傘を忘れた金曜日には その1

333: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:34:02.62 ID:BVqEyKd2o



 大野辰巳と市川鈴音の出会いは、彼らが中学一年生だった頃まで遡る。
 
 彼と彼女は同じ中学校に入学し、同じクラスに通い、同じ授業を受けて過ごした。
 
 入学時の席が近かった関係で話をする機会が多く、彼ら彼女らは自然と親しくなった。
 一年の最初の学期に、それぞれが同じ委員会に入ったのも理由のひとつとして挙げられるだろう。

 とはいえ、双方、それを即座に恋愛関係に発展させるような性格はしていなかった。
 
 そんなわけで、彼らの関係性は中学三年になるまでの間、奇妙な安定と不安定の中間にあった。
 互いが互いをまったく意識していなかったわけではないと思う、と大野は言う。
 少なくとも俺にはその自覚があった、と。

 市川がどうだったかは市川に聞かなければ分からないだろう。

 それでとにかく、少なくとも大野にとっては、市川は他の誰とも違う存在だった。






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引用元: 傘を忘れた金曜日には 




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334: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:34:28.42 ID:BVqEyKd2o

 大野はその先をなかなか語りたがらなかったが、俺は辛抱強く続きを待った。
 本当は聞くべきではなかったのかもしれない。俺は少し迷っていた。

 けれど結局、彼はその続きを口にしたし、彼がそうした以上俺は聞くしかなかった。

 三年の秋だったと思う、と大野は話を続けた。

 彼はずいぶんと迷っている様子だった。あまりにもくだらないことなので、他人に話すのも馬鹿らしいというふうに。

「同じクラスの男子がな、ラブレターを書こうとしていたんだ。べつに本気でってわけじゃない。ただのいたずらだよ」

 当時、大野は文章を書くことにそこそこの自負があったという。
 今を知っていると意外な話だ。

「それで、俺もその話に加わった。そいつらは字もあまり上手くなかったし、文章も思いつかなかったみたいだ」

 べつに誰に出すわけでもなく、単に遊びでそうしようとしていただけなんだと聞いて、大野はその話に加わった。
 そうして彼は、そつなくそれを書き上げた。

 文章に多少の自負がある奴らしく、けれどシンプルに、率直に、ラブレター然としたラブレターを。


335: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:34:56.85 ID:BVqEyKd2o

 問題はそれだ。
 
 大野はそのラブレターを書き上げて、友人たちとその出来を共有したあと、その場を去った。

 そしてその友人たちは、このいたずらにさらなるいたずらを付け加えた。

 その手紙の末尾に、こう付け加えた。

「大野辰巳より」

 そして、その手紙を、市川鈴音の机の中に入れた。
 そのことを大野が知ったのは少しあとになってからだ。

 それによって起きたことはシンプルだ。

 市川鈴音は、その手紙を読み、数日間悩み、返事を書いた。返事として、返事を書いた。 

 大野は手紙を受け取るが、その心当たりがない。市川に手紙を出した心当たりがない。
 そのため彼は、末尾に「市川鈴音」と書かれたその手紙に戸惑い以外のものを覚えない。

 困ったことに、市川鈴音の手紙には、好意を受け取る旨は書かれていたが、宛先が書かれていなかった。
 名前すら出てこなかった。

 そのため、大野はこう考えた。

 市川は誰かから告白の手紙を受け取り、その好意に応えた。
 そして(大野は手紙を出していないのだから)、それは自分以外の誰かだ、と。

 

336: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:35:27.44 ID:BVqEyKd2o

 大野は大野らしい誠実さによって、その手紙の誤配を市川に伝える。

 市川はそれを大野から直接伝えられ(「間違って入っていた」)、更に戸惑う。

 お互いの多くを語らない性格が裏目に出た。誰も誤解を解くものはいなかった。
 ふたりはそのような関係性だった。

 そして、互いが互いに、なにひとつ訊けないまま疎遠になる。

 大野がクラスメイトのそのいたずらを知ったのは、卒業式のあとだった。

 大野は言う。

「文章なんて書くもんじゃないと思った」

 文章なんて、書くもんじゃない。
 
「市川に宛てた文章じゃないものに、俺の名前を添えただけで、市川はそれを信じる」

 それは当然といえば当然のことだ。

「けれど、その文章のなかで、俺は市川のことなんて考えていなかった。もちろん、市川宛てだったとして、嘘にならない部分もあった」

 けれど、

「それは、市川宛ての文章ではなかった」

 にもかかわらず、市川はそれを自分のものとして受け取った。

「言葉なんてそんなものだ」

 言葉は偽れる。言葉はごまかせる。言葉は騙せる。
 言葉は責任をとらない。

 すべての文章は虚偽に過ぎない。
 それは現実を切り取ることができない。

 そこに生まれるのは虚偽でしかない。
 真実は言葉の中には存在し得ない。

 言葉によって切り取られた現実は現実の模倣に過ぎないからだ。


337: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:35:55.32 ID:BVqEyKd2o

「俺は文章が書けない」

 なぜなら、言葉は、文章は、感情を必要としないからだ。

 猫がたまたま書き上げたシェイクスピアの戯曲でも、人を感動させることがおそらくできるのと同じように、
 文章を読む人間は俺の感情なんて必要としていないからだ。

 それはおそらく、致命的な隔絶だ。

 文章はどこまでも嘘をつける。
 嘘をつける。

 嘘をつける。

 そこに"俺"は必要とされていない。

 そこにいなければならないのは、いるとされるのは、俺ではない。
 読んだ誰かがそうあってほしいと期待する誰かに過ぎない。

 市川と大野の間に生まれたすれ違いが、言うなればその偽ラブレターによって生まれたものだと大野は知った。
 だが、そのときには既に彼らの間には閉ざしようのないひらきが生まれていた。

 そして彼らは高校に入学し、言葉もかわさないまま一年が過ぎた。

 大野は文章が書けない。
 

338: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:36:23.93 ID:BVqEyKd2o



 話を聞き終えてから、俺はどういう感想を言えばいいのかわからなくなった。

 どういう言葉を大野が求めているのかも、俺にはよくわからなかった。

 話をさせたのは俺なのに、どう返事をすればいいのかさえ分からなかった。

 大野は市川が好きだった。市川も大野が好きだった。おそらく。状況を鑑みるに。

 けれど、それはうまくいかなかった。

 結果として、大野は文章が書けなくなった。言葉を信頼できなくなった。

 嘘。偽り。まがい物。

「さっき、市川に、責められた。あのときの手紙のこと、本当に、いったいなんだったんだ、って」

「……なんて答えた?」

 大野は、苦しそうに、言った。

「あれは、市川に宛てたものじゃない、と答えた」

 その、ある意味では誠実さと呼んでもいいような大野の性格が、市川を痛めつけた。

「市川は説明を求めた。そこで、騒ぎが聞こえた」

 そして、大野と市川は話をやめた。

 なるほど、さくらの理屈は合っている、と、俺は場違いにも思った。 

 俺たちがあの場を離れることさえしなければ、たしかにこのふたりは和解できたのかもしれない。
 大野は説明をくわえ、改めて市川に想いを伝えることもできただろう。

 けれどそうはならなかった。

 ふたりの間にあったひらきはより大きくなってしまった。


339: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:37:19.97 ID:BVqEyKd2o


「大野」

 結局、けれど、俺に言えることなんてたかが知れていた。

 彼は顔をあげて俺を見た。

「おまえ、市川を探してこい」

「……なんだよ、急に」

「今すぐに、市川にその話を全部してこい」

「なあ、おい」と大野は言う。

「なんでおまえにそんなこと言われなきゃいけないんだ?」

 もちろん俺にそんなことを言う資格はない。
 けれど、

「おまえ、市川とどうなりたかったんだよ」

「だから、なんでおまえに……」

「おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、市川を」

「……」

「泣いてたんだぜ」


340: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/20(金) 22:40:03.77 ID:BVqEyKd2o

 考えてみろよ、と俺は大野に言う。

「いまさらだとか、遅すぎるとか、そんな話じゃない。市川がどう思うかってことも関係ない。
 文章が書けないままだって言葉が信じられないままだっていい。べつにそんなの問題じゃない。
 問題は、おまえがそのまま、市川とのわだかまりをそのままにしていたいのかどうかってことだろ」

「……」

「おまえが、そこに苛立ちを覚えるなら、おまえがすることなんて決まってるだろ」

 俺はひそかに自分自身に感心していた。

 泣いてたんだぜ。――誰が?

 ――瀬尾だ。

「大野」

「うるせえよ」と彼は言った。

「……ちょっと、行ってくる」

 どうせ俺たちにできることなんてそのくらいしかない。



344: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/21(土) 23:57:18.38 ID:2mH+GdHro



 文芸部室にひとり取り残された俺は、瀬尾はどうしただろうか、と考える。
 瀬尾はどうしているのだろう。

 どこにいったのだろう。あの場に残してきてしまったけれど、彼女は泣いているだろうか。

 彼女の泣き顔は、よくない。
 植え付けられた強迫観念みたいに俺を縛る。

(また半分の視界のなかで葉擦れの音がきこえている)

「でも、最善でしたよ」と、さくらの声が聞こえた。

「あなたが取りうる手段のなかで、おそらく最適な提案をしました。誇ってもいいです」

「べつにおまえに言われたからじゃない」

 どっちにしたって、おんなじような言葉を吐いていただろう。
 自分のことなんて棚にあげたまま。

「ずいぶん落ち込んでますね」

「そりゃな」

 それはそうだ。

 真中に言われた言葉の余韻だってまだ解けちゃいない。
 今日はいろいろと起こりすぎた。


345: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/21(土) 23:57:58.01 ID:2mH+GdHro


「でも、とりあえずはこれで、良い方向に向かうと思います」

「大野は市川を見つけられるのか?」

「もうひとりがちゃんと手助けしてくれますから」

 ……どうやら、瀬尾も回復はしているらしい。

「複雑そうですね?」

「それは、まあな」

 いろんな意味で、複雑は複雑だ。

「……葉擦れの音は止まないですか?」

「……」

 どうしてそれを、なんて問いはこいつには無駄なんだろう。

「相変わらず……世界は空虚ですか?」

 俺は頷く気にさえなれなかった。

「さっさと見せてくれよ」と俺は言う。

「俺が、空虚じゃなかった頃って奴」

「もうすぐですよ」とさくらは言う。

 その言葉になんの根拠があるのかさえ分からない。

 最初から、俺は、空虚だったはずじゃないのか。



346: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/21(土) 23:59:24.16 ID:2mH+GdHro



 俺は荷物を持って部室を出ることにした。どうせ今日はまともな活動なんてできやしないだろう。
 
 真中も、瀬尾も、市川も、大野も、部室に戻ってなんてこないだろう。

 誰もここになんて来ないだろう。

 壁にかけられた一枚の絵を見る。

 描かれた景色。空と海とグランドピアノ。
 
 ――なんだかそれって、とっても綺麗じゃない?
 
 ――ここに描かれているのは、空と海とグランドピアノ。ねえ、それでぜんぶなんだよ。それがすべてなんだよ。

 本当にそれだけだったら、どれだけよかっただろう。



347: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:00:03.08 ID:CrQK79uwo



 帰り道の途中で、俺はどうしてかまた『トレーン』に寄ってしまった。

 ちどりはいつものように俺を迎えてくれる。

「いらっしゃい、隼ちゃん」

 その表情に、俺は安堵する。ちどりはいる。ここにいる。

 どこか遠い場所にいなくなったりなんかしていない。
 それはたしかなことなのだろう、おそらく。

「……なんだか、元気がないですね?」

「そうでもない」

「ブレンドでいいですよね?」

 店の中にはほかに客の姿はなかった。俺はカウンターの席に腰掛ける。
 
 制服にエプロンをつけたまま、ちどりがカウンターの向こうへと行く。

 

348: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:00:31.32 ID:CrQK79uwo

 ポケットから携帯を取り出してみると、大野と瀬尾からそれぞれ連絡が入っていた。

 大野からは「話せた」。瀬尾からは「解決したみたい。副部長はどこにいるの?」

 どちらも三十分以上前に来ていた連絡だった。俺はその両方をとりあえず無視した。

「ここにいるときはいつも……」とちどりは言う。

「隼ちゃんはなんだか、悩み深い顔をしていますね?」

「そうだろうか」

「彼女さんと、何かありましたか?」

「それとは違う……」と言いかけて、結局言い直した。

「それもある」

 ちどりは意外そうな面持ちで俺を見た。

「隼ちゃんが素直に言うなんて、珍しいですね」

 明日は嵐ですか、と彼女はおどけて笑って見せる。
 そういえば予報では雨が降るらしい、と俺は返事をした。


349: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:07:28.37 ID:CrQK79uwo

 自分が何のせいでこんなにダメージを負っているのか、自分でもよくわからない。

 ただ、間違いなく、俺の身に何かが起きている。
 それはこの消えない葉擦れの音の、二重に見える風景のせいなのかもしれない。

 これはいったいなんなんだろう。

「予報では雨ですか」

「そう、雨」
 
 ちどりは何かを思い出したみたいに含み笑いした。

「なに?」

「覚えてますか、隼ちゃん」

「なにを」

「小学生の頃です。ふたりで一緒に帰ってたときのこと」

「……いや」

「予報は雨だったのに、ふたりとも傘を忘れたんです」

 カウンターの向こうに隠れたちどりの表情はこちらからは覗けなくなった。


350: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:07:54.29 ID:CrQK79uwo

「それで、帰り道で雨に降られて、わたしたち、神社で雨宿りをして……」

「ああ。なんだかそんなこともあったような気がする」

「そこで、捨て猫をみつけて」

 三匹の仔猫だった。
 瞼も開いていなかった。

「わたしたち、猫を抱えて、雨が止むまでずっとそこにいたんです」

 覚えている。
 何にも喋らなかった。何にも言わなかった。

 猫だけが鳴いていた。

「たしか、金曜日だった。次の日学校がないからって、ふたりで夕方までそこにいたんです」

 そう、そんな日があった。
 
 あのときは、そうだ。
 
 葉擦れの音なんて、まだ、聞こえちゃいなかった。
 風景が二重になんて見えていなかった。

 世界は何の瑕疵もなくそこに存在していた。
 
 当たり前のように。


351: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:09:26.14 ID:CrQK79uwo

「隼ちゃん、わたしね、ときどきあの日のことを思い出すんです」

「どうして」

「あの日、何にも話さなかったのに、隼ちゃんの顔つきが、すごく優しくて……」

 少し、悲しそうで。

「そのことを、思い出すんです。だから、わたしはちゃんと、知ってますよ」

 隼ちゃんが、本当に、本当に優しい人だってこと。

「だからそんなに苦しまなくていいんですよ」

 違う。
 違うんだよ、ちどり。

 それはおまえが見ている風景にすぎない。
 おまえがやさしい人間だから、俺がやさしく見えるだけに過ぎない。
 
 それはおまえの心の風物なんだ。

 俺の景色とは少し違うんだ。

 そんなことは口には出せなくて、俺はただ黙り込んでしまう。

 結局俺は何にも話せないまま、正直になんてなれないまま、『トレーン』を後にする。
 コーヒーを一杯飲んで、それだけで、「また来てくださいね」なんてちどりの言葉にうなずきだけを返して。


352: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:20:44.06 ID:CrQK79uwo




 家に帰ると、また純佳がひとり、ソファに座ってドラマを見ている。

「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と返事が来る。
 そのまま彼女はこちらをちらりと見やると、「ひどい顔ですよ」と驚いた声をあげた。

「そう、たしかに」と俺は頷いた。たしかにひどい顔だろうと思う。

「兄、大丈夫ですか?」

 珍しく、本当に心配そうな顔で、純佳は立ち上がった。
 本当にひどい顔をしているらしい。

 二重の風景が途切れない。
 音が止まない。
 
「純佳……」

「なんですか。お水、飲みますか?」

「俺は……」

 俺は必要な人間ですか。

 そんな問いかけが口をつきそうになって、押しとどめる。
 何も言うべきじゃない。

「……なんでもない。水を一杯、悪いけどもらえるか」

「……うん」

 明らかに何かをごまかしたと、彼女にだってわかるはずだ。
 でも、俺は言わない。純佳も触れない。

 そういうものだ。


353: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:39:13.35 ID:CrQK79uwo




 家に帰ると、また純佳がひとり、ソファに座ってドラマを見ている。

「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と返事が来る。
 そのまま彼女はこちらをちらりと見やると、「ひどい顔ですよ」と驚いた声をあげた。

「そう、たしかに」と俺は頷いた。たしかにひどい顔だろうと思う。

「兄、大丈夫ですか?」

 珍しく、本当に心配そうな顔で、純佳は立ち上がった。
 本当にひどい顔をしているらしい。

 二重の風景が途切れない。
 音が止まない。
 
「純佳……」

「なんですか。お水、飲みますか?」

「俺は……」

 俺は必要な人間ですか。

 そんな問いかけが口をつきそうになって、押しとどめる。
 何も言うべきじゃない。

「……なんでもない。水を一杯、悪いけどもらえるか」

「……うん」

 明らかに何かをごまかしたと、彼女にだってわかるはずだ。
 でも、俺は言わない。純佳も触れない。

 そういうものだ。


354: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/22(日) 00:54:18.35 ID:CrQK79uwo

 キッチンの流し台で、純佳はすぐに水を用意してくれた。
 俺はそれを一息に飲み込んだあと、少し溜め息をつく。
 
 鞄を置き、そして自分の身に何が起きたんだろうと考える。

 いつからだ。
 
 いつから風景が二重に見えるようになったんだ。

 俺の半分があの景色の中に置き去りにされたのはいつからなんだ。

「兄、本当に大丈夫ですか?」

 純佳は背中をさすってくれる。彼女は俺のドクターだ。今も昔も。
 それだっていつからだ?

「あのさ、純佳……」

 もう一度言いかけると、今度は純佳は返事もせずに俺を見上げる。
 本当に心配そうな顔。

「夢の話を、しただろ。こないだ」

「……うん」

「純佳……おまえ、なにか知ってるか?」

 純佳は、一瞬だけ表情を凍らせて、

「知らない」

 と言った。


360: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/23(月) 22:01:42.98 ID:wDpuZSJgo

「兄、とにかく今日は早く休んでください」

 純佳は何かを押し止めようとするみたいにそう言った。

「今日はとにかく早めに休むんです」

「……なんで」

「顔色が悪いからです。体調が悪いときに無理をするのはよくない」

「……前から思ってた。純佳、おまえ、なにか知ってるだろ」

「なにか? なにかって?」

 とぼける風でもない、何かをごまかす風でもない、それでも純佳は明らかに答えを避けている。

「わたしは何も知らないです。兄のことなら、兄がいちばん知ってるんじゃないですか?」

 それを彼女は本気で言っているんだろうか。

 そうは思えなかったけれど、それ以上話ができそうにもなかった。
 キッチンに向かい、冷蔵庫の中身を確認する。

「兄、夕飯は、わたしが作ります」

「今日は俺だろう」

「そんな青い顔で何を言ってるんですか?」

 くらりと身体が揺れて、俺は、たしかに、と思った。


361: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/23(月) 22:02:10.57 ID:wDpuZSJgo

「……着替えてくるよ」

「そうしてください」

 そのまま、引きずるようにして階段を上り、自分の部屋へと向かう。
 
 荷物を椅子の上に置いてから、制服のままベッドに体を横たえた。

 葉擦れの音はまだ止まない。
 どんどん大きくなっている。
 
 冷たい風、夜の暗さ、仄暗い月が生み出す梢の影。

 持っていかれる、と俺は思う。

 もうすぐ閾値を超える。半分を超える。

 そっちが現実に、なってしまう。



362: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/23(月) 22:03:03.79 ID:wDpuZSJgo

 
 そして俺は当然のように意識を失ったが、何事もなかったように目をさました。
 五分と経っていなかった。

 葉擦れの音は消えていた。ひとまずは。

 ひとまずは、消えていた。

 頭が妙にぼんやりとするが、さっきまでのような混濁したような気分はなくなっている。
 大丈夫、日付も時間もちゃんと分かる。

 携帯を取り出して画面を見ると、瀬尾からまたメッセージが飛んできていた。

「明日は部誌づくりの相談をするよ。副部長も手伝って」

 了解、とだけ返信をした。

「いつの間に帰ってたの?」とすぐに返事が来る。

「具合が悪かった」

「そうなんだ。お大事に」

「どうも」

 制服から部屋着に着替え、部屋を出る。

 階段の下から料理の音が聞こえる。

 俺は階段を降りていく。一段一段。


363: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/23(月) 22:03:31.98 ID:wDpuZSJgo

 エプロン姿の純佳が料理をしている。
 俺はゆっくりと彼女に近付いていく。

 彼女はそれに気付いている。ちらりと横目でこちらを見てから、すぐに料理に意識を戻す。

「純佳」

「はい」

「ごめんな」

「いえ」

 何を謝ったのかもわからないのに、純佳はすんなり受け入れてくれる。

「兄、もし何かつらくなったら、わたしのことを思い出せばいいんです」

 彼女はこっちを向かないままだった。

「わたしがいることを思い出せばいいんです。わたしも、兄のことを思い出すようにしています」

「……うん」

 それは、けれど、
 まとも、なのだろうか。

 俺は、キッチンの窓から外を見る。
 
 徐々に暗くなり始めている。

 夜が近付いている。


364: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/23(月) 22:03:58.08 ID:wDpuZSJgo




 夜になり、ベッドに横になる。俺の意識は眠る。
 ある意味で、俺は眠りにつく。部屋を暗くしてまぶたを閉じれば、五分から十五分程度であっさりと眠りにつける。

 けれどもう半分はまだ覚醒している。

 風景が片方になる。

 そこでは葉擦れの音が止まない。どこか遠くの方から鳥の鳴き声が不吉な予言みたいに響いている。
 そこには時間がなく、変化がない。その意味でその夜は夜ですらない。

 風景は森。枯れ木の森だ。けれど冬ではない。風は生暖かい。
 そこはただ死んでしまった森に過ぎない。

 ありとあらゆる親密さは損なわれ、関係性のようなものが剥奪される。
 恩寵は既に取り消され、祈りはどこにも届かない。

 遠くに月だけが見える。

 どこか遠くから、ここではないどこかから笑い声が聞こえる。


365: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/23(月) 22:04:59.97 ID:wDpuZSJgo


 そして俺のもう片方の意識は夢を見る。
 
 気付けば俺は、森の中の、どこか開けた場所に立っている。

 太陽は中天に浮かび、吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、影は川の流れのように姿を変える。

 噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
 藤棚の向こうは、どこかに繋がっている。

 俺は、そこに向かう。誰かと一緒に。

 藤棚を抜けて、俺はその先の森の迷路に向かわなきゃいけない。

 迷路の先は、暗い暗い、夜に繋がっている。
 
 夢はやがて、景色と重なる。
 気づけば俺はひとり、暗い森の奥に立ち尽くし、やがて枯れ木の虚の中にひとり取り残されている。

 葉擦れの音は止むことがない。

 朝が来て、覚醒するまで。もう、それを見ているのが、ただ重なっている景色なのか、それとも夢の方なのか、俺には分からない。


370: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:02:07.81 ID:JzuaFA4ro



 翌朝、純佳に起こされ、彼女の作ってくれた朝食を食べ、「今日は顔色がまともですね」とありがたい言葉をいただいて家を出た。

 学校につくと大野が俺の席の近くにいて、「待っていた」という顔をした。
 俺は頷いた。

「話せたらしいな」と俺は言う。

「ああ。……顔色が悪いな」

「あまり眠れなかったんだ。今は平気だ。それで?」

 これは本当だ。今は、葉擦れの音は止んでいる。というより、遠ざかっている。

 大野は少し言いよどむような顔をした。

「……おかげさまで」

「付き合うことになったか?」

「そこまではなっていない」

 慌てた調子で彼は否定する。

「とりあえず和解だ」

「そうかい。よかったな」

「あっさりしてるな」

 むしろ俺には、たったそれだけのことが今に至るまで複雑に入り組んでしまっていたことのほうがよくわからなかった。


371: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:02:34.75 ID:JzuaFA4ro

 みんな言葉足らずなのかもしれない。

 どうしてなのだろう。大野も、市川も、たぶん、俺や瀬尾や真中だってそうだ。

 自分について話すのを避けてしまう。
 誰かに知ってほしいと思うことを、誰かに話すことができない。

 どうして?

