2024年04月09日

食いしん棒百科 磯のワカメ

 e021aeb7.jpg20年前頃の4月6日、磯のワカメが解禁され、この日は町じゅう磯の香りがいっぱいに漂う。
 浜の海女、漁師がそう出て、ワカメの柔らかい部分を鎌で刈り採るのである。
 深い所にはえているのは鎌に長い棒をしばりつけて採る。
採ったワカメの茎の太い処を取り除くように縦に割き、両側の柔らかい葉の処を取り除くように縦に割き、両側の柔らかい葉の処をを残して砂をまぶしつけ、それを浜、船の引き場どこかしこにも一杯に干す。
 照りつける太陽の熱で二〜三時間もすればカラカラに乾く。夕方近くなってかき集め、一輪車に乗せて家に持ち帰る。一日おくと軟らかくなるので、手で軽くもんで砂を落としておく。とても手間の掛かるものだ。
 解禁の日は大潮を選び、漁業組合いの前の掲示板に書かれている。漁業権というのがあり、誰もが取れないが、500円払えば良い。のでワカメ取りたいと漁師に習って解禁の日には、採ってみたいといっていたら、「採ったワカメをいれるのに、袋がいるだろう」と、海士の頭をしている入江さんが作ってきてくれた。
 藤の籐で一五メ-トル程の大きさに丸めた口の付けてある網袋である。
「こうして、ツケクンダッペ」
 袋の口をヘソの辺りにおいて、両脇についた紐をからだに回して結んでみせる。
「とったらドンドンいれるがいい。海の中を引きずって行けば一杯になっても重いことはないから、ずい分はいりますよ」
 解禁の日、長靴を履いての支度でその時をまった。
 窓越しに外の様子を伺っていると、紺色のタイツ、オレンジ色のタイツ、股引きに地下足袋の女や男達がそれぞれに網袋をつけ、手に鎌を持って港の広場に集まり始めた。
 一応の顔ぶれが集まったところで、一斉に先う争うように走って磯に出た。
少しでも良いものを多く取ラント、いった気持ちも有ってか凄まじい。
 
 大きいのを採られた後に、残された小さい生のワカメを、太平様で採る事が素晴らしいと思って取る。0d845f9d.jpg
だが、もたもたしていると潮がみちでくる。海女や漁師たちは、なれた手つきで網袋一杯になると、次ぎの網袋に一杯、また一杯と四つも五つも袋に詰め、やがで潮の満ち加減もみて引き上げていく。
ゆうがた、入江さんが、
「どうでした。採れましたか・・・」と、様子を見にやってきた。
柔らかいのが沢山ボ−ル一杯のワカメをみせ、家はこれで十分といったが、
「明日砂をまぶして干しなさい」
と網袋一杯のワカメをおいて行き、有り難くいただいた。
 いそ
 干したワカメも、雨が降り、雨に当たると白くなり、漁師に聞いても、「雨に当たらない内に取り込め。」と云う。なぜか知ってる人に聞きたい。










  
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2024年04月06日

食いしん坊百科「花より団子」

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「花より団子」といえば、見かけより実質的なものがよい、ということなのだが、春の訪れを告げる桜の花が咲く下でほおばる団子の旨さが、ふん囲気にも味があるのではないかと思う。
 団子は、出来立てのをすぐに、その場で食べるのが、味が変わらず旨いのだが、なにしろ忙しくなった昨今は、ス−パ−マケットで買って家に持ち帰る人が多い。
「だから、多少とも時間がたっても硬くならないように、原料の米の粉(白玉粉)選びに苦労するんです」
と、飛騨・高山で三十年以上、手作りのみたらし団子の屋台を出しているという老人は話してくれた。
毎日、必要な分量だけ、自家製粉しているという米の粉でこね、蒸し、石うすで軽くつく、その加減がむずかしいといいながら、腕をまくりあげた老人の左手は種をとり、親ゆびと人さしゆびを小さく輪にしてしぼり出す。
 次々と手早く出てくる団子は、どれも大きさが変わらない。
 右手で拾い上げ、まとめあげ幾つか作っては竹串にさし、ちょっと焼いてしょうゆのタレをつける。
「機械で作ったじゃあ、ダメダヨ。歯切れがまるで狂っちゃう。時間をおいてもやっぱり同じだ」
 確かに、時間がたつとしゃきっとした歯ざわりを楽しむのはむずかしい。
これは、ご飯、そば、うどん、もち、その他穀類を原料とした食べ物にほぼ共通した現象だ。
 穀物に含まれている生のベ−タ−デンプンは、加熱されると、食べやすいアルファ−デンプンに変わるが、時間がたって、冷えるとまた模とのベ−タ−デンプンにもどってしまう。
 そこで、本当においしく食べたいと思ったら、やはりどの団子だろうと、作りたてを味わうことである。
 鬼ガ島の鬼征伐に行く、日本一の桃太郎。「お腰につけたギビ団子、一つ下さいお供する」この物語、室町時代頃からのものだとか・・・・・・。
ギビ団子は、この頃にはあったわけである。
貴人(将軍)、上流人や通人が好んで食べたともいわれ、また神や仏の供えものとされていたようである。
 江戸時代になって祭礼の日など、縁日に団子も売り出されるようになり、これが菓子としての始まりとされている。
 団子の製法は中国から伝えられ、唐時代に穀物の粉を練って作った団喜(ダンキ)」という唐菓子が始まりとか。
 団子というその名も、円い形から、月見との結びつきも、満月に似て、まんまるい形にふさわしいが、中国の中秋節を平安朝がまねともいろいろいわれるが定かではない。だが、とにかく日本では落ちこぼれた穀物をむだなく使えるところが大いに受けて、米、麦、アワ、キビ、ソバといろいろな種類の団子が生まれた。
米の落ちこぼれを掃くいて集めて作るのが土穂団子、クズ米を利用した笹団子、小麦粉系では、野菜のみそ汁に入れるヒッツミ団子や、トッテナゲ団子。そしてスイトン。
つまり、古い型の団子には、粉をこねて、まん中を少しくぼませて丸め煮たり、蒸したりだけのものが多い。
 小麦粉の団子を熱湯でゆでれば「饂飩」
どこかでどこかで聞いたようなことばの響きだが、室町時代に、この饂飩団子が、ぐんと細長く伸び、うどんとなって呼ばれるようになった。つまり団子とうどんは親子のような関係になるわけで、
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「お月見団子は、男の子した食べてはいけないことになんていて、私はまだ食べたことかありません」と、秋田県出身の女子学生が八郎潟周辺であったと話してくれた。
「その理由は、はっきりとしないが、女んなの子が食べると、月のように諸国を放浪する、嫁めぐりになると、その地方の農家の人はきらうからのようだ」
 このほか、月見団子に限って盗まれる方が縁起がいいとか、七軒からお月見団子を盗んで食べると長者なるとか、盗むのを奨励した地方も少なくなかった様だが、今は昔の話しになってしまった。
「子供のしつけに、他人のものを盗むなんてよくありません。止めるべきです。」と伝承の形を変えた教育ママ。
 だいぶ前のこと。夜桜でもと、ある料亭に招かれて、艶やかな姐さん方の踊りのあいま、たいこ持ちの出番。大きな前かけかけで、ピョコン、ピョコンと小躍りし、三味線の音に合わせ早くなったり、おそくなったり、花見団子作りが始まった、花見踊り。
  
