2010年11月29日

「この世には名づけられていないものがたくさんある。そしてまた、名づけられてはいても説明されたことのないものがたくさんある。」(スーザン・ソンタグ 「《キャンプ》についてのノート」)

ロバート・ロドリゲス監督「プラネット・テラーinグラインドハウス」
クエンティン・タランティーノ監督「デス・プルーフinグラインドハウス」

世の中には“B級映画”というカテゴリーがあって“B級映画が好き”という人たちがいる。“B級テイストあふれる”という(大抵の場合肯定的な)言い回しもあって、価値判断の基準として機能している。映画の世界において“B級”という言葉はある種の“趣味”を伝える言葉として市民権を得ているように思う。
“B級”という言葉は、たしかに、そのままでは埋もれてしまいそうなたくさんの作品を救い出した。映画を別の角度から楽しむ視点を人々にあたえた。だけど、いま僕は疑問に思う。僕たちが映画から受け取る感覚を“B級”って言葉は正しく伝えることができているんだろうか?
かつて、映画の興行が二本立てで行われていた時代。30年代から40年代にかけて、二本立て映画の添えものとしての低予算映画がつくられた。“B”撮影所で撮られたがゆえに、それらの低予算映画は“B映画”と呼ばれた。
興行の形態が変わり、B映画が作られることはなくなった。しかし依然として手っ取り早い娯楽としての低予算映画は作られ続ける。
いつしか“B映画的な映画”は“B級映画”と名を変え、ある種の(ゆがんだ)肯定のニュアンスを帯びて使わるようになった。
“B級”という言葉を肯定的に使いはじめた人たちの、その言葉にこめた自嘲を含んだ微妙な愛情のニュアンスは僕にも分かる。そこに、そのように名指しされ、肯定されるべき“なにか”が存在することを僕は認める。
それでも今“B級”って言葉は、価値判断を曇らせる安易なカテゴライズの道具として乱用されすぎているんじゃないだろうか。
ある映画を“B級”と表現した時に“見えてくるもの”と“隠されてしまうもの”の比率が大きくバランスを崩しているのではないか、そんな気がする。言うならば、この言葉はいま抑圧の装置として働いてしまっている。
例えばロバート・ロドリゲスの映画を“B級”と形容するとき、覆い隠されてしまうものはあまりに多い。

僕はロドリゲスの映画が好きだ。でも、“B級”として好きなんじゃない。多くのホラー映画を、モンスター映画やアクション映画を“B級”として好きなんじゃない。僕はそれらの映画を単純に優れていると思っている。映画として正しいと感じている。ダメだから好きなんじゃない。良いと思っているから良いと言うのだ。あらゆる素晴らしい映画たちと同じ基準で。
この価値判断に“B級”という経路を迂回する必要はない。“B映画”的な趣味による判断を越境して、良い映画は良い映画としてただそこにある。
僕らはそれを見つけなければならない。僕らはそれを判断しなければならない。特定の趣味の共同体にとらわれることなく判断をし続けなくてはならない。
“B級”という言葉はそんなごく当たり前の態度を見えなくする。

タランティーノを好きになれないのはたぶんそれが理由だ。タランティーノには“ダメだから好き”という自意識がある。彼は趣味の共同体の論理を後ろ楯にした、勝手な線引きを映画に加えている。勝手な線引きをした上で、あえて“悪い方”を選択するのだ。そのアイロニカルな身振りが彼の映画を窮屈なものにしていると思う。その線引きの前提となる趣味の無根拠さが彼の映画を空虚なものにしていると思う。
ロドリゲスは違う。彼は快感に溺れている。ロドリゲスにとって“グラインドハウス”はただ単に好きな対象なのだ。好きなものを好きなように撮る。ロドリゲスからは快感に忠実なものの持つすがすがしさを感じる。“B級”的価値に捕われているタランティーノよりもロドリゲスは非抑圧的で不真面目で魅力的だ。
もちろん、快感に溺れること、好きなものを好きということ、このことが別の種類の抑圧を生み出すことを僕は知っている。
「好きなものを好きと言って何が悪い?」
それは反論を圧殺するもうひとつの抑圧だ。思考を停止させる自堕落な言葉だ。
「好き」という感性に盲目的に従うことが、どれだけつまらない結果を生んできたか僕は知っている。だから僕が言いたいのは“B級”という価値に変わって“好き”という価値を賞賛することではない。