 怖いから。疑っているから。信じられないから。

 あるいは。

「もう少し喜んであげてください」とさくらの声が聞こえる。

「せっかく友人の長年の悩みが解決したところなんですから」

 たしかに、と俺は思う。そう言われるまで、素直に大野の悩みの解決を喜ぶ発想にならなかった自分を発見する。

 こういうところなのかもしれない、結局のところ俺は……。

「あなたは本当に、自分のことしか考えていない寂しい人なんですね」

 心を読むな。

「読んでません。あなたがわかりやすいんです」とさくらはあくまでも俺を非難する。


372: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:03:00.43 ID:JzuaFA4ro

「まあ、よかったな」と、俺は一応の祝福を述べる。

「ああ。ありがとう」

 大野は珍しく素直だった。

 そして、さくらに心の中で声をかける。

 そこが俺の問題だという気がする。

「そう、そこがあなたの問題です」とさくらは肯定する。

「あなたは誰ともつながることができません。なぜならあなたは周囲に興味がないからです。
 だから簡単な世間話もできない。相手に興味がない。相手が何を好きかにも興味がない。
 人とうまく関わることができません。皮肉を言うのが精一杯。誰かと何かをしたいという欲望もない」

 今まさに皮肉を言われている俺を誰かに哀れんでほしいものだ。

「でもそれはどちらなんでしょうね。ひとりでいるのが好きだから、楽だから、他人との関わり方がわからないのか。
 それとも、他人との関わり方がわからないから、ひとりでいる方が楽になってしまったのか?」

 そんなことは俺にももちろんわからない。
 なるほど、けれどたしかにそうだ。

 問題は、なぜこんな状態になったか、ではないのかもしれない。

 この状態を、俺はどうするべきなのか? どうしようがあるのか?

「けれどそれは、もう少し先の話です」

 彼女はそう言った。もう声は聞こえない。振り返ると、彼女の姿はそこにはなかった。
 最初からいなかったのかもしれない。


373: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:04:18.35 ID:JzuaFA4ro

「それで、瀬尾が張り切ってるぞ」

「ん」

「部誌作り。市川もやる気になったから」

「はあ。そうか」

「俺も、何かを書こうと思う」

「いいのか?」

「ああ。……たぶん、何かを書くべきだという気がする」

 それは結構なことだ。……と、そこで。

 俺は、昨日自分があんな状態に陥った原因のひとつであるやりとりを、急に思い出した。

 ……瀬尾と市川と大野は、やる気になった。

 真中は?

 昨日、真中は、あのあと、どうしたのだろう。


374: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:04:48.25 ID:JzuaFA4ro

 俺は大野との会話を打ち切って、教室を出た。

 真中は来ているだろうか。それが急に心配になってしまう。

 とにかく、教室まで行ってみようと思う。
 けれど、何を言えばいいだろう。昨日自分が告げたこと以外のことを、俺はなにか彼女に対して言えるだろうか。

 そこで俺は立ち止まってしまった。

 真中に対して、俺が言えることってなんだろう。
 
 それがわからないまま彼女と接することは、正しいことなんだろうか。

 正しさなんてものを自分が求めているかどうかさえ、そもそも俺には分からなかったのだけれど。

 そんな迷いのせいで立ち止まってしまう。
 
 そんな状態のままで、彼女の気持ちをどうこうすることなんて、俺にはできない。
 ……だとしたら。

 俺はこの状況を、どうにかしなければならないのかもしれない。


375: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:05:17.59 ID:JzuaFA4ro



 放課後、文芸部室に、部員たちは揃っていた。

 瀬尾青葉、市川鈴音、大野辰巳、三枝隼、真中柚子。

 みんな、すっきりとした様子だった。
 真中は俺が部室につくより先にやってきていて、「遅いよ、せんぱい」なんて言った。

 瀬尾がホワイトボードの前に立ち、みんながそれを囲むように椅子に座っている。

 俺は真中に手で示され、彼女の隣のパイプ椅子に腰掛ける。
 相変わらず顧問は姿を見せていないみたいだ。

「揃ったね」と瀬尾は言う。

 昨日のことには、誰も触れない。もう、一通り話し終わったあとなのかもしれない。

「ね、せんぱい」と、ひそめた声で真中が言う。

「なんだか、なにもなかったみたいだね」

 くすりと彼女は笑う。そんなことを言うその表情は、けれど、俺と一緒にいたときの真中のそれとは違う気がした。

 ほんの少し、彼女は表情を取り戻した、あるいは、解き放った、ように見える。

 不意に真中はこちらに体を傾けて、俺に静かに耳打ちした。

「覚悟しててね」と彼女は笑う。そんな喋り方をする彼女を、俺はまだ、見たことがない。

「わたしももう、開き直っちゃったから」


376: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:05:45.57 ID:JzuaFA4ro




 話の内容は、この間していたのと同じようなものだ。

『薄明』を出す。そのために、原稿を用意してほしい。

 以前はいなかった市川に対しての、改めての説明ということになる。

 けれど、前とはみんなの反応が違った。

 大野も、真中も、乗り気だ。

 変わらないのは俺だけだ。

 何を書けばいいのかなんてまだ分からない。

 でも、そうだな、と俺は思う。
 
 書こう。書くことで何が変わるというわけではないのかもしれない。
 あるいは書くことでより入り組んだ場所に連れて行かれることもあるかもしれない。
 
 ひどく混乱した場所に迷い込んでいくことになるかもしれない。

 でも、書こう。
 いつだってそうだった。

 書くことでしか、俺はどうせ考えることができない。
 そこにどれだけの嘘が含まれていたとしても。


377: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:06:12.82 ID:JzuaFA4ro




 話が終わったあと、みんながそれぞれに別のことをしはじめた。

 瀬尾は本を読み、大野はノートを開いた。真中は何かを考えるように壁にかけられた絵を眺めている。
 市川はひとり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 俺は、立ち上がって部室の隅の戸棚へと向かい、『薄明』のバックナンバーに目を通すことにする。

 べつに考えがあったわけではない。何か、とっかかりのようなものを求めたのだ。

 ふと思いついて、佐久間茂の例の散文に目を通す。

 文章とはいったいなんなのか。大野も昨日、そんな話をしていた。

 書くことによって、何が可能か。
 あるいは、書くことは何を伝えうるのか。

 ぺらぺらとページをめくりながら、なんだか自分が途方もない空間に足を踏み入れてしまったような錯覚に陥る。
 手にとっていたものを、ひとまず棚に戻す。

 それから、去年の『薄明』を棚から取り出した。

 先輩たちの書いた文章と、俺と瀬尾が書いた文章が一緒になっている。

 ましろ先輩の書いた文章も、ちゃんと残されている。
 読んだ記憶はあるのに、どんなものだったか、具体的には思い出せない。

 試しに開いてみると、見開きの一ページ目がエピグラフになっていた。



378: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:06:46.19 ID:JzuaFA4ro





 しろやぎさんから おてがみ ついた
 くろやぎさんたら よまずに たべた
 しかたがないので おてがみ かいた
 さっきのてがみの ごようじ なあに

 くろやぎさんから おてがみ ついた
 しろやぎさんたら よまずに たべた
 しかたがないので おてがみ かいた
 さっきのてがみの ごようじ なあに



379: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:07:15.20 ID:JzuaFA4ro




 こんなページ、あっただろうか。見逃していたのかもしれない。

 有名な童謡だ。タイトルは忘れたが、たぶん大抵の人が聞いたことがあるものだろう。
 
 部誌の編集はましろ先輩がやっていたはずだ。彼女は何を思って、これをエピグラフにしたのだろう。

 ヤギがお互いに向けた手紙を互いに食べ続ける、コミカルとも奇怪ともとれるエピソード。
 
 多少ミステリアスな部分もあるが、示唆的だとも言える。

 しろやぎは手紙の送り主がくろやぎであることをわかった上でそれを食べてしまう。
(どうして手紙だとわかっているのに食べずにはいられないのだろう?)

 そしてやむを得ず、その手紙の用件を訊ねるために手紙を送る。
(どうしてその手紙に使う紙を食べずに届いた方の手紙を食べてしまうのだろう?)

 それにもかかわらずここにはコミュニケーションが発生している。

 内容のない(あるいは内容を必要としない)相互コミュニケーション。

 空疎な交換。


380: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:07:41.78 ID:JzuaFA4ro



 息が詰まるのを感じて、俺は部室をあとにして、屋上へと向かった。
 
 さくらはそこで待っていた。

 彼女の後ろ姿を見ながら、俺は少しだけ考える。
 
「とりあえずは、これでいいでしょう」

 と彼女は言う。

「部誌作りは再開、みんなの心はひとつになりました。あなたの彼女さんも、本気を出すみたいです」

「……」

「それであなたは、これからどうなるんでしょうね?」

「おまえには、少し、見えるんじゃないか」

「あなたは見えない」とさくらは言う。

「あなたは少し違うから」

「どう違うんだろう?」

「それはわたしにもわかりません。ただ、あなたが、いくつかの意味で普通でないということはわかります」

「普通」


381: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 01:08:09.56 ID:JzuaFA4ro


「そう。それがどうしてなのかは知らない。でも、あなたは近々、その景色に関わっていくことになると思います」

「……どうして、そう分かる?」

「逆を言えば、そのくらいのことしかわかりません。あるいは、ひょっとしたらあなたは、わたしに近い存在なのかもしれない」

 近い存在。

 さくら。
 
 異郷、と、ましろ先輩はそう言っていた。

 異郷?

「もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
 でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
 あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
 あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない」

 彼女。

「彼女って……?」

 俺の問いかけに、「もうすぐですよ」とさくらは笑いもせずに言った。


385: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:19:07.37 ID:JzuaFA4ro



 それから二週間後のある木曜日に、俺たちはそれぞれに原稿を提出し部誌を発行した。
 
 編集作業は主に瀬尾が担当し、俺と大野もそれを手伝った。
 
 瀬尾は終始自分の編集の出来に不安そうにしていたが、歴代の『薄明』と並んで遜色ない程度の出来ではあった。
 人数の関係で厚さはないが、それでも、見栄えも内容も、決して見劣りはしないだろう。

 真中は掌編を三本仕上げた。「なんだか楽しくなってきた」とは彼女の言葉だ。
 
 大野は、それまでの嘘を取り返すみたいに何本かの感想文を書いていた。
 出来に関してはまあ、図書委員の顧問に「調子でも悪いのか」と心配されるくらいなのだが。

「今までが修飾過多だっただけですよ」と大野は俺まで貶めていた。

 市川は、おそらくこれまでも、何本か書いていたのだろう、一本の短編小説を仕上げただけだった。
 
 瀬尾もまた、短編小説を二本。

 俺もまた、短編小説を二本。

 もちろん去年のものには及ばないが、かといってペラペラというわけでもなくなった。
 ついでに、顧問だって本当にコメントを寄せてくれた。

 前年の部長にならい、瀬尾は部誌の冒頭にエピグラフを用意した。
 それはこんなものだった。
 

386: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:19:51.75 ID:JzuaFA4ro




  あなたに歌を歌ってあげる
  そんなに長い曲じゃないけど
  心地よくなれる歌だと思う
  だから財布に手を入れて
  こんなわたしに硬貨をわけて
  そんなに多くじゃなくてもいいから
  


387: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:21:23.40 ID:JzuaFA4ro



 それはどうやらマザーグースからの引用らしかった。どんな意味があるのかは、やはり俺には分からない。
 べつに瀬尾自身の小説とは関係がないようだった。

「たいした意味があるわけじゃないけど」と瀬尾は言う。

「だったらどうしてこれにしたんだ?」

「だから、たいした意味があるわけじゃないってば」

 彼女はそう笑っていたけれど、なんだか不思議な顔をしていた。

 まるで何かを諦めようとしているみたいに見える。

「ねえ副部長、この絵をどう思う?」
 
 彼女は部室の壁に飾られた例の絵を眺めている。
 俺は彼女の視線を追いかける。

 空と海とグランドピアノ。どこまでもどこまでも、淡く、けれど確かな線。

「どうって?」

「なんだか、この景色、どこかで見たことがあるような気がしない?」

 俺は、少しだけ考えて、答えた。

「綺麗な風景っていうのは……どこかで見たような感じがするものじゃないか?」


388: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:22:34.39 ID:JzuaFA4ro


「そう?」

「たとえば、空の写真を見ると、どこかで見たような気がするだろう。おんなじ空なんてどこにもないのに」

「まあ、たしかに」

「海も山も、街も、そうだろう。何もかも、似通っているように見える」

 人でさえも。

「フラクタル」

「フラクタルだね」

「ねえ、副部長、最近、さくらって子に会った?」

「……ああ、まあな」

「なんだか、最近おとなしくない? 結局わたし、あの一回しか手伝ってないんだけど」

「さあな」

 他に都合の良い手伝いでも見つけたのかもしれない。
 
 あるいは、他になにか集中しなくてはいけないことでもできたか。


389: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:23:00.60 ID:JzuaFA4ro

「ねえ、副部長、あのさ……」

「ん」

「ゆずちゃんとは、どうなったの」

「どうにも?」

 実際、ここのところは原稿の作業でお互い忙しかった。
 もちろん真中と過ごす時間がなかったわけでもないが、それだってたいした話はしていない。

「そういえば、鈴音ちゃんのこと」

「ん」

「苗字で呼ぶようになったよね」

「ああ、まあな」

 市川は不服そうにしていたが、結局のところそのくらいの距離感の方がやりやすい。
 というか、大野が市川と呼んでいるのに、俺が彼女を下の名前で呼ぶのも違うだろう。


390: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:23:27.54 ID:JzuaFA4ro

「ね、いろんなことがあるもんだよね。一ヶ月とかそこらで」

「……そうか?」

「そうだよ。ゆずちゃんが入部して、大野くんも入部してくれて、市川さんが部活に出るようになって……」

「そう言われると、そうかもな」

「それで、部誌も完成させられて」

「うん」

 俺たちが完成させた部誌は、もう、図書室の一部にスペースを借りて置かせてもらっている。
 どのような評判になるかはわからないが、まあ、新生文芸部の最初の活動としては結果を残せたほうだろう。

「ねえ、それで……」

 そして瀬尾は、突然にこちらを見た。

「それで……?」

 それまで、何かを思い出すみたいに含み笑いしていたのを、彼女は突然にやめた。


391: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:23:59.28 ID:JzuaFA4ro

「それで……?」

 彼女はまた、同じ言葉を繰り返した。

 あのとき、市川が泣いていたと、瀬尾が言ったとき、あの日のあの瞬間と同じ表情。

 いや、ひょっとしたら、部員が揃わなくても廃部にはならないと聞いたときも、似たような顔をしていたかもしれない。

 どこか虚ろな、

「それで、これで、どうなるっていうの?」

 そんな言葉を、瀬尾は吐いた。

「これが、いったいなんになるの?」

 子供が、詩でも諳んじるように、不意に哲学的な問いかけをするように、彼女は言う。

 春は終わり、初夏が過ぎ、季節は梅雨へと移り変わり始めている。

 空の色は暗い。
 
 雨の降る季節が来る。
 真昼でも暗い季節が来る。 


392: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:25:09.96 ID:JzuaFA4ro


「瀬尾……?」

「ねえ、なんだか、わかっちゃった」

「……なにが」

「わたし、わかっちゃったんだ。副部長」

 ううん、と首を振って、

「三枝くん、わたし、わかった」

「……なにが?」

「ぜんぶ、つまんないんだ」

 それが世紀の大発見だというみたいな綺麗な笑顔だった。
 陰ひとつないようなその表情は、どこか空々しくて、俺は、昔のことを思い出した。
 
 やめろ。
 その顔で、そんな表情をするな。その顔で――。

「三枝くん」

「……」

「前から思ってたんだけど、わたしは、『他の誰か』じゃないよ」

「……」

「重ねるのはやめてね」



393: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:26:18.83 ID:JzuaFA4ro

 でも、知ってるんだ、と彼女は続ける。

「知ってる。知ってるよ。ぜんぶわかってる。本当は最初から。
 ねえ、三枝くん、きみが今回の部誌で書いた小説、ね、どうしてあんなものを書いたの?」

「どうして、って」

「あれは……当てつけ?」

 気付かれていた、と思った。
 彼女はそれに気付いた。

「ねえ、あれ、わたしの真似だよね」

「……瀬尾」

「器用だよね、三枝くん。わたしがやってること、ぜんぶ巧くこなしちゃったね」

「瀬尾」

「どうして? 自分ならもっと巧くやれるって思ったの? わたしがやってることなんて誰でもできるって?」

「瀬尾」

「わたしがやってることなんて、誰かのモノマネ。模造品なんだ。劣化コピー。
 でもそれだって、組み合わせて必死になってこねくり回して、それでなんとかやっていけるって思った。
 でも、ねえ、三枝くん、そんなやりかたすらきみは否定するんだね。わたしは最初からなんでもなかったのに」

「違う、瀬尾」

「でも!」

 と彼女はほとんど吠えるみたいに言った。

「きみがしたのはそういうことでしょう」

 

394: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/25(水) 22:26:55.85 ID:JzuaFA4ro

 感情を抑え込むみたいに声が震えている。

「わたしにはなんにもないのに……わたしには、なにもできないのに。
 でも続けていけば、普通くらいにはなれるかもって、もしかしたら、わたしだけのものができるかもって、そう思ってたのに。
 でも、わたしがやってきたことなんて、きみに簡単に真似されるくらいのものでしかないんだ」

「瀬尾、俺は……」

「結局、そうなんだ」

 もう、俺を見てすらいない。俺の声を聞こうとすらしない。

「結局、偽物なんだ」

 途切れ途切れの音楽みたいに、

「わたし、やっぱり偽物なんだ」

 彼女は言葉を吐き出して、

「やっぱり、いらないんだ」

 それは、ついこのあいだ、俺が遮った言葉だった。
 でも、今は、もう、瀬尾は俺の声なんかじゃ止まらない。

「わたし、やっぱり、いらないんだ」

 それから、機械が突然電源を落としたみたいに、彼女の顔から表情が消える。
 もう、言葉すら発さない。

 そして彼女は、荷物も持たずに部室を出ていった。

 少しだけ唖然としてしまったが、俺は慌てて彼女を追いかけ、部室を出る。

 けれど、もう、彼女の姿は、気配や足音すら、俺には見つけられなかった。



401: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:51:48.89 ID:7/lHoIXqo



 五月も末近いある日のことだ。
 放課後の文芸部室で、俺と真中はいつものように「北斗七星と南十字星はどちらがかっこいいか」というようなくだらない話をしていた。

「断然北斗七星じゃないか?」

「北斗七星は男くさい感じがする」

 と真中は譲らない。

「南十字星のほうが名前もスマートだし、英語にしてもかっこいいと思うよ。サザンクロス。北斗七星なんて英語だと、大きなひしゃくとかでしょ、たしか」

「いや、男くさいって、それは過去の名作のイメージに引っ張られてるだけだろ」

「北斗七星は男くさいよ。おおぐま座の一部でしょ。南十字星はみなみじゅうじ座だよ。上品でかっこいいよ」

「真中、おまえそれはかっこよさを履き違えてるぞ。第一、南十字星なんてここいらじゃ見えないし。その点北斗七星は……」

「履き違えてるのはせんぱいだよ。見られる機会が少ないからこそいいんでしょ」

 そもそもべつに北斗七星と南十字星をこんなふうに雑に比較することに意味があるわけがない。
 しかも俺も真中もさして星座や宇宙に造詣が深いわけでもない。
 だからこの話の結論は、俺たちふたり自身、どうでもいいとわかっている。