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2024年03月18日

駆足の旅 黒部のダム

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今は観光ル−トになっている、黒部のダムの建設に、大成建設、佐藤工業、熊谷組、鹿島建設、間組と建設会社は工区が別れ3000人近くの労務者が働いていた。工事の始まった年は飯場が表層雪崩で駄目になり、翌年から山を削った半地下の食糧を貯えた飯場の食糧チエックに、毎年10月から〜1週間ぐらい幾つか廻った。
 宇奈月からトロッコ電車に乗って欅平に行き、工事用のエレベーターで昇り、硫黄の匂いと、蒸し熱い高熱随道を工事用トロッコに乗って、山深い仙人谷の関西電力の現場宿舎に着き、雪崩が起きない場所に、鉄骨で作られた半地下の大きな食糧倉庫に米、味噌、醤油、漬け物樽。保存の出来る缶詰のコンビ−フ、大和煮、鶏肉に鮭、蟹、鰯の魚。アスパラ、筍、マッシュル−ム、椎茸、蕗、人参、ほうれん草、スイトコ−ン、里芋。桃、ミカン、ジャム。変わった物ではカマボコ、油揚、卵と多種類のまだ市販されてされて居ない缶詰をカンカン叩いて、翌年の3月頃迄の備蓄に良いかどうか見て歩るく為に
、飯場事情に詳しい関西電力の佐藤さん、佐伯さん、猟師のテッさん。同じ姓が多く関電のコメさん。猟師のテッさんに案内されて、資材を背負って運ぶボッカ(強力)の山道(雪が積ると翌年3月頃までは雪で輸送は不可能で)を歩いて飯場を廻った。
 山合いを登ったり下ったり、険しい山肌に寄り添う吊り橋を渡る時、「下を見ては駄目だ。前を見て」とテツさんに怒鳴られ、十字峡を渡る時、吊り橋の針金にズボンの裾がからみ、渓谷に落ちだそうだと聞いた。
 樹木の繁った道に出ると、熊も通る道だと、多くは岩山を削った雪崩の無い所に有り、飯場はどこも
汗の匂いも無く電気(第三発電所?)で明るく、食事は山小屋の経験豊かな調理師や、黒部に住んでいた小母さん達が受け持って「私らは、日本一の黒四ダムを造る力を作って居るのだ」と頑張っていた。
 高地の炊事は平地と違い、沸点が変わり美味しく炊けないのを工夫して、ネパ−ル式に米を洗って暫く笊に入れて置き、大きな鉄鍋に湯を湧かし、米を入れ煮立って来たら鍋の底から混ぜ、分厚い木蓋をして炊き上げる。色々と缶詰料理が工夫されていた。
 飯場に泊まり関西電力の佐藤さん、佐伯さん、猟師のテッさんと地図を広げ、「次の飯場の途中に風呂が有る。ここで野営はどうか?」と聞かれて嬉しくなっり、握り飯を余分に貰って、ボッカの通る険しい山道や、渓流の響きがある道を歩いた。木が生い茂った岩肌の間から湯気が出て、湯が川に流れ居る。温泉は下から吹き出すものと思って居たが、流れているのは始めて見た。
猟師のテツさんは辺りを見渡し、「此処がいい。熊は出ないが、化け物が出るかもしれんぞ」とおとかし、野営するのに良い場所だと川辺に決めた。
 荷物を置くと脚絆のまま川に入り、岸辺に石を囲って流れを引き寄せ湯の流れも入込み、体が横に入れる程の風呂を慣れた手付きで作り、あたりに伸びた杉枝に生えた苔の風花を集め、「これを敷いて寝ると良い夢が見る」と寝袋の下に敷いて貰った。
 テツさんは飯場から貰った握り飯の一粒を釣糸に付け、川に流したら山女が直ぐに喰い付いて6匹釣った。猟師で有って漁師のように釣もうまい。
 焚き火を燃やすのに、岸辺に溜まった白い脂の出て流木を集め、鉈で細く削って火を付けた。太い木をくの字に置いて「火を燃やす時は、青い葉が脂が有って雨の時でも良く燃える。枯れ葉は水を吸って燃えにくい。」と教えて貰い、枝を尖らし山女を刺して塩を振り、にぎり飯には味噌付け、酒を入れて来た竹筒を焼き旨そうに飲んだ。僕は下戸なので山女に味噌付けたり醤油で腹いっぱい食べた。
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 朝まで焚き火を絶やさぬ様に流木を継ぎ足し、辺りから流れて来る川霧に包まれ、苔の風花のベット
て寝すんだ。
 山の教えを話してもらい又と出来ない山歩きだった。
 
思い出すことは完成する前の年大町に泊まり、トンネルを潜って地下の発電所にジ−プで向った。運転手は間組の飯場の食事を見て周る栄養士北沢さんと云う人だった。
 間組の神部社長と同行し、完成したトンネルを見上げて、
「ハッパ64。ダイナマイトを避けるには64メ−トル離れて居れば先ず大丈夫だょ」
 大自然の中でアーチを描く標高1470mの黒部ダムは、高さ186m、堤長492m。世界でも屈指の規模を誇る。立山連峰をバックにした日本一のアーチ式ダムだ。ダム本体の耐久性は約250年はダムとして機能するといると。
 そして今、栄養士の北沢さんは茨城県に居られる事を思い出した。
  
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2024年03月17日

駈足の旅 ネパ−ル 2 

cb5bd24e.jpg 宿泊費もすべてが工場側ですませて有り、今晩はささやかだか歓迎パ−テ−をと申し出られる。
どう返礼をしたら良いものか、明日の1月1日は私の誕生日。それを祝って貰って、工場の全員50人余り、ホテルの食事に招待してみてはとい付いた。フロントに行って相談してみると、一人200円も出せばささやかだが現地料理のご馳走が出来ると聞き、工場長に話すと「そんなこんなことが出来るのですか。今までない事です」と驚いた顔して大喜びで、

 c99eae45.jpg 明日夕方7時から9時までホテルの宴会場を貸し切る事に決めた。工場長は早速に工場に戻り、女工さん皆に、明日1時間仕事を早めて終わりホテルに行く事を知らせた。
 料理代、飲み物、ホテルボ−イのチップ等含めて、一万五千円も有れば良いと、会計は長田さんに引き受けて貰い、予備費を含めて一万円を出し合い準備した。
 当日朝、ホテルの調理場を見せて貰う。
良いタイミングで米を炊くのを見る事が出来た。コックはタオルを頭に巻付けた髭ずらで、普段の服にエプロンだけを付けて、見るならよく見ておけよ。と米を袋からボ−ルにしゃくり取り出した。
 手順は。f2d0ed68.jpg
(討鬟丱吋弔妊乾螢乾蠕う。(その洗い方は日本と大差ない。水を入れては流し捨てる。
△修諒討鬟競襪望紊何紊鮴擇蝓
なべに水を入れて、火にかけ、ふっとうさせる。
な討鯑れて、杓子で底からグルグルかき混ぜて蓋をする。
ナ騰したら、また杓子で混ぜてしばらく沸騰つづけ、火からおろし、ザルにひっくり返して湯を捨てる。
Χなべを火にかけ、湯を切った米を入れ、蓋をしてしばらく置きプチプチと音がすると火からおろし出来上り。
 米はパラパラに炊き上がり、このネバリのない米、手にべとつかず良い。。
 この湯炊き法は、本に色々書いて有るが、見るのは始めてだ。
 ホテルのフロントから突然連絡が来た。ホテルでの会食は出来ないと言う断り。工場の全員に通知し喜んで貰っているのに。ホテルは工場の従業員だとは知らなかった。多少の会場費を割り増しで支払っても駄目だと断られた。(何故かと思ったらカ−ストだと聞いた)

