ツボルカビン反応

カエルピョコピョコホーチミン

変化について:3

口に出すのにはばかられることってなんでしょうか。
それは「良心に対する疑念」です。

何かできるんじゃないか。 
何か叫ばないといけないんじゃないか。
苦しんでいる人を見捨てていいのか。 
ただツイッターでつぶやくだけにしろ、被災地や福島に対する何がしかの行動をとる人はほぼ例外なくそういう思いを持っています。
しかし、そういった思いを「自分が抱くこと」自体に対して、無防備な人とそうでない人とがいます。
自分の中の「良心」に対する疑いを持つ人と持たない人、と言ってもいいでしょう。

自分の良心に対して疑いを持たない人は、人の「悪意」を敏感に読み取ります。
彼らの感受性がとりわけ豊かだというわけじゃありません。
自分の良心を無条件に信じる人は、他人の行動を善と悪に切り分けることがただ簡単にできるというだけです。
世の中で起こっている間違ったことには全て「犯人」がいて、そいつが「悪意」をもって悪事を働いた結果であり、そこに善意を打ち出して対抗する。
彼らが行動を起こす図式はほぼ常にこんな感じです。
彼らが指さす「犯人」は、何が良いことで何が悪いことか全て自覚できて、ああすればこうなるという未来予測も完璧な、極めて有能な人格者であり、その豊富な選択肢の中からあえて「悪事」を選んだ。
そういう設定になっています。
つまり願望です。
そうであってほしいという、良心の願望。

僕は「良心」という言葉とその指すものが生理的に嫌いです。
人が誰かのために行う無償行為は、自分の良心のためにやっています。
自分の良心を満足させるためです。その行動が引いては集団の利益となり、集団の中での自分にとって生存利益となる。
良心というものは、人の社会を機能させるために進化した適応装置であり、つまりは生存のための欲望です。
欲望に深い理由なんてありません。
ただそれを充足するように志向させることが社会を形成する「人」という生き物の理にかなっている。
それだけです。
良心くらいなら群れの中の犬だって持ち合わせています。生存戦略として。
自分のための戦略だからこそ、根本の部分で人の役に立つか、人を救うことになるかどうかは特に問題にはならない。
だからこそ、良心に従っていながらいくらでもひどいことが出来る人はいるわけです。 

別に良心なんていらないと言いたいわけじゃありません。
人が社会の中で生きるために必要なものです。そのためにあるんですから。
ただ、そんな程度のものを疑いもしない人が嫌いです。
誰かが悪意を持ってるかどうかなんてどうでもいいんじゃないですか。
どこまでいっても、自分の影に向かって喧嘩売ってるだけなんだから。

結局、あの震災で変わったことといえば、人の良心くらいです。
しかし、その変化は、危機というものに対して太古の昔から心を適応させてきた人間にとって、ありふれたものとも言えます。
人の心は、あらかじめそのような事態に対処するための変化を起こすように作られているわけです。
良心は稀代の極悪人であろうと心の壊れたメンヘラであろうと持ち合わせています。
僕も例外じゃありません。
犬が持ってるくらいですから。
だからこの半年間は、自分を疑い続ける時間でもありました。
さすがに飽きてきたので、もうこういうことを考えるのはしばらくやめておきます。
 
皆さんはどうでしょうか。
あれから何か変わったことがあったでしょうか。 
まあ所詮生存戦略だと思えば、気も楽になるということで。

変化について:2

「変化がなかった」というのは、「震災前と後でのモノの考え方が変わっていない」ということです。
モノなどとカタカナで書くと、じゃあモノってなんだよというブーメランの如く返ってくる投げ槍を飛ばしているようですが。

まずはっきりと認識できるのは、「変化していないモノがなにか」。
それは正しく、僕の生活そのものです。
まるで人を馬鹿にしたような言い方というか、前回の記事の要約じゃないのと自分で自分に腹が立ってくるこの2行。
自分の生活というのは一番身近なだけにその変化の解釈を間違えやすいので、後から己に言い聞かせてるような気もしています。
 
