映画のメトダ

【メトダ】とはポーランド語で【方法・方式】の事です。 世界有数の映画大学であるポーランド国立ウッチ映画大学に通う筆者が学校で学んだ事、自分で実践している事などなど、映画製作に関わる事を書いています。

2018年08月

ドキュメンタリーの真実とは何か?

ここで、思い出してほしいのが『ドキュメンタリー映画とは何か?』の1回目に書いたこの言葉。

ドキュメンタリー映画とは映画である。

実はドキュメンタリー映画の最大の目的は「内容をいかに観客に信じ込ませるか」にあります。ドキュメンタリー映画において、その内容に真実味があればある程、観客はその世界に共感し感銘します。

さて、ここでフィクション映画の最大の目的も思い出して見ましょう。
フィクション映画の最大の目的は「観客を楽しませる」です。
フィルムメーカーは観客を楽しませる為にどうするかに心血を注ぎます。

どのように観客を楽しませる?


聞いたこともない珍しい話?
奇抜な設定??
荒唐無稽な話???

これらは観客の注意を引く十分な要素になりえます。
しかし、最も大事なのは、それらの変わった設定や世界をいかにリアリティーを持って提示できるか?が、大前提として存在しています。
どんなに奇抜で面白い発想も、リアリティーのかけらの無い世界では観客は楽しめません。

そう、ここで繋がりましたね。
実はドキュメンタリーもフィクションも基本の目的は同じ。
「いかに映画の世界を信じ込ませて、観客の興味を引くか」なのです。

そして、この2つの違いは「創作であることを前提で観るか」と「実在するシュチュエーションであることを前提として観るか」の違いでしかないのです。

前回ドキュメンタリーの定義は真実が1〜99%含まれており「ドキュメンタリーであると宣言すること」と述べましたが、ここで大事なのは100%は存在しないことです。

ドキュメンタリー映画の真実とは客観的な事実にどれだけ近いかでしかありません。
客観的事実はとは感情とは切り離された動かない事実のことを言います。
例えば「9.11は2001年にアメリカニューヨークで起きた」これは動かない事実です。
しかし、真実は沢山あります。犯人側から見れば傍若無人なアメリカをやっつける聖戦であったり、被害者側から見れば単なるテロ行為。沢山いる被害者の中でも様々な考え方があるでしょう。その様々な考え方というのが主観となります。
客観的な事実を主観を通してみることで、それぞれ違った真実となります。そもそも、撮影中、登場人物の考え方と監督の考え方は全く別です。そう既に、登場人物と監督の事実は違っているのです。映画は監督の主観で物事を切り取り、現実味を持って提示します。それは明らかに主人公の考えている事実とは異なります。

こうなると、真実なんて無いも同然となってきます。

多くの観客は「ドキュメンタリー映画で見た内容=真実」と思い込む傾向があります。

もちろん、真実に近いパーセンテージを誇る映画も沢山ありますが、逆に1パーセントのベースに99パーセントの創作を加えている映画もあるのです。

日本では欧米に比べて、ドキュメンタリー映画を見た観客が映画の内容を信じる傾向が高いと言われています。(すみません!以前読んだ統計データが発見出来ず、ソースが提示できませんが、20〜30%ほど、その割合が高かったです)

それは「ドキュメンタリー映画=真実が前提である」という間違った前提で見るからです。

ドキュメンタリー映画に誠実さが存在しているならば客観的な事実にどれだけ近づけるかの一点のみです。そのパーセンテージが高ければ高いほど、おそらくフィルムメーカーとしての誠実度が高いとも言えます。しかし、同時に映画監督はエンタテナーです。観客を喜ばせるという観点において、そのパーセンテージが低くても、それが悪い映画監督とは言えないのです。

さて、ここでもう一度言います。ドキュメンタリー映画とは何か?

それは映画である。
そこにはフィクションと何ら違いがありません。

ドキュメンタリー映画に一番大事なのは実は観客のこの認識です。
だからこそ、観客は映画を楽しんだことと、映画の内容の真偽を別と考え、さらに色んな映画を見ることで色々な考えを膨らましていって欲しいのです。

そして、作り手は「何を最も大事にするか」を自分自身で判断し、パーセンテージを調整し、観客にエンターテーメントを提示して下さい。

なぜ、ここまで長く「ドキュメンタリー映画とは何か?」ということを長々書いたのか…実は理由があります。

私はドキュメンタリーにおいて、嘘をつくことに物凄く抵抗があります。
映画監督は平気で「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言ってのけます。そのことにずっと違和感しかありませんでした。
もともと私はドキュメンタリーの撮影に興味なく、学校の課題でイヤイヤ撮り始めたのがきっかけでした。この "嘘をつく" という耐え難い行為と映画監督として"面白い物を作りたい" という狭間の中で悩み、苦しみ、その葛藤はおおよそ4年続きました。
最終的に『Their Voices』を作ったことで、ドキュメンタリー映画製作の世界の素晴らしさに辿り着きました。それは自分が『客観的な事実』により近づけても、面白い映画となるテーマを見つけることで叶いました

