艦長日誌 西暦2011年4月3日 その2

今回歩いたルート図。画像クリックで拡大。
豊後街道鶴崎〜八幡田


 さて豊後街道歩きは乙津橋を渡ります。
鶴崎で3時間も費やしてしまったので先を急がねば。
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 乙津は鎌倉時代からの良港で、海上交通の重要拠点のひとつとして栄えた場所。

 乙津橋から進行方向左手に神社の屋根が見えたので立ち寄ってみる。【乙津天満社】は万治三年(1660年)の創建。この近くに白龍社と後藤碩田旧宅跡があるらしいのだが、道が入り組んでいて見つけきれなかった。
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 乙津の交差点から国道197号の北側に渡り、そのままJR日豊線の踏切を越えてから線路沿いに西へ進む。このあたりからは区画整理などでかつての豊後街道の名残はほとんど残っていないようで、正確なルートもわからないので、とりあえず地図を見て面白そうな道を選んで歩いていく。
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 三川上公民館に立派な鏝絵があった。大分市出身の鏝絵師「仁五」氏(本名:後藤五郎)が寄贈したものだそうです。三川地区は上と下に分かれており、三川天満社の夏祭りでは、それぞれの地区から豪華な山車が練り歩きそれは勇壮な祭りだとか。上地区の山車には龍神模られているそうで、そのことから公民館に一対の龍の鏝絵を寄贈したんだとか。ぜひ一度見に行ってみたいもんです。
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 菜の花に彩られた川を渡る。コンクリート護岸の味気ない川もこうなると華やか。
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 川を渡った先にある桃園公園の中を突っ切る。公園では花見の真っ最中。子供たちが元気に走り回ってます。
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 春川中学の前の寺崎町一丁目交差点を通過し、そのまま寺崎橋を渡って日吉にある【鷹松神社】へ。建久二年(1191年)に近江の日吉大社から勧請した古社。この時点ですでに正午を過ぎていたので、境内ベンチで軽く食事。地図を取出しこれから先のルートの確認をする。
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 歩行を再開。鷹松神社からそのまま西へと真っ直ぐ進む。ところどころに、こういった昔の雰囲気を残す民家が残っているが、こういう和の建築はこれから先減ることはあっても増えることはないんだろうな。ふと鳥居が見えたので道を外れて行ってみると高松第二公民館。もとは金比羅神社だったようで、社殿はまるっと公民館の建物になっていた。
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 なおも西へ西へと進み萩原商店街を通過。日曜日だからか、少し寂れた雰囲気。
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 西萩原の交差点から国道197号を越えて南に進み、牧二丁目に鎮座する【御霊神社】に立ち寄る。建久二年(1191年)創建の古社で後白河法皇を祀る。そういえば【高松神社】も同じ建久二年の創建だ。なにか関連があるのか?
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 そのまま牧を西進、途中から南西に進んで裏川沿いの公園へ。裏川沿いは桜の名所。かなり開花が進んでそろそろ見ごろを迎えそう。
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 牧から下郡方面へ進み北下郡ガード西交差点を通過、滝尾橋へ。ここでJR日豊線をくぐり大分川沿いに南へと進路をとる。
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 大分川の土手を歩く。豊後街道は大分川沿いを通っていたそうで、地元では「ひごどん道」と呼ばれていたとか。川岸になにやら石積みがいくつもあるがなんだろう。川漁師の船着場? 護岸のためのもの?
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 久しぶりに舗装路を長距離を歩いて足裏が痛くなってきた。土手を川側に下りて未舗装の踏跡を歩く。この方が楽だし街道歩きの情緒も感じられる。
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 森岡のあたりまで来ると、森岡小学校が建つ高台が桜で見事にピンクに染まっていた。
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 森岡大橋北交差点を渡り旧道へとすぐにこんな石造物がある。大きな一つの岩を削り出したもののようだが、笠はあるが灯篭ではない。道路から見れる範囲では中をくりぬいて祠にしている風にも見えないだが、なんだろうか?民家のすぐ横なので残念ながら奥の面を見れなかった。
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 旧道沿いの崖には横穴が多く見られ、道沿いには石造物もちらほら。こちらの祠は金比羅社と天満社の祠のようだ。この先にこんぴら橋があるが、この金比羅社からつけられた名前なんだろうか。