 和地さん王宮の別荘が有る事に気が付き、何とかそこで食事会が出来ないかと思い、王宮直通特別電話で話をした。王宮側も直属工場で有る事、従業員である事などを和地さんの説明で了解し、別荘を使わせて貰う事になる。ホテル側も別荘でひらくとには驚いた様だ。料理はホテルのボ−イが出向き、料理の盛りつけなどを全部サ−ビスすることで話が決まった。
 直ぐ別荘に行き、様子がどうかなと見に行くと、門衛も管理人も王宮からの連絡で了解し、こんな素晴らしい事をして呉れると喜んで呉れた
 工場の作業時間も予定を4時前に完了し、直ぐに帰宅したと。工場長は連絡して来た。
 6時近く早めだと思いながら別荘に行くと、門の外の垣根沿いにずらりと100人近く並んでいる。門衛に尋ねると、「時間が早すぎる。5時近くから並んで居る」という事だ。
予定した人数より多すぎる。50人位と思ったのに100人近い。案内して呉れた王宮ドライバ−に聞くと、「こんな事始めての事で、別荘に入る事など夢にも思わぬ事で、両親を同伴して来た者が多い」と言う事だ。adf91d91.jpg
 さあ−大変だ。ホテルに連絡し料理の追加を頼む。
 別荘に入り大広間に行って貰うとまた大変。足が汚れているので風呂場、シャワ−室、外の流し。洗って行く様にと管理人に指示される。洗った足を着ていた上等の服で拭き取り、廊下を這う様にしてホ-ルに入り、壁際に寄り添って腰を下ろして居る。
 ホテルから料理を運んで来たボ−イは黒いコ−トにワイシャツ。手際よく腰を下ろしている者の前の床に大きな白い紙を広げる。
 別のコックはそれぞれの前に皿を並べ、ご飯を盛ると、ズンドウ鍋から杓子で肉カレ−料理を掛けて回る。あいだあいだにビン壜ジュ−スを並べる。ボ−イ達の際手の良さで、先ずはほとした。
 工場長の挨拶。そして我々三人の紹介。一言だけの挨拶。言葉は通じなくても気持ちが通じる。全員猛烈な拍手。
 工場長の合図で会食が始まると、皆会食などの経験が無いのか、食べるのが早く。料理を継ぎ足すサ−ビスボ−イは忙しい。「もっとゆっくり食べなさい」と言いたい。
 継ぎ足す料理もホテルから運ばれて幾らか落ち着き始め、地元ビ−ルも用意されていた。飲むことが無い若者は酔って喧嘩が始まった。
 目撃した工場長はホ−ルの外に連れ出し、喧嘩の二人をこん棒で体をびしびしと叩き始めた。
「大切な客人に対して無礼だ。」と厳しくしかった、工場長は、
「こんな事始めてです。お許し下さい」という工場長も、酔いが回って居る感じだ。
 何とか宴会が終わって、工場長から記念にとネパ−ルの帽子、半コ−トを頂いた。
 ホテルは昨日でチエックアウトしてある。
 今夜は別荘に泊まる事になった。
 分厚い心地よいベット。部屋には暖炉が燃え温かく、夜の寒さを感じない。一晩中暖炉の番をして火をたやさない様に燃やし続けてくれたのだ。
 ヒマラヤの夜明けは早い。
 ホテルからの差し入れというコ−ヒ−、オ−トミ−ル。ソ−セ−ジ、オレンジの朝食をすませ、外に出ると門前に騒がしい人が何人が居る。
 何事だろう。見送りの人達かと思ったら、カトマンズに行く途中の町まで便乗したいと言う事だった。
 王宮ジ−プのドライバ−は、駄目だと拒否していたのだ。後ろのタラプならと言うことで便乗する事になった。
 来た道を名残惜しくお下った。下りのせいか早く始めに寄ったチャイハナに着いてドライバ−はひと休み。二十人近い登山隊が休んでいた。何処の登山隊かと注意して見ると腕のマ−クが日の丸の登山隊が、車に寄ってきたので「どちらの山に登るのですか」とかけると
「日本語たいへんお上手ですね」と返事が帰って来た。
 昨日記念に貰ったネパ−ルの帽子に、ネパ−ルコ−トを来ていたせいで、ネパ−ル人と思った様で

「ハイ、ニホンニシバラクイマシタカラ。ガンバッテクダサイ。」とネパ−ル人になり別れた。


  
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2024年03月15日

駆足の旅 ネパ−ル 1

ad6aa685.jpgネパ−ルカトマンズを目指しタイ・バンコック空港でロイヤルネパ−ル航空のフライト便の天候事情で、今日は運行中止で明日になるという遅れの掲示板をぼやきながら、東京目黒の和地さん、蒲郡市の長田さんの二人に知り合った。
 和地さんはネパ−ル国皇太子が日本の大学に留学時、通訳を兼ねていた事で親交があり、依頼されてドイツ製丸のこ刃を持って行くのが目的だけ。特にこれと言った目的も無い事から同行する事になり、
 フライトの定時出発はほとんど無く、遅れは普通だと和地さんは言う。
 飛行機はカルカッタの上空を通過し、ヒマラヤ奥地へと飛んでカンチェンジュンガ、エベレスト、マナスル、アンナプルナ、ダウラギリ・・・と、八千メートル級の高峰が連なるネパールに迫って行く、眼下の狭い峡谷はインド、チベットを結ぶ通商路。生活と文化は南のインド風、北のチベット風、中間のネパール風と三つが交じりあった地帯。標高千三百メートルの盆地カトマンズについた。