 のだが、退屈しのぎについくだらない話を長引かせてしまう。

 こうなるといつも延々と同じような話を続けるはめになるのだが、今日はそうはならなかった。



402: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:52:15.95 ID:7/lHoIXqo

「いるか」

 ドアの向こうから声が聞こえて、俺と真中は顔を見合わせた。いるか。

「シャチ」

「合言葉じゃないと思うよ、せんぱい。ていうか、それなら立場逆だし」

 ドアが開けられて、俺たちは話を中断した。

「居るみたいだな」

 扉の隙間から顔を覗かせたのは大野だった。

「相談したいことがある」

 背もたれに体をあずけて、腕を組み、足を組み、退屈そうな顔を窓の外に向けたまま、大野辰巳はそう言った。
 頼み事をする態度には見えない。

「またか」

「まただ」

 感想文は自分で書けるようになったというのに、いったいなんの話だろう。


403: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:52:42.87 ID:7/lHoIXqo

「とりあえず話を聞こう」

 俺は私立探偵よろしくテーブルの上で両手を組んで上段にかまえた喋り方をした。

「せんぱい、ばかみたいだよ」と真中が言うけれど気にしない。いまさらのことだ。

「実は、少し気がかりなことがあってな」

 こうなると、大野の方も付き合いがいいので、俺の私立探偵ごっこの雰囲気に合わせて返事をしてくれる。
 理解のある友人というのは貴重なものだ。真中は今度は何も言わなかった。

 とはいえ、大野の言葉を、俺は少し意外な気持ちで聞いていた。

「気がかりなこと?」

「正直、話すかどうか、けっこう迷ったんだが、まあ見てくれ」

 そう言って大野は手に持っていた一冊の本を長机の上に置いた。ボルヘスの『伝奇集』だ。


404: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:53:27.39 ID:7/lHoIXqo

「これがなに?」

 大野は本を手に取ると、裏表紙の内側を開いてこちらに向けた。

 今時よそじゃ見かけないだろう古臭い貸出カードが入っている。

 借りた人間の名前と借りた日付を記入し、カードを図書室で預かる。
 返却された際は返却日を記入し、カードを本に戻す。

 かなりアナログな管理の仕方だ。

 うちの図書室はけっこう力が入っていると聞いたことがあるが、どうもそれはシステム面のことではないらしい。

 大野は貸出カードを抜き出してこちらに差し出してきた。

 なんとなく不穏なものを感じつつ、受け取り、カードの内容を見る。

 まず、カードの一番上にタイトルと著者名、棚番号が書かれている。

 その下に貸出の履歴。カードの半分も埋まっていない。その一番下に、見覚えのある名前が見覚えのある文字で書かれている。

「二年三組 瀬尾青葉 5/22 5/23」

 貸出日が二十二日、返却日が二十三日。
 書かれていたのはそのくらいの情報だ。


405: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:53:56.52 ID:7/lHoIXqo

「どうしたの?」と真中が貸出カードを覗き込んでくる。

 彼女は怪訝げに眉をひそめると、「どういうこと?」と首を傾げた。

「分からない」

 そう、なるほど、これはたしかに気がかりというよりは、異様だ。

 瀬尾青葉は、五月の半ば、つまり十日ほど前、部誌を完成させた直後から、一度も学校に来ていない。 
 あの出来事から、彼女は学校に来なくなってしまった。

 連絡さえつかない。きっと俺のせいなんだろうと思う。

「これだけなら、まあ、瀬尾が授業に出ずに本だけをこっそり返しに来たんじゃないか、というふうにも考えられるんだが、問題があって」

 いかにも頭が痛いというふうな表情をして、大野はぱらぱらと本のページをめくる。
 何かが挟まれていたページでその手が止まった。


406: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:54:25.43 ID:7/lHoIXqo

「……メモ用紙か?」

「ああ。見覚えは?」

 見覚え、といっても、どこにでもあるようなメモの切れ端だ。

 おそらく、リング式の小さなメモ帳から切り取っただけの、罫線が引かれているだけの、そっけないメモ用紙。

 ただ、見覚えがあるかないかでいえば、ある。

「瀬尾が、そういうのだったな」

「そうか。そうなんだろうな」

 そして彼は、四つ折りに畳まれたメモの切れ端を指先でそっと持ち上げて、俺に渡した。

 嫌な予感を感じつつ、俺は受け取る。メモ用紙には見覚えのある文字が(というより、明確に知っている文字が)並んでいた。

 内容は次のような具合だった。


407: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:54:51.38 ID:7/lHoIXqo



「こんなメモを見つけるということは、あなたはボルヘスに興味があるか、それとも勘がいい人間かのどちらかでしょう。
 わたしの想像だと、たぶん大野くんあたりがあっさりこれを見つけてくれて、
 部に届けてくれると期待してるんだけど、それが本当になったら、みんなわたしに少しは感心してくれるかな?

 紙面がわずかなので手短に。わたしはいま静かな湖畔でまったりとこの手紙を書いてます。
 メモ用紙が小さいから字が細かくなるのは許してね。

 とにかく、こんなことになってごめんなさい。突然のことで驚いたと思うけど、でもわたしは無事。あんまり心配しないで。
 いま、とてもくつろいだ気分で過ごしています。

 心配しないで、なんて言わなくても心配なんてしないだろうけど、言っておきます。

 わたしはいま穏やかだから、放っておいてね。
 あ、何か伝えたいことがあったら、この本に挟んで本棚に入れておいてください。返事は書くようにするから。じゃあね。
 
                      瀬尾青葉」




408: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:55:20.10 ID:7/lHoIXqo



 まいった、と俺は思った。確実に俺が知っている瀬尾の字だし、内容もいかにも瀬尾が書きそうなことだ。

 こういう状況をどう思えばいいのか、ちょっとよくわからない。

 額を抑えて考え込むが、どうも説明がつかない。
 この十日間ずっと連絡がつかなかった人間が、こんな陽気なメモを残していたんだから、俺じゃなくても当然だろう。

 思わず口をついて出た言葉は、

「静かな湖畔にいるやつが、どうして学校の図書室に本を返せるんだよ」

 とか、そんなどうでもいいことだけ。

「どう思う?」

 まともに考えるのも嫌だというふうに、大野は溜め息をつきながら訊ねてくる。

「どう、っていうと?」

「このメモ。瀬尾だと思うか?」

 俺は少し考える。とりあえず、いろんな要素は脇においておいて、瀬尾かどうかだけを判断しろというなら、

「高確率で本人だろうな。いや、絶対とは言えないが」

「だけど、本人だとすると、授業には出てなくても、学校には普通に来てたことになるよな」

 本が返却されているわけだから、そうなる。
 とはいえ、彼女は実のところ、登校していないだけじゃなく、家にも帰っていない。捜索願が出されたという話も聞いた。


409: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:55:49.79 ID:7/lHoIXqo

 にもかかわらずこんなメモが見つかる、ということは、

「家出?」

 真中の声に、俺と大野は顔を見合わせた。

 少なくとも、メモの文章からすれば、自分の意志で望んで帰っていないというふうに見える。
 しかも、最後の文章を見るに、学校の図書室を頻繁に訪れることができる場所でもあるらしい。

 まさか図書室で生活しているわけでもないだろうが。

「だとしたら、人騒がせな話だが……瀬尾が、そんなことするか?」

 大野の言葉に、俺は考え込む。もちろん、そんなことをしそうには思えない。

 根拠はいくつでもあげられる。だが、絶対とは言えない。

 それに、このメモの中にも、気になることはいくつかある。

「わたしは無事」という言葉は、なんだか不自然にも思える。
 それに、「静かな湖畔」というフレーズも。このあたりに湖なんてない。

 何かの比喩か、冗談だろうか。いずれにせよ、考えてもわかりそうにない。

 俺は鞄からルーズリーフと筆記用具を取り出して文面を考えた。

「どうする気だ?」

「お返事を書こうと思って」

 大野が呆れた顔でこちらを見た。とはいえ、他にどうしようもないだろう。

「本気で返事が来ると思うか?」


410: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:56:48.39 ID:7/lHoIXqo

 来ないと考える方が自然だろう。

 仮に本当に反応するつもりでメモを残したとしても、もう本人だって忘れている可能性がある。

 今頃は静かな湖畔を後にして、熱帯林の中で色鮮やかな鳥たちとハミングしている頃かもしれない。

 とはいえほかにどうしようもないだろう。

 とりあえず俺はメモ用紙に「ふざけんなバカ。どこで何やってんだ」とだけ書き込んだ。
 それから『アル・ムターシムを求めて』のタイトルのページにその紙片を挟んで大野に渡す。

「本棚に入れといて」

「本気か?」

「反応がなかったら、気にするだけ無駄だってことがわかる。反応があったら、捕獲に希望が持てる」

「絶滅危惧種の保護みたいな言い方だな」

「溺れる者は藁をもつかむのだ」

「まあ、無駄だと思うが」

 大野はそう言った。ところが反応はあった。


411: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:57:37.57 ID:7/lHoIXqo




「三枝隼くんへ。いきなり「ふざけんなバカ」とはご挨拶ですね。
 そんなのだから女の子にモテないのです。猛省しなさい。

 まあ、どうやら心配してくれていたようなのでそこだけは感謝しておきます。
 というかごめんね。でもまあ、わたしひとりいなくても、ぜんぶぜんぶ、どうにでもなるでしょう。

 前回のお手紙にも書きましたが、わたしはいま静かな湖畔でまったり晴耕雨読の日々を過ごしております。嘘です。
 晴耕の部分は嘘です。ごめんね。ていうか雨読も嘘です。

 何も気にせずまったり過ごしています、という程度の意味だと思ってください。

 たぶんしばらくは帰るつもりになれないと思う。こっちに根を下ろすことになるかもです。
 とにかく、わたしのことは気にせず、みなさんで日常をお過ごしください。
 べつに誰のことも恨んでいないから気にしないでね。
 
                       瀬尾青葉」


412: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:58:10.36 ID:7/lHoIXqo



 大野が混乱した様子でそのメモを文芸部室にもってきたのは、俺たちがメモを挟んで本棚に本を戻した翌日の水曜日だった。

 つまり、一日しか間をおかず、俺のメモと瀬尾のメモが入れ替えられていたのだ。

「あいつは図書室の天井裏にでもいるのか?」

 大野がそんな疑問を持つのも無理からぬことだろう。

「誰のことも恨んでないって。よかったね、せんぱい」

 なんて素直な反応を見せたのは真中だけだった。

 俺たちはそれから三十分ほどさまざまな可能性について検討したが、大した結論は出なかった。

 出てきたのはむしろ疑問だけだ。


413: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:58:47.85 ID:7/lHoIXqo

 字や内容を見る限り、本人である可能性は高い。
 だが、本人だとしたらいったいどこにいるというのか。

 こんなに反応が早いということは、どこかで俺たちの様子をうかがっていたのか(部室に盗聴器でも仕掛けてあるのか?)。

 こんなメモを残すことの意味はどこにあるのか(このご時世顔を見せずに連絡を取りたいなら携帯電話があるじゃないか)。

 もちろん現実的に説明しようと思えばできないことはない。
 が、どの説明にも、ただの悪戯にしては大掛かりすぎるという難点があった。

 そんなわけで俺たちは考えることを諦めた。

 なにせ本人がしばらくは帰るつもりにはなれないと言っているのだ。

 監禁犯の目を盗んで瀬尾が書いた暗号文によるSOSという可能性も考えるには考えたが、そうだとしても解けそうにない。
 それを学校の図書室の選んだ本に隠せることの意味がわからない。深読みするだけ無駄になりそうだ。

 そういうわけで、どうしようもない。心配するなと本人が言うのだ。好きにさせておくしかないだろう。

 そして、俺はまた返事を書くことにした。ルーズリーフにシャープペンで。



414: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 22:59:39.00 ID:7/lHoIXqo




「瀬尾青葉へ。

 諸々の疑問については、訊ねたところでどうせ答えてくれそうにもないので訊かない。
 どこにいるかとか、どうしてこんなまどろっこしい連絡手段なのかとか、
 返事がやけに早いのはどういうことだとか、そういうことについてももういい。お互いそこまでの義理もないだろう。

 せいぜい無理がない程度で生き延びてくれ。
 ただ、もしも俺が原因だと言うなら話がしたい。言い訳させてほしい。

 そっちがどこなのかは知らないが、根を下ろすというならそれもいいだろうと思う(具体的状況がまったく想像できないのでなんとも言えないが)。

 こっちは少し寂しい程度のことだし、少し心配だという程度だ。まあがんばってくれ」


415: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:00:05.96 ID:7/lHoIXqo



 名前は書かなかった。誰かなんて、見ればわかるだろう。

 俺がペンを置いたところで、「わたしも書こうかな」と言って、真中が俺のルーズリーフを一枚勝手に取り出して、ペンを握った。
 べつにそれもかまわないだろう。俺が書きたいことは書いたのだ。みんなも好きにすればいい。

 真中は内容を考えるような素振りで、シャープペンをくるくると指先で回しながら、鼻歌をうたっていた。

 それは、誰もが聴いたことがあるような童謡の響きだった。
 名前は知らなくてもメロディーと歌詞は覚えているような、そんな曲。

「それ……」

 真中は顔をあげて、笑いもせずに教えてくれた。

「やぎさんゆうびん」



416: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:00:54.75 ID:7/lHoIXqo




「しろやぎさんから おてがみ ついた
 くろやぎさんたら よまずに たべた
 しかたがないので おてがみ かいた
 さっきのてがみの ごようじ なあに」



417: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:01:26.56 ID:7/lHoIXqo

 ◇
 
 俺たちの手紙を挟んだ『伝奇集』はそれから大野の手に渡り、図書室へと運ばれた。

 大野は疲れ切ったような呆れ切ったような顔をしていた。
「もう考えるのも面倒だ」と顔が語っていた。

 誰も必死に心配していないのだから薄情な話かもしれない。

 とはいえ、とりあえず生きていることははっきりしたのだ。ひとまず安堵してもいいだろう。

「ね、せんぱい。大野先輩が青葉先輩とグルになってわたしたちをからかってるわけじゃないよね?」

「それはわからないな」

「でも、こんなにすぐ手紙に返事が来るってことは、青葉先輩は誰かの家に転がり込んでるんだと思うんだよ。同じ学校にいる、誰か」

 現実的に解釈しようと思えば、いくらでもこねくり回せる。

 でも俺には、今回のことはそういうものとは違うように思える。

 ほんの少し外の空気を吸いに出かけただけにしか見えないような気安さで、彼女は姿を消した。
 部室に鞄を置いたまま、靴すらも下駄箱に残したまま。

 おそらくは俺のせいで。

 俺には、瀬尾青葉は本当に静かな湖畔で穏やかに暮らしていて、
 そこから俺たちに手紙を送り、そこで俺たちの手紙を読んでいる、そんなふうにさえ思えるのだ。

 ボルヘスの『伝奇集』を連絡手段にして。

 俺が返事をしないでいると、真中は話の続きを諦めたのか、「ま、いっか」と溜め息のように呟いた。
 お互い、こだわらないのは美点なのか欠点なのか。


418: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:01:58.52 ID:7/lHoIXqo




 それでも空は分厚い雲に覆われている。まだ時間は早いというのに、あたりは暗い。
 俺はいろんなことを思い出しそうになる。

  さいわい雨は降っていないが、それもどう転ぶかはわからない。

 俺と真中は階段のそばの自販機で飲み物を買ったあと、いつものように東校舎の屋上へと繋がる階段を昇った。

「そういえば気になってたんだけど、せんぱいってどうして屋上の鍵を持ってるの?」

 この話は大野ともしたな、と俺は思った。

「譲ってもらったんだよ。先代の部長に」

「なんで?」

「なんでだろうな。たぶん先代も誰かに譲ってもらったんだと思う」

「ふうん」

「俺が卒業するとき、真中にやるよ」 

 真中の視線はこちらを向いていたが、たいして興味なんてなさそうだった。

 階段の踊り場の窓から中庭を見下ろしながら、真中は口を開いた。


419: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:02:34.24 ID:7/lHoIXqo

「青葉せんぱいのこと」

「ん」

「よかったね。せんぱいのせいじゃないって」

 俺は、少し考え込んでから、思っていたことを言った。

「誰のことも恨んでないとあえて言葉にするということは」と俺は言う。

「恨んでいると思われる心当たりがあるってことだろ。その時点で思うところがあるって言ってるようなものだ」

 真中は釈然としないような表情を見せたが、何も言い返してこない。
 俺の考えを改めようとするのを諦めたのだろう。

 階段を昇りきって、鍵穴に鍵を差し込む。ぐるりと回すと、小気味いい音を鳴らして扉が開いた。

「でも、じゃあ、せんぱいは、青葉先輩がせんぱいを恨んでるからいなくなったと思うの?」

「いや。それだけじゃないだろうけど」

 真中の呆れた溜め息を聞き流しながら、俺は屋上の扉を潜り抜けた。


420: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:03:17.25 ID:7/lHoIXqo

「せんぱいって、ネガティブ方向に自信あるよね」

「否定はしない。というかできない」

 はあ、という真中の溜め息を聞き流しながら、体を外の空気のなかに放り投げる。

 屋上から見える景色はいつもと変わらない。

 フェンス越しの街並み、分厚く引き伸ばされた灰色の雲、ひっそりと肌にまとわりつく雨の気配。

 湿り気を帯びた風が、だだっ広いだけの屋上を当たり前に吹き抜けていく。

 ここは行き止まりだ。ここには何もない。どこまでも広がっているのに、どことでもつながっているのに、ここからはどこにもいけない。
 デッドエンド。

「別に、瀬尾が俺のせいだけでいなくなったって思うほど思いあがってるわけじゃないよ」

「でも、理由のひとつではあるって思ってるんでしょ?」

 思わず黙り込むと、真中は俺の目をじっと覗き込んできた。
 俺は視線をそらした。


421: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:03:50.52 ID:7/lHoIXqo

 真中は屋上の縁に向かって歩いていく。

 あんまりフェンスに近付くと教師に見つかると、何度も何度も言ったのに、やめてはくれない。
 そうなってもかまわないと思っているのかもしれないし、高いところが好きなのかもしれない。どっちでもいい。

 自販機で買ったカフェオレの紙パックにストローを差して、俺もフェンスの方へと歩いていく。

 東校舎の屋上から見える街並みは、いつものように他人事みたいに見える。こことはべつの世界みたいだ。

 無性にうんざりした気分になって、俺はフェンスに背を向けて網に軽くもたれかかった。

 カフェオレの味が今日はやけに甘ったるい。真中はさっき買ったアップルジュースにまだ口をつけていなかった。

「真中、なにか話したいことがあるんだろ」

「うん。わかった?」

「まあ、一応……」

「わたしね、やっぱり、青葉先輩がいなくなったのはせんぱいのせいじゃないと思う」

「だから、そう思ってないって」

「うん。そっか」

 瀬尾のことは、考えても仕方ない。

 本人だって、自分がどうしていなくならなければならなかったのか、きっと自分で分かっていないだろう。

 真中は、なおも何か言いたげな様子で、俺と目を合わせようとしなかった。


422: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:04:17.56 ID:7/lHoIXqo

「どうした?」

 彼女の視線の先には街と空がある。金網の向こうの空は、まだ明るい。
 でも、いずれ赤く染まり、日が沈んでいくだろう。鳥の鳴き声が遠ざかり、暗い夜がやってくるだろう。

「さっき、ふと思い出したんだけどさ」

 彼女はようやく、パックジュースにストローを挿した。

「この状況。似てるよね」

「この状況?」

「青葉先輩のこと」

「……が?」

 いつもどおりの要領を得ない話し方が、今は妙にもどかしい。
 続きを促すと、真中はほんのすこしだけ躊躇するような間を置いて、それでも結局口に出してくれた。

「似てると思う。せんぱいが去年書いた小説に」

「……小説?」

「覚えてないの?」

 呆れたような顔をされて、むしろ戸惑う。

「むしろ、なんで真中が知ってるんだよ。去年いなかっただろ」

「バックナンバーあるもん。ほんとに思い出せない?」

 真顔でそう訊ねられると、なんだか不安になってくる。


423: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/07/31(火) 23:04:57.32 ID:7/lHoIXqo


 瀬尾の状況というのが具体的にどういうものをさすのかわからないが、そんな内容の話を書いていただろうか?

 去年。……去年。市川も、俺の去年の原稿を、やけに気にしていたっけか。

「あとで、読み直してみるといいよ。ひょっとしたら、なにかのヒントになるかも」

「なにかって?」

「わかんないけど、なにか」

 真中は拗ねたみたいな表情でそっぽをむくと、距離をとって片足をあげ、俺を蹴る真似をしてみせた。

「せい」とやる気のない掛け声までつけくわえられると、こちらがなんとも痛ましいような気持ちになる。

 本当に何を考えてるのかわからない子だ。案外なにも考えずにしたことかもしれない。

「今日はそろそろ帰ろうか」

 そう声をかけると、真中は小さく頷いてくれる。

 瀬尾がいなくなったなんて嘘みたいに、俺たちは当たり前の生活を続けている。
 瀬尾にわざわざ言われなくても、日常を続けている。

 ほかに、ふさわしい態度を見つけられなかった。


432: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:32:21.71 ID:pO5M/ipUo



 その日は夕方からバイトがあった。

 店まで向かう途中で少しだけ雨が降った。傘が必要のない程度の。

 行き交う人々の群れに混じって、俺はぼんやりと歩く。

 葉擦れの音は、やはり止まない。

 瀬尾がいなくなったあの日から、さくらも俺の前に姿を現さなくなった。

 間違いなく、俺の身の回りで何かが起きている。
 それは分かるけれど、それがいったい何を意味するのか、わからない。

 去年の部誌に俺が提出した原稿の内容を、俺は本当は覚えている。

 市川が、実話かどうか疑った話。
 真中が、今回のことに似ていると言った話。

 そのことを意味を、少し考えなきゃいけない。



433: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:33:11.92 ID:pO5M/ipUo

 あれは、ある意味では実話だ。そして、今回のことに似ている、という真中の言葉の意味も、正直わからなくはない。

 とはいえ、読み返してみないことにはなんともいえない。

 神さまの庭の話。

 だが、仮に今回の件が、それに無関係ではないとしたら……。
 瀬尾は、『神隠し』に遭ったのかもしれない。

 神さまの庭。記憶のなかの夢うつつ。
 そんな馬鹿な話があるか、とも思う。けれど、もしそうだとすれば、

『もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
 でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
 あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
 あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない』

 ……何もかもが、符合する。

『彼女』とは、瀬尾のことなのか?
 さくらはその未来を見ていたのか?