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 こんぴら橋を渡って光吉方面へ。国道10号線を横切り光吉の旧道を進む。光吉のローソンの前の角に石幢や五輪塔らしきものが建っている。ろうそくや水が備えられており、地元の方が大切にしているのが分かる。
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 大分自動車道光吉ICの近くは水路があり、水路開削の記念碑(藤野渠記)が立っていた。『渠』とは人工の水路(井路)のことで、藤野渠の名は井路開削に特に功労のあった首藤周三、長藤淺吉、朝来野武八の三名の氏名から文字をとって名づけられたそうで、明治十二年に開通したようだ。
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 道路端にお地蔵さんを祭った祠。その向には立派な純和風建築の民家。この周辺はすっかり開発されてしまったイメージがあったが、まだこういう風景が残っていたんだなぁ。
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 そのすぐ先に長藤淺吉翁の功徳碑とお墓が立っている。幕末から明治にかけて大分の養蚕に貢献した方のようです。先ほどの藤野渠記にもこの方の名が出てきます。
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 道は七瀬川に突き当たる。ちょっと北の国道210号(通称ホワイトロード)との三叉路に『従此川中西臼杵領』と刻まれた臼杵藩境界石柱が建っている。元は川端にあり、後年竹林内で発見され昭和三十四年の堤防造成工事の際にここに移された。大分は江戸時代は小藩に分断され、府内藩の他に、肥後藩・岡藩・臼杵藩・島原藩などの飛地や天領が入り混じった複雑な土地だった。この川の向こうは臼杵藩の領地だったんだね。この場所には先ほどの藤野渠(ここでは「藤野井路」と刻まれている)の改修記念碑も建っている。
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 かつてはこのあたりから七瀬川を渡って八幡田へと進んだようだ。川へと下りる階段はあるのだが橋はかかっておらず、大きく迂回して田尻橋を渡るしか術がない。今の時期は水量が少ないので濡れれば渡れなくもないが・・・。仕方ないので土手沿いを進み田尻橋を渡って八幡田へ。
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 八幡田地区に入り土手を少し東へ戻ると【八幡田社】の鳥居が見えた。立派な石殿のお社は平成14年に建て替えられたもの。
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 八幡田地区は古い家が多く雰囲気の良い路地が広がっている。曲り角には六地蔵の石幢や石仏祠、供養塔。こういう道を通るのはワクワクする。
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 先ほどの『従此川中西臼杵領』と刻まれた臼杵藩境界石柱のちょうど対岸あたりにある「妙瑞寺」。日蓮宗のお寺です。この地点で15時半。今日の豊後街道歩きはここまでとする。本日の歩行距離約20km。本来鶴崎から最初の宿場町野津原までが20kmほどらしい。まだ野津原までは少々あるんだが・・・。なにせ鶴崎でグルグルと寄り道しまくりで時間もかけすぎた。ま、楽しかったからよし。次回の歩きはここ八幡田地区から再開しましょう。
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<−−− 2011年10月2日 追記 −−−>
 妙瑞寺のすぐ近く、民家横の畑の際に『筵会所跡』の標柱が立っている。
江戸時代後半、莫大な借金による財政難に苦しんでいた臼杵藩は農民に七島藺の栽培を奨励して畳表(青筵)を作らせ、文化四年(1807年)ここに七島藺の集荷所を設けて藩の専売制とし、大阪へ出荷してその売り上げを藩財政の一助とした。明治に入り藩政の手を離れると会所は倒産した。
なお、七島藺生産は豊後では日出・杵築藩や、府内藩を中心に広がり、七島藺で編まれた表(青筵)は豊後の特産品となり豊後表とも呼ばれた。その七島藺導入に功績のあった人物を祀る神社として杵築市に【青筵神社】、大分市には【青島神社】がそれぞれ鎮座している。
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<−−− 追記ここまで −−−>


 さて今日の豊後街道歩きはここで一旦打ち切りだが、ここから自宅方面まで交通の便も不便なので歩いてかえることに。さすがに疲れて足も痛くなっていたがゆっくりのんびり歩いて17時くらいには帰宅。よく歩きました。


○ 【豊後街道を歩く 目次】

○ 【豊後街道を歩く 鶴崎編】
○ 【豊後街道を歩く 乙津〜八幡田】
○ 【豊後街道を歩く 八幡田〜野津原】
○ 【豊後街道を歩く 野津原〜今市】
○ 【豊後街道を歩く 今市〜神堤】
○ 【豊後街道を歩く 神堤〜久住宿】
○ 【豊後街道を歩く 久住〜笹倉】
○ 【豊後街道を歩く 笹倉〜宮地】
○ 【豊後街道を歩く 宮地〜的石】
○ 【豊後街道を歩く 的石〜大津】
○ 【豊後街道を歩く 肥後大津宿】
○ 【豊後街道を歩く 大津〜熊本札の辻】