タグ

タグ:シェーンベルク

シェーンベルクの「グレの歌」(小澤征爾/BSO)

カテゴリ:
シェーンベルク:グレの歌(小澤征爾、BSO)


ジェシー・ノーマンの訃報を聞いたのと、このところ新ウィーン楽派の音楽を立て続けに聞いている流れから、シェーンベルクの「グレの歌」を聞いてみました。
フィリップス原盤の小澤征爾/BSOによる1979年のライブ録音で、まだこの曲の録音が多くなかった頃の貴重なアルバムのひとつです。

主な出演者は次のとおりです。

ワルデマール(王):ジェームス・マックラッケン
トーヴェ(少女):ジェシー・ノーマン
山鳩:タティアナ・トロヤノス
農夫:ダヴィッド・アーノルド
道化:キム・スコウン
語り:ヴェルナー・クレンペラー

この曲は、
・CD(LP)2枚にわたる長大なものであること、
・100名を軽く超える大規模なオーケストラと合唱、それに独唱者が必要なためコスト面から演奏困難であること、
・十二音音楽で活躍したシェーンベルクにしては聞きやすい音楽であること、
から、比較的名前は知られているものの、コンサートのみならず録音もそれほど多くはありません。

2011年に東京poが創立100周年を記念して「グレの歌」を取り上げ、やっと生で聞くことができると喜び勇んでチケットまで入手したのに、東日本大震災で中止となり、チケット料金は返金されました。
それから2年後、やっと再演が決まったときには、もう行くことが叶いませんでした。
そして、今年2019年は、なぜか「グレの歌」イヤーになっているようです。
3月に読響(カンブルラン)、4月に都響(大野和士)、10月は東響(ジョナサン・ノット)と、三回もコンサートで演奏されるのです。
実は、この記事を書くにあたって「オペラ対訳プロジェクト」で歌詞対訳を眺めていてこのことを知りました。
しかし、このところ家の修繕やら何やらで、とてもコンサートに行ける環境ではありません…

今回は「オペラ対訳プロジェクト」の翻訳もありますが、もうひとつ、いつもお世話になっている「梅丘歌曲会館」の対訳のお世話になりました。
こちらを選んだのは、ひとつひとつの曲に、翻訳をされた藤井宏之さんが解説を付けておられて、これも読みながら聞いた方が理解しやすいからです。

この曲は、一言でいえば演奏会形式のオペラみたいなものと理解した方がわかりやすいと思います。
粗筋は次のようなものです。

(第1部)
中世のデンマーク王ワルデマールは、少女トーヴェに恋をして、二人は道ならぬ恋に落ちてしまいます。
激しく燃え上がった恋は王妃の知るところとなり、トーヴェは王妃に毒殺されてしまいます。
二人の愛の悲恋の中で死んだトーヴェを悼み、ワルデマールの嘆きを山鳩は歌い上げます。
(第2部)
トーヴェを失ったワルデマールは、悲痛のあまり、あろうことか神に向かって怒りと呪いの言葉を口走ります。
(第3部)
天罰で命を失ったワルデマールは、トーヴェが住んでいたグレの地を亡霊となって部下とともにさまよい、農夫を怖がらせたりします。
最後の審判の日になっても、ワルデマールはトーヴェと切り離すことはできないと、二人の愛を高らかに歌い上げますが、部下たちは墓場の中に戻っていきます。
そのときに吹きわたった一陣の「夏の風」が、森も、虫も、鳥も、再び命の輝きを現して終わります。


ジェシー・ノーマンが歌うトーヴェは、第1部にしか登場しませんけれども、やはり存在感のある声を聞かせてくれています。
この録音の当時、彼女は34歳くらい、ヨーロッパで名声を確立し、METに凱旋帰国した頃でしょうか。
小澤征爾がどんどんテンポを上げていって、オーケストラの方がアンサンブルを乱してもジェシー・ノーマンは余裕と自信をもって歌い切っている感じがします。
ただ、トーヴェにしては声がしっかりしすぎて可憐さに欠けるかなというのと、録音のせいもあるのでしょう、対訳を見ながら聞いていると、ドイツ語が若干聞き取りにくいところがあります。