 聞こうにも、そのさくらも姿を見せない。


434: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:33:48.85 ID:pO5M/ipUo

 店について制服を着てカウンターに出ると、既に混みあいはじめていた。
 先輩たちがてんやわんやでレジ打ちをしている。

 しばらく袋詰めの作業を手伝っているうちに、波は過ぎ去った。

「お疲れさま」と先輩は言う。

「お疲れ様です」

「来て早々大変だったね」

「まあ、時間帯的に……仕方ないです」

「うん。まあ、そうだね」

 そう言って先輩は品出しの作業を始めた。
 俺は備品の補充をし、商品を陳列しなおす。

 何もかもを整然とさせなければいけない。


435: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:34:39.64 ID:pO5M/ipUo

 そしてようやく、今度こそ店内は秩序を取り戻す。
 
 失われるための秩序。

「あの」

 と、不意に声をかけられた。

「はい」

 振り向いて返事をして、驚いた。
 
 中学一年生くらいの、小柄な女の子だ。
 耳を覆うストレートの髪が活発そうな印象に短く整えられている。

 少し、赤みがかって見えた。

「あの。……三枝隼さん、ですか」

 問われて、また驚く。こんな小さな知り合いはいない。

「……えっと、どちら様ですか」

「三枝隼、先輩ですよね。わたし、一年の宮崎ちせと言います」

「宮崎。一年……一年って」

「先輩の高校の、一年生です。今年の春に入学しました」

 中一どころか高一だったらしい。俺の見る目は当てにならない。


436: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:35:05.98 ID:pO5M/ipUo

「えっと、どっかで会ったことあるっけ?」

「いえ、でも、先輩のお噂はかねがね……」

「どんな噂だよ」

「ええと、いろいろ。姉とか、青葉さんとかから」

 気になるワードがいきなり二つも出てきた。

「えっと、一個ずつ聞くけど、きみのお姉さんって?」

「宮崎ましろ。ましろ姉さんです。文芸部で一緒だったって聞いてます」

「……きみ、ましろ先輩の妹か」

 そう言われると、端正な顔立ちに彼女の面影があるような気がする。
 何もかも見通すような澄んだ目や、話すときに口元をほんの少し緩める癖なんかが。

 まあ、あの人の、厄介さみたいなものの影は、あまり見えない。

 垢抜けていないわけではないが、純朴そうに見える。
 俺の見る目は当てにならないが。

「ましろ姉さんから、いろいろ聞いてます」

「いろいろって?」

「からかうと面白いとか、冷めたふりした熱血漢だとか、厄介な荷物を持ってそうとか」

「……なんかひどい言いようだな」

 ましろ先輩の見立てというあたり、微妙に反論しづらい。



437: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:35:34.26 ID:pO5M/ipUo

「それで、瀬尾の知り合いなのか」

「はい、あの……隼さん。そのことで、少しお伺いしたいことが」
 
 隼さん。隼さんと来た。悪くない。

「あの、バイト、終わるの何時頃ですか」

「……九時半頃だけど」

「あの、そのあと少し、時間ありますか」

「ないことは……ない」

「青葉さんのこと、訊きたいんです」

「きみ、瀬尾とどんな知り合い?」

「わたし、春からバイトを始めたんです。えっと、レストランなんですけど」

「ばいと」

 この見た目で。

「あの、おっしゃりたいことは、わかるんですけど、気にしてるので……」

「いや、ごめん。そんなつもりじゃない。頑張り屋だなあと思って」

「ちょっと子ども扱いしてますね?」

「いや、そういうつもりじゃない」


438: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:36:17.76 ID:pO5M/ipUo

「いいです。子ども扱いされるの、嫌いじゃないですから」

「……不思議なやつ」

「よく言われます」

 やっぱりましろ先輩の妹だという気がした。

「とにかく、そこでいろいろお世話になったんです」

「待って。瀬尾、バイトしてたの?」

「はい。……知りませんでしたか?」

「……なるほど」

「じゃあ、えっと、九時半頃に来ますから、お話しできますか?」

「わかった。……けど、どこの店も入れないんじゃないか」

「任せてください」と彼女は言う。

「あ、わたしのことは、ちせでいいです」

「ちせ?」

「はい」

 なんだろう、不思議な子だ。
 一切、緊張せずに話せる。どうしてだろう。


439: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:37:12.65 ID:pO5M/ipUo



 それで、九時半を回り店を出ると、ちせは外で待っていた。

「中にいたらよかったのに」

「大丈夫です」

 大丈夫というなら、いいのだけれど。

「それで、どこに行く?」

「近くに公園があります」

「公園」

「はい。街灯もあります」

「……まあ、そうだな」

 それでいいなら、いいのだが。

「何か買っていくか?」

「いえ。わたしは大丈夫です」

「飲み物くらいならおごる」

「ホントですか。ありがとうございます」

 あっさり甘えるあたり、かわいげがある。


440: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:39:36.84 ID:pO5M/ipUo

 
 ちせに連れられて、近くの小さな公園にやってくる。

 公園、と言っても児童公園で、ブランコと滑り台とベンチと砂場しかないようなところだ。

 木立のつくる影が、夏の夜の街灯のせいでやけに熱っぽくみえる。

「ありがとうございます。ホントはちょっと、喉渇いてました」

「きみは素直でいい子だ」

「はい。よく言われます」

 ちせはそう言って、買ったばかりの紅茶の蓋を開けた。

「それで、隼さん。青葉さんの話なんですけど」
 
 それにしても、この子が真中と同い年と思うと不思議な感じがするものだ。

「学校にも来てない、んですよね?」

「うん」

「バイト先の店長、無断欠勤なんてする子じゃないから、どうしたんだろうって心配してて」

「うん。瀬尾は、そうだろうな」

「いったい、どうしたんでしょう? ほかに、こういうこと聞ける人、いなくて」

「……捜索願が出されてるらしい」

「捜索願?」

「家にも帰ってないってこと」


441: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:40:09.61 ID:pO5M/ipUo

「えっと、じゃあ、家出ですか?」

「そう思うか?」

「いえ……青葉さんにかぎって、それはない、と、思いますけど、でも」

 そう。そういうものだ。
 誰がどうなるかなんて、誰にもわからない。

 瀬尾があんなふうに取り乱すなんて、俺は思っていなかった。
 かけらさえも思いつきやしなかった。

 あんなに長い間話したのに、俺は瀬尾のことなんてなんにも知らない。

「あの、青葉さん、いなくなった日、会ったんですか」

 俺は、言うかどうか迷って、結局、話すことにした。

「たぶん、俺が……」

 でも、それは、おそろいしことでもある。
 何を言われるか、何を聞かれるか。

「瀬尾と最後に話したのは、俺だ」

 そして、おそらく、瀬尾がいなくなったのは、
 きっかけは、

「文芸部の部誌で……俺は、瀬尾の小説の書き方を真似たんだ」

「……部誌。真似って?」


442: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:40:49.05 ID:pO5M/ipUo

「パクったわけじゃない。手法を、真似たんだ。隠喩の取り扱い、構成、文体。そしたらあいつ……」

「……怒ったんですか?」

 それなら、まだよかった。
 瀬尾は泣きもしなかった。

「自分は、いらないんだって、言って」

 荷物さえ持たずに。
 最初からいなかったみたいに、消えてしまった。

 あの日の、あの表情。

「……隼さん?」

 ちせの顔を見ることができなかった。
 責められそうで、誰にも言えなかった。

「違う。俺には、何もないから。何もないから、憧れただけなんだ」

 確固としたスタイル。軽妙な語り口。アイロニカルな視点。

 そんなすべてに。

「なんにもないのは、俺の方なのに、なんであいつ、あいつが……」

 なんで、瀬尾がいなくなってしまうんだ。
 なんで、いなくなるのが俺じゃないんだ。
 
「隼さん。……すみません。大丈夫ですか?」


443: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:41:15.73 ID:pO5M/ipUo

「……ん。少し取り乱した」

「いえ。……じゃあ、青葉さんは」

 躊躇するような間が置かれる。俺のせいで、というのをためらったんだろう。

「わからない。でも、きっかけはそうかもしれない」

「何か、手がかりはないんですか?」

 ある。

 俺は鞄からノートを取り出して、そこに挟んであった二枚のメモを取り出した。

「これは?

「ボルヘスの『伝奇集』って知ってるか?」

「いえ……」

「その本に挟んであった。あいつがいなくなってからのことだ」

 ちせは俺から二枚のメモを受け取ると、しげしげと内容を眺め始めた。

 うまく理解ができなかったのか、何度も読み返している。


444: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:41:53.54 ID:pO5M/ipUo

「これを読むかぎりだと、瀬尾は自分の意思でどこかに行って、しばらく戻ってくる気がないらしい」

「湖畔……でもこれ、手紙じゃないですよね。挟んであった、って?」

「学校の図書室の本にだ。大野って奴が見つけた」

「誰かの悪戯って可能性はないんですか?」

「瀬尾の字だ」と俺は言った。

「見間違えたりしない」

「……でも、だとすると、青葉さんは図書室に出入りできる状況っていうことですか?

「わからない」

 そう考えるのが自然だ、と答えようと思った。でも、できなかった。

「どういうことなんでしょう」

「わからない」


445: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:42:53.55 ID:pO5M/ipUo

 ちせは少しの間黙り込んで何かを考えている様子だった。
 細い首筋が、本当に子供みたいだと思った。

「隼さん、わたし、どうしても気になるんです。青葉さんのこと」

「うん。俺もそうだ」

「あの人は明るくて、やさしくて、とてもいい人だけど、いつもどこか遠くにいるような気がする」

 それは、俺もまた感じていたことだ。

「隼さん。わたし、青葉さんのこと、探そうと思うんです。放っておいてはいけないような気がする。
 あの人を放っておいたら、よくないことになりそうな気がする。
 見つからないかもしれない。余計なお世話かもしれない。でもそう思うんです」

「……」

「このままにしておいたら、青葉さんは、どこかとても暗いところに入り込んで、帰ってこれないんじゃないかって」

 暗闇はどこにでもある。
 暗闇はいつもそこにある。
 足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある。
 
 みんな気付かないふりをしているだけで、知っている。

 そして、そこには、誰の声も届かない。



446: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:43:41.44 ID:pO5M/ipUo


「隼さん、ましろ姉さんから、隼さんのことを聞いてます。
 とても、頭がきれて、感情表現が苦手だけど、いい人だって」

「それは、意外な評価だな」

 ましろ先輩の言うことだ。乗せられてはいけないのだろうが。

「会ってみて、わたしもそう思いました。とてもやさしそうな方だって。
 隼さん、もしよかったら、協力してもらえませんか。そんなに迷惑はかけませんから」

 やさしそう。
 やさしそう、ね。

 だが、瀬尾のことが気になるのも事実だ。

「……できることは、そんなにないと思う」

「かまいません」とちせは言う。

 俺たちはとりあえずその場で連絡先を交換した。

「それで、あの、ひとつお願いがあるんですけど」

「ん」

「あの、駅までついてきてくれませんか。このあたり、けっこう暗くて……」

 ……まあ、たしかに、この子をひとりで帰したら、今度こそ事件になりかねない。



447: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:44:23.23 ID:pO5M/ipUo


 そういうわけで、俺は初対面の後輩の女の子とふたりで夜道を歩くはめになった。

「ごめんなさい。急に押し掛けたうえに、送ってもらっちゃって」

「いや、べつにいいんだけど」

「やっぱり、ましろ姉さんから聞いたとおり、隼さんはいい人です」

「いい人?」

「はい。……違いましたか?」

「うん。違う」

「そうですか。それでもいいです」

 変わった子だ。

「隼さんはわたしのこと、知らなかったかもしれないけど、わたしは隼さんのこと、ずっと前から知ってましたから」

「そんなにましろ先輩から聞いてたの?」

「はい。それと、青葉さんからも」

「あいつ、俺の悪口吹き込んだんじゃないか」

「そんなことは……なかったと思いますけど」

 含みのある言い方だ。

「でも、隼さんの話をするとき、青葉さんは楽しそうでしたよ。……これ、わたしが言ってもいいのかな」

「どうだろうな」


448: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:45:03.17 ID:pO5M/ipUo

「隼さん、あの……わたし、変だと思うんですけど」

「なに」

「勝手なイメージなんですけど、隼さんのこと、お兄さんみたいだなって思ってます」

「……」

 本当に変わった子だった。

「変ですよね。初対面でこんな話……」

「変だね……」

 さすがに肯定した。

「ましろ姉さんや、青葉さんから隼さんの話を聞くの、楽しくて」

「面白いことなんてないと思うけど」

「でも、そうだったんです」

「……」

「イメージしてたとおり、優しそうな人で、うれしいです」

「うれしい?」

「はい。いけませんか?」

「……」

 優しい人間なんかじゃない。
 でも、うれしいっていうのは、不思議な感じだ。


449: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:45:36.31 ID:pO5M/ipUo

「隼お兄ちゃん」

「……」

 本当に変な子だな、どうすればいいんだ、これは。

「……言ってみただけです」

 ちせは照れくさそうに笑った。
 こっちが照れる。

「青葉さんのこと」

「ん」

「……土曜日に、青葉さんの家に行ってみようと思うんです」

「……住所、知ってるの?」

「一応、バイト先に履歴書が控えてあるはずですから」

「いいのかな」

「よくないのかもしれない」

 そうだな。
 そういうものだ。



450: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/04(土) 23:47:36.00 ID:pO5M/ipUo

「ね、隼さん。手を貸してください」

「手?」

 いうが早いか、ちせは勝手に俺の手を掴みとった。
 
「おっきいですね」

 ……あ、そっちの手か。

 本当に、親戚か何かみたいな距離感だ。
 誰にでもこうなんだろうか。

「……違いました。えっと、わたし、こんななりですし、ひとりで行っても、おうちの人に相手にしてもらえないと思うので」

「あ、ああ……そういうことか」

「隼さんに手伝ってもらえたら、助かります」
 それからふと、我に返ったみたいに、ちせは俺の手をパッと離した。

「すみません。変なことしました」

「そうだね?」

「なんか……変なこと言ってた気がします」

「まあな?」

「忘れてください……」

「善処するよ……」

 それからちせはほとんど喋らなくなった。
 駅まで彼女を見送ってから、帰途につく。

 妙な奴に会ったという気がした。


458: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:19:12.95 ID:Gf1b0pf3o



 家に帰ると、純佳がまだ起きていて、玄関まで迎えに来て鞄を受け取ってくれた。

「おかえりなさい。ごはんにしますか? お風呂にしますか?」

「なにそれ」

「新妻ごっこ」

「なんで?」

「やってみたかったからです」

 そう呟くと、彼女は鞄を大事そうに抱えた。
 ご丁寧にエプロンまでつけっぱなしだ。

「今日は少し遅かったですね」

「少しな」

「……ほかの女の匂いがしますね」

 なかなか堂に入ったものだった。


459: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:19:41.16 ID:Gf1b0pf3o

「女と会ってきたんですか?」

「まあ……そうだな」

「浮気者!」

「いつまで続けるんだ、それ」

 俺は靴を脱いで玄関にあがった。
 ついでにネクタイを緩めるそぶりもして見せる。

「あなた、最近つめたいわ。昔はもっとわたしにやさしくしてくれたのに」

「……」

「なんとかいったらどうなの。口を開けば仕事仕事って……」

「もういいって」

「失礼しました」

 そういえばこいつも十分に変な奴だった。

「それで女の子と会ってきたということでしたけど……」

「まあ、それはべつにいい」

「兄」

「ん」

「なにか、無理してませんか?」


460: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:20:31.18 ID:Gf1b0pf3o

 俺は、突然の純佳の変化に驚く。

「……なんで、おまえはそう、いつも、分かるんだ」

「いえ。兄はだいたいいつも無理してるので、『無理してませんか』って聞くだけでいつもあたったように感じるだけです」

 ……あ、そういう仕組みだったのか。
 
「べつに無理なんて……」

「頭。痛いんですよね」

「……」

「兄のことくらい、見てればわかります」

 厳密には、違う。
 俺は、あの葉擦れの音を、あの二重の景色を、純佳にだけは、「頭痛」として教えていた。

「休んでください」

「いや、とりあえず、腹減ってるし……」

「じゃあ、ご飯食べたらすぐ寝てください」

「いや、風呂入りたいし……」

「わたしが代わりに入っておきますから」

「なんだそれは」

「倒れたらどうするんですか」

「今までそんなことなかっただろ……」


461: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:21:06.20 ID:Gf1b0pf3o

「兄」

「なに……」

「ごめんなさい。……わたし、うるさかったかもしれない」

 急に、純佳はしゅんとなる。
 ときどきこういうことがある。

 やっぱり血だ。
 あるいは環境だろうか?

 どっちでもいい。

 俺の鞄を胸の抱き寄せて俯いた純佳の頭に、俺はぽんと手のひらをのせた。

「大丈夫。今日はそんなにひどくないから」

「……ほんとう?」

「ほんとう」

「……それなら、いいんですけど」


462: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:21:45.97 ID:Gf1b0pf3o

 それから俺は夕食をとった。
 なんだか純佳の様子がおかしい気がして、部屋には戻らずリビングで課題を済ませる。

 眠気がひどい。

 ここのところずっと、瀬尾に言われた言葉を思い出している。

 ――わたしは、『他の誰か』じゃないよ。
 ――重ねるのはやめてね。

 ……重ねている、つもりではなかった。
 べつに、重ねているつもりではなかった。

「兄、そういえば今日、ちどりちゃんに会いました」

「ん」

「なんか、近々、怜ちゃんがこっちに来るみたいです」

「……怜?」

「はい」

「怜が、ね……」

 ずいぶん久しぶりに聞く名前だ。

「兄? どうかしました?」

「……いや」


463: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:22:14.03 ID:Gf1b0pf3o

「兄は……」

「ん」

「どこかにいなくなったりしませんよね?」

「……なんでそんなこと聞くの」

 そう尋ねてみても、純佳は返事をしない。
 言えないことがあるのはお互い様だ。
 
 正直さは、べつに誠実さでもない。

 言わない方がいいことだってある。

 でも、純佳は、そうすることがまるで何かの義務かのように口を開いた。
 取り繕った、余裕ぶった、いつもの表情を捨てて。

「……あのね、兄。わたしは、ときどきすごく不安になるんです」

「なにが、不安?」

「わからない。でも、足元にある地面が、急にぐらぐらと揺れて、今に抜け落ちてしまうんじゃないかって思うときがあるんです」

「……」


464: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:23:33.15 ID:Gf1b0pf3o

「ある日とつぜん、全部が嘘か、夢だったみたいに消えてしまうんじゃないかって思うことがある。
 最初からなかったみたいに、ふわりと消えてしまうような気がするの。そのときわたしの近くになにが残るんだろう」

「……」

「ぜんぶがなくなっても、わたしはわたしでいられるのかな、って」

 純佳の言葉はとても抽象的で、彼女自身、自分が何を不安がっているのかよく分かっていないのだろうと思わされる。
 
「ときどき思い出すの」と純佳は言う。

「わたしはランドセルを背負って、学校からの帰り道を歩いているの」

 朝から降っていた雨は、放課後になる前に止んでいて、道路のアスファルトは濡れて、ところどころに水たまりができてた。
 それでわたしは、家に帰ったらお兄ちゃんがいるんだって考える。

 でも、すぐに思い出すの。お兄ちゃんはいなくなっちゃったんだって。

 ひょっとしたら家に帰ったら、お兄ちゃんは当たり前の顔をしてそこにいるかもしれない。
 そう思って、わたしはほんの少しだけ早足になって家に急ぐの。

 でも、やっぱり家にはお兄ちゃんはいないの。

 ちどりちゃんに聞いても、怜ちゃんに聞いても、誰もお兄ちゃんの行方を知らないの。

 夜になって、布団のなかに入って眠るときに、お兄ちゃんが帰ってきますようにって祈るの。
 誰に祈ったのかもわからない。それでも、祈ってた。

 だけどわたしは、お兄ちゃんにその祈りが届いていないことを知ってるの。

 そんな日のことを、ときどき思い出すの。



465: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/07(火) 22:24:09.71 ID:Gf1b0pf3o

「……純佳」

「ねえ、お兄ちゃん」

 昔みたいなそんな呼び方で、子供みたいな顔をして、純佳は俺を見上げる。

「あのとき、お兄ちゃんはどこにいたの?」

「……」

「あのときからずっと、お兄ちゃんは、ずっと、寂しそうな顔をしてる気がする」

 俺は、
 答えられない。

 ――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。

 ――巻き込んで、ごめん。

「わたしにも、言えないんですか?」

 ――ちどりを助けて。

 ――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。

「兄は、どこにも、いなくならないですよね?」

 ――きみ、この先に行くつもりなの?

 ――ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。

「兄は……わたしを置いていきませんよね?」

 ――隼ちゃん。

 ――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか?

