2012年01月17日

ゼロ年代映画ベスト10

1位
「宇宙戦争(2005)」スティーヴン・スピルバーグ
2位
「サイン(2002)」M・ナイト・シャマラン
3位
「グエムル 漢河の怪物(2006)」ポン・ジュノ
4位
「ダークナイト(2008)」クリストファー・ノーラン
5位
「人狼 JIN-ROH(2000)」沖浦啓之
6位
「CASSHERN(2004)」紀里谷和明
7位
「エヴァンゲリヲン新劇場版 破(2009)」庵野秀明
8位
「崖の上のポニョ(2008)」宮崎駿
9位
「ドッペルゲンガー(2003)」黒沢清
10位
「時をかける少女(2006)」細田守

1監督につき1作品で選びました。
そうしないとスピルバーグ、ポン・ジュノ、シャマランの3人でベスト10が埋まってしまうからね……。
Wikipediaの2000〜2009年日本公開映画リストを参考にしました。
ベストに選ばれた映画は破綻や歪みを抱えているものが多くなったと思います。
あと日本アニメと日本映画が多くなったのは意外でした。

「宇宙戦争」「サイン」「グエムル」って3本はやはり特別なものがあります。
ジャンルムービーであること、にもかかわらずその枠組みを大きく踏み越えていること。素晴らしく美しいショットがあり、的確かつ高度なカメラワークと編集がある。そしてなにより、そのような繊細な演出全てを台無しにしてしまうような大きな破綻、あるいは飛躍を恐れることなく身の内に抱えこんでいる。
まるで透明な語り(narrative)こそが攻撃の対象であるかのように自らの姿を大きく歪ませ、観る者を居心地悪い気分にさせる。おそらくそれは、彼らが客観的な観察者としてではなく、事件の当事者としての語らざるが得なかったゆえの歪みなのだろう。
しかしこの3本ってほとんど同じ話だよな。

「ダークナイト」
ベスト3に比べると破綻がなさすぎるところがマイナスです。クリストファー・ノーランは真面目すぎる。

「人狼 JIN-ROH」
ゼロ年代の最初というより、20世紀最後を締めくくるアニメーションだろう。この映画にはひとつのメディアの終わりに向き合わなければならない悲壮感がある。

「CASSHERN」
みんな文句いってるけどさあ、結局これだけの志と切実さを持ってものを仕上げたやつがこの10年の日本にいたのかっつー話だよ。ベスト3が「当事者であること」に誠実な映画であるなら、この映画は「当事者ではありえないこと」に対して徹底的に誠実な映画だ。この映画をゼロ年代日本映画のトップに置くことにいささかの躊躇もおぼえないね。

「エヴァンゲリヲン新劇場版 破」
旧作とのギャップに魅力の大部分を背負わせてしまっているのはどうかと思うのだけれど、しかしそのことで非常にスリリングな映画に仕上がっているのも確かだ。

「崖の上のポニョ」
ミニマムなU字の構造から溢れ出てくる不気味なもの。宮崎駿は「千と千尋の神隠し」からはじまる混乱した空間構成を、抑圧することなく制御する術を覚えはじめたのかもしれない。現時点で最も複雑な宮崎映画だと思う。

「ドッペルゲンガー」
この映画のような、複数のトーンを軽やかに転調していく不真面目さは日本映画の大きな可能性のひとつだと思っていたのだけど……。

「時をかける少女」
なにをしでかすかわからない山猿みたいな主人公が魅力的。記号的なフェティシズムを喚起させることがない(要するに“萌え”を感じさせない)、ということはつまり描写が過不足なく十全であるということなのだろう。

次点としては「愛のむきだし」「インランド・エンパイア」「スパイダーマン」「チェンジリング」「ブラックブック」「アバター」「ノーカントリー」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」などがあげられます。
未見の作品でベスト10に食い込みそうなのは「ヴァンダの部屋」「トゥモローワールド」「ホット・ファズ」あたりですかね。
「トゥモローワールド」は観られなかったのが本当に残念。邦題が悪かった。

リストを眺めているだけでもすごく楽しかったです。
まあ、こんな感じです。

オマケ
Wikipedia見て思ったのだけど1999年の公開作品がヤバいね。
「ガメラ3」「ファイト・クラブ」「シックス・センス」「マトリックス」「御法度」「リング2」「黒猫・白猫」「ボーラX」「ニンゲン合格」だって。
スゲー年だな。