 十二月二十九日、ちょうど国王の誕生日。王の年の数だけのハトが雲ひとつない大空に放され、カトマンズの街はすっかりお祭り気分。聞くところによるとネパールの一は祭りが大好きで、一年の半分近くは祭りだという。
 外観は立派なホテルだが、バスタブは使えず、シワ−の水も思う様に出ない。
 取りあえず和地さんは王宮に表敬と出て行った。
 街は人混みでせわしく感じるが、人の穏やかも感じられる。前の大通りを少し行けばバザール。野菜も、米も、肉も豊富に出回って何でもある。93a6da03.jpg
 古いタケ製のカゴを背負い頭に帽子ともつかない白い布切れを巻き、ひょっこ、ひょっこ、と歩いてきた男、腰に巻いていた麻布を道ばたにしき、カゴをおろして逆さにし、中から魚をふるい落とす。雷魚のような二十センチ位くらいのもの、三センチもない小魚、それらを大中小と、三種により分け、山にして並べ、その前にかがみ込む。3916dd88.jpg
 一人の男が店開きをすると、また別の男がやって来て同じ様な店が開き、たちまち七〜八店が連なる。ここは魚市場の様である。女性がその魚を買いにやってきた。魚屋は天秤の片方に魚をおき片方に石をおく。魚を木の葉で包み、木の皮でつくった細いひもでゆわえて渡し何ルーピーかを受け取る。何でも屋のような店先に、この木の葉を重ねて一束にして売って、木の葉で包んだり、食器にもするのだ。
 雨が降らないから大丈夫なのか、岩塩を路面に小高く積み店の女性は、ゆったりと塩山に腰をおろし、瓢箪を割ったマス一杯幾らで売っている。
 牛は聖なるもの殺したり食べたりはできない。(ただしバッファローは別で働く牛で、バッファローステーキなどもある)ヤギでもニワトリでも肉にする時、必ず僧の祈りを捧げる。その事が大切な事の様だ。606192a9.jpg
 牛は車が通ろうが道路でお構い無くゆうゆうと寝そべり、カトマンズの街を走る車を制限し、騒音から守っている主の様な感じだ。
 子牛のしぐさは面白い。八百屋の前を通ると足の向きを急に変え、店頭の青菜をガバリと喰わえ、店の主が奥から飛び出す。子牛はサッと向きを変えくわえた野菜を丸のみしてしまう。そして平然と次の八百屋をねらう。
 子供と遊んでいる子牛もいる。黒い鼻先、目玉を抑えてもなされるままにおとなしい。

 夕食はどうしょうかホテルで待っていると和地さんが急ぐように戻ってきた。
 ホテルよりチベット人の店にしようと近くの食堂に行く。 赤い柱、壁に曼陀羅模様がいっぱい描いてある異様な雰囲気だ。漢字のメニューにある。適当に千円位を注文した。
和地さんは、あす朝早く少し暗いが王宮から差し向けのジ−プが迎えに来るので、それで山の工場へ行く事になった。太陽が昇ると霧で見通しが悪くなると言う事からだ。
 たのんだ料理は待ってもこない。どうも話が通じ無かった様だ。簡単なものと焼飯と書いたのを頼み直す。何時も食べる焼飯といくらも変わりもないが南京豆が沢山入っている。
ネパ−ル焼飯かも知れない。
 朝食をバザールで食事する人が多いという。お茶をいっぱい飲むのに必要なヤカン、コップ、マキ、お茶の葉、砂糖などそろええ手間かけるより、安く上りバザールの食事は経済的で合理的でも有るわけだ。
 早朝のためかひんやりと背筋が寒い、温かいインスタントコ−ヒ−、ふすまの多い小麦粉を鉄板で薄く焼いたチャパテイ−、オレンジ、ランチョンミ−ト缶詰で簡単にすましロビ−で待っていると
迎えの大型ジ−プが迎えに来た。
 タイヤも大きく馬力も強そうだ。太陽が出ると夕べの露が熱で一面にもやが立こめ、足先さえも前が見えなくなり、走る事が出来ないので早く山を登るのだとドライバ−は説明し、上は視界が良いからと安心させ舗装の無い山道をぐんぐん左折右折しながら走る。
シルクロードのお茶ワカシ 二時間近く走って幾らか平地になるとチャイハナ(お茶屋)があつた。
 ドライバ−は少し休憩と車を停めて店に入ると、紅茶ポットとカップ三つを持って来てどうぞとばかり進めて呉れる。 逆ではないかと感謝して飲む。
 ここまで来たら、もやの心配もなく走れ視界がどんどん開けて来るとドライパ−は胸をはる。
 予期もしないヒマラヤ観光だ。山道を上下しながら、しばらく走りなだらかな斜面に入り、点々と家並の町に出た。ヒマラヤトレッキングの中継地点として観光のホテルも有る。
ちょうど此処が工場迄の中間地点だと、疲れを知らないドライバ−に励まされて乗車。
 山腹を切り開いた崖道。深い渓谷。ドライバ−は臆することなく悠々とがたつくハンドルを切って走る。
 昼近くゆるやかな斜面の有る目的地、工場き有る町に着いた。
家並も多く、通りの商店も有り、大きなコンクリ−造りのホテルも有る。
少し町並からはずれて目的の工場が有った。
着くことを待っていたかの様に、車の音で何人かが出できて迎えて呉れる。
 工場はインドとの国境地帯50キロに広がるはチ−ク林の木材で高級な床材に仕上げ、外貨を稼ぐ大切な資源だという事だ。チ−ク材は固く普通の丸のこでは駄目。ドイツ製でないと刃がたたぬ。和地さんが早く持っていかないと工場は稼働しないという訳なのだ。
 工場内は200坪近くと広い建物が、製材所、製品工場、包装工場、製品保管所と建ち並んでいる。製品工場は高い天井から張り渡らせたベルトで工作機械が騒音をがなり上げて居る。薄暗い電灯の灯の下で、色華やかな布を巻き付けた様な服をまとつた女子工員が素足にペランペランのサンダルをはいて、短く切つた木材を運んたり、機械の前でせわしく働いて居る。
 工場に入ると30人近い陽焼けした笑顔が一斉に向く。邪魔にならない様に手を上げて挨拶する。
 軽作業の様だが少女にとっては大変な労働に見える。
 工場を見学して工場長の案内で用意されたホテルに行く。
 3階建ての見晴らしの良い良いべットの部屋でシャワ−は水しか出ない。ベランダに出て見ると直ぐそこから深い森と山の隆起が続いて見え、ヒマラヤのエベレストは反対側で山々ち阻まれて見通せない。工場長は「あの森の奥に行けば、ベンガル虎とも出会う事が出来るかも知れないと、もし行くのなら道がないジャングルなので、ゾ−を用意しますよ。その奥インドに向かって行けば釈迦の生誕したとか伝えられるアショカ城があったとか」定かでない話を本当の様に話して呉れる。
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2024年03月10日

駆足の旅アメリカ

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 健康問題調査で全米数カ所の病院、保養施設、事業所を、それぞれ分野の専門家に同行しニュヨ−クに行った。

 郊外の100床程のサナトリュウユを訪問し、施設の内容、実情、抱えている問題、此れから対処すべき事など詳細に院長、事務長から説明を伺つた。
 日常使用している機材、細かい物品も見せて貰つた。小さな赤十字マ−クの付いた白い茶筒缶。これ一缶が一日の命の食糧という事。
 土曜日とも有って午後になると家族揃っての訪問が絶え間なく有る。
「家族の一人でも、友人の一人でも、週に一日10分でも尋ねて来てほしいのです。手を握り「ハロ−」の一声が、どんなにか喜びと勇気が持てるか。お願いします。」院長の言葉は熱を持っていた。
 アルコ−ル依存症、異常肥満症それぞれに闘っている。