「……どこにも行かないよ」

 葉擦れの音は止まない。
 その中で俺は、純佳と一緒に麦茶を飲んで、平然と安らいだひとときを過ごす。

 純佳は、俺の言葉なんか、きっと信じちゃいなかった。



470: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:10:46.34 ID:DfB2kHE6o



 夜の十一時を回った頃に、玄関から扉の開く音が聞こえた。

「……あ、起きてたの」

「お母さんだ」

「母さんだね」

 俺と純佳はソファの狭いスペースに隣り合って座ったまま、一緒にマンガを読んでいた。

「……相変わらず異様に仲いいわね、あんたたち。暑くないの?」

「久々にお母さん見ました」

「うん。久々に母さんだね」

「虹みたいな扱いね、わたし」

 虹よりもいくらか珍しい。
 たいてい日付を越えてから帰ってくるし、俺は朝が遅いから、なかなか遭遇しない。


471: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:11:32.91 ID:DfB2kHE6o

「ごはん食べますか?」

「さすがに食べてきたわよ」

「そうですか。お仕事お疲れ様です」

「本当にね」

「好きでやってる仕事だろう」

「それはもちろんね。ふたりとも、寝ないの?」

「久しぶりに会ったのに、寝ないのもないものだと思いますが」

「心配してるのよ。明日も学校でしょう」

「働き詰めの人に言われたくないです」

「……なに、純佳。お母さんに久々に甘えたいの?」

「わたし、もう寝ますね。兄、電気は消してくださいね」

「そうするよ」

「……冷たい子たち」


472: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:11:59.18 ID:DfB2kHE6o

 拗ねたみたいに溜め息をついてから、母さんは静かに荷物を置いてダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

「疲れてるみたいだね」

「もう慣れたわ」

「そうですか」

 母さんは仕事でいつもいない。なんの仕事をしているのか、俺は実のところ知らない。
 夜遅くまで働いて、会社に泊まったり、どこかに出張したりと忙しそうだ。

 学生時代にやりたかった仕事をしているとは言っていたが、詳しくは知らない。

「案外やり手なんだぞ」と、父がいつか言っていた。なんのだ。

「隼、大きくなったわね」

「同居してる親のセリフとは思えないな、おい」

 そもそも、さすがに大きくなるほど長い時間会っていないわけじゃない。

「家事、任せちゃってごめんね」

「いいよ、べつに。どうせ純佳と交代だし」

「うん。まあ、仕事で忙しくなくたって、わたしがやるよりあんたらがやったほうが上手く行くだろうけど」

「否定できないけど、さすがにどうなんだよ」

「いいじゃない。画一的な価値観に惑わされることはないわ。家族のあり方なんでそれぞれよ」

 それはまあそうかもしれない。


473: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:12:53.46 ID:DfB2kHE6o

「学校はどう?」

「平々凡々です」

「部活は?」

「……平々凡々」

 とは言えない。なにせ部長が失踪している。

「……そっか。あんたたち、しっかりしてるから、心配はしてないけど」

 しっかりしてる。
 しっかりしてる、か。

「親がだめだと、そうなのかしらね」

「……知らないけどさ」

「そう……隼も、もう寝なさい」

「ん。母さんも」

「母さんは、お酒飲んで寝ます。明日はおやすみ」

「ふうん?」

「今週の土日、ひさびさに家族でどっか行こうか。父さんも休みだって言うから」

「……いや。ごめん。予定がある」


474: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:13:19.98 ID:DfB2kHE6o

「そっか……。ね、明日は朝ごはんつくってあげる」

「いらない。心底」

「失礼なやつ。……ねえ、隼」

「ん」

「ごめんね」

「……なにが?」

「……ううん。なんでもない」

「俺、もう寝るよ」

「そっか。おやすみ」

「おやすみ……」


475: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:13:47.52 ID:DfB2kHE6o

 俺は自分の部屋に戻り、すぐに明かりを消した。

 ベッドに倒れ込む。

 もう慣れた。
 葉擦れの音にも、他のいろんなことにも。

 しっかりしてる。優しそうな人。
 まともそう。食えない奴。

 そんなふうに言われる。

 そんなふうに見えるらしい。

 それも慣れた。

 目を閉じると、睡魔はすぐに襲ってくる。
 けれど、やはり、もう片方の視界は目覚めたままだ。

 影絵のような葉擦れの森は、まだそこに浮かんでいる。

 風の冷たさ、白々しい月。

 不意に、その景色が――動く。

「そろそろですよ」と声が聞こえる。



476: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:14:28.10 ID:DfB2kHE6o

 俺の視界に、誰かがいる。

 けれど俺は、声をあげることはできない。
『そちら』の体は、ひどく衰えているし、俺の意識は、まだ『こちら』にある。

 だから、何もすることができない。

「不思議なものですね。まるでわたしは、あなたのために生まれてきたみたいな気がします」

 その声を、俺は知っている。

 さくらの声だ。

「違います」と声は言う。

「わたしは、さくらじゃない」

 そうだ。こいつは、俺の心を読むことができる。
 ……いや。でも、こいつは、俺のこの現象には関係がないのではなかったか。

 そもそも、学校にしかいられないのではなかったか。

「さくらでは、ないのですが……名前がないと不便なら、つけてもらってもけっこうです」

 ……。

「ああ、喋れないんですね」

 じゃあ、自分で考えることにします。

「……大切なことは、越境という言葉の意味について考えることです」

 そして彼女は、歌を歌うように、つぶやく。


477: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:14:54.87 ID:DfB2kHE6o

「その場所に名前はない。入口は無数にあるし、出口も無数にある。
 けれど、その中は迷路にようになっていて、簡単には抜け出せない。

 あるものはそこを仙境と呼ぶし、あるものはそこを異世界と呼ぶ。
 冥界と呼ぶものもいれば単なる白昼夢と呼ぶものもいる。

 あるものにとっては芳しい花の香りに満ち満ちた極楽の蓮池であり、
 あるものにとっては暗雲垂れ込める枯れ果てた木々の森であり、

 あるものにとっては地中深くの水晶の谷間であり、
 あるものにとっては焼け落ちた家の跡地であり、

 あるものにとっては近未来的なビルの林でり、
 あるものにとってはただ茫漠たる砂漠であろうし、

 あるものにとっては黴の匂いに包まれた光も差さぬ牢獄であり、
 あるものにとってはそこは郷愁誘う民家である。

 ふうけいはおそらく問題ではない。

 問題は、そこには「なにともしれぬ暗闇」がひそんでおり、
 彼らはその木々の虚めいた隙間から舌なめずりしてこちらを覗いているということだ。

 そしておそらく彼らは『滲み出している』。
『あちら』と『こちら』との間に本来境界線はなく、ただ便宜的な住み分けがなされているだけに過ぎない。
 彼らは『そこにいる』。

 暗闇はどこにでもある。
 暗闇はいつもそこにある。
 足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある」


478: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:15:28.61 ID:DfB2kHE6o

 覚えていますか、と彼女は言う。

「……あなたが、書いたんですよ」

 そうだ。
 どうして、彼女が、そのことを知っている?

 それは、去年、俺が書いた文章だ。

「思い出してもいいし、思い出さなくてもいい。忘れてもかまわないし、忘れた方が幸せなのかもしれない。
 でも……音は、まだ止まない。あなたがそれを止めようとしないかぎり、止まない」

 それだけ、覚えていてくださいね。

「わたしは、さくらではない。でも、名前が必要なら、いま、考えます」

 そうですね、と彼女は微笑み、

「……カレハというのは、どうでしょう?」

 得意げに笑った。

 そうして彼女は姿を消し、森にはまた、葉擦れの音だけが響いた。
 

479: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/09(木) 00:16:29.35 ID:DfB2kHE6o




「こっちの様子は相変わらずです。穏やかで、日々に変化はない。これってすごく幸せなんじゃないかって思う。
 何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
 誰ともかかわらずにいると、なんだか自分というものがどんどん希薄になっていく気がします。
  
 悪い意味じゃなくて、なんだか、自分が世界で、世界が自分だっていう気がする。
 そこではわたしは、他のなにものでもなく、でもたしかになにかではあって、でも誰もわたしに何も求めないの。

 それって悲しいことのようで、実はとても気楽なことなんじゃないかって思うんです。

 陽の光を浴びながら湖の水面を眺めていると、なんだかいろいろなことを思い出しそうになります。

 でも、そっちのことを思い出す時間が、日に日に減ってきたような気がします。

 本当にこっちに根を下ろすことになるかもしれない。

 そうしたら、みんな、少しは寂しがってくれますか?

                瀬尾青葉」


485: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:26:20.46 ID:zzkpbsGZo



 放課後の文芸部室には、瀬尾を除く部員たちが全員揃っている。
 今日もまた、ボルヘスの『伝奇集』に瀬尾のメモが挟まっていた。

 俺と真中がメモを読み終えると、市川が深刻そうな顔で俯いた。

「どう思う?」

「……ううん」

「……なんだか、まずそうな感じがしない?」

「状況が、やっぱりわからない」

 大野は、静かに呟いた。

「本当に湖畔で静かに暮らしているわけがないだろ。だって、瀬尾は図書室の本にメモを挟んでるんだ」

「そうだけど……これ、何かの比喩なのかもしれないし」

「比喩?」

「つまり、実際に湖畔にいるわけじゃなくて、そういう気持ちってこと」

「なんでそんな回りくどいことするんだよ」

「知らないけど……小説なんて、そういう回りくどい言い方しかできない人が書くものだと思うし」

 そう言われれば、そうかもしれないが。


486: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:26:46.72 ID:zzkpbsGZo

「……なんか、隼くんはさ」

「ん」

「あんまり、瀬尾さんのこと心配してないの?」

「……」

 あまりに不意打ちで、返す言葉に詰まる。

「そういうふうに見える?」

「悪いけど、見える。平気そうに見える」

「そう」

 そう。慣れてるよ。

「でも、瀬尾さんも……そういうふうに見えた」

 市川は、そんなふうに言葉を続けた。

「いつも笑ってて、元気そうで、自分のことより誰かのことを考えてて、自分のことなんて、どっかに忘れてるみたいな顔してた」

「……」

「違うんだね」

 大野と真中が、黙って俺たちの様子を見ている。
 市川の言葉が続くのを待ってる。

「きっと、見た通りの人なんていないんだ。どんな言葉にも裏があって、すぐ揺らいで、だからわからないだけで」

 だからすぐにわかんなくなっちゃうんだ。

「ひょっとしたら、わたしたちみんな、何かを演じているのかもしれない」


487: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:27:17.69 ID:zzkpbsGZo

 溜め息をつくみたいにそう言ってから、彼女は壁にかけられた絵を眺める。

 空と海とグランドピアノ。
 孤独。

 そうかもね。
 どうだろうね。

「ねえ、隼くん。……ひょっとして、なにか、気付いてることがあるんじゃない?」

「どうしてそう思う?」

「……質問に質問で返すのは、隼くんの悪いところだね」

 俺は本当に何も知らない。
 ただ、予感のようなものがあるだけだ。

 そのとき、不意に、部室の扉がノックされる。

 誰だろう、と考える間もなく、ドアが開けられる。

「失礼します。あの、隼さんは……」


488: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:27:43.95 ID:zzkpbsGZo

「ちせ」

 と、名前を呼ぶと、部員たちが一斉にこっちを向いた。

 ……もうだいたい、何を言われるか分かってきたような気がする。
 と、思ったけど、そうだ。

 こういうときに、真っ先に俺に文句をつけてきたのは、いつも瀬尾だっけ。
 前までだったら、別に説明する理由もないような気がしたが、真中との話もある。

 妙な誤解をされても愉快ではない。

 俺はみんなの顔を見回した。

「ましろ先輩の妹だよ」

「え」

 と声をあげたのは、大野ひとりで、残り二人は首をかしげていた。
 ……。

 あ、そうか。

 そりゃそうだ。市川も真中も、去年まで部に出入りしてなかったんだから。
 知ってるのは、大野と瀬尾……。ここでもやっぱり、瀬尾だ。

 瀬尾がいないと調子が狂う。

「ましろ先輩って……?」

 首を傾げたのは、また市川だった。ひとり欠けるだけで、会話のバランスがこうも乱れるものだろうか。


489: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:28:16.94 ID:zzkpbsGZo

「先代の部長だよ」

 そのとき、ふと思い出す。
 
 ましろ先輩には、さくらが見えていた。
 俺と瀬尾にもさくらが見えて、他のやつには見えない。

 今、俺にはさくらが見えない。

 ……ましろ先輩は、こういう状況に心当たりがないだろうか?

 そもそも気になることだらけだ。

 さくらとましろ先輩の話を思い出してみれば、去年だって、さくらはましろ先輩の周囲をちょろちょろしていたはずだ。

 そのとき、俺はさくらの存在を認識できなかった。

 それなのに、どうして今年の春になって、突然さくらのことが見えるようになったのだろう。
 瀬尾にとってだってそうだ。

 ……もっと早く、思いつくべきだった。

「あの、隼さん」

 突然黙り込んだ俺に向けて、ちせが不安そうな顔をした。

「少し、お願いがあるんですけど……」

「ん」

「職員室まで、一緒に来てほしいんです」

「……なんで?」


490: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:28:43.97 ID:zzkpbsGZo

「えっと、土曜の話で……あの、行き先の住所が」

 やけに遠回しな言い方をするのは、周囲に気を使ったのか。
 まあ、瀬尾のことを探ろうなんて、こういう状況でもあんまり趣味が良いとは言えない。
 
 家族の心境からしたら、俺達の応対なんてやってる気分でもないだろう。
 大野あたりは反対するかもしれない。

「……ああ、それなら俺が知ってる」

「そうなんですか?」

「行ったことあるから」

「……そうなんですか」

 ちせは、なにか複雑そうな顔をした。

「じゃあ、わかりました。とりあえず、あとで連絡します」

「うん」


491: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:29:12.46 ID:zzkpbsGZo

 ちせが去ったあと、三人の視線が俺に集中する。

「せんぱい」

 真中が不意に俺のことを呼んだ。

「あのね……。あの、せんぱい」
  
 一度はこらえるように言葉を止めたのに、彼女はもう一度話しはじめた。

「わざとなら、さすがに悪趣味だと思うよ……?」

「なにが……」

「たしかにね、わたしはせんぱいと付き合ってないし、せんぱいが誰といようとなにかを言う権利なんてないけど」

 むっとした顔で、眉を逆立てている。
 わたしは怒っています、みたいな顔だ。

「でも、でも、自分のこと好きだって言ってる相手がいる前で、平然と他の子と遊びに行く約束っていうのはどうかなって」

「……そういうんじゃない」

 本当に調子が狂う。
 例の騒動以降、真中の表情は徐々に豊かになってきた。
 感情表現を取り戻したみたいに。

 もちろん、あの無感動な雰囲気がなくなったわけじゃない。それでも、はっきりとした意思表示をときどき見せるようになった。

 いろんなことが、一度に起こりすぎてるんだ。


492: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:29:44.34 ID:zzkpbsGZo

「せんぱい、土曜日、あの子とどこいくの」

「……あー」

「……せんぱいがどこ行こうと、わたしには関係ないんだけど」

「……」

「せんぱい?」

 俺だってべつに、真中に対して罪悪感がないわけではないのだ。
 こいつのことを好きにならない、好きじゃないとは言っていても、突き放す気にはなれない。
(それは弱さなのだろう)

「……真中、ちょっとこい」

「ん」

 彼女は素直にうなずいた。俺たちは立ち上がって、部室を出る。


493: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:30:13.99 ID:zzkpbsGZo

 廊下に出てすぐ、俺は真中にことの成り行きを説明した。

「さっき来たのはちせって言って、おまえと同じ学年の生徒だ」

「知ってる。宮崎さん」

「あいつには姉がいて、それが先代の部長だ」

「うん。さっき聞いた」

「あいつはどっかのレストランでバイトしてたらしくて、そこで瀬尾も働いてたらしい」

「……」

「瀬尾のことを、調べるつもりなんだって言ってた。俺も協力することにした。
 それで、土曜、一緒に瀬尾の家に行くことになってる」

「……そうなんだ」

「……これで説明になったか?」

「うん」

「……なんで笑う?」

 本当に、未だに、こいつの素直な笑い方には慣れない。
 気を抜くと持っていかれそうになる。

 魔性。

 しかも、これを、俺にだけ見せてくるっていうのが、本当に厄介だ。
 ……どうして、俺なんだ。

 もっと、別にふさわしい相手がいるはずだ。この笑顔を受取るに足る奴が。


494: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:31:04.88 ID:zzkpbsGZo

「せんぱい」

「ん」

「あんまり、答えを急がないでね」

「……」

「わたしをどう扱うか、ゆっくり決めてくれていい。ちゃんと待てるから」

「……なんで」

「だって、今答えを出したら、きっとわたしに都合の悪い結論になるだろうから」

「意外と打算的だな」

「せんぱいとしても、都合がいいでしょ。ひとりキープがいるって思えば」

「言い方を……考えてほしい」

「うん」

 本当に嬉しそうに笑うんだ。
 素直に。



495: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:31:32.01 ID:zzkpbsGZo

 この子のことを好きになれたら、たぶん、それでよかったはずなのに。

 風景がまた、二重になる。
 何かを忘れさせまいとするみたいに。

 誰かに近付こうとするたびに、誰かに触れようとするたびに、誰かにすがりつこうとするたびに。
 
「ね、せんぱい。……土曜日、わたしも、一緒にいったらだめかな」

「……」

「わたしだって、青葉先輩のこと、心配してるよ」

「……知ってるよ」

「だめかな」

「聞いてみるよ」

 それで、そのときは話は終わった。
 
 俺たちは、いつも何かを演じているのかもしれない。
 誰の仕組んだ舞台なのかも、分からないまま。

 俺たちはついでに、自販機まで歩いて飲み物を買うことにした。

 そのとき不意に、廊下の向こう側に、人影が見える。


496: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/12(日) 23:33:27.61 ID:zzkpbsGZo


「さくら」が、見えた。
 
 彼女は俺と目が合った瞬間、ふわりと体を翻して、なんでもなさそうに去っていく。

「真中」

「ん」

「今、誰か見えたか?」

「……ううん」

「そっか」

 たぶん、追いかけても、もうそこにはいないだろう。

 ましろ先輩に、連絡してみるべきかもしれない。

 さくらのことを、俺はなにひとつ知らないままだ。
 昨夜見た、『カレハ』のことも。

 謎ばかりが増えていく。

 ……その謎は、俺が向き合わなきゃいけないものなんだろう、きっと。

 空虚が充溢しているように思える景色。
 俺の視界のその曇りを、俺がどうにかできるか。

 いま起きていることのすべては、それに関わっているような気がする。
 この葉擦れの音の正体も、きっと。



505: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:24:59.82 ID:JC5fOA8ao

「ね、せんぱい。今日、バイトは?」

 部活を終えて帰ろうというところで、真中がそう声をかけてくる。

「ない」

「じゃ、一緒に帰ろう」

「ん」

「……わたし、うっとうしい?」

「……ことは、ない」

「ならへいき」

 どうしてこいつはこんなに、俺にどう思われるかを気にするんだろう。

「……悪い。ちょっと行くところがある」

「ん」

 真中は素直に頷いてくれた。

「わかった。……土曜のこと、あとで教えてね」

「ああ。ちせにも話しておくよ」


506: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:25:34.38 ID:JC5fOA8ao

 真中の後ろ姿を見送ってから、俺は渡り廊下へと向かう。
 最初にそこを選んだことに深い意味はない。とにかく回ってみようと思っただけだ。
 
 渡り廊下。三階。誰もいない。俺は階段を降り、二階の渡り廊下を渡り東校舎へ戻る。やはりいない。
 最後、階段を降り、一階の渡り廊下へ。誰もいない。

 次に中庭に目を向ける。やはり、いない。木の陰にも、建物の中にも。

 校舎を見上げ、こちらを見る視線がないか、窓をひとつひとつ眺めてみる。
 やはり姿はない。

 いないのだろうか。
 
 そうは思えない。

 最後の最後に、俺は降りてきた階段を一段一段昇り、東校舎の屋上へと向かう。

 鍵は制服の内ポケットに入っている。

 鉄扉はいつものように開いた。


507: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:26:27.07 ID:JC5fOA8ao

 扉を開けた瞬間、強い風が校舎へと吹き込んだ。

 俺は体を外へと投げ込み、扉をすぐに閉める。

 あたりを見回す。空は灰色の雲に覆われていた。
 フェンスの様子はいつもと変わらない。見渡す限り誰もいない。見えるのは街だけだ。

「……どっかで見てるのは分かってる」

 隠れてないで出てきやがれ、と、声に出さずに言ってみる。

 返事はどこからもやってこなかった。

 俺はひとつ溜め息をつき、いったいこれはどういうことなんだろうと考える。

 そして、考えたところでどうしようもない問題なのだと気付く。

「なあ、聞こえてるんだろ?」

 そう声をかけてみたものの、いまいち自信が持てなくなってきた。

 俺は、ただ妄想を事実だと思い込んでいるだけなんじゃないか。
 ありもしない空想を現実と取り違えているだけなんじゃないか。


508: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:26:56.04 ID:JC5fOA8ao


 さくらなんて存在、最初からどこにもいなかったんじゃないか。

 それを唯一確認できる相手も、瀬尾も、今はどこかにいなくなってしまった。

 このままじゃ何が現実で何が嘘だったのかわからなくなってしまいそうだ。

 さくらは本当にいたのか?
 俺の作り上げた幻ではなく?

 俺の夢は? この葉擦れの音は? ボルヘスの『伝奇集』は?
 