(14:33)

2012年01月08日

UPするの忘れてた。

映画
順不同だけど、あえて選ぶならやっぱり「ヒックとドラゴン」がベスト1かな。気持ちよかった!「告白」は「CASSHERN」と同じく、表層のスタイルが内容から帰納的に導出されていると思うから。あと、なかなか見られないようないい爆発も拝めたし。「渇き」はエキサイティングな映画だった。韓国スゲーなあ。「シャッターアイランド」は期待してなかった分すごく楽しめました。

ベスト
「第9地区」ニール・ブロムカンプ
「ヒックとドラゴン」ディーン・デュボア、クリス・サンダース
「インセプション」クリストファー・ノーラン
「告白」中島哲也
「渇き」パク・チャヌク
「恐怖」高橋洋
「かいじゅうたちのいるところ」スパイク・ジョーンズ
「(500)日のサマー」マーク・ウェブ
「シャッター・アイランド」マーティン・スコセッシ

次点
「トイ・ストーリー3」(ちょっと重すぎたっス)
「プリンセスと魔法のキス」(ブゥードゥー・マジックを使う悪役がかっこよかった)
「ハングオーバー」
「悪人」(イカの目玉は最低の演出だと思った)
「ガフールの伝説」(毛玉)
「君に届け」(桜のある坂道など空間の使い方がよかった)
「エアベンダー」(好きだけど、才能の無駄使いかなあ)
「グリーン・ゾーン」(キビキビしてていいよね)

あと、リバイバルでみた「ロシュフォールの恋人たち」がめちゃめちゃ楽しかったです。ミュージカル最高!

小説
以前読んだ本を読み返すのに忙しくて、だんだん新作フィクション読まなくなってきてます。ヤバいなあ。

ベスト
「バウドリーノ」ウンベルト・エーコ
「獣の樹」舞城王太郎
「ワイオミング生まれの宇宙飛行士」アダム=トロイ・カストロ、ジェリイ・オルション
「伊藤計劃記録」伊藤計劃
「あなたに不利な証拠として」ローリー・リン・ドラモンド

漫画
海外漫画最高!
特に「ひとりぼっち」は話も絵もすごく好みです。BOOM!
「ドリフターズ」はてらいなく堂々とやっているところに突き抜けた面白さがありました。

ベスト
「ロングハロウィーン」ジェフ・ローブ、ティム・セイル
「天空のビバンドム」ニコラ・ド・クレシー
「ひとりぼっち」クリストフ・シャブテ
「大発作」ダヴィッド・べー
「ドリフターズ」平野耕太
「町でうわさの天狗の子」岩本ナオ

次点
「センネン画報」京マチ子
「テルマエ・ロマエ」ヤマザキマリ

こんな感じです。


(00:47)

2012年01月01日

あけました。

淡々としてますよね。
落ち着いたもんです。
正月つったって、なにがあるわけでもなく、言ってみりゃ“特別でないただの一日”(マリア様がみてる)ですよ。
言いかえるなら、一年365日、毎日が特別ってことですよ。何気ない日々こそが、かけがえのない輝きを持っているということなんですよ。それがマリアさまからのメッセージじゃないですか?
みなさんもそんなリリアン・スピリッツを心に抱いて日々をすごしてほしい。はかなくも美しい青春の毎日を後悔することなく送ってほしい。正月だからといって、全裸で三点倒立をしながら尻に花火をつっこんで「門松!」とか叫んだりしないでほしい。オッサンになったいまこそ、そんなたいせつなメッセージを薔薇のお姉さま方に代わって訴えていきたいと思う今日このごろです。
あ、あと薔薇のお姉さま方は10年後くらいに“薔薇さま”とか言われて調子こいてた昔の自分を思い出し、夜中に布団の中で身悶えするとよいと思います。

しかしまあ、毎年テキトーに年明けをすごしていると逆に
“あれ?正月って新しくね?”
ってなってくる部分はあるよね。
だから俺は思ったね。
むしろ今年はどんどん正月らしいことをしていこうか、と。
正月であるということに対して攻めの姿勢を見せていこうか、と。
今年は初詣とか新年の挨拶とかしていきたいと思う。
おせちとか、ガンガン食べていこうと思う。
書初めとか凧上げとか超クール。
超カッコイイ。
門松って、アブストラクトなデザインでマジヤバくない?
どんどんあげちゃうよ、お年玉!
アゲまくっちゃう!
道行く人みんなに!
みんなあげちゃう!(弓月光)