 アメリカ人たちは、どんな意識で日本食を口にしているのか、彼らの目に映る日本食と健康食との接点はどこにあるのか。
「アメリカ人食生活は肉食があまりにも多い。もっと日本人のように米や野菜を中心とした植物性の食品を多く取り入れ、タンパク質も大豆や魚から摂るよらうにして体質を変えなければならない」
 どうも日本料理だからというより、体に良いものを追求していったら、たまたまそれが豆腐や玄米だったという印象だ。日本料理はエキゾチシズムの衣をまとわなくても、アメリカ人の食生活にどんどんと消化されている様だ。090c6132.jpg

「ナチュラル・グルメ・クッカリ−・スクール(自然食料理教室)」訪れたクッキングスクールの名前。ニュ−ヨ−ク・ウエストエンド・アベニューの一角、高級住宅街だけに客筋もよいらしい。この国で「健康」「健康」と目の色を変えているのは、中流以上のクラスのようだから、うってつけの立地である。
349c5c64.png校長のジョン・ボヤーユ氏と奥さんと二人で切り盛りしている。
「健康」「健康」と目の色を替えているのは、白人の、それも中流以上のクラス。
 学校といっても、十二畳ぐらいの部屋の中央に木のテーブルを寄せ集め、その一端で先生が調理のデモストレーションを行うのを、生徒たちがメモしながら眺めるというスタイル。棚にはカラフルな調味料入れが並び、格子の目隠しカーテンが窓を飾る教室はどこにでもある可愛いキッチン。
 ステンレスの調理台がずらりと並ぶ日本の料理学校とは、大分趣が違う。
「ニューヨークには大・小六十近い料理学校があるが、健康食を前面に掲げた所は多くない」と校長のジョン・ボヤーユ氏は胸をはるだけあって、カリキュラムはなかなか多彩だ。
 砂糖をつかわないケーキ、焼き菓子のコース、健康回復のための料理コース。塩と脂肪ご法度のコース、さらにはハーブ(香草)を使った料理。忙しい人のための健康食コースなど合計八っのコースがある。
 一目して分かるように「肉と砂糖を避け、材料はできるだけ手を加えず、塩もごく少量しか使わない」のが、この料理教室の基本路線。
 当地の新聞がスーパー・ナチュラル・クッキングスクールとして紹介したこともあるという。
 日本料理、中国料理、ベトナム料理などをヒントにしたものも多いが、換骨奪胎したりしていずれも国籍不明のボヤーユ流料理とでもいえるものの様だ。
 訪ねた夜は「ヌーベル・ナチュラル料理」のコース。
 若い女性二十人ほどが、中華なべと格闘するボヤーユ校長の手つきを熱心に見守っているところだった。
 メニューは圧縮した豆腐をトマトソースで煮込んだオリエント風豆腐とライスシチュー。そして玄米とマッシュルームを牛乳で煮込んだ、牛乳・オートミール粥とでもいった料理。どちらも私の口にはねっとりと重く、お世辞にも美味しいとは言えないシロモノだ。
 どうやら健康によいとあれば、味のお粗末さに目をつむることはもちろん、苦労もいとわない覚悟のようだ。
「グーッ」とにっこり試食する生徒達に、何のために習うのか聞くと
「もちろん健康のためょ」「恋人のため」「パーテーで変わったもてなしをしたいから」という答えがかえってきた。
 たしかに大味な肉料理とともに加工食品を多用するアメリカ。ちょつとした気配りや盛りつけの手間を怠ると、まるで味気ないものに陥ってしまう。そこに気付いたアメリカ人たちは、新鮮さと盛りつけの美学といったことからも日本料理から学ぼうとしているようだった。
集め、この一端で先生が料理のデモンストレーションを行うのを、生徒たちがメモしながら眺めるというスタイル。棚にはカラフルな調味料入れが並び、格子の目隠しカーテンが窓を飾る教室は、どこにでもある可愛いキッチンといった感じで、ステンレスのずらりと並ぶ日本の料理学校とは、ずいぶん趣がちがう。
私が訪ねた晩は「ヌーベル・ナチュール料理」のコース。若い女性20人ほどが、フライパンと格闘するボヤーユ校長の手つきを熱心に見守って居るところだった。
 メニューは圧縮した豆腐をトマトで煮込んだオリエント風。豆腐とライスのシチュー。玄米とマッシュルームを牛乳で煮込んだ、ちょっとオートミールを煮くずした感じの料理だだった。どうやら、健康に良いとあれば美味しい肉も、味のお粗末さも目をつむることはもちろん、いかなる苦労もいとわない覚悟のよらうだ。
 ロスアンゼルス郊外で大農場をしていたジョ−ナカイさんの所に訪ねた時だった。
日本に輸入されるレモンに不当な農薬が使われて居ない事を知る為に訪ねた時だった。
トラックで選果場に運ばれて輸出される国に別にレモンの熟度を光線で仕分けされ日本は比較的遠い国として多少若いレモンが選ばれていた。そのために防腐剤が使われて居ないか、問題のない薬品かを確認する為で、同行した専門家は安全性の高いものであることを確認出来てよかった。
 広い農場だ。その広さをナカイさんに聞くと「あなたの目が届く所までです。」途方もない広さだ。
端まで車で行くと1時間は掛かると言うから驚く。レモンだけで無く、今はイチゴの収穫期行って見ますかト案内されて10分ほど行くと丸ビル程の建物とがありその横に連なって横長く建物が有る。
その前の広場にはキャンピングカ−が10台近く並び、車とおしにロ−プが張られ華やかな洗濯物が干して有る。
周りは広いイチゴ畑だ。点々と大きい麦わら帽子をかぶった人が籠を下げている。
「あの人達はメキシコからの季節労働者で、イチゴを摘んでいるのです。」
 点々と労働している人は3〜40近い。毎日摘んでも収穫期はひと月近い収穫期で、収穫したイチゴは洗浄され、一切の保存料などは使用せず、生ジュ−ス状態で20リットル瓶に入れてチドル状態で鮮度を無くさない様に保存して置き、注文のあり次第全米に出荷するのだと。そのための倉庫が旧丸ビルの大きさとは驚いた。
他の野菜などの農薬散布も幾つかの地域に分けて小型飛行機で散布するが、安全性の確認出来る一週間近くは立ち入らない様にしているという事だ。
「ステーキを食べに行きましょう」と案内された。
 ステーキは昔から牛肉料理の王様。日本ではバカ高値でやたら口にすることはなかったが、最近は肉も安く食べる機会も多くなった。なにはともあれ嬉しい事である。
 店の名前は「ハングリー・タイガー(飢えたトラ)」出てきたナイフはノコギリのように刃がついている。厚さ三センチ近く、横幅も三十センチほどの鉄板焼き。目分量で五百グラムはあるワラジのように大きいステーキが現れた。つけあわせは焼きトマト、シュークリームの皮、レモンバター。どれも薄味である。肉食の伝統の長い欧米人にとってステーキとは肉の味そのものを味わう、いわば日本の米の飯にも似たものだろうかと思った。そのために量が多くて味が無いのか・・。分厚い肉の表面を強火で焼きしめて美味しい肉汁が漏れ出すのを防ぐ。牛肉は部分によって名前はさまざまだし、シャリアピアン、ミニッツ、トーネードなど味つけの仕方によっても呼び名は違うが、いずれも肉汁のおいしさを生かすことでは変わりがない。
アメリカでの日本食レストランが繁盛したり、豆腐や寿司の本が売れたり、単にレストランで舌づつみをするばかりでなく、自ら料理にチャレンジするアメリカ人も増えたということ、どんな意識で日本食を口にしているのか、彼らの目に映る日本料理と健康食の接点ほどこにあるのか。やはり肥満を抜きにしては考えられ無い。23af0b24.jpg