 何が本当で何が嘘なんだろう。

「……そんなに泣きそうな顔をしないでください」

 声に振り返ると、彼女は給水塔の傍に腰掛けていた。

「……ずいぶん探した」

「本当は、姿を見せるつもりはありませんでしたから。あなたが探してもわたしを見つけられなかったのは、そういうことだと思いませんでしたか」

「思った。でも、探すかどうかは俺の判断だ」

「面倒な人」

 さくらはそう言ってひとつ溜め息をつき、ふわりと浮かび上がるみたいに、けっこうな高さから飛び降りた。
 何事もなかったみたいに、彼女のからだは着地した。



509: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:27:25.09 ID:JC5fOA8ao

「どうしてわたしを探していたんですか?」

「話をしたかった」

「どんな?」

「おまえ、カレハってやつを知ってるか」

「……」

 黙ったまま、彼女は諦めたみたいに首を横に振った。

「知りません。……いったい、何が起きてるんですか?」

「“知らない?”」

「あなたに何が起きているのか、わたしには分からない。あなたの、それがいったいなんなのか、わたしには分からない」

「でも、おまえは、俺の未来も見たんじゃないのか」

 森に向かうことになる、と、彼女はそう言っていた。

「分からない。ただ、見えるだけなんです。なにか、おそろしいことが起きるような気がする」

「おそろしいこと?」

 世界が滅ぶとでもいうんだろうか。

「そんなことじゃないです。ただ、なにか、知りたくないことを……知ってしまうような、そんな気がする」

「おまえにも、そういうのがあるのか」

「わたしにだって気持ちくらいあります」

 普段飄々としているのが信じられないくらいに、さくらの表情は素直だった。

「……しばらく、考えさせてください。わたしには、なんにも、わからないんです」

 さくらはそう言って、まばたきの合間に消えてしまった。
 ひとり残された俺の頭上を、一羽の鳥が過ぎ去っていったように思えたけれど、それだって錯覚なのかもしれなかった。


510: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:27:55.93 ID:JC5fOA8ao





 約束の土曜の朝、引き伸ばしたような曇り空の下、俺は駅前広場のベンチに座って彼女たちを待っている。

 真中の話をすると、ちせは「心強いです」と素直に受け入れてくれた。
「あんまり大勢で行くとご迷惑かもしれないですけど、三人なら……」

 というかまあ、はっきり言って向こうからしたらいい迷惑だろう。

 瀬尾の家には、あらかじめ俺が連絡しておいた。青葉さんのことについて話を聞きたい、と。

 瀬尾の母親らしき女性は、あっさりと受け入れてくれた。

「かまわないけど、たいしたことは話せないと思う」と、どこか冷淡に聞こえる声だった。

 訪問は午後二時半。ちせと真中は、この広場に二時に着く予定だった。

 そして今、二時五分。二人からの連絡は未だにない。

 これは、謀られたか。


511: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:28:22.76 ID:JC5fOA8ao

 などと考えているうちに、携帯が震えた。

「ごめん、すぐつきます」

 と、真中から。

「なにかあったのか」

「寝坊」

 本気か貴様。

「ごめんなさい」と二通目が来る。

 仕方ない。少し待つとしよう。
 どうせ、瀬尾の家は駅の近くらしい。間に合わないことはないだろう。

 溜め息をついたところで、後ろから声がかけられた。

「ご、ごめんなさい。遅れました」

「遅い!」

 と思わず声をあげて振り返って、息を呑んだ。
 白いワンピース、桜色のカーディガン。


512: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/20(月) 20:28:49.62 ID:JC5fOA8ao

「出先でお姉ちゃんに捕まって……すみません」

 次いで、ちせの背中越しに慌てた様子の真中の姿が見えた。

「……」

 合流してすぐ、息を整えながら彼女はちせの方を見た。
「やってしまった」という顔を真中はした。

「……女子力で負けたな、真中」

「……完璧に油断していた」

 寝坊なんてするからだ。

「あ、変ですか、この服。あの、わたしは普段どおりでいいって言ったんですけど、お姉ちゃんが……」

 ましろ先輩にも意外とそういう面があるらしい、と思ったけれど、よく考えると彼女なら妹で人形遊びくらいはしそうだ。

「いや、似合ってるよ」

「あ、ありがとうございます……」

 頬にさす含羞が妙に大人びていて、容姿とのギャップも相まって「よいものだ」という気がした。
 いかんせんおめかしした小学校高学年児童に見えてしまうのがなんとも切ない。

「……真中も似合ってるぞ」

「……それって皮肉ですか?」

 早起きは三文の徳という。

 もちろん、正直なことを言うと、今の俺に、そんなやりとりを素朴に楽しむ余裕なんてなかった。

 葉擦れの音は、徐々に大きくなっている。
 瀬尾がいなくなってからというもの、より激しくなっている。

 この場所は、このやりとりは、“俺のものではない”という感覚が、ひどく、強くなっている。

「……時間、押してるから、すぐ行くぞ」

 ふたりは、真面目な顔になって頷いた。

 雨が降らなければいいが、と俺は思う。


518: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/21(火) 21:57:41.86 ID:Kx3Mj/ypo



 とにかく時間は差し迫っていた。

 俺たちは駅前広場を離れ、南側のビルが立ち並ぶ通りを抜ける。
 木々に囲われた大きな公園の傍には住宅街がある。そのあたりに瀬尾の家があるらしかった。

 俺は家々のガレージや駐車場に止められた車をひとつひとつ眺めた。
 アウディ、レクサス、BMW、ベンツ、フォルクスワーゲン、ポルシェ……。

「真中、今日はなんで遅れた?」

 いささか緊張を覚えて真中に声をかけると、彼女は平然としていた。

「ごめん。寝過ごした」

「寝過ごしたって、あのな」

 ……午後二時に約束したのだが。

「一時半に起きたの」

「どういう生活してるんだよ」

 真中は、申し訳無さそうな、いたたまれないような顔をした。

「金曜の夜は好きなの。わたし、金曜の夜に思い切り夜更かしするのが好きなの。ああ、明日も休みだなって」

「……ふむ」

「それで、土曜の朝に寝過ごして、ああでも、明日も休みなんだな、午後はなにしようかなって思うのが好きなの」

「……それはわからんでもないけど、約束があっただろ」



519: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/21(火) 21:58:20.77 ID:Kx3Mj/ypo

「あの、せんぱい、言い訳させて。べつにね、忘れてたわけじゃないの。ただ、ベッドに入っても眠れなくて」

「ふむ」

「それでね、寝付けないとスマホいじったりしちゃうでしょ」

「はあ」

「動画とか見ちゃうでしょ」

「はあ」

「後味の悪いゲームのエンディング集みたいなのとか見ちゃうでしょ」

「いや、知らんが」

 そういう趣味だったのか。

「ゲーム、好きなの?」

「……わりかし?」

 首をかしげるそのときの仕草は、以前の、何を考えているかわからないときの真中と同じだった。
 そこになんとなく安心する。

 言いはしないが、以前と違う表情の起伏にくわえて、私服姿でいるせいで、真中が真中じゃなくなったみたいな気分でいたのだ。


520: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/21(火) 21:59:07.98 ID:Kx3Mj/ypo

「あの。隼さん……青葉さんの家って」

「あ、悪い」

 少しだけ気が紛れたところでちせに言われて、俺はもう一度住所を見直す。
 スマホのナビで入力してあるので、間違いがないかぎり瀬尾の家につくはずだ。

 居心地でも悪いみたいに、ちせは俺たちから少し離れて歩いた。

 ……まあ、このままっていうのもよくないだろう。
 
 共通の話題なんて、ふたつしかないわけだけど。

「ちせ、ましろ先輩は元気なの?」

「あ、ましろ姉さんは、元気ですよ」

 まあ、あの人が元気じゃない様子というのも、あんまり想像できない。

「最近は日本のお城のプラモデルに凝ってます」

「……そう」

 それは"最近の調子"という話題で出てくるべき情報なのだろうか。

「姉さん的には、岐阜城がアツいらしいです」

「あ、そうなんだ」

 ……そういうこと言うんだ、あの人。

「ていうか、さっき、お姉ちゃんって呼んでなかった?」

「……あ、えっと」

 ちせは視線を泳がせて、戸惑った様子だった。


521: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/21(火) 21:59:35.17 ID:Kx3Mj/ypo

「……すみません」

「あ、や。謝らなくていいっていうか、べつに悪いことじゃないから」

「せんぱい、女の子いじめちゃだめだよ」

「いや、いじめてない、いじめてない」

「……ふうん」

「……なんだよ」

「せんぱいがそんなふうにうろたえてるの、初めて見たかも」

「……うろたえてない」

「うろたえてるもん。ふうん。そうなんだ」

 いかにも何か言いたげに、真中はそっぽを向いた。

「うろたえてない。……そんなことはどうでもよろしい」

 わざとらしい咳払いをして、俺はちせに向き直る。

「悪いとかじゃなくて。……なんか、変に気を張ってるのかと思って。べつに普段どおりで平気だよ」

「あ……はい」


522: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/21(火) 22:00:02.11 ID:Kx3Mj/ypo

 ちせは恥ずかしがるみたいに肩を縮める。
 最初に会ったときの雰囲気が嘘みたいに、普通の女の子みたいだ。

「あの。わたし、子供っぽいから。喋り方まで幼いと……なんだか」

「……そう?」

「はい。他の人は、気にしないのかもしれないですけど……」

 ひょっとしたら、思った以上に自尊心の強い子なのかもしれない。
 身勝手に、そんな印象を覚える。

「ふうん。なるほど」

 続ける言葉に迷っているうちに、真中がちせを見ながら口を挟んだ。

「あの、えっと……」

「はい。……あ、ちせで、いいですよ」

「ちせさん」

「ちせでいいです」

 真中は照れたみたいに唇をもごもごさせた。

「なにやってんの?」

「ううん、べつに。えっと、ちせ」

「はい」

「……そっちも敬語じゃなくていいよ。同い年だし」

「あ、うん……」


523: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/21(火) 22:00:27.74 ID:Kx3Mj/ypo

「ちせは……なんでせんぱいのこと、隼さんって呼ぶの?」

「……あ」

 なぜか真中は俺の方をもの言いたげにみる。
 
「あの、わたしの姉が、隼さんのこと、隼くんって、いつも呼んでたので、それでわたしも、隼さんのことは、つい」

「ふうん……」

「何だよ。呼び方なんてなんでもよくないか?」

「……べつに、いいけど。仲良かったの?」

「誰と?」

「その、ましろ先輩? と」

「……さほど?」

「ふうん……」

 ちせはさっきよりずっと居心地悪そうだった。

「……着いたな」

 歩きながら、ナビを頼りに表札を眺めていたのが功を奏した。
 瀬尾という表札が見つかった。


530: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:30:37.36 ID:hP/YOjfko



 時刻はちょうど二時三十分を回ったところだった。

 場所を調べた上で余裕を持って待ち合わせをしたのが結果的にはよかった。

 インターフォンを鳴らすと、はい、とすぐに返事があった。
 玄関の扉が開かれ、小奇麗な格好をした痩せた女性が中から顔を出す。

「こんにちは」と彼女は笑いもせずに言う。

「こんにちは。はじめまして」と俺も言う。後ろの二人もそれに倣った。

「突然すみません。お電話した三枝という者です」

「とりあえず中にどうぞ」と彼女はさして興味もなさそうに背を向けた。
 少し躊躇したが、家主の行動に従い、玄関の中へと踏み入る。

 広めの玄関のすぐ向こうが廊下になっている。すぐ傍に客間が見える。
 客間の壁は大きな窓になっていて、外からは見えなかったが中庭につながっている。

 それを差し引いても大きな客間だった。


531: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:31:27.78 ID:hP/YOjfko

 俺たち三人はそこに通されて、ソファに腰掛けるように勧められる。
 俺たちはそれに従う。

 家財は上品な焦茶色の木目のもので統一されている。全体的に落ち着いた雰囲気だ。

「ごめんなさいね、散らかってて」と彼女は言うが、散らかっているのはせいぜいテーブルの上の新聞くらいだった。

「お茶がいい? コーヒーにする?」

「あ、おかまいなく……」

「コーヒーは嫌い?」

「いえ……」
 
 二人はどうなのだろう、と思いつつ見るが、特に何も言わないようだった。
 緊張しているのかもしれない。


532: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:32:18.13 ID:hP/YOjfko


「……すみません、突然電話して、訪ねたりして」

「別に。問題があったら断ってるから」
 
 言いながら彼女はカウンターの向こうに入り、コーヒーの準備を始めた。

「迷惑じゃありませんでしたか?」

「言ったわ。問題があったら断ってる」
 
 怜悧な人だという印象を受けた。こう言ってはなんだが、瀬尾の母親とは思えないくらいに。
 
 準備を終えると、彼女は俺たち三人の前に氷の入ったコーヒーを並べてくれた。

「ありがとうございます」と頭を下げる。どうやら俺が代表して話をする流れになっているらしい。

「いいえ。……青葉の、同級生って話だったけど」

「ええと、はい。クラスは違うんですけど、文芸部で一緒でした。俺が副部長で、青葉さんが部長を」

「文芸部?」

「……ご存知なかったですか?」

「あの子、あんまり話さないから、そういうこと。それも、部長」

「はい」

 本当に?
 それはなんだか……意外だ。瀬尾がそういうやつだと、俺は考えたこともなかった。


533: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:33:00.70 ID:hP/YOjfko

「……あの、青葉さん、ご自宅も帰ってないって聞いたんですが、本当なんですか?」

「うん。そう。帰ってきてない」

 俺はそれ以上どう質問を続けたものか迷った。
 何か伝えられていないか? それを聞きたいのはむしろ向こうのほうかもしれない。

 捜索願が出されたって話だ。
 両親に聞いてどうなる?

 俺たちは何を聞くためにここに来たんだ?

「……率直に言います。俺は、青葉さんがいなくなった日に、彼女と口論をしたんです」

「……口論?」

「はい。というと、正確じゃないかもしれない。俺の行為……悪意があったわけじゃない。でも、それに彼女は憤った様子だった。
 すごく、傷ついた様子でした。それで彼女はいなくなってしまって、家にも帰ってないという噂が流れてきた」

「……」

「彼女は自分の意思で、どこかに行ってしまったんだと、俺は思っています」

「ふうん。根拠は?」

 俺は、ポケットの中に入れておいた、瀬尾からの手紙を取り出した。
 彼女のメモの、最初の一枚だ。
 
「青葉さんがいなくなったあとに、ボルヘスの『伝奇集』が俺の家のポストに入っていました」

 図書室にあった本に挟まっていた、と言ってしまうと、不都合が生じるので言い換えた。
 事実としては似たようなものだ。

「そこに挟まっていたのがこのメモです。……彼女は、少なくとも、自分の意思でどこかにとどまっているはずです」

「そのメモを信じるならね」

「字でわかりませんか」

 彼女は返事をしなかった。


534: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:33:46.00 ID:hP/YOjfko

「……湖畔、ね」

「……心当たり、ありませんか。ご親戚のところとか」

「ないわ」と彼女は言う。

「あの子に親戚なんていないもの」

「……」

 その言葉の意味がわからずに、俺はただ戸惑うしかなかった。

「と、言うと」

「……」

 彼女はテーブルの上の灰皿を引き寄せると、煙草の箱から一本取り出してライターで火をつけた。
 数拍おいて、煙を吐き出してから、中庭の方を見つめたまま、彼女は話を続ける。

「わたしの旦那が、あの子の後見人なの」

「……"後見人"?」

 ちせが、思わずというふうに繰り返した。

「知らない?」

「ええと、はい……」

「……あなたは、知ってるんじゃない?」

 どうしてか、彼女は俺の方を見てそう言った。

「教えてあげたら?」

「……」


535: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:34:15.02 ID:hP/YOjfko

 後見人。瀬尾の場合は、未成年だから、未成年後見人ということになる。

 ……後見人、だと?

 ――わたしは最初からなんでもなかったのに。

 ――わたし、やっぱり偽物なんだ。
 
 ――わたし、やっぱり、いらないんだ。

「……後見人っていうのは、何かの事情で親権者がいない子供を預かって、財産の管理や法律行為を行う人間のことだ」
  
「親権者がいない、って?」

「親や養父母がいない子供」

「……」

「未成年者は、保護者の同意なしでは契約行為ができない。部屋も借りられない。仕事もできない。
 親権者や、その代理となる保護者がいなければ不都合が生じる。だから、親権を行使したり主張したりするものがいない場合……」

「正確には、もう少しややこしいケースもあるんだけどね」

 そう言って、向かい側に座った彼女が俺の言葉を引き取った。

「あの子の場合は誰もいなかった。親戚もね」

「……どういう意味ですか?」

「本当に、誰も、いなかったの」

 ……どういう意味だ?


536: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:34:48.62 ID:hP/YOjfko


「ひとつ、確認してもいいですか?」

「はい、どうぞ」

「あなたは、瀬尾青葉の親戚ですか?」

「いいえ」と彼女は言う。

「……」

「あの子を見つけたのが、わたしの旦那だった。旦那がたまたま、選任されうる職種だった」

「……見つけたって、どういうことですか?」

「話してもいいと思う?」

「……どうして俺に聞くんですか」

「青葉は、あなたにそれを知られたいのか、どうなのか。わたしにも、よくわからない」

「……」

「あの子は少し特殊なのよ」

「特殊……?」


537: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:36:13.43 ID:hP/YOjfko

「六年前の五月。街の公園で、汚れた服を着て、地べたに倒れている子供を、わたしの旦那が見つけた。
 病院に連れて行って、警察に届け出た。迷子かなにかだと思った。それだったらすぐにどうにかなったはずなの。
 本人の意識が戻れば自分の名前や家の場所を言えるはずだし、もしそうならなくても、捜索願が出されていないかとか、そういうことを確認すれば済む」

 そうはならなかった、という口ぶりだ。

「わかりやすく言えば、記憶喪失ってところ。あの子は自分の年齢を言えた。誕生日も言えた。
 でも、それなのに、名前は言えなかった。誰かに盗まれたみたいに。住んでいたところも、両親の名前も」

 ……。

「その場合、どういう扱いになるか、分かる?」

「……棄児?」

 彼女は首を横に振った。

「珍しいけど、そういうケースもありえたかもしれない。でも、青葉は発見された時点で小学校高学年くらいに見えたし、自分でもそう言った。
 学校に入っていたという以上、記憶はなくしていても戸籍はあるはずだし、そこで手続きしてしまうと二重戸籍になってしまう。
 それでも、学校に入っていたというなら、多少調べれば、身元は分かるはずだった。普通に考えればね」

「でも、じゃあ……」

「だから特殊なのよ。あんなに大きな子供がいなくなったら親だって捜索願を出すし、
 そうでなくてもどこかの学校に入っていたなら写真が残っていて本人かどうか確認できる。
 似た子がいれば本人がいなくなってしまっていないか確認すれば、いつかはたどり着けるはずだった。なのに、なかった」

「……なかった、って」

「厳密にいうと、とてもよく似ている子がひとりいたんだけど……その子はね、いなくなっていなかった」

「……待ってください。じゃあ、それで、身元がわからないままだった。そうなると、どうなるんですか」

「無戸籍者」

「……」


538: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:36:59.12 ID:hP/YOjfko

 無戸籍者。

「……まあ、いろいろ大変だったし、だいぶ時間もかかった。いろいろな意味でね。
 うちの旦那が後見人に選任されて……それで、就籍届を出した」

「……どうして、そうできたんですか?」

「どうしてって?」

「話を聞くだけだと、児童養護施設の仕事の範疇というのが妥当という気がする。
 親が見つからないからと言って……。別に、いけないというわけではないですけど、納得がいかなくて」

 彼女は指に挟んだままの煙草が燃え尽きそうになっていることに気付いて、灰皿に押し付けた。

「六年前だったからよ」

「……六年前?」

 六年前。
 二○一一年。

「……」

 ……“震災孤児”。


539: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:37:30.57 ID:hP/YOjfko

「でも、五月って」

「時期も場所も状況も、正直言ってそう考えるにはあまりに不自然だった。
 でも……ありえなくはない。その二ヶ月の間何かがあって、あの子は記憶をなくしたのかもしれない」

 ……少なくとも、目の前のこの人はそう考えている。

「でも、だったら、被災した地区の学校の生徒を調べれば」

「……そう。そこも、不自然だった。でもね」

 彼女は、少しだけ身を乗り出して、まっすぐと俺の目を見た。

「結果として、青葉はこの家で暮らしていた。あの子の親も、親戚も、知り合いも、どこにもいなかった。
 テレビでだって流れた。ビラだって配られた。でも、あの子を知ってる人はひとりもいなかった」

「……」

「それで、あの子はこの家で暮らしていた。……もちろん、本人が望まなかったら、施設という形にはなっただろうけど」

「……」

 話を聞きながら、一瞬、俺はまったく違う連想をした。
 ……ありえない。

 六年前の五月。六年前の五月。そうだ。六年前の五月。


540: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:37:58.97 ID:hP/YOjfko

「……すみません。さっき、青葉さんの身元を調べたときに、よく似た子がひとりだけいたっておっしゃいましたよね」

「……ええ。それが?」

「その子の名前って、わかりますか?」

「……でも、無関係の子よ。調べてもどうにもならない。まさか押しかけもしないでしょうけど」

「そんなことをしても意味はないでしょう」

「だったらどうして知りたがるの?」

「いえ……少し」

 彼女はいくらか迷ったような素振りを見せたが、やがて根負けしたみたいに溜め息をついた。

「名前は、思い出せないけど、苗字は珍しかったから、覚えてる」

「……はい」

「たしか……鴻ノ巣って言ったかな」

 ……。

「……ありがとうございます」


541: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/24(金) 00:38:26.32 ID:hP/YOjfko

「……いいえ。ねえ、もし青葉からまた手紙が来たら、教えてくれる?」

「……はい。約束します」

「わたし、あの子のことを、なんにも知らない」

 悪夢にうなされるみたいに、彼女は顔をしかめた。

「ときどき、夢を見るのよ。あの子の本当のご両親があらわれて、あの子は何もかも思い出して、いなくなっちゃう」

「……」

「……友達と喧嘩したからって、なんにも言わずに家を出ていくような子じゃない。
 結局、この家はあの子にとっての居場所にはなれていなかったのかもしれない。
 そうでしょう? ……何か、ずっと抱えていたものがあったから、この家にも帰ってこないのだと思う」

「……手紙が来たら、必ず伝えます」

 俺は嘘をついた。

「……お願いね」

「……はい。何かわかったら、必ず」

 そこで話は終わった。それ以上、お互いに伝えるべき言葉を持たなかった。


550: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:07:42.85 ID:vqWIrf3Zo



 瀬尾の家にいたのは、せいぜい三十分くらいと言ったところだった。
 
 外に出たときにはもう、景色は灰色に澱んでいる。
 結局のところ、収穫らしい収穫があったとはいえない。

 瀬尾の過去を知ったところで、今瀬尾がどこにいるかはわからないままだ。

『こっちの様子は相変わらずです。穏やかで、日々に変化はない。これってすごく幸せなんじゃないかって思う。
 何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
 誰ともかかわらずにいると、なんだか自分というものがどんどん希薄になっていく気がします』

 真中もちせも、黙り込んでしまっていた。無理もないだろう。
 他人の事情に、勝手に踏み入ってしまった罪悪感みたいなものを感じる。

 それでも今俺を悩ませているのは、瀬尾の事情ではなく、さっきの連想の方だった。
 
『鴻ノ巣』。『六年前の五月』。

 瀬尾青葉。


551: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:08:11.75 ID:vqWIrf3Zo

「……とりあえず、瀬尾の居所のヒントはなかったな」

 話の内容にはあえて触れず、俺はそう呟いた。

「そう、ですね」
 
 ちせが頷く。真中は黙っていた。
 さて、どうしたものだろう。

「雨が降りそうだな。このあとはどうしようか」

 瀬尾の行方を知るという最大の目的に関しては、空振りだった。
 話をしたところでなんら展開はないだろう。

 俺の頭はそう考えている。けれど、耳に響く葉擦れの音が、何かを教えるみたいに騒いでいる。

 そうじゃない、おまえはもう気付いている、と、誰かが言っている気がする。

 さっきまでの話でわかったことはない、と俺は考えようとしている。
 でも、そうじゃない。俺はそれを認めたくないだけで、ずっと頭の中に浮かんでいた。

 それを確かめる手段も、実のところ、思いついている。
 ただ、もしそうだったとして……どうやって、瀬尾を連れ戻せばいいんだろう。

 それは、正しいことなのだろうか?