この曲の中でも比較的有名な、第1部の終わりにある「山鳩の歌」はトロヤノスが歌っています。
性格的な表現が得意なトロヤノスですから、自在に声を操りながら悲しみと同時に、二人の楽しかった日々を朗々と歌い上げているところは、小澤征爾の劇的な伴奏が曲想に似合っているかもしれません。

さて、小澤征爾が指揮するこの録音は、「グレの歌」のオペラ的な側面を強調して、かなりダイナミックに表情豊かな音楽を聞かせてくれています。
わたしが最初に聞いたブーレーズ盤のような、どちらかというと静的な仕上げの音楽とはまるで違いますし、厳しさに満ちたケーゲル盤とも異なります。
この劇的な演奏は、ひょっとするとライブという高揚感がもたらしたものがあったのかもしれません。
これを聞いた聴衆は、恐らくは興奮のるつぼに入って、記憶に残るコンサートであったでしょう。
しかし、録音で客観的な聞き方をしますと、若干のやり過ぎ感が伴うと感じるところもありそうです。

この辺が生の音楽と録音で聞く音楽との違いで、自分が聞いたコンサートのライブ録音をあとから聞くのが怖くなるゆえんでもあります。

シェーンベルクの「六つのオーケストラ歌曲」(シリヤ、ドホナーニ/VPO)

カテゴリ:
イメージ 1



VPOのBOX、60枚目に収録されているシェーンベルクの「六つのオーケストラ歌曲」を聞いてみました。
1979年のデジタル録音で、アニヤ・シリヤの独唱、ドホナーニ/VPOの伴奏によるものです。
この時期、シリヤとドホナーニは婚姻関係にあり、二人で録音した中の1枚でもあります。
オリジナルLPでは、やはりシェーンベルクのモノドラマ「期待」とのカップリングでありましたが、当然これも二人の共演です。

この作品はシェーンベルクが1904年に作曲したもので、作品番号8ということですから若い時期のものでして、「浄められた夜」の5年後ということになります。
ミントンとブーレーズの録音で先に聞いた「四つのオーケストラ歌曲」は作品番号22で1914年頃の作品でありましたから、遥かにロマンティックな歌曲です。

今回もまた、日本語対訳は梅丘歌曲会館のお世話になりました。

第1曲「自然」
短い序奏で始まる緩やかな音楽に乗って、ゆったりとした歌が入ってきたあと、第2連では晴れやかな自然賛美を歌い上げるところがシェーンベルクらしい豊かな響きです。
最後は落ち着いた音楽で、後奏の艶やかなVPOの響きが印象的です。

第2曲「紋章の盾」
これは「子供の不思議な角笛」から詩を取ったもので、どれだけ激しい不幸の嵐が襲ってきても敢然と立ち向かうというもので、音楽もそれに見合う勇壮なものです。
聞いておりまして、まるでワグナーのオペラを聞いている気分になります。
盛大に鳴り響くオーケストラに対抗できるだけの声が必要ですから、シリヤにはピッタリの曲です。

第3曲「あこがれ」
これも「子供の不思議な角笛」から詩を取ったものですが、今度は恋の歌で、ちょっと思いつめたようなところが複雑な響きから感じてしまいます。
前の曲の激しさとのコントラストが面白いところです。

第4曲「決して私は、飽きることなく」
ここからの後半3曲は、ペトラルカのソネットのドイツ語訳から詩を取っています。
もちろん愛の歌ではありますけれども、第3曲から比べると上品さが増した音楽のように聞こえます。
素材が民謡から古典に移行したことを音楽に反映しているようです。
燃え上がる恋の炎は、ちょっと「トリスタン」を髣髴とさせる激しさです。

第5曲「満ち溢れる甘美さ」
これまた熱烈な愛の歌ですけれども、前の曲が極めて開放的というか、赤裸々な感情をむき出しで歌い上げているのに比べると、こちらは少し内面的というか、内に秘めた恋という感じがする音楽です。
シリヤの声を聞いておりますと、切々たる思いの表白みたいに聞こえます。

第6曲「小鳥が嘆き」
亡くなった恋人を思い嘆くかのような詩に、悲痛な声でシリヤが歌い上げ、そこにまた劇的な激しさでオーケストラが鳴り響くものですから、なんだかこの世の終わりみたいな気分になってしまいます。