 家から海辺沿いで行くとフアミリーレストランが有る。友人が訪ねて来た時など食事するのよい。
平日でも大変な賑わいだ。子供の学校で知り合った主婦、サークル活動の主婦もここを溜まり場にし、ランチをとって、コーヒーのお代わりを何杯か飲んみ、2時近くなると申し訳ののように、肥っちゃあいけないとデザートを注文して食べ、またお喋りし「アラッ!もう3時・・」と急ぐように帰宅する具合のようだ。食べる飲む、そして喋る。何とも逞しいお母さんたちだ。
 子供に人気があるのが、ハンバーガーショップ。折り込みチラシはふっくらと美味しそうな写真。それに平日は半値というのは何とも魅力だ。
 広告のチラシは見るがまだ行ったことが無い。と言う老人ホ−ムの知り合い老ドクターを案内した。店内はオレンジ色の明るい照明で軽いリズムカルな音楽が流れている。
「若さを取り戻すようなですね。軟らかくて、老人にも食べよいですね・・・」
「昔、アメリカの西部時代映画にありましたね、スタンドに立ち寄って、ピストルでズドーン!」
 先生はとてもお気に入りのようだ。
 だがドクターの見た眼では気になるようだ。
 「いつも軟らかい食事ばかりではないだろうけれど、あごのほっそりした子供や若者がとくに最近は多いようだけれど・・・」
 噛むということが少ない。あごの力が衰えるから、出来るだけ噛むことに気をつけなければ。子供は骨格形成の大事な時。煮干しの様な固いものを噛み、しっかさせないと歯が単に抜けてしまうと先生は心配である。好きなときに腹一杯に食べられる時代。いっそう健康志向が望まれる。
 
  
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駆足の旅バンコックの水上マーケット

 cf566e22.jpg東南アジア1ともいわれるバンコックの水上マーケットは、常夏の国らしくいつも活気に溢れている。
 バンコックでは、河川や運河が重要な交通路となっている。住民は河川づたいに水上の家を建て、今日にいたっているということだ。
 バンコックを遠巻きに流れるメナム・チャオプラヤ河畔の船着場から、ニッパ椰子の屋根の民家を眺めながら朝風に吹かれ約40分。
 それぞれの小船にバナナ、パイン、マンゴーなどの果物、野菜からあでやかな草花など積み込み、日用品を得る船には鍋、ボウル、洗面器、バケツ、ホウキまで積んでいる。
 煙突をつけたお茶売り、飲食物を売る舟も右往左往し合い、その間を買い物客の小舟が品定めをしながら、にぎやかな掛け声を交わしこれが水上かと思うほど。

 同じバンコクのもう一つの市場は、土・日だけのサンデーマーケット。トラック、荷馬車、てんびんかごで運ばれてくる豊富な生鮮食品。何十種類とあるエビの乾物、魚の揚げ物、日用品から、鶏、ウサギ、犬のペット類まで。
 包丁を売る店を覗くと、曲がったの、とがったの、分厚いの、薄いのと何十種もあり、どれもピカピカに光かっている。
 これがみんな、家庭用というから驚いてしまう。
 日本の出刃包丁、菜切り、柳刃、どれに当たるのかと思って見回しても感じの合うのは見つからない。
 海、山の産物の豊富なタイ国、さすが包丁も多い。
  
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2024年03月07日

駆足の旅 メキシコ

 アメリカ・サンデコ港から、70a83be5.jpg10万トンもの大型客船でメキシコ海よりの町々を寄港しながら訪ねて見た。海の色は、ハワイ同じく鮮やかなスカイブルーの底の魚までよく見える。椰子の緑は美しい。
 大きな国旗が海風にはためくのも美しい。港にはボ−トで行き、港から市内にはバスもいくが、港の前だけて充分観光には楽しめる。決まった様に土産店が続く大型ス−パ−も有るが珍しいものはく、通47e46df0.jpgりの屋台てサボテン料理を食べさせる店、タコス料理を作っている店、メキシコ料理のタコスも出ます「作り方はとっても簡単」と片言の日本語を交えながら焼いて見せてくれた。
 トウモロコシの粉と塩少々を合わせ、水を少しずつ加えてこね、直径15センチ位に薄く伸ばしてフライパンでキツネ色に焼く。「これがトルティーヤ。味つけした魚や肉、豆にチリソースをかけて巻く
一つタコ。二つでタコス」。チリソースが効いていて、おいしいけれど、かなりの辛さのソボクな料理が多い。f6a43009.png
 伊勢海老よりも豪華で、大きいロブスタ−の美味しいものを食べてもあじけない。サボテンで造ったテキ−ラは度が強く、炭酸で割って飲んだ。ead5d488.png

食べる食事も何処で何を狙われているか注意しないといけない。
 みやげ物は手作りものが多く。
 淵の広い麦わら帽子は1メ−トルも有る、やはり太陽がサンサンと照りつく国だとおもった。
 赤いベソかいた人形が並ぶ。釣り糸人形の巧みさについ見とれて居たら、巧妙な手口でポケットから財布を抜き取られてしまった。代わりに買った小さいサイフは金が無い者には良かった。
始めて旅で会う災難だった。これからの旅には注意しなければとつくづく感じ、食事は船の食堂ですました。以前訪れた時はロスンゼルスから列車でサンチエゴに行き、そこからバスでメキシコに入国し、長い橋を渡り、長い行列でバスポ−トを見せて簡単に入国できた。
 レストランの前では大きな淵の帽子ソンブレロをかぶりギダ−をかかえた5人の男が、マイクを前に気勢を挙げて喧しく掻き鳴らしてていた。
 人ごみの市場。派手なにぎゃかさを感じる生活用品ばかり。きちんとした飾りも無く積まれて売っているのを見ると、素朴な生活の華やかさ、といった感じだ。店構えは立派な土産品店で、記念にと陳列された大理石の燭台を言い値で買い、包装して貰ったら石が崩れ、屑大理石を接着剤で張り合わせたもだった。金を払う前で良かった。
 民族l衣裳豊かなポンチヨを見せて貰ったらまた大変だ。何と思ったのかついてくる。どしても買わせるつもりだ。荷物になるからと言っても通用しない。値切りながら逃げる。追ってくる。バスの窓までしがみついて来て、始めの値段の半分以下。買わないと気の毒になった。素朴な人々の魅力を感じた
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 何枚か買ってきたcd、情熱的で熱い太陽の下でも踊りたくなる音楽だ。苦いコ−ヒ−もうまくなる。  
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2024年03月05日