552: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:09:26.88 ID:vqWIrf3Zo


「……わたし、今日は、帰りますね」

 ちせが、少し無理のある笑い方で、そう言った。

「夕方から、バイトもありますから。今日は、ありがとうございました」

「ああ、うん」

 そうやって返事をする以外に何を言うこともできない。

 ちせは、一刻も早くこの場を離れたいというみたいに、すぐにいなくなってしまった。
 
 俺と真中は取り残されて、ふたりで顔を見合わせる。

「……真中は?」

「……どうしよう」

 すぐ帰るという気分にはなれないらしい。
 まあ、まだ夕方というほどの時間でもない。

「どこかに入るか」



553: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:09:55.67 ID:vqWIrf3Zo

 それで、駅前の近くで休めるところを探したら、真中が急に「そういえば行ってみたい店があった」と言い出した。
 
 携帯で位置を調べて向かうと、店の扉には「CLOSED」の札がしてあった。

「おかしいな。定休日じゃないはずなのに」

 ネットで調べてみるとSNSのアカウントにたどり着き、「今日は臨時休業とさせていただきます」という旨の投稿があった。

「なるほど」と俺達は呻いた。

 そうこうしているうちに、いよいよ雨が降り出しそうだった。
 こうなったらなんでもよかろうと、俺達はとりあえず駅ビルに戻り、テナントのチェーン店に入った。

「なんだかなにもかもうまくいかないね」と真中が言った。

「そんなことはない」と俺は言ったけれど、よくわからなかった。

 うまくいかないこともいくことも、そんなに多くはなかったんじゃないだろうか。

 向かい合ってテーブル席に腰掛けて、俺と真中は話すことも思いつけずにいた。

 彼女はエスプレッソを飲みながら壁にかけられた絵を眺めている。


554: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:10:23.55 ID:vqWIrf3Zo


「雨、降ってきたな」
 
 店の窓ガラスの向こうで、雨音が強くなりはじめた。
 真中は返事をしなかった。何かを考えているみたいだ。

 言葉を探すのもばかばかしいような気がして、俺もあえて口を開くことはしなかった。

 しばらく、そのまま時間が流れた。俺はコーヒーを飲みながら、どこから手をつけるべきだろうと考える。
 
 瀬尾は家に帰っていない。
 荷物ももたずに消えてしまった。
 
 あいつの友人関係はかなり偏っていた。そしてその誰もがあいつの行方を知らないという。

 そもそもの話、俺との口論の直後姿を消した瀬尾は、荷物も持たず、靴すら履き替えていなかった。

 この不自然さは、今まで放置していた。というより、考えるのを避けていた。

 財布も持たず、靴も履かずにどこかにいなくなることの不自然さ。

 誰かの家に転がり込むなら、荷物くらいは持っていくし、靴だって履き替える。

 であるなら、あいつはそもそも、学校から出ていないはずだ。

 可能性として、考えなかったわけじゃない。



555: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:10:57.29 ID:vqWIrf3Zo


 瀬尾がいなくなった日から、さくらは姿を見せなくなった。
 そして再び会ったとき、あいつの様子がおかしかった。

 さくらは、学校のなかで起きることなら、だいたいは把握できているはずだ。

 瀬尾が学校の中でいなくなったとしたら、それをさくらが知っていたとしたら、
 その結果、さくらの様子がおかしくなったとは考えられないだろうか。

 そして俺は、瀬尾がいなくなってから、さくらに瀬尾のことを聞いていない。

「……」

 もちろん、また空振りかもしれない。でも、確認する価値はあるような気がする。
 
 けれど、もしそうだとしたら、俺は……。

「せんぱい」

「……ん」

「なにか、隠してるでしょ」

「……そりゃあね。人には隠し事っていうのがあるものだ」

「せんぱいは、隠し事だらけだけどね」

「どうしてそう思う?」

「そう思われてないと思うほうが、わたしには不思議」


556: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:12:11.54 ID:vqWIrf3Zo


「せんぱい、あのね。ずっと考えてたんだけど……」

「ん」

「せんぱいにとって、青葉先輩って、なに?」

「……」

 なに?

「なにって、どういう意味?」

「べつに、そのままの意味。友達なのか、それとも、べつのなにかなのか」

「べつのなにかってなんだよ」

「わからないけど……」

「俺は、自分にとって誰かが何かなんて、考えたことないよ。真中のことだって、何って言われたら言葉に詰まるし」

「そうかもしれないけど……」

 話の途中で、俺の携帯が鳴った。


557: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:12:38.44 ID:vqWIrf3Zo

「電話?」

「ああ。ごめん」

「ん。どうぞ」

 断ってから携帯を取り出して画面を見ると、ちどりの名前が表示されていた。

 俺は少し考えてから、結局すぐに電話に出る。

「もしもし、隼ちゃんですか?」

「俺の番号なんだから、そりゃ俺が出るだろう」

「そうですよね。今平気ですか?」

「……まあ、一応」

「あ。そうですか。あの、このあとって空いてますか? 今晩なんですけど」

「は? ……まあ、べつに平気と言えば平気だけど、何の用事かによる」

「晩御飯。うちで食べましょう」

「なんで?」

「えっと、お父さんとお母さんが……あ、隼ちゃんの家にはもう電話してて、あと隼ちゃんだけなんですけど」

「ごめん、おまえが何言ってるのかわかんない」



558: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:13:07.14 ID:vqWIrf3Zo


「あ、そうですよね。えっと、怜ちゃんが」

「れい?」

「はい。帰ってきてて、それで、みんなで……」

 れい。怜。

「それで、隼ちゃんも……」

 俺はとっさに電話を切った。

 驚いたみたいな顔で、真中が俺を見上げる。
 それ以上に俺の方が驚いていた。

「切っちゃった」

「……どうしたの?」

「……ううん」

 べつに、切る理由なんてなかったはずなのに、とっさに切ってしまった。
 どうしてだろう。

「……今日はもう帰った方がいいかもね」と真中が言った。

 帰りたい、でもなく、帰った方がいい、と。


559: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/27(月) 00:14:02.73 ID:vqWIrf3Zo

「どうして?」

「気付いてないの?」

「……なにが?」

「せんぱい、顔、真っ青だよ」

 ……真っ青。
 たしかに、さっきから、『音』がいつもよりひどい。頭まで、痛くなってきたような気がする。

「……ん。かもしれない」

「うん。今日は土曜日だし、帰って休むといいと思う」

「そうだな。今日は少し……疲れたな」

「うん。……気をつけて帰って。なにかあったら、連絡ちょうだい」

「そうするよ」

 なにかって、なんだろう? そう思ったけど、詳しくは話さなかった。


564: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:26:33.50 ID:lovbCZeKo




 それで、真中とは駅ビルの入り口で別れてしまった。

 ひとり取り残されて、俺はどうしようかと迷っている。
 
 バイトはない。用事はもちろん、どこにもない。ちせも帰ってしまった。
 今日は土曜日。明日は日曜でバイトがある。

 ちどりからの連絡のことを思い出す。
 突然切ってしまったが、掛け直してはこないみたいだった。

 雨は徐々に強くなっていく。俺は建物の軒先で広場を打つ雨のしずくを眺めている。

 空からそそぎ地面を濡らす幾つもの線を眺めている。

 切り取られた絵画のように、何気ないスナップのように、景色が他人事めいて綺麗だ。


565: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:27:18.16 ID:lovbCZeKo


 ――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。

 ――巻き込んで、ごめん。

 ――ちどりを助けて。

 ――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。

 ……怜。
 どうして、このタイミングで、怜が帰ってくるんだ?

 まるで、なにもかもが仕組まれた舞台みたいだ。
 すべてが繋がり合おうとしているみたいにさえ思える。

 あの日の、あの場所に、俺は閉じ込められたままなんだと、教えようとしているみたいに。

『暗闇はどこにでもある。
 暗闇はいつもそこにある。
 足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある』

 ――音は、まだ止まない。あなたがそれを止めようとしないかぎり、止まない。



566: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:28:02.60 ID:lovbCZeKo





 泉澤 怜について説明することは難しい。

 外的な状況を並べ立てることは簡単だ。
 
 たとえば、俺とあいつは小学校の同級生で、ちどりと俺と怜は、いつだって一緒に遊んでいた。
 幼馴染と呼んでも、たぶん問題ない関係だろうと思う。

 あいつは中学に上がると同時に転校してしまって、一応連絡先は知っているけれど、卒業以来顔を合わせたことはほとんどない。
 
 俺は怜のことを親友だと思っているし、怜もたぶん俺のことをそう思ってくれていると思う。
 
 怜は頭が切れて、物知りで、柔和で、鈍いのに鋭い、自信家で、でも弱くて、強がりで、バカで、そのどれもがどうしてかスマートだった。
 
 言うなれば、あいつは探偵で、俺はその助手だった。

 小学校の頃、学校はあいつのためにしつらえられたひとつの舞台装置のようだった。

 あらゆる謎、あらゆる悩み、あらゆる失せ物、あらゆる困難が、怜のもとを訪れた。
 そして、怜はそのひとつひとつを払いのけるように解決してみせた。

 謎のあるもの、ないもの。

 それはたとえば花壇の花がなぜか枯れてしまう理由であったり、
 あるいは動物小屋から抜け出したうさぎの行方であったり、
 あるいは女の子が失くした筆箱のありかであったり、
 あるいは図書館から本を盗む生徒に隠された事情であったり、
 あるいは新任教師に降り掛かった人間関係の悩みであったり。
 

567: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:29:07.32 ID:lovbCZeKo


 怜は人助けを好んだ。
 
 誰かのためになること、誰かの助けになること、誰かを楽しませること、誰かをもてなすことを好んだ。

「たぶん、ぼくはそういうのが好きなんだ」と怜は言っていた。

「誰かのためになること、そうすることで満たされるんだ」

 その感覚は俺もわからないでもなかった。わからないでもないはずだった。
 だからこそ、俺は怜と一緒にいることを苦にしなかったのだと思う。

 あの日、怜があの場所に行こうとしたときだって、俺はべつに止めなかった。
 
 六年前の五月、俺たちは、俺たちは、神さまの庭に迷い込んだ。
 あれが白昼夢でないのなら、たぶん。

 そして、そのときからずっと、俺の視界は、二重になった。
 はっきりと見えるときもあれば、忘れられるくらいにおぼろげなときもある。

 葉擦れの音も、またそうだ。
 うるさいくらいに響くときもあれば、冗談みたいに静かなときもある。

 けれど、止まない。消えない。

 あの日からずっと。

 ……“神隠し”。

 誰がそう言ったんだっけ。
 

568: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:30:05.05 ID:lovbCZeKo

 一応、純佳にだけ連絡をしておこうと思い、携帯を開く。
 見ると、すでに何件かメッセージが届いていた。

「今日はちどりちゃんの家で夕飯をいただきます。私達はもう向かっているので、兄は直接来てください」

 ……ずいぶん早く集まるらしい。怜が来るとなれば、当然といえば当然だろう。
 あいつとも、一応家族ぐるみの付き合いだった。

「少し遅くなる」と連絡をする。とはいえ、まあ、夕飯時までには間に合うはずだ。

 遅くなる、とは言ったものの、どこにいくという宛てがあるわけでもない。

 とりあえず近くの商業ビルに入っていろいろと眺めてみるが、何か見つかるわけでもなかった。

 本屋に入って手慰みにカポーティの「夜の樹」を手にとってみたけれど、頭には入ってこない。

 俺は、その事実に、ひどく混乱した。

 予兆はあった。葉擦れの音が大きくなって、二重の風景がぶれ始めることが多くなった。
 それが今日、臨界点を超えた。
 
 ――またこれだ。

 他の本ならどうだろうか?

「嘔吐」は? 「人間の土地」。「星の王子さま」。「曙光」。ダメか。「自由からの逃走」。駄目だ。

「羊をめぐる冒険」ならどうか? 「コインロッカーベイビーズ」は?

 じゃあ「オラクル・ナイト」はどうだ? 「芝生の復讐」は?
「人間椅子」なら? 「砂の女」は?
 
 駄目だ。

「容疑者Xの献身」。「ラッシュ・ライフ」。「レベル7」。「キッチン」。

 駄目だ。


569: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:30:34.27 ID:lovbCZeKo

 小説や思想書だけじゃない。戯曲もノンフィクションも、写真に添えられただけの詩も、芸能人の暴露本も、よくあるビジネス書でも同じことだ。
 絵本や児童書でさえそうだ。一冊の本を読み切れる気がまったくしない。

 なにひとつ、頭に入ってこない。

 どのような文章も、どのような一節も入ってこない。頭の中で像を結んでくれない。
 
 どれだけ丁寧に意味を拾い上げようとしても、頭の中に残ってくれない。
 接続詞を挟んだ瞬間に、その前の語句を忘れてしまう。綺麗に頭の中から消え失せてしまうみたいに。

 おそろしいほど、集中できない。……こんなことが、よくある。
 原因は、わかっているといえばわかっているし、わかっていないといえばわかっていない。

 葉擦れの音のせいだと、思うことにしている。

 今日は、キツい日だ。

 いままでで一番かもしれない。

「虞美人草」も「パンドラの匣」も駄目だ。

 勘弁してくれよ、と俺は泣きたい気持ちになる。こんなことがあるたびに冷静でいられなくなる。

 どうしていつもこうなんだ?
 どうして俺はひとつの文章を読むことも満足にこなせないんだ?

 何かを楽しむことがどうして出来ない?

 どうしてこんなふうにすぐに何もかも駄目になってしまうんだ?

 偽物なのも、なにもないのも、俺の方だ。


570: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:31:00.40 ID:lovbCZeKo


 本棚から一冊抜き出して、開き、すぐに戻す。別の棚に向かい、また同じことをする。
 何度も何度も同じことを繰り返す。

 どれだけやったところで駄目だった。
 
 もう、俺はどんな文字も受け入れることができない。
 
 ひょっとしたらこの先ずっとこうかもしれない。もう二度と本を読むことができないかもしれない。

 そんな不安が頭の中を支配する。一度その不安に気付くと、今度はそれがあたかも事実であるかのように感じる。

“俺はもう二度と文章を読むことができない。”

 頭を振って、いま、目の前で起きていることを認識し直す。

 冷静になれ、俺は本屋に立っている。本棚の前に立っている。それだけだ。それ以外、なにも起きちゃいない。

 いったいどうしてこんなざまになったんだ?

 動悸がいつになく烈しい。
 呼吸が浅くなっている。自覚はある。

 でも……でも、どうにもできない!

“どうしてこんなありさまになるんだ?”


571: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:31:37.82 ID:lovbCZeKo


 本を置き、視界をととのえるためにまばたきをする。

 目にうつる本棚に立ち並ぶ背表紙の文字列は、すでに意味を失っていた。
 それは何かの影のように平面上を這いうねっているだけのように見える。

 急に体の力が入らなくなるのを感じる。
 かろうじて立っていることだけはできる。立っていることだけは。

 けれど、歩き出すためには、もう少しだけ力が必要になる。

 折れるな、と俺は思った。“折れてはいけない”。立ち上がれなくなる。それはまずい。

 呼吸をゆっくりと、ゆっくりと、呼吸を。そして、何も考えるな。
 
 いいか、崩れ落ちちゃいけない。今崩れ落ちたところで、“誰も助けてなんてくれない”。

 そう考えた瞬間、ひときわ強い風が“向こう”で吹き抜けて、木々の梢を揺らしたのが分かる。

 いけない。持っていかれては、いけない。

 保て。
 維持しろ。
 甘えるな。

 誰もおまえを“助けてなんてくれない”んだ。

 ゆっくりでいい。
 取り戻せ。
 落ち着け。
 大丈夫だ。
  
 なあに、たいしたことじゃない――こんなことは、今までにだってあった。

 

572: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:32:08.24 ID:lovbCZeKo

 しっかりとした感覚を取り戻すまでに、十分ほどそこで立ち尽くしていなければならなかった。
 さっきまでの眩暈のような感覚は、ようやく落ちついてくる。

 けれど、ふたたび本を読めるかどうか試そうという気分にはなれなかった。
 
“誰も助けてなんてくれない”という言葉が頭の中でまだぐるぐると響いている気がする。
 だから俺は立っていなければいけない。ひとりで。

 本屋を出て、溜め息をつく。どうにか難所は切り抜けた。
 しばらくは、本を読もうなんてしないほうがいいだろう。

 なるべく、気分をゆっくり休めなきゃいけない。一度こうなったら、しばらく映画も漫画も何もかも無理だ。
 からだが受け付けない。

 胸焼けのような気分の悪さが喉の奥の方でつっかえている。

 歩くとひどくなりそうで、店を出て少ししたところで立ち止まり、壁にもたれて休んだ。

 大丈夫、さっきまでよりだいぶマシになっている。たぶん、無事に帰ることができる。

 不意にポケットの中で携帯が鳴動した。

 救いを求めるような気持ちで画面を見ると、ただのニュースアプリの通知だった。

 ――吐き気がひどくなる。

 誰もいない。なにもない。


573: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:32:34.72 ID:lovbCZeKo

 ポケットにしまい直したところで、ふたたび振動があった。

 画面をつけるが、何の通知もない。念の為メッセージアプリを確認するが、やはりなにもない。

 ファントムバイブレーションシンドローム。
 うんざりする。

 誰もいない。なにもない。もう一度言い聞かせる。

 そこで、もう一度携帯が震えた。

 ただのメールマガジンだ。
 
 俺は瞼をぎゅっと瞑った。

 理解している。

 いいか、“誰も助けてなんてくれない”んだ。

 ふたたび瞼を開けると、画面にメッセージの通知が来ている。


574: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/28(火) 23:33:03.13 ID:lovbCZeKo

「薄情者」

 と一言。

「……」

 落ち着け。
 縋り付いてはいけない。
 浮足立ってもいけない。

 とりあえず、内容を確認する。

 ましろ先輩からだ。

「なんだか妹がひどく落ち込んだ様子で帰ってきたのですが」
「何をしたのですか」
「薄情者」

 ……妹。

 ああ、そうか。ちせだ。

「落ち込んでいましたか」

 少しだけ考えて、俺はとぼけることにした。

「きみが何かしたの?」

「いいえ。心当たりはないです」

「そうですか。後輩くんも女を泣かせるようになりましたか」

「人聞きが悪い」

 少し待ったが、そこで返信が途絶えた。俺は携帯をポケットに入れ直し、深呼吸をする。
 さっきまでと比べてどうか? ……いくらかはマシだ。

 さて、と俺は思う。

 ……いつもどおりに振る舞わなければ。


582: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:53:05.24 ID:3ChOeyxUo



 鴻ノ巣家は俺の家の真ん前にある。
 郊外住宅地の狭くて見通しの悪い路地を挟んで、ちどりの家は俺の家に背中を向けている。

 昔はずっと仲が良くて、今もこんなに近くに住んでいる。
 それなのに、中学を卒業して別々の高校に通うようになってから、俺はちどりとほとんど会わなくなった。

 たまに『トレーン』にでも出向かない限り、皆無と言ってもいいだろう。
 
 彼女ができた俺に気を使って、ちどりが一緒に通学したりするのを避けようと言い出したのが一番の理由だ。
 それだってもはや、バカバカしいという気持ちもないではない。

 鴻ノ巣家の門の前に立つと、賑やかな笑い声が響いてきた。

 辺りはまだ雨が降っていて、俺は自分がマッチ売りの少女にでもなったような気分だった。

 自己憐憫はよくない。

 少しだけ迷ってから、インターフォンを押した。以前ならそんなことはしなかったけれど、今は今だ。

「はーい」

 中からすぐに声が返ってくる。なぜだかドキドキする。

 こんなこと、昔はなかったけど、頻繁に会わないことに慣れすぎたかもしれない。

 でも、その声がちどりだと、やっぱりすぐに分かった。



583: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:54:13.01 ID:3ChOeyxUo

「あ、隼ちゃん」

 ちどりは相変わらずのほわほわした顔で、ドアを開け放した姿勢のまま俺に笑いかけた。
(その表情が、いま、ほんの少し、他の誰かのものとダブる)

 高校の制服のうえに、水色のエプロンをつけて、髪をサイドにまとめている。
 くるりとした毛先を乗せた鎖骨がほんの少しだけ目に毒だ。

「やあ」

 俺が棒読みで挨拶すると、彼女はちょっと不満そうに眉を寄せた。

「どうして急に電話切ったんですか?」

「いや、謎の衝動に襲われて……」

「……それは大変でしたね?」

 よくわからないことでも、深く追及しないまま適当に返事をできるのが、ちどりの美徳と言えば美徳だろう。

「怜、来てるの?」

「来てますよ。みんな揃うの、久々ですね」

「そうだね」

 俺はやっぱり、自分で分かるくらいの棒読みだった。


584: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:54:39.67 ID:3ChOeyxUo

 招かれるままに玄関に入ると、靴がこれでもかというほどたくさん並んでいた。
 うちの家族ももう来ているらしい。
 
「急に呼び出してすみません」

「いいよ。どうせうちの親父あたりが無理やり呼ばせたんだろ」

「ううん。怜ちゃんが会いたがったんです」

「怜が? 俺に?」

 まあ、べつに意外でもないか。久し振りだし、友達は友達だ。

 ちどりはスリッパで文字通りスリップしながらダイニングの扉を開けた。
 その仕草に懐かしさのような感慨を覚える。

 俺が顔を覗かせると、「遅い!」と怒鳴り声が聞こえた。

 大きめのダイニングテーブルを囲んで、大の大人四人と子供二人がオードブルに舌鼓を打っていた。
 大人たちはもう酒が入っているらしい。まだ六時も回っていないのに気が早いことだ。

「怜が久々に帰ってきたっていうのにどこほっつき歩いてたんだ! それでもおまえ俺の息子か! おまえそれでも人間か?」

 酔っぱらった顔で怒号を飛ばした親父を見て、俺はげんなりした。
 怜、と呼び捨て。ほとんど自分の子供みたいな言い方だ。

 自分の息子ともほとんど顔を合わせていないというのに、たいした親だ。

「我が子になんて言い草だよ」

 適当に受け流しながら、俺はダイニングテーブルの隅の方にスペースを見つけて座った。
 ちどりはすぐにコップと飲み物を用意してくれた。


585: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:55:06.33 ID:3ChOeyxUo

 俺とちどりは、家が近く、それぞれの両親の親交が深かった関係で、ほとんどきょうだいみたいな育てられ方をしていた。

 怜は中学に上がるまで近くに住んでいて、家が近かった関係で仲良くなった。
 そこに純佳が加わって、四人でよく遊んだものだ。

 親が今みたいに多忙になる前には、バーベキューもしたし、サッカー観戦にも行った。
 水族館にも行ったし、動物園にも行った。

 夏休みの自由研究は共同でやったりみんなで協力したりしたものだ。
 
 俺がそうしていたように、怜もまたちどりに五百円硬貨を握らせて読書感想文を書かせていた。
 バレるのはいつも俺で、怜は上手くかわしていたっけ。

 ちどりの両親と俺の両親は、酒が入ってもうだいぶ気持ちよくなっているらしい。

 料理や飲み物はちどりがひとりで回していた。

 昔からかわらず損な立ち位置だとは思うが、手伝おうとも思わない。
 好きでやっているから気にしないでと遠慮されるのがオチだ。



586: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:55:51.26 ID:3ChOeyxUo

 怜は純佳の隣に座っていた。
 久し振りにみても、やっぱりほとんど変わらない。前と同じ、綺麗な、不思議な表情。

 この表情が、怜の魅力なんだろうと思う。
 底知れない、意味深な、けれどなぜか親密さを感じさせるような、笑み。

 怜は、こっちを見上げて、俺に笑いかけてきた。

「久しぶりだね、隼」

「ああ。……おかえり、怜」

「うん。ただいま、だ」

 怜の声は、ざわめきのなかで役者みたいにすっと俺の耳に届く。
 よく馴染む、前と変わらない、人を安心させる声だ。

 純佳は、どうしてだろう、ほんの少し居心地悪そうに、オレンジジュースを飲みながら、俺と一瞬だけ目を合わせて、黙った。


587: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:56:38.78 ID:3ChOeyxUo

 親父たちは俺の存在なんか忘れたみたいに酒を飲むのを再開した。

「隼ちゃん、すぐにごはん用意しますね」と、ちどりだけが俺のことを気遣ってくれる。

「どうしたんだ。ずいぶん急だったよな?」

「うん。まあ、ちょっといろいろあってね」

「いろいろって?」

「それはまあ、あとで話すけど……」

 怜は、前と同じように――ああ、俺が羨ましかった表情だ――少し意味深に唇を歪めた。

「少し、気になることがあったんだ」

「気になること?」

「うん。隼にも知恵を貸してもらいたいんだ」

「……知恵?」

 怜が、俺の知恵?