言い方が悪いのかもしれません。
「変化していない」ことよりも「どう変化しなかったか」が重要、というべきか。 
当然これこれこのように変わるはずなのに、全然そうならなかったのは何故か。
という疑問ですね。
前回、心的姿勢がどう変わったか、という問いを回りくどく書きました。
そこを問題にするということは、裏を返せば、「物質的な意味での生活や実際の行動は何も変わっていない」ということです。
こう言えること自体がそもそも普段なら考えることもない、逆さに物事を見た判断なのですが、じゃあ逆さに考えなければわからない物事とはなんなのか。

ほんと回りくどいっすね話が。ぐだぐだぐだぐだと。
なんで回りくどくなるのか。
つまるところ、「それ」は人に対して言いにくいこと、口にはばかられることだからです。


変化について:1

オナニーは独りよがりな最低の行為です。オワリ。

震災やら原発やら世の中は騒々しいことこの上ない状況ですが、僕の周囲には何の変化もありません。
節電という名目で自宅マンションのエレベーターが時々止まっていてめんどくさいくらいでしょうか。
世はこともあり。我になし。

3月のあの日から数ヶ月、主にツイッター上で発せられる、普段は見ることもないような人々の呟きを毎日眺めてきました。
何の変わり映えもない僕の生活に比べ、特に原発事故以降のツイッター全体の盛り上がりはちょっと異常といってもいいくらいで、いつまでも尾を引いているように感じます。
あと一年二年もしたらそういった熱は嫌でも冷めていくものですが、とはいえ今年一連の出来事のインパクトは普通に後世の教科書の一ページを埋めるくらいにはあるのでしょう。騒がしいのも当然ではあります。

とある大学の先生がツイッターで、「これだけのことがあって何も変わらない人はそれはそれでバカなのでは」というようなことを書いておられました。
なるほどと思い、僕もいろいろ書いてみたりもしました。自分なりの思うところを、特に耳を貸す相手もいないというのに正直に呟いてみました。
ほぼ真剣アラサー一人しゃべり場の様相を呈しておりましたが、(僕のフォロワー層はそんな話を自分からは絶対にしないし聞きたくもないと思うので)普段なら抑えるような言い方も、包み隠さずほぼそのまま。
 
で、色々呟いてみた結果、何が変わったのでしょうか。
世の中が、という意味ではありません。そんな影響力は一ミリもありません。
じゃあ何がといえば、自分の心的姿勢の何がしかが少しでも変わったのか、ということです。 
津波で家を流されたわけでもなく、福島から避難したか、あるいは留まっているわけでもない人間が、震災について考えることで何が変わったのでしょうか。

現状について何かの意見を言うことはいくらでもできます。
原発が良いの悪いのとか、節電は意味があるない等々。
しかし、この震災が「僕に対して」本当にインパクトを持つのだとすれば、そういった意見をひねり出す「考え方」そのもの、視点とか観点といってもいいですが、そこに変化を与えているはずです。
状況が変わったから意見が変わる、という単なる判断の違いではなく、物事の捉え方そのものを揺るがす変化が、僕自身に起こったのかどうか。 
まあ、そんな変化なんてなかったという話がしたいんだろうな、ということはお察しのとおりでございます。
 

オナニーについて:1

なんとなく、オナニーについて考えています。
どうしたらもっと気持ちよくなるか、といった下半身の実践的な問題についてではありません。
自己満足的な行為全般をオナニーと呼ぶことに関して、ぽつぽつと思うところが溜まってきて、ちょっと整理したくなったというところでしょうか。
溜まったってそういう。隠語じゃないんだよ。

自己満足。自分勝手。自己完結。
オナニーという言葉に合致するイメージには、必ず自己とか自分という接頭辞が付ます。
自慰ほど個人的な行為はそうそうありませんから、これは指摘するまでもないですね。
だからこそ、オナニーのもつ唯一無二のイメージをあらゆる行為に結びつけることができるわけです。
人がオナニーと口から発音する時、自慰行為そのものを指して言うよりも、他の行為に対してオナニーのイメージを適用する意図を働かせている場合のほうが圧倒的に多いと言い切ってしまっていいでしょう。