駆足の旅 イタリア  2

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 4月1日のバチカンで、パウロ六世のミサにクリスチャンでもないのに、訳も判らず行って信者でもないのに、幸せな気分なった。
 ベニチアでは、辞書を片手に「ここの名物料理をなんですか」と待つことやはりり30分以上。ウナギを丸ごと金網のザルに入れ揚げぐるぐる巻いたウナギの唐揚げそのまま皿に出されたのには驚いた。塩、コショウの味で食べるたが味の程は覚えていない。
 二度三度と訪れたサンマルコ広場はいつも違つた。海の水位で広場は水浸しで、店内も海水で店員は水かきに大変だ。
 古代ローマの遺跡ポンペイで、レンガで造ったパン焼き窯の跡と説明されて、思った事は昔造ったパン窯とどこか似ている事だ。
 質問すると「貝料理はどこか」と勘違いしたらしく、遺跡とは違い値段の高いレストランテに行った。
 30分ほどせ待ち運ばれてきたのは「ボンゴレ」つまりアサリが殻もいっぱいの大皿盛りのスパケッテイ。しかしスパケッテ−にはシンがあた、貝の味つけも水っぽい。
「この硬めのところがなんともいえないんだ」と自慢の料理を作る調理場をのぞいてみた。
 遺跡の台所と似ていること。かまど、なべ、しゃくし、形、性能こそ違え昔と変わらないと言うことだが。「どうだ。うまかっただろう」・・ポンポンと大きな腹のガイドの自慢げな顔はなんとも可笑しかった。
名画「終着駅」で名高いローマ・テルミニ駅のすぐ前にある日本料理店に立ち寄った時だった。
 調理場に真空パックされた日本製のお餅が有った。誰が食べるのか板前の若いセニョールに尋ねたら「日本人オモチ好きね。お客さん,オゾーニ 餅を食べるのは正月ぐらいと、あまり食べなくなってしまった人も、日本を離れ海外に旅すると郷愁で食べたくなるのでは・・・。

 イタリアもフランスに劣らず食道楽の国。料理店は数多いが、看板によって格式がちゃんと判る仕組みは有り難い。最近は旅行者のため英語、仏語、日本語と表示してあるから迷うことはない。
「ムシュー、この料理の味は?」
と店の主人に、メニューを持って尋ねたら、
 「ウマイヨ、ヤスイヨ」
 片言の日本語が帰ってきたのはご愛嬌だ。

 古代ローマの遺跡、ポンペイ。ナポリ湾に近い。当然、貝塚も残っているはずだと、陽気なナポリ男のガイドに尋ねてみた。昔のローマー貴族の音にきこえた美食ぶりがどんなものか調べて見たかったからだ。
ガイドは、こっちの片言を「貝料理はどこか」と勘違いしたらしい。引っ張っていかれた先は遺跡にほどちかい一軒のレストランテだった。30分ほどせ待たされたすえ運ばれてきたのは「ボンゴレ」つまりアサリが殻とともにいっぱい入った大皿盛りのスパケッテイ。しかし、スパケッテイにはシンが残っているし、貝の味つけもちょっと水っぽい。確かにスパケッテイはシンがあるくらいの方がおいしいことは承知しているが、それも程度問題。いささかシンがあり過ぎる。
「この硬めのところがなんともいえないんだ」と自慢げにかきこむガイド。
それなら料理を作る所をみてやれと調理場をのぞいてみた。一見した感じは、なんと先ほど見た遺跡の台所と似ていることか。かまど、なべ、しゃくしの色、形、性能こそ違え、二千年の昔と変わらない。
「どうだ。うまかっただろう」と、
 ポンポンと大きな腹をたたいて立ち上がったガイドの自慢げな、その顔はなんともおかしかった。
 ちょつと高級な料理にはホタテ貝、アワビ、サザエ、カキ・・・。

 先日、知り合いの漁師が大きなサザエをとどけてくれた。
 固いふたをこじあけるのがたいへんなので、そのまま火にかけて焼くか、殻を金槌で叩き割っている。だが余りにも立派な殻だ。形も食欲の一つ。料理の大家の本を見てみると「さざえを暗いところにふせておくと、そろそろと首を出してきますから、それを見すまして手づかみにしてふたを切りおとします」とある。書いてある通りにして待った。なるほど首は出す。だが時間がかかる。おまけにサザエも必死なのか、こっちが手を出すと以外なほどの速さで首を引っこめてしまう。
 悪戦苦闘。教科書通りに料理は出来ぬものとあきらめ、サザエを火にかけようとしたその時、海がわの戸が開いてにゅーっと顔を見せたのは、さっきの漁師だった。蓋の取り方を聞くと
「ああそんなの、簡単だ。」と、こともなげにテーブルにあったスプーンの柄の端をサザエにねじり込み、えぐるようにして蓋と貝柱を抜き取った。
「もっと沢山サザエを食べれば、上手になりますよ」と笑いながら出ていった。
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2024年03月03日

