石原 

石原義剛(海の博物館)

いまも“須賀利巡航船”は23分で尾鷲港と須賀利を結んでいる。


 離島ではない文字通り“陸の孤島”だった須賀利は、厳しく細い峠越えの道しかなく、貨客の輸送は船に頼るしかなかった。長い櫓(ろ)船の時代、人々は用があれば小一時間も櫓を漕いで、海上から尾鷲、引本といった近くの浦里まで行った。
 ところが江戸の中頃から明治末にかけて、須賀利はそれほど外に頼らなくても楽に暮らせた。江戸期にはしばしば回船が風待ちのため立ち寄ってモノをもたらしたし、明治期には桑名(三重県)から日常生活物資を積んだ赤須賀船が回って来た。さしずめ海上移動スーパーマーケットである。
 明治末、汽船時代になって帆走回船の立ち寄りがなくなり、一方で海産物の販売が盛んになって、須賀利と尾鷲(近くの中心都市間の貨客の行き来が頻繁になりだすと、日常的な運航船の必要性が増し、小型船で海運業をはじめるものも現れた。後に海上タクシーといわれた。
 そして大正4(1915)年、個人事業の大型発動船による定期巡航船がやっと操業しだした。
 以降100年近くこの定期船は「須賀利巡航船」の名で呼ばれ、住民唯一の“道”として働きつづけてきた。出征してゆく若者を送った。華やかな衣装につつまれた花嫁の一行を乗せたこともある。産気づいた妊婦が船中で出産したこともあるという。急病患者を辛うじて尾鷲の病院へ届けられたこともあるという。平成8(1996)年、須賀利中学が休校となり、先生は浦人に見送られながら涙ながらに巡航船で去った。巡航船後半生の大仕事は中高生を朝夕運びつづけたこと。巡航船にとって大切で楽しい仕事であった。
 昭和57(1982)年やっと自動車の通る陸路が開通した。しかし、採算が合わぬという理由で、定期的なバスの運行ははじまらなかった。
 商用や役所の用は陸路に替わったし、海産物はトラックに替わった。しかし、尾鷲の病院へ通うお年寄りと中高生の通学は巡航船にゆだねられ、個人経営ではもたぬと市営になり、その後、須賀利区営になった。
 さらに四半世紀の今年、病院と学校が休みの日曜日は運休となった。年間の述べ乗船者数が7千人を切った。4往復する船に2人しか乗っていない。国や県も陸路が通ったことから巡航船への助成を打ち切り、市が細々と助成している。それも風前の灯火だ。
 熊野灘に面した小さな漁村・須賀利を例として、3回にわたり目まぐるしい変遷消長を舌足らずながら書かせていただいた。須賀利はこれからどう変わっていくのだろうか。日本の小さな漁村はどう変わっていくのだろうか。

月刊『漁業と漁協』平成20年6月号