ですので、私には十分に自分が信じたテーマ以外のドキュメンタリー映画は作れません。
フィクションは違います。特に興味なくても、自分の技術を最大限駆使し、それなりに面白いものを作る自身が有ります。それはフィクションは心置きなく”面白さ”のみを追求することが出来るからです。

私はドキュメンタリー映画を撮りたいと考えているすべての人々に、一度このテーマについて、きちんと考えて欲しいです。その上で「エンターテーメントである映画をどのように作るか?」をきちんと認識した上で、作り始めて欲しいです。
その為、実際の製作テクニックの説明に移る前に長々と回りくどい話を致しました。

現在、世界中でドキュメンタリーの市場が拡大しています。だからこそ、作り手としての意識をどこに持っていくか十分に考えて欲しいのです。


さて、フィクションとドキュメンタリーの違い、またドキュメンタリーの種類と分類を見てきました。

ここまで、読んできて皆さんお気づきになったことはありませんか?

「ん?結局、フィクションとドキュメンタリーの違いって何だ?」と、改めて思いませんでしたか?

ここで、一つ言えることは、ドキュメンタリーとは映画の内容に数パーセントでも事実が入っており「これはドキュメンタリーだ!」と、宣言さえしてしまえば、ドキュメンタリーとしてカテゴライズされるということです。

そして、真実のパーセンテージは映画によって1〜99%と様々です。

例えばモキュメンタリー。

とあるクルーがUMAをアマゾンに探しに行きます。
出演者は実名で登場し、本当にアマゾンに探しに行って現地で撮影さえしちゃえば、ドキュメンタリーカテゴリーです。ここにある真実は「実名の出演者がアマゾンに怪物を探しに行く」です。

その一点さえあればジャングルの中で出会った原住民が実は仕込みだったり、アリもしないUMA足跡に派手にリアクションするのも、ドキュメンタリーの中のモキュメンタリーとして許容される範囲なのです。

もちろん『アマゾンにUMAを探しに行く』という分かりやすいモキュメンタリーは観客もモキュメンタリーだということを前提にして楽しむ事が出来ます。

しかし、モキュメンタリーはモキュメンタリーでも、一見すると分からない映画も実は沢山あります。『観客を騙し切る』という目的において、徹底的にリアリティーを追求し、ドキュメンタリーらしく演出した作品もあるのです。その仕掛けは劇中でネタバラシされたり、エンドロールの中に隠れていたりと様々です。当然、エンドロールを観ないで帰った観客は騙されたままです。
ただ、どんな形であれ、きちんとネタバラシされている映画は良心的です。

ネタバラシされることなく、モキュメンタリーであることも公表してない映画も沢山存在します。

これはどこから分かるかというと…フィルムメーカーはある程度、経験を積むことによって、映画がどのようにして撮影されているか判断できます。ドキュメンタリー映画の特定のシーンでも「ああ、ここ演出されてるな…」とか。そういった、小さな違和感を総合して判断すると、その映画がモキュメンタリーである事が判断出来ます。これらのネタバラシをしない系のモキュメンタリーはマーケティングにも密接に関係しており、あるポイントで映画の外(例えばインターネット上や大きな映画祭の舞台など)でネタバラシをして、さらに話題を誘う…という物もあります。

モキュメンタリーはモキュメンタリーとしてカテゴライズされている限り、エンターテイメントとして優れたコンテンツとして成立します。

ただドキュメンタリー映画の厄介な部分もあります。ここで、嘘の世界を見せる前提であるモキュメンタリーから外れた他のドキュメンタリーについて言及していきます。

前回紹介したように、ドキュメンタリーのカテゴリーは自然、エコロジー、経済、政治女性、歴史、暴力、原住民、災害、子供時代、植民地、コミュニケーション、消費、病気、犯罪、などなど数え上げるとキリがないぐらい多様です。

そこで重要なのが、特定の主張を広めるために、イデオロギーを重視したようなドキュメンタリーも存在します。いわゆるプロパガンダですが、日本人はプロパガンダというとイコール政治、政府がやるもの…
というイメージがありますが、ドキュメンタリーの世界には当然のように存在しています。

一番分かりやすいのは環境問題でしょう。

例えば「CO2の増加が地球温暖化を促進している」「南極の氷が溶けているのは森林伐採のせいだ」など、いろんな事が言われいます。これらの言説については今も議論が行われていて、本当の所、学者によって様々な見解があり、結論としてはあやふやなものが多いです。しかし、世界中には数多くの環境問題に関した映画が存在します。「CO2のせいで地球温暖化が促進している」という観点から撮られた物から、「地球温暖化なんて嘘だ」という観点まで様々です。これらは、製作者のイデオロギーに影響されていたり、支援団体からの製作依頼によって作られたり様々です。これらの特徴は見解や認識が学者や有識者によって半々に分かれていた場合、その半分を極端に無視して自分たちの押す意見を真実然として描いていきます。こういったプロパガンダ的な映画はそのほかにも健康問題、食品問題、当然政治や歴史的なテーマ等様々な所で見受けられます。

モキュメンタリーやプロパガンダ的な映画を外せば真実に近いパーセンテージと言えるのでしょうか?

ドキュメンタリーの真実がどこにあるのか?
それを考察して行く必要性があります。



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