駆足の旅 イタリア 1

68e50a8a.jpgイタリアは物価が高いぞ、」と話を聞いて残った10シリングでオレンジ5キロと安い大袋を買い腹一杯食べ、車に揺られて落ち着く。
 水の都ベニチュアに向かう。雪山の間をぬって少しばかりの平地にたどり着き、オ−ストリアとイタリアの国境。二つの国の旗が分けて並んでいる。
通過するのに「ジャポン・ハイスク−ル。」とパスポ−の写真も見ずにに入国スタンプをただ押してオ−ケ−。子供あつかいに見てくれるのは有り難いことだ。
 すぐ目につくのはわらに包まれたキャンテ−ワインの空きビンが店角に山積みされている。
 コ−ヒ−、ビ−ル、ワイン、サンドイッチ、と気軽に食べれる所、子供でも入れる所である。ここは安い事とトイレが無料だ。
 コ−ヒ−の苦いこと。砂糖を多めに入れるが、苦さは変わらない。「エスプレソ」と言うのだと聞いた。ミルクを蒸気で泡たてた「カプチ−ノ」大、小がある。小で良いと教えられそれからの10日間はそればかかり飲んで過ごした。
 交換して貰った札の金額に関わらず、大きい札、そしてペランペランだ。100リラが60円余り。財布に四つ折りにして入れていると、カウンタ−のバ−テンは、「イタリアには大きなサイフがあるョ」と手真似と早口言葉でおしえてくれる。
 車は山から平地へ、どんどん走り、枯れたトウモロコシ畑から麦畑へと眺めが一転する。
兵舎が見え、その周りの民家とは対照的で、干してある洗濯物の彩りが美しく風に吹かれている。
ノ−トに大きく次の事を書いておいた。
「ケ・レ・ル・プラ・スペッシャル・ドウ・ス・レストラン。」ここの自慢料理はナンデスカ?。
「セルヴェ・モワ・ル・メ−ム・プラ・ク・スリエ・イン。」あれと同じものを下さい。
 食事することについて少しばかりだが要領を覚えた。
 豚肉を食べたい時は鼻をおし上げてブウブウ言えばよい。
 手紙の切手だって、買うところで「ジャポン」と言って手を広げ「ブ−ンブ−ン」と唸れば英語圏で無くても通用する。
 途中ドライブインで昼食する。ボ−イの持って来たメニュ−など見ても日本語の表示はない。
 ノ−トに書き留めたイタリヤ語を見せ、ボ−イが示す中から1000リラていとの料理を選んで注文した。いらいら待つこと30分。
 隣を見ると気取りやのシニョ−レは新聞を広げ料理を待っている。
 やっと来たのはスパケッテイにオリ−ブ油のきいたミ−トソ−スが別のポットに添えてある。フオ−クにくるくる巻いて食べて仕舞う。そしたらまた次の料理が来た。
 牛肉のブド−酒煮(タフエル・シュニツ)。牛肉のとろける柔らかい旨さ、グリンピスがガッポリ添えてある。グラス山盛りのアイスクリ−ム。
 料理1000リラ、テ−ブルチャ−ジ100リラ、サ−ビス100リラ、そしてチップ100リラ計1300リラ。日本円780円余り。有るだけの料理を食べのに、ずいぶん安い。
 午後4時近くなって、ベネゼェラに着く。陸つづきの島のような町全体が運河で仕切られている。市内は車か入れないので、全部荷物は宿に持って行くと運転手のヘンクは言う。
 要らないものでも置いておくと車のガラスを壊される心配だ。客引きのポ−タ−が小さな二輪車を持って来てくれる。だが、貧乏旅行者だと判ると行ってしまった。
 乗合い船はバス。モ−タ−ボ−トはタクシ−、ゴンドラは人力車と言ったところだ。
 バスに乗ってユ−スホステルに向かう。赤煉瓦の貨物倉庫の跡だ。中は賑やかだ。イタリア、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ハキスタン、インドと万国民族博だ。それぞれに明日の予定はいずこへと地図をひろげ、チ−ズの固まりをパンに挟んでほおばり若者の天下だ。
 ユ−スの楽しみはここだ。年なんか忘れ語りあえる事だ。
 シャワ−は水だけ、トイレはトルコ式だとかで四角い平面の水洗。
 陽が落ち辺りが薄暗く感じて来ると霧に包まれ、4〜5メ−トル先が見えない霧の都だ。
「ボ−オ−」と運河の汽船が鳴らす霧笛は旅情を誘いたまらない。
 朝食はパンどんぶりのカプチ−ノ一杯に、固くなった丸パンにオレンジ1個。パンが固ければカブチ−ノにちぎって浸す。ジャム、バタ−の無いのは寂しい気もする。
 夜おそい食事習慣ではよいのかもしれない。
 サンマルコ広場を中心にネクタイ、装身具、ガラス細工、食料品、レストランの小さな店がひしめき軒を重ねている。
 食料品店で見るスパケッテ−にしても、赤、黄、緑。幅の広いのも、細いものと多種多様だ。ひやかし見ているうちに12時知らせるサンマルコ寺院の鐘楼の鐘が鳴り響く。
 それを合図の様にコ−ヒ−店やレストランを除き店々の戸が閉めだした。店頭の果物には網をかけ、12時から3時過ぎくらいまでが昼休み。
 開けているレストランに入り例のノ−トのメモ帳を見せて自慢の料理を注文する。待つ事30分で
運ばれてきたのは、カラス貝のス−プに小さく切ったパンが浮かせてある。泥臭いなじめない食欲の起きない味だ。会計をすまし「モルテ・グラツセ」と店を出た。
 ペアレントは丸顔のツヤツヤしたイタリア男。
 夜のミ−テングで聞きたい事を聞いていると、ペアレントのかみさんが、入って来て話を取って仕舞う。
「男はいつも訳のわからない事ばかりしているから、女がしっかりしなきゃ−ね。」
 強いおかみさんは周りの女の子にケラケラ笑わせる。
 スパケッテ−の料理を聞くと、かはさんは喜んで100やそこらはある。そのひとつ、ひとつに茹で方が違う。大切なところだと強調する。
 レストランも高級な店はレストランテ。次はトラトリア。
大衆的な所はピツエリヤとある。お前さんはピツエリヤだよ。レストランテなんかい行くじゃないよ。お金をとられるだけだからと教えて呉れた。
 あとの旅はフロ−レンス、ロ−マ、ミラノ、ピザと町まちを訪れ、かみさんに教わった事はそれからの旅に役立った。

 ベニチアで、辞書を片手に「ここの名物料理をなんですか」と待つことやはりり30分以上。ウナギを丸ごと金網のザルに入れ揚げぐるぐる巻いたウナギの唐揚げそのまま皿に出されたのには驚いた。塩、コショウの味で食べるたが味の程は覚えていない。
 二度三度と訪れたサンマルコ広場はいつも違つた。海の水位で広場は水浸しで、店内も海水で店員は水かきに大変だ。
 古代ローマの遺跡ポンペイで、レンガで造ったパン焼き窯の跡と説明されて、思った事は昔造ったパン窯とどこか似ている事だ。
 質問すると「貝料理はどこか」と勘違いしたらしく、遺跡とは違い値段の高いレストランテに行った。
 30分ほどせ待ち運ばれてきたのは「ボンゴレ」つまりアサリが殻もいっぱいの大皿盛りのスパケッテイ。しかしスパケッテ−にはシンがあた、貝の味つけも水っぽい。
「この硬めのところがなんともいえないんだ」と自慢の料理を作る調理場をのぞいてみた。
 遺跡の台所と似ていること。かまど、なべ、しゃくし、形、性能こそ違え昔と変わらないと言うことだが。「どうだ。うまかっただろう」と、ポンポンと大きな腹のガイドの自慢げな顔はなんとも可笑しかった。
名画「終着駅」で名高いローマ・テルミニ駅のすぐ前にある日本料理店に立ち寄った時だった。
 調理場に真空パックされた日本製のお餅が有った。誰が食べるのか板前の若いセニョールに尋ねたら「日本人オモチ好きね。お客さん,オゾーニ 餅を食べるのは正月ぐらいと、あまり食べなくなってしまった人も、日本を離れ海外に旅すると郷愁で食べたくなるのでは・・。
 イタリアもフランスに劣らず食道楽の国。料理店は数多いが、看板によって格式がちゃんと判る仕組みは有り難い。最近は旅行者のため英語、仏語、日本語と表示してあるから迷うことはない。
「ムシュー、この料理の味は?」
と、店の主人にメニューを持って尋ねると、
 「ウマイヨ、ヤスイヨ」
 片言の日本語が帰ってきたので、調理場をのぞいてみると
 ポンポンと大きな腹をたたいて、自慢げなその顔はなんともおかしかった。
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