我々が何がしかの行為をオナニーと呼ぶ時、肯定的な意味を込めてはいません。
大抵の場合、逆説的なイメージによって矛盾を指摘したいという意志が働いています。
本来はオナニーのイメージとは無縁の行為でしょ、というギャップをつきつけたいわけです。

セックスのはずなのにオナニーになってるじゃねぇか。
何お前一人で満足してるの?こっちはちっとも楽しめてないのに。
人が何かをオナニーと非難したりせせら笑ったりする時、こういった気持ちが大なり小なり含まれているんじゃないかと思います。
オナニーに対してセックス、というのも安直な気はしますが、安直な割りに結構何でも当てはまってしまうのが生物としてのヒトのサガってなもんでしょうか。
ボノボが生殖行動としてだけでなくコミュニケーションの道具として発展させたように、ホモサピエンスにとってもセックスは重要なコミュニケーションです。

対してオナニーはどうでしょう。セックスが会話だとするならオナニーは独り言でしょうか。

物語について:3

自分のサイトを持つ人の気持ちはわかります。
わかるのですが、よくわからなくなります。
サイトを持つ目的がないと、サイトがあることすら忘れがちです。

そんな僕ですら、たまに自分のサイトを覗いてみると、思いもかけない出会いがあったりします。

「精神世界を味方につけたい。」
google adsに並んでる広告の一つです。
クリックすると、ヘッダにはこのような文言。
「精神世界を探求しているけれど思うようにいかないという方へ」。

ガツンとやられた僕はその先を読み進めました。
心のナイフで自らを傷つけながら。

その30秒後にトイレへ行き、排泄を済ませた後、ミルキィホームズ6話を見ました。
緑の子の開脚出産シーン来ないかなと夢想しながら見終えた後、憑き物を落としたいと思いつつライブドアブログの管理ページを開き、なぜ僕には真我が見えてこないのか考えているところです。

以前、この心の学校のページに書いてある理屈とほぼ同じような考えを持った人と話したことがあります。
とても後ろ向きに前向きな姿勢で生きている、ある意味ではどこにでもいる人ですが、呼び名は違えど彼には「真我」が見えていました。
そう本人が言っているので、当時の僕はとりあえず信じることにしました。

彼の話を聞いていると、まるで彼が本当は神様やその息子のような超越的存在であるかのように思えます。
話している最中には深く考えなかったのですが、なぜそう思えたかは後で気づきました。

彼は自分の中に神様がいると信じています。
「いる」どころかそれはまさに自分自身であり、仮の意識からは隠された真実の自我です。
その真実の自我は常に正しい答えや行動を知っていますが、彼の意識は仮初めの貧弱な代物であるため、その重さに耐えられない。
だから隠されているのだけれども、目覚めてさえしまえば真我に従って正しい道を歩めるんだと彼は言いました。

「ああうん、本当の自分探しってやつね。わかるよ」と何も考えず口走りながら、僕は後輩の子が放り投げたソーダグミを口で受けるのに失敗しました。
彼はちょっとムッとしたのか、その後同じような内容の話を僕が理解できるようになるまで繰り返してくれました。

こうして年月がたち、真我というものを改めて考えてみると、すでに僕はその正体を知っているんじゃないかという気がしてなりません。
真我とは、要するに物語です。
物語とは「虚構」であり、「真実」であり、「意識」です。
物語には、真実の自分とでもいうべきものを呼び覚ます何かが確かにあります。
しかしそれはうそっぱちでもあり、どこの誰とも知らないくせに馴れなれしく語りかけてくる怪しげな意識でもあります。
つまり、真我が見えると主張し続けた彼は、物語と自分とを取り代えられるのだと言いたかったのでしょう。

それなら確かにできます。
僕にもできるし子供でもやってることです。
そこらの公園でポケモンやってる少年少女たちも、それを何とかごっことか呼んで遊ぶこともあるでしょう。
誰だって仮面ライダーにでもプリキュアにでもなれるし、いたいけな少女の子宮にぼっこんぼっこん産卵する触手的な生物にもなれます。

だからどうしたって話なんですけどね。

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