この歌曲集を聞いておりますと、詩の選択と、それに合わせた音楽のコントラストの妙が聞きどころではないかという気がします。
部厚いオーケストラの響きに対抗して歌えるのは、やはりワグナー歌手でないと無理かなという感じがします。
はっきり言って、先に聞いた「四つのオーケストラ歌曲」に比べたら、遥かに聞き応えのある曲ですのに、梅丘歌曲会館の解説でも書かれておりますように、録音数が多くないのはいささか私も残念な感じがします。

ただ、この録音の難点があるとしたら、シリヤの言葉の聞き取りにくさです。
なまじフィッシャー=ディスカウの歌曲とかを聞いておりましたので、対訳の追いかけにくさは、なかなかのものでした。

シェーンベルクのモノドラマ「期待」(ドホナーニ/VPO)

カテゴリ:
シェーンベルク:6つのオーケストラ歌曲(シリヤ、ドホナーニ、VPO)

  
 
デッカBOXの14枚目の最初は、シェーンベルクのモノドラマ「期待」が収録されています。
1979年の録音で、独唱はアニヤ・シリヤ、クリストフ・ドホナーニ/VPOによる演奏です。

実は、この録音はLP時代から聞いているもので、CDになってからも「ヴォツェック」の余白に収録されていました。
全く同じ録音を三つも持つというのも悲しいことですが、唯一の救いは、今回のBOX収録のCDは、記憶にある音質よりも、かなり良好であるということです。

シェーンベルクが「モノドラマ」と題して作曲したソプラノ1人が登場するオペラで、1909年に作曲されたものの、初演は1924年にプラハで行われたようです。
これといったストーリーはなく、女性の心理劇と言ってもいいようなものですから、なかなか上演することが難しかったのではないかと想像できます。
しかも、この録音でも30分弱の長さしかありませんから、単独での公演は興行上も難しいものです。
ジェシー・ノーマンの来日公演では、プーランクの、やはり女性一人が登場する「声」と組み合わせて上演したという記録がありますが、残念ながらその舞台は見ておりません。

全体は4場に分かれており、第1場では月明かりの中、愛する男を探し求めて森の中に踏み入れようとします。
第2場では、森の中に入り込んで、探し求めながらも、待てど来なかった男を回想します。
第3場は、依然として森の中で物音に怯え、男に助けを求めて叫び声をあげます。
第4場では、やっと見つけた家は明かりもなく、座ろうとしたベンチは探し求めていた愛する男の死体です。
女は男の死体に向けて愛を語りかけ続けますが、突然別のもう一人の女に思いあたり、不実を責めますが、やはり好きであることには変わりがありません。
最後に目覚めたように「ああ、あなたはそこにいる、私は探していた」(Oh, bist du da... ich suche...)というところで終わります。

このオペラは、どうも一筋縄ではいかないところが魅力でもあります。
台本を書いたのはマリー・パッペンハイムという27歳の医大の女子学生で、ツェムリンスキーを通してシェーンベルクと知り合い、台本作成の依頼を受けたようです。
この時期、ウィーンではフロイトが一世を風靡していた時代で、シェーンベルク自身も、また台本作者であるマリーもその影響を強く受けていたものと思われます。
ですから、主人公の女性はヒステリー症状下の夢を見ていただけで恋人の男は存在せず、最後の「あなた」は医者のことという説明もあるようです。

この心理主義的な台本にふさわしい音楽をシェーンベルクは書いており、調性はない不安定さが、主人公の女性の心理状況を表現するにはぴったりはまっているように感じます。
そこをシリヤが硬質の声で歌うのが、かえって非現実性を強めているようです。
難点はシリヤのドイツ語発音の不明瞭な点で、今回聞き直してみても対訳を一瞬見失ってしまいます。

シノーポリ盤のアレッサンドラ・マルクも言葉が聞き取りにくいところがありましたが、シリヤとはまるで違う女性的な面を強調した歌声でありました。
歌だけ取ればブーレーズ盤のジャニス・マーティンが言葉も明瞭ですし、マルクと同様に女性的な歌声です。