スーザン・ソンタグは「《キャンプ》についてのノート」で、未だ語られざる感覚としての“キャンプ”の記述を試みた。今まさに現象している“キャンプ”という趣味の共同体に接近する彼女の、見えざるラインを慎重に探査し測定していく手つき。僕が「《キャンプ》についてのノート」を引用したのは、ある趣味を記述したその内容にではなく、未知のものに向かいあう時の彼女の姿勢に感銘をうけたからだ。
ある価値観に対して別の価値観をぶつけること、少なくともソンタグが書こうとしたのはそんな単純な話ではない。

結局僕が言いたいのは、ひとつひとつ映画を大切に観たい、という簡単な態度表明だ。先入観なしに映画というものに触れることができるように、僕は“B級”という言葉を否定する。同じ理由で、多くの言葉たちを僕は否定する。
僕は宣伝を信じない。
配給会社の煽り文句を、まことしやかに囁かれる数々の逸話を信じない。
紹介記事を、批評を、周りの人々の評判を信じない。
できることなら、そんな風に胸を張って言えれば良いのだけれど。
残念ながら、全ての映画を観ることができない以上、僕たちは取捨選択を行わなければならないし、選択を行う以上そこに何らかの根拠をでっちあげなくてはならない。その根拠はどこからくるかと言えば、それはあらかじめ与えられたコンテキストにしかない。
それはタイトルかもしれない。一枚のスチール写真かもしれない。批評やレビューや口コミかもしれない。断片としてのトレイラー映像かもしれない。監督の過去のフィルモグラフィーかもしれない。いずれにしても、そこには映画をコンテキストに結びつける複数の力が政治的に働いている。
つねに、すでに。
結局のところ僕らは象徴秩序のネットワークに記入された存在にすぎないし、そこから逃れることは不可能だ。僕たちは体験に先行するコンテキストを通じてしか映画に触れることはできない。それは基本的な原則だ。だいいち、モンタージュという技法が示すように、映画自体が先行する多くコンテキストの結節点として組織化されている。映画をかたち造る多くの技法を理解できるように“訓練”されていなければ、僕らはそもそも映画を観ることすらできないはずだ(カットバックを理解できない人々が現に存在する)。
無垢な経験などない。
映画には。

それでも、にも関わらず、僕は知ってしまっている。
ひとつのショットがコンテキストを吹き飛ばして、ただひたすら未知そのものの塊として屹立する瞬間を。新たな、現在性そのものとしての映画が存在することを。原理的には不可能に思える出来事がたやすく実現してしまうことを知ってしまっている。
映画に魅了されるということはその事実を知ってしまっていることだ。
だから僕は「自分自身が知っていること」ただそれだけを根拠に、不可能と知りながらも、映画に対する礼儀として、感謝として、畏敬の念をこめて、このような態度を表明する。このような態度でありたいと望む。
少なくとも、一本の映画を観る前には。
その映画を観ている間だけでも。

映画を観ることは賭けだ。
そこで何が起こるかはまったく分からない。
だから僕にできることは、判断を体験に先行させないように、映画から振り落とされないように、自らの手綱を引き締め、食いいるように見つめるしかない。そしてそれはとても難しいことだ。このブログに書かれた文章を少し読みかえすだけで、僕がそんな態度をまるでとれていないことが分かってしまう。
ごく当たり前のことをなすのは何て難しいんだろう!

“B級”という言葉を聞くと、いつでも何かモヤモヤした居心地の悪い感じを覚える。なんだか不思議な気持ちになる。このモヤモヤはなんなのだろう?
僕はただ、このモヤモヤをなんとか言葉にしてみたいだけだ。
ソンタグのように、なんて大それたことはとても言えないけど、言葉にしようと努力してみた。
これは、ただそれだけの文章。


注)この文章は「グラインド・ハウス」を観た直後(2007年の9月)に書きました。うまくまとまらなかったシリーズその2です。ソンタグの引用とか別にいらねえよなあって思って公開してなかった。
あと、誤解のないように書いておくけど、「プラネット・テラー」より「デス・プルーフ」の方が良い映画だと思います。これはこの文章を書いた時からそう思っていて、実際2007年のベストには「デス・プルーフ」の方を入れてます。



(02:10)

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