極めて小さいことを明確に述べていることである。ミニブログがその代用をしている、そのために急速に普及しているのだと論じている。
実際この記事だけ見ても、「両会」の代表が指摘しなかった地域の問題が、ミニブログで開かされたとしている。
そして最後には「ミニブログの世界から、われわれは民衆に欠けているのは思想や意見ではなく、権利であることを見て取れる」とまで述べているのだ。
光明日報が政府系の新聞の一つであることを考えると、中国政府自身、社会のあり方に変化をもたらそうと考えている、その兆しかもしれない。
「光明日報(中国) 2010年3月23日
中国民衆の声を代弁するミニブログ
中国の「ミニブログ」は中国バージョンのツイッターと呼ばれるが、それが社会で果たす役割はツイッターの役割をはるかに超えている。
人民代表大会(議会)と政治協商会議(助言機関)は人民の政治参加や人民の発言を代表する権限を付与された機関だが、中国公民は実際には対等の声(の代弁者)を欠いている。これこそなぜミニブログがネット世界で急速に人気を得たかという理由である。
昨年誕生した中国のミニブログは今年の「両会」(全国人民代表大会と全国政治協商会議)で新たな高みに押し上げられた。(3月14日の)両会閉幕後から今日までの間に、山西省での異常ワクチン接種死亡事件、雲南、貴州両省の干ばつ持続・悪化、中国の社会を驚かせた地溝油(下水道の汚水や残飯から作られたリサイクル食用油)事件などが人々の注目を集めたが、それらはミニブログの迅速な情報伝達と無関係ではない。
「両会」では山西や雲南の代表はそうした問題を提起しなかったが、ネット世界を通じて中国のメディアや公衆は広く知るに至った。これこそ、中国の公衆が自らの声を発するメカニズムが普遍的に欠けていることに対する一種の反応である。
伝統的なジャーナリストやメディアは規制を受けるシステムやメディア・チャンネルの中でしか存在できず、ジャーナリストや公共知識人が声を発するチャンネルはみな「規制」を受けている。これとは反対に、ミニブログの世界では、多くのメディアやジャーナリストが流す情報の流動性と伝達はまれに見る自由と開放性を持っている。
中国では特殊な国情下の特殊な体制メカニズムにより、中国公民が持つ発言チャンネルは極めて少ない。だがミニブログの出現で民衆は自らの声を伝達する民間チャンネル・システムの代替品を持つに至った。昨日のブログ、今日のミニブログは民衆の日増しに強まる人権擁護意識や政治参加意識の向上を体現したものにすぎない。たとえ、ブログやミニブログがある時点で消失するか失効するとしても、中国の民衆は依然として新しい代替品を探し出すことができるであろう。
ミニブログの世界から、われわれは民衆に欠けているのは思想や意見ではなく、権利であることを見て取れる。民権を持たない中国公民はネット世界においてのみ本来持つべき民権を体現しているのだ。ミニブログは中国社会構造のアンバランスを映すもうひとつの鏡となっている。」