しかしながら、この録音が印象に残るのは私の刷り込み盤ということもありますが、ドホナーニ/VPOの豊麗なオーケストラの響きです。
どうもドホナーニは、日本ではさっぱり人気がありませんけれども、新ウィーン楽派の音楽、特にオペラを振らせたら難解さを取り外した聞きやすい音楽にしてくれます。
しかも、現代音楽にも優れた演奏能力を持っているVPOですから、シェーンベルクが求めたであろう以上の部厚い響きで楽しめます。

やはり、この録音は、色々あっても私には手放すことができないものだということが、聞きやすくなった音質のCDで再確認できました。

シェーンベルクの「モーゼとアロン」(ケーゲル/ライプツィッヒ放送so)

カテゴリ:
シェーンベルク:モーゼとアロン(ケーゲル、ライプツィッヒrso)

 
 
 
 
 
ケーゲルによる新ウイーン楽派集から、シェーンベルクの「モーゼとアロン」を聞いてみました。
この曲は、DGのブーレーズ盤で聞いておりましたが、題材が旧約聖書物語であるので、図書館で対訳本を借りてきても、いまひとつ理解が進みません。
今回は諦めて、何となく話の筋も覚えているので、対訳本も見ないで音楽だけを聞くことに徹してみました。

付属解説書を見ると、各場ごとのトラックで粗い区切りですし、歌手の皆さんの名前を見ても当時の東側の方々ばかりなんでしょう、初めて見る名前ばかりです。

モーゼ:ヴェルナー・ハゼロイ(語り手)
アロン:ライナー・ゴルトベルク(テノール)
少女:レナーテ・クラーマー(ソプラノ)
病める女:ギゼラ・ポール(アルト)
若い男:アルミン・ウデ(テノール)
司祭:レナート・ムロッツ(バス)

指揮:ヘルベルト・ケーゲル(ライプツィッヒ放送so、cho)
1976年録音


第1幕から生々しい音楽と歌が聞こえてきて、一瞬たじろぎます。
ブーレーズの音楽でこの曲を覚えた耳には、かなり違った音楽に聞こえてしまいます。
どちらかというと軽い音で冷静な音楽を聞かせてくれていたブーレーズとは違って、重たい深刻なオーケストラの響きを聞かせてくれます。
歌手の皆さんも、アロンを含め集中力の高い歌唱ですし、何よりとことんトレーニングされたことがありありとわかる合唱団の迫力たるや、聞いていてぞくぞくします。
音楽に対する献身という言葉が、なるほどこういうことかと思わせるものがあります。
個々の歌唱では、部分的には歌唱技術ではさらに上手な人がいるかもしれません。
しかし、そうした細かいことを超越した迫力を感じる録音です。

第2幕の狂乱の場の迫力は、さすがケーゲルというところで、録音で、ここまでのやるかという思いを抱きながら聞いておりました。

録音の良さは1976年という年代を一切感じさせません。
当時の東ドイツですから、コストも考えず、ふんだんに時間をかけてセッション録音を行ったのではないでしょうか。

この録音は、シェーンベルクが完成した第2幕までを収録したもので、舞台で上演されるときもこの形が普通のようです。


実は、「モーゼとアロン」は、1970年の大阪万博に合わせて招聘されたベルリン・ドイツオペラでマデルナによる指揮で聞いたことになっているのですが、定かに記憶が残っていませんでした。
当時は、確か国内盤の録音も見当たらず、もしあったとしてもとても手が出るような代物ではなかったと思いますから、ぶっつけ本番で舞台を見に行きました。
ですから、当然、ほとんど理解できていません。

ブーレーズ盤で聞いたときには、まったく記憶を呼び戻すよすがもなかったのに、何故かこのケーゲル盤だと40年前の音が、何となく甦ってきます。

新ウイーン楽派の音楽は、長らくブーレーズによる録音が高く評価されて来たように思います。
しかし、こうやってケーゲルの録音を聞いていますと、ひょっとするとブーレーズの演奏は、少なくともシェーンベルクが求めていたものとは違う音で演奏されてきたのではないかと思い始めました。
むしろ、ドイツ圏ではケーゲルやマデルナのような演奏が本流であって、私は傍流のブーレーズをせっせと聞き込んできたのではないかという疑問を持ち始めています。

このページのトップヘ

見出し画像
×