あ〜。
めんどくせ〜。
めんどくさいんだよ!
正月!
年越しとか、年明けとか!
どーせ年変わったってやること変わんねーんだよ!
いいじゃん、2011年のままで!
このまま2011年の月だけ増やして行けばいいじゃん!
億劫なんだよ、年号増えるのとか!
2011年13月で別に問題ないだろ!
とりあえず気持ちが落ち着くまで2011年13月、14月とカウントしていくから!
パンクかつアナーキー。
何物にも縛られない永遠の薔薇のつぼみ(プトゥン)。
それが俺の生きざま。
それが俺のスタイル。

ハッピーニューイヤー アンド レッツ・コール・ごきげんよう!
回転するジャイロは2012年も「マリア様が見てる」をまいにち応援し続けます!
今年もよろしく!
門松!


(23:14)

2011年12月31日

映画
今年は順位つけてみる。

1位
「タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密」スティーヴン・スピルバーグ
2位
「ソーシャル・ネットワーク」デビッド・フィンチャー
3位
「塔の上のラプンツェル」バイロン・ハワード、ネイサン・グレノ
4位
「冷たい熱帯魚」園子温
5位
「キッズ・オールライト」リサ・チョロデンコ
6位
「宇宙人ポール」グレッグ・モットーラ
7位
「スコット・ピルグリムVS邪悪な元カレ軍団」エドガー・ライト
8位
「マネーボール」ベネット・ミラー
9位
「グリーン・ホーネット」ミシェル・ゴンドリー
10位
「ツリー・オブ・ライフ」テレンス・マリック

どちらかと言うとエモーショナルな映画よりテクニカルな映画が好きです。普通なら「ソーシャル・ネットワーク」が1位だと思うけど、スピルバーグにこんなの撮られちゃうとね。コレ、大傑作だと思うんだけどなあ。
9、10位は「ランゴ」「カンフーパンダ2」「キャプテン・アメリカ」「リアル・スティール」「アンストッパブル」「Super8」「ヒア・アフター」と交換してもよいです。
旧作ではクストリッツァの「アンダーグラウンド」「黒猫・白猫」は別格の面白さでした。

漫画
ここからは順不同。
日本漫画もたくさん読んだのだけど、続きものが多いので選外にしました。そのなかでも「海街diary」の卓越した表現技術から立ち上がる、瑞々しい物語の運動は素晴らしいと思いました。
ベストには選んでないけど阿部洋一さんの漫画にはハッとさせられました。

ベスト
「モンスター」エンキ・ビラル
「ゴースト・ワールド」ダニエル・クロウズ
「アランの戦争」エマニュエル・ギベール
「皺」パコ・ロカ
「ファン・ホーム」アリソン・ベグダル
「ジョジョリオン」荒木飛呂彦
「Sunny」松本大洋
「I」いがらしみきお

小説
ヤバいくらいにフィクションを読んでない気がします。ベストに選出できるのが「ねじまき少女」くらいしか思いつけないとか終わってる。
年末に硬めの本を読みたくなったので 「暇と退屈の倫理学」「夜戦と永遠」という本をゴリゴリと読んでいました。
それから「伊藤計劃記録 第弐位相」。
この本の書店でのたたずまいを、あの“白さ”を、ぜったい忘れてはいけないと思いました。

ベスト
「ねじまき少女」パオロ・バチガルピ
「伊藤計劃記録 第弐位相」
「やさしナリン」舞城王太郎

まあこんな感じです。


(01:33)

2011年02月07日

これ、怪獣映画だね。
楽しかった!

トニー・スコット監督「アンストッパブル」観ました。

オープニングのクレジットからかっこよくて「当たり」感がスゲーありました。全体的に設計がしっかりしていて、やれることやれないことの線引きがクリアーな映画だったと思います。“この映画はこれでOK”みたいな見切りが的確になされている感じ。
テンポが良くて話がどんどん進むので、なおさらそういう印象が強かったです。
こちらの予想より少し上のレベルでOKの判断がされていたのは個人的に運が良かったと思います。ワンカットごとに小さな面白さが積みかさなっていって、最終的にスゲー面白かった!ってところで映画館を後にできました。幸せ。

で、思ったんだけど、機関車ってデケーのな!
知ってた?
おれ知らなかった!
最初の方に機関車の横をオッサンが走るシーンがあるんだけど、横に人が立つとほんとにデケーんだよ。そんでその時の機関車はまだゆっくり走行してるんだけど、機関車って何十両も貨車を牽引するわけじゃん?よく考えたらすさまじいパワーがあんだよね。ゆっくり走っているからこそそのパワーが伝わってきて、おれ、機関車のことなめてたなあって正直思ったよ。
とにかく、そのシーンでは得体の知れない巨大な怪物がいままさに鎖から解き放たれようとしているって感じで、もうそれ見た瞬間、うわコレ怪獣映画だ!って嬉しくなっちゃってさあ。まさか機関車で怪獣映画がやれるなんて思いもしなかったから望外の喜びっていうか、ホント楽しませていただきました。
司令官や博士は出てきたから、あとは軍隊(戦車とか)が出てくれば完璧だったな。


(02:31)

2010年12月10日

この文章は2009年1月のもの。うまくまとまらなかったシリーズその3です。


すみません。
コレ、ベストでした。
2008ベストのエントリーで次点に置いてしまいましたけど、2巻読んだらベストになりました。
もう一ヶ月はやく出てれば……。

篠房六郎「百舌谷さん逆上する」第2巻読みました。

もしも“ツンデレ”というキャラクター属性が、精神疾患(ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害)であったら?という、ほとんど冗談のような設定、つーか明確に“ネタ”として設定されたアイデアから、こんなに繊細で複雑な心理描写が表れるなんて嬉しくなってしまいます。
ギャグに爆笑しているうちに、気がつくととんでもない地点に連れて行かれてしまう。
いや、ホント凄い。

好意を抱いた対象に攻撃的な言動や行動をとってしまうという行為は、通常、過剰な自己防衛として行われる。それは他者に自己を預けることへの拒否反応であろう。だからこそ、その行為は“好き”という感情を認めることで解消される。自らの人格に他者が介入することを許すことこそ“ひとを好きになる”という状態なのではないか。
しかし「ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害」によるツンデレ行為は自意識を介入させない自動的な反応であるがゆえに、このような解消のされ方がなされることがない。この障害においては、好きという感情を認めたところで病状は回復せず、むしろ、そこからこの病の本当の恐ろしさが始まる。この病の原因はあくまでも患者の身体的欠損にあり、患者自身の自意識とはなんの関わりもない。それゆえここで問題となるのは自意識と感情のすりあわせ(自分の気持ちを認めること)ではなく、病を前提とした自意識と感情の“制御”である。患者は、病を前提として自意識と感情を組み立てざるをえず、自らの感情がもたらす結果を絶えずメタ視点から検討しながら行動する必要にかられる。愛情が他者を傷つける攻撃性へと反転するがゆえに、好意を与えたい相手には好意を抱いてはならず、愛情の表現を行うためには相手に対して徹底的に無関心でなければならない。
「どうしていつもわたしにやさしくしてくれるの?
わたしのこと本当は―
本当はぜんぜん好きじゃないから
だから私にやさしくできるの?」

百舌谷さんは自らの感情を、「主人と下僕」などの関係性を用意したうえで、「表面上仲良くしているだけ」「いつか地獄に落としてやる」といった言いわけを通過することでしか表出することができない。それは彼女がつくりだした防壁であり、他者に対する思いやりでもある。彼女は“演技”というレイヤーを間にはさむことで、かろうじて正常な人間関係をとりつくろうことができる。演技をしている限り、彼女は普通の人間のように笑い、怒り、泣くことができる。
彼女は自らの好意を“演技”というレベルにおしとどめなくてはならない。心の底から相手に無関心にならなければならない。そうしなければツンデレの発作がおきてしまう。それは相手を慮かっての“演技の演技”であってもいけない。好きだからこそ無関心になるのだ、ということを自覚してしまったら、やはり発作がおきてしまうだろう。自分自身の感情を、自分自身に気づかせないようにしなければ、発作がすべてを破壊してしまう。
だが、これらすべての問題をクリアし、彼女が「演技」を上手くこなすことができたとするなら、結局のところ、いつか相手を「地獄に落として」やらなければならないことになる。

なんというツイスト!



(12:35)

2010年11月29日

「この世には名づけられていないものがたくさんある。そしてまた、名づけられてはいても説明されたことのないものがたくさんある。」(スーザン・ソンタグ 「《キャンプ》についてのノート」)

ロバート・ロドリゲス監督「プラネット・テラーinグラインドハウス」
クエンティン・タランティーノ監督「デス・プルーフinグラインドハウス」

世の中には“B級映画”というカテゴリーがあって“B級映画が好き”という人たちがいる。“B級テイストあふれる”という(大抵の場合肯定的な)言い回しもあって、価値判断の基準として機能している。映画の世界において“B級”という言葉はある種の“趣味”を伝える言葉として市民権を得ているように思う。
“B級”という言葉は、たしかに、そのままでは埋もれてしまいそうなたくさんの作品を救い出した。映画を別の角度から楽しむ視点を人々にあたえた。だけど、いま僕は疑問に思う。僕たちが映画から受け取る感覚を“B級”って言葉は正しく伝えることができているんだろうか?
かつて、映画の興行が二本立てで行われていた時代。30年代から40年代にかけて、二本立て映画の添えものとしての低予算映画がつくられた。“B”撮影所で撮られたがゆえに、それらの低予算映画は“B映画”と呼ばれた。
興行の形態が変わり、B映画が作られることはなくなった。しかし依然として手っ取り早い娯楽としての低予算映画は作られ続ける。
いつしか“B映画的な映画”は“B級映画”と名を変え、ある種の(ゆがんだ)肯定のニュアンスを帯びて使わるようになった。
“B級”という言葉を肯定的に使いはじめた人たちの、その言葉にこめた自嘲を含んだ微妙な愛情のニュアンスは僕にも分かる。そこに、そのように名指しされ、肯定されるべき“なにか”が存在することを僕は認める。
それでも今“B級”って言葉は、価値判断を曇らせる安易なカテゴライズの道具として乱用されすぎているんじゃないだろうか。
ある映画を“B級”と表現した時に“見えてくるもの”と“隠されてしまうもの”の比率が大きくバランスを崩しているのではないか、そんな気がする。言うならば、この言葉はいま抑圧の装置として働いてしまっている。
例えばロバート・ロドリゲスの映画を“B級”と形容するとき、覆い隠されてしまうものはあまりに多い。

僕はロドリゲスの映画が好きだ。でも、“B級”として好きなんじゃない。多くのホラー映画を、モンスター映画やアクション映画を“B級”として好きなんじゃない。僕はそれらの映画を単純に優れていると思っている。映画として正しいと感じている。ダメだから好きなんじゃない。良いと思っているから良いと言うのだ。あらゆる素晴らしい映画たちと同じ基準で。
この価値判断に“B級”という経路を迂回する必要はない。“B映画”的な趣味による判断を越境して、良い映画は良い映画としてただそこにある。
僕らはそれを見つけなければならない。僕らはそれを判断しなければならない。特定の趣味の共同体にとらわれることなく判断をし続けなくてはならない。
“B級”という言葉はそんなごく当たり前の態度を見えなくする。

タランティーノを好きになれないのはたぶんそれが理由だ。タランティーノには“ダメだから好き”という自意識がある。彼は趣味の共同体の論理を後ろ楯にした、勝手な線引きを映画に加えている。勝手な線引きをした上で、あえて“悪い方”を選択するのだ。そのアイロニカルな身振りが彼の映画を窮屈なものにしていると思う。その線引きの前提となる趣味の無根拠さが彼の映画を空虚なものにしていると思う。
ロドリゲスは違う。彼は快感に溺れている。ロドリゲスにとって“グラインドハウス”はただ単に好きな対象なのだ。好きなものを好きなように撮る。ロドリゲスからは快感に忠実なものの持つすがすがしさを感じる。“B級”的価値に捕われているタランティーノよりもロドリゲスは非抑圧的で不真面目で魅力的だ。
もちろん、快感に溺れること、好きなものを好きということ、このことが別の種類の抑圧を生み出すことを僕は知っている。
「好きなものを好きと言って何が悪い?」
それは反論を圧殺するもうひとつの抑圧だ。思考を停止させる自堕落な言葉だ。
「好き」という感性に盲目的に従うことが、どれだけつまらない結果を生んできたか僕は知っている。だから僕が言いたいのは“B級”という価値に変わって“好き”という価値を賞賛することではない。

スーザン・ソンタグは「《キャンプ》についてのノート」で、未だ語られざる感覚としての“キャンプ”の記述を試みた。今まさに現象している“キャンプ”という趣味の共同体に接近する彼女の、見えざるラインを慎重に探査し測定していく手つき。僕が「《キャンプ》についてのノート」を引用したのは、ある趣味を記述したその内容にではなく、未知のものに向かいあう時の彼女の姿勢に感銘をうけたからだ。
ある価値観に対して別の価値観をぶつけること、少なくともソンタグが書こうとしたのはそんな単純な話ではない。

結局僕が言いたいのは、ひとつひとつ映画を大切に観たい、という簡単な態度表明だ。先入観なしに映画というものに触れることができるように、僕は“B級”という言葉を否定する。同じ理由で、多くの言葉たちを僕は否定する。
僕は宣伝を信じない。
配給会社の煽り文句を、まことしやかに囁かれる数々の逸話を信じない。
紹介記事を、批評を、周りの人々の評判を信じない。
できることなら、そんな風に胸を張って言えれば良いのだけれど。
残念ながら、全ての映画を観ることができない以上、僕たちは取捨選択を行わなければならないし、選択を行う以上そこに何らかの根拠をでっちあげなくてはならない。その根拠はどこからくるかと言えば、それはあらかじめ与えられたコンテキストにしかない。
それはタイトルかもしれない。一枚のスチール写真かもしれない。批評やレビューや口コミかもしれない。断片としてのトレイラー映像かもしれない。監督の過去のフィルモグラフィーかもしれない。いずれにしても、そこには映画をコンテキストに結びつける複数の力が政治的に働いている。
つねに、すでに。
結局のところ僕らは象徴秩序のネットワークに記入された存在にすぎないし、そこから逃れることは不可能だ。僕たちは体験に先行するコンテキストを通じてしか映画に触れることはできない。それは基本的な原則だ。だいいち、モンタージュという技法が示すように、映画自体が先行する多くコンテキストの結節点として組織化されている。映画をかたち造る多くの技法を理解できるように“訓練”されていなければ、僕らはそもそも映画を観ることすらできないはずだ(カットバックを理解できない人々が現に存在する)。
無垢な経験などない。
映画には。

それでも、にも関わらず、僕は知ってしまっている。
ひとつのショットがコンテキストを吹き飛ばして、ただひたすら未知そのものの塊として屹立する瞬間を。新たな、現在性そのものとしての映画が存在することを。原理的には不可能に思える出来事がたやすく実現してしまうことを知ってしまっている。
映画に魅了されるということはその事実を知ってしまっていることだ。
だから僕は「自分自身が知っていること」ただそれだけを根拠に、不可能と知りながらも、映画に対する礼儀として、感謝として、畏敬の念をこめて、このような態度を表明する。このような態度でありたいと望む。
少なくとも、一本の映画を観る前には。
その映画を観ている間だけでも。

映画を観ることは賭けだ。
そこで何が起こるかはまったく分からない。
だから僕にできることは、判断を体験に先行させないように、映画から振り落とされないように、自らの手綱を引き締め、食いいるように見つめるしかない。そしてそれはとても難しいことだ。このブログに書かれた文章を少し読みかえすだけで、僕がそんな態度をまるでとれていないことが分かってしまう。
ごく当たり前のことをなすのは何て難しいんだろう!

“B級”という言葉を聞くと、いつでも何かモヤモヤした居心地の悪い感じを覚える。なんだか不思議な気持ちになる。このモヤモヤはなんなのだろう?
僕はただ、このモヤモヤをなんとか言葉にしてみたいだけだ。
ソンタグのように、なんて大それたことはとても言えないけど、言葉にしようと努力してみた。
これは、ただそれだけの文章。


注)この文章は「グラインド・ハウス」を観た直後(2007年の9月)に書きました。うまくまとまらなかったシリーズその2です。ソンタグの引用とか別にいらねえよなあって思って公開してなかった。
あと、誤解のないように書いておくけど、「プラネット・テラー」より「デス・プルーフ」の方が良い映画だと思います。これはこの文章を書いた時からそう思っていて、実際2007年のベストには「デス・プルーフ」の方を入れてます。



(02:10)