 皮肉か、とか思ってしまうあたり、やっぱり俺はだいぶひねくれてしまったんだろう。
 こいつが俺の知恵なんて必要とするとは思えない。

「隼ちゃん、けっこうお腹空いてますか?」

「まあ、割と」

「いまあるので足ります? いろいろ買ってきてあるんですけど」

「あ、うん。……あ、自分でやるよ」

「いいです。隼ちゃんはお客さんなんですから」



588: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:57:05.66 ID:3ChOeyxUo

 とりあえず俺は怜の隣に腰掛けた。親父たちは騒いでいたけれど、たぶん無視しても問題ない。
 
「彼女ができたんだって?」

「あれ、言ってなかったっけ。……中学のときだけど」

「聞く機会がなかったじゃないか。上手くいってるの?」

「いや。いまいち」

「ふうん」

「怜は、そういうのないの?」

「ぼく? うん。そうだな。ぜんぜん」

 ぜんぜん、と怜はへらへら笑った。

「猫は元気?」

「猫?」

「ほら、ちどりと拾ってきた猫。飼ってただろう」

「死んだよ」

「そっか。……学校はどう? 文芸部だって?」

「おまえは俺の親戚かなにかか」

「そう冷たいこと言わないでよ。ひさびさに会って、何話したらいいかわからないんだ」

 怜は首を軽く揺すって、短い髪をさらりと揺らした。そんな仕草さえ絵になる。


589: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:57:51.68 ID:3ChOeyxUo

 はい、とちどりが俺の前に食器を運んでくる。

「ありがとう」

「いえいえ。たんと召し上がってください」

 ……どういう返事をすればいいんだ? 

「ちどりも座れば」

「あ、はい」

 と言って、エプロンを外すと、俺の隣に腰掛けた。

「みんな揃うの、ひさしぶりですね」

「だな。ちどり、何飲む?」

「あ、いいです。自分でやります」

「そう言うな」

「あ……じゃあ、オレンジジュースを」

「はい」

 グラスに注いでジュースを渡すと、ちどりは両手で受け取って、「ありがとう」と笑った。
 変なやつだ。文句のひとつくらい言ってもバチはあたらない立場なのに、平然としている。

 こういうところで、ちどりと怜は似ている。損を損と思わないところが。


590: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/29(水) 22:58:21.18 ID:3ChOeyxUo


「兄、今日はどこに行ってたんですか」

 怜を間に挟んで、純佳がそう声をかけてくる。

「駅の方」

「駅? どうして?」

「ちょっと約束があって」

「……柚子先輩?」

「……」

 沈黙が答えになってしまった。

「少しな」

「柚子先輩って?」

 怜が口を挟んだ。

「兄の彼女です」

「なんだ、いまいちとか言って、ちゃんとしてるんじゃないか」

「ちゃんとってなんだよ。べつに、本当に用事があっただけだ」

「ふうん」と、ちどりが息をついたのが少し意外で、三人が揃ってそちらを見た。

 ちどりは面食らったような顔をして、「なんですか?」と言う。

「べつに」と、今度は俺がごまかす番だった。


596: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:11:00.81 ID:iV0fsKbVo




 馬鹿騒ぎのあと、うちの家族がいよいよ帰るという段になった。
 純佳は途中で眠ってしまったけれど、起こされればちゃんと起きて、帰り支度をはじめた。

 少し怜と話してから帰る、というと、三人は俺を残して先に帰ってくれた。

 ちどりの父親は眠くなったのか、さんざん楽しんで満足したのか、おぼつかない足取りでダイニングを出て行った。
 自室に戻って眠るのだろう。

 ちどりとちどりの母親が片付けを始めたのを見て、俺と怜はそろってそれを手伝った。
 誰が散らかすわけでもないけれど、大勢でひとつのテーブルを囲むと、どうしても汚れてしまうものだ。

 誰かがそれを片付けなきゃいけない。当然だ。

「ごめんなさい、ふたりとも、手伝ってもらって」

 ちどりの母親は恐縮そうにしたけれど、むしろ恐縮がるのは俺の方だった。

「いや、人様の家を散らかして片付けもせずに帰ったうちの家族の方こそ、すみません」

「それはいいの。うちだって楽しいんだから」

「はあ」

 そういうもんなのか。そういうもんなのかもしれない。

 結局、俺ひとりで他人行儀になったって仕方のない問題だ。


597: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:11:35.27 ID:iV0fsKbVo

 片付けを終えると、ちどりが俺と怜に麦茶を出してくれた。

 オードブルの食べすぎて胸焼けしていたけれど、よく冷えた飲み物をすんなりと俺の喉を通り過ぎていく。

 俺たちはさっきまで賑やかだったテーブルを挟んで、ちどりが洗い物をする音を聞きながら話をはじめた。

「……隼、背が伸びたね」

 麦茶のグラスに入れられた氷がからんと鳴った。
 来る前の妙な緊張なんてはじめからなかったみたいに、俺は落ち着いて怜と向かい合っていられる。

 こういう相手だからずっと一緒にいられたんだろう。

「怜だってそうだろう」

 俺は肩をすくめた。こんな会話、よく知った同士でするのはどうも面映い。

「まあね。といっても、もう止まっちゃったみたいだけど。でも、隼が文芸部っていうのは意外だな」

「そうかな。……そうかもしれないな」

「うん。いや、どうだろう。意外なところが、隼らしいかもしれない」

「褒めてる?」

「ぼくは隼のこと、いつも褒めてるつもりだけど」

「怜に言われると、あんまりそういう気がしないんだよな」

「それはぼくに対して失礼だね」

 テーブルに両肘をつけたままの姿勢で、怜は静かにコップを持ち上げて、ほんの少しだけ麦茶を口に含んだ。
 その喉が鳴るのを眺めながら、俺は溜め息をついた。相変わらず、遠回しな喋り方をする奴だ。


598: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:12:01.00 ID:iV0fsKbVo

「それで?」

 と訊ねると、怜は首を傾げた。

「というと?」

「あのな。さっき自分で、知恵を貸してほしいって言ってただろ」

「ああ、その話」

 すっかり忘れていた、というように、怜は肘を机から離して姿勢を正す。

「うん。ちょっぴり厄介な問題かもしれないんだ。説明が難しくてね、だから、うん。曖昧な話になるかもしれないけど……」

 怜が言いにくそうに口を歪めるのを、俺は意外な気分で見ていた。
 でも、考えてみれば、こいつが俺に相談ごとを持ち込むときは、だいたいこんな具合だったような気がする。

 怜の場合は、問題の解決に他人の知恵を借りる、ということがほとんどない。
 自分で判断し、自分で実行する。他人の手を借りるにしても、そのことを躊躇したりはしない。

 だから、こいつが相談を持ちかけてくるときは、大抵、問題の解決の方法がわからないというよりは、何が問題なのかが自分で分からないときだ。


599: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:12:27.83 ID:iV0fsKbVo

 以前にもたしか、似たような相談をされたことがあった。
 そのときは確か、誰かに告白されたけど、どうしたらいいかわからない、という話だった。

 その告白をどう処理すればいいのか、ではない。
 その告白がいったい何を意味していて、それがどうして自分の身に起きたのかがわからない、というような。
 
 こいつは前提が不足しているときにばかり悩むのだ。

「ずいぶん持って回った言い方をするな」

 そういうときにいつもしてきたような言い方で、俺は怜に続きを促す。

「単刀直入に頼む」

 ああ、うん、と、怜は頷いて、それからちらりと流しで洗い物をしていたちどりの方を見た。

 俺は立ち上がる。

「ちどり、悪いけど、少し散歩してくる」

「あ、もう帰りますか?」

「ああ、うん。どうしようかな」

「すぐ戻るよ」

 そう答えたのは怜だった。


600: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:13:46.79 ID:iV0fsKbVo

 怜がそういうのなら、すぐ済むのだろう。俺は言葉を付け加えた。

「ついでにアイスでも買ってくるよ。何がいい?」

「あ、えっと、じゃあ、隼ちゃんに任せます」

「了解」

 軽く頷いてから、俺と怜は玄関に向かった。

 外に出ると、空には星が頼りない光で浮かんでいた。
 昼間はうっとうしいくらいに主張していた熱気はもう掻き消えていて、今はひんやりとした冷気が火照った肌に心地いいくらいだ。

 藍色の空を見上げながら、ぼんやりと物思いにふけりたくなるけれど、今は残念ながらそういうタイミングではなさそうだ。

「少し涼しすぎるね」

「昼間の雨で気温が低かったからな。油断してると風邪でも引きかねない」

「そうだね。でも、アイスを買ってこなきゃ」

「まあ、そうだな」

 そのまま俺たちは目も合わせずに歩きはじめた。
 コンビニまでは五分とかからない。住宅地を抜けて道路を渡ったらすぐだ。


601: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:14:30.49 ID:iV0fsKbVo

 いまさらもう、怜を促したりはしない。
 
 今はきっと、自分の言葉を頭のなかでまとめているんだろう。
 どう説明したらいいか、何から話せばいいのか。 

 俺の知っている怜はそういう人間だ。

 半端な状態では、あまり言葉を吐かない。それがまるで恥ずかしいことみたいに。

 交差点の横断歩道の前で信号待ちをする。

 向かう先にコンビニ、少し離れてガソリンスタンド、通りの反対側には飲み屋と、少し先には焼肉屋がある。

 でも、人通りなんてかすかで、行き交う車もほとんどない。並ぶ店のおかげで明るいけれど、それにしては静かなものだ。

 道路越しにコンビニを見ると、軒先のあたりで何人かの若者がたむろしている。
 知り合いはいないようだ。このあたりの人ではないのかもしれない。


602: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:14:56.87 ID:iV0fsKbVo

「隼、少し突拍子もない話なんだけど、聞いてくれるかな」

 やっとか、と思いながら、俺は返事をした。

「聞くには聞くよ。うまく期待に沿えるとは思えないけどな」

「うん。助かる」

 ほんのすこしだけ、怜が安堵したように肩の力を抜いた。

 いくらか緊張したらしい。まさかここまで来て、俺が話を聞かないと思っていたわけではないだろうが。

 一度深呼吸してから、怜はまっすぐに歩行者信号を見つめながら口を開いた。

 俺は横目で怜の方を見ていたけれど、目を合わせることをおそれるみたいにこっちを見てくれない。

「どこから話せばいいか、わからないんだ。でも、とにかくひとつひとつ話そうと思う。信じてもらえるか、わからないんだけど」

「前置きが長いな。おまえの話なら、俺は疑わないよ」

 怜は照れくさそうに笑った。

「たぶん、隼は疑うよ。でも、それでいいんだ。ぼくだって本当は疑ってる」

 こいつは未だに、自分のことを「ぼく」と呼ぶんだな、と、そんな場違いなことをいまさら考えながら、俺は続く言葉を待った。

 不意に怜は顔をあげ、こちらを見た。

「ねえ、隼。……瀬尾青葉さんという人を、知ってる?」


603: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:15:30.34 ID:iV0fsKbVo

 俺は思わず反応できなかった。

 どうして怜の口から、彼女の名前が出たのか、それがわからない。

 でも、その説明は、いまからされるんだろう。
 話をすすめるために、俺はひとまず疑問を飲み込んで頷いた。

「知ってる」

 怜は何かをたしかめるみたいに頷いた。

「うん。そうだよね。そうじゃなかったら、筋が通らない。じゃあ、もうひとつ質問。その瀬尾青葉さんって、今はどうしてる?」

 俺は少し考えてから、口を開いた。

「……そこまで言われると、さすがに質問の意図が気になるな。怜、どうして瀬尾を知ってる?」

 そうだね、と静かに頷くと、怜は視線を前方に戻して、何かに気付いたように声をあげる。
 思わず視線の先を追いかけると、歩行者信号の青が点滅している。どうやら気付かないうちに青に変わっていたらしい。

 俺たちは顔を見合わせて、その場にとどまった。


604: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:20:00.31 ID:iV0fsKbVo

「それで?」

「……うん。ちょっとした事情でね。瀬尾青葉さんの持ち物を、ある場所で拾った」

「持ち物?」

「うん。学生証なんだけどね」

「……そうか。どこでだ?」

「……」

「どうして嘘をつく?」

「嘘って?」

「学生証を拾ったなんてことは、ありえない。瀬尾は、荷物ひとつ持たずにいなくなった。鞄も財布も、靴さえも履き替えずに」

「……」

「身一つでいなくなった奴が、学生証なんて持ってるわけないんだ。……なあ、怜。どこで瀬尾のことを知った?」

 俺は、静かに答えを待つ。怜の返事は、なかなか返ってこない。


605: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:20:38.20 ID:iV0fsKbVo

「信号、青だ」

 そう声を掛けてから、俺は怜の背中を押す。

 コンビニの入り口を抜けるとき、軒先の若者たちがぼんやりとした視線を少しだけ俺たちに投げつけてきた。
 べつにおかしなところなんてないはずだが、まあ、単に視線が何か対象を求めていただけだろう。

 俺だって何気なく彼らを見ていた。

 俺たちはいくらか余分にアイスを買った。

 レジからの帰り際、俺は頭をさげ、怜は「ありがとうございました」とにこやかに言った。
 店員も怜ににこやかに頭をさげた。こういうところだ。

 ビニール袋を提げて、また信号待ちするハメになった。今度は軒先の彼らとは目が合わなかった。

 怜は、少し思い悩むような素振りを見せたあとに、スキニージーンズのポケットに手を突っ込んで、
『それ』を取り出して、俺に差し出した。

「……」
 
 受け取って、俺はめまいがした。

 それは、瀬尾青葉の学生証だった。

 学校名、氏名、クラス、学籍ナンバー、生年月日。全部、瀬尾のものだ。

 ……顔写真が、

 顔写真の部分だけが、刃物かなにかで刻んだみたいに傷つけられていて、確認できない。


606: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:21:08.15 ID:iV0fsKbVo

「拾ったんだ」

「どこでだ」と俺は繰り返した。

「……落ち着いて聞いてくれるかな。ここからは、たぶん、少し混乱すると思うから」

 赤信号。赤信号が変わらない。

「……たぶん、隼は怒るだろうな」

「らしくない。……言えよ。怒ってやるから」

 怜は笑った。諦めたみたいな笑い方だった。

「“むこう”で拾った」

「……」

「“森”だ」

「……」

 一瞬、言葉を失っただけで、済むかと思った。
 次に、俺は頭が真っ白になり、
 葉擦れの森に風が吹き抜けた。

「――おまえ、行ったのか」



607: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:21:40.70 ID:iV0fsKbVo

 怜は返事をしなかった。

「あそこに行ったのか。怜」

「ごめん、隼。聞いてくれ」

「絶対に近付かないって約束しただろう」

「違う、隼」

「怜、おまえ、忘れたわけじゃないだろうな」

「分かってる。聞いてくれ」

「分かってるのか、怜、全部……」

 全部おまえのせいなんだぞ、と、そう言いかけた自分にハッとして、
(――ちどりを助けて)
 さすがに、続く言葉は吐かなかった。

「分かってる。ごめん、落ち着いて話そう」

 ……そういえば、雨はいつのまに止んだんだっけ?

 そんなことを不意に思い出して、俺は冷静になれた。


608: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:22:13.62 ID:iV0fsKbVo

「……どうして近付いたんだ?」

「違うんだ。隼、ぼくはあそこに近付いていない。第一、ぼくは別の街にいたんだ。分かってるだろう?」

「……」

「違ったんだ。隼なら、気付いていただろう? 入り口は、あそこだけじゃなかったんだ」

「……」

「入り口はある。どこにでもある。無数にある。どこにでもあるんだ」

 そうだ。
 俺だってわかっている。

 暗闇はどこにでもある。
 暗闇はいつもそこにある。
 足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある。

「……六年前のあの日から、ぼくはあの建物には近付いていない。
 でも、ある日、何かの拍子で、本当に、何かの拍子でとしか言いようがない。あの場所にいた」

「……“神さまの庭”にか」

「隼は、そう呼んでるんだな」

「……」


609: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/08/31(金) 00:23:11.50 ID:iV0fsKbVo

「入り口はどこにでもあるんだ。隼に怒られる覚悟はしてた。でも、ぼくは、それを見つけてから、あそこに通ってた」

「よく、帰ってこれたな」

「うん。怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね」

「どうして教えてくれなかった?」

「怒っただろう」

「当たり前だ。でも、おまえがあそこを調べたがることくらい俺にだって分かる。言っておいてくれたら、対策だって打てた」

「ぼくがいなくなってしまえば、隼には必ず連絡がいく。ちどりや隼が、ぼくの行く宛の筆頭だからね。
 もしそうなれば、隼ならすぐにあっちを連想しただろう。ちどりは、わからないけど」

「……」

「信号、青だ。……アイスが溶けちゃうね。行かないと」

「……それで?」

「……うん。このあいだ、向こうで、それを拾ったんだ」

「あっちで、か」

「そう」

 あっち。
 あそこになら、そうだな。ありえる。

 あるはずのない学生証が落ちていることも、それが刃物で傷つけられていることも、
 あそこなら、すべてがありうる。

 なにもない。でも、すべてがある。
 あそこはそういう場所だった。

「戻ろう、隼。話の続きは、アイスでも食べながらゆっくりしよう」

 釈然としない思いのまま、俺は怜の言う通りに歩き始める。
 ちどりを心配させるのは、よくない。

 今の俺には、そのくらいしかない。


615: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:12:07.81 ID:8EItq2SLo




「夢じゃないかと思ってたんだ」と、帰り際、俺は怜に向けてそう言った。

「なにが?」

「あのときのこと」

「……」

「本当は、今でも疑ってる」

「……そうだったんだ」

 含みのある微笑みを浮かべて、怜はそれ以上言葉を続けなかった。

 何もかもが現実感がなくて、そのせいで俺は、覚えているべきなのか、忘れるべきなのかも分からなかった。
 こうして久しぶりに怜と話したことで、それが事実だったんだと理解できる。

 そうじゃなかったら、やっぱり夢だったんだと思っていただろう。

 ちどりは、あのときのことを何も覚えていなかったから。


616: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:13:01.11 ID:8EItq2SLo





 六年前の五月だった。

 当時は、俺も怜もちどりもランドセルを背負った小学生だった。
 そして、その当時、怜は名探偵だった。

 知識と頭の回転を武器に、快刀乱麻に日常の謎に光を当てる、陽の下の存在だった。
 困っている人を捨て置けない正義感と、世界があたたかくやさしさに満ちているべきだという理想を持った善人だった。

 そして、子供らしさのひとつのあらわれとして、自分の優秀さに対する自負心も持ち合わせていた。
 もっともそれは、怜の魅力のひとつにすぎなかったように思う。

 そのほんの少しの思い上がりは、他の面で大人びていた怜を子供っぽく見せて、むしろ親しみすら湧いたくらいだ。
 第一、自負といっても、他人を見下すような態度をとっていたわけでもないのだから。

 世知に長けているわけではなかったにせよ、怜の自負にはかわいげがあった。
 それを帳消しにするくらいの愛想と愛嬌があった。

 だから、怜はめったに人に嫌われなかった。
 けれど人間というのは複雑な生き物だ。

 嫌われないような人間だからこそ嫌われるということがある。

 五月に起きたのはそういうことだ。


617: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:13:38.73 ID:8EItq2SLo



「ねえ、隼。丘の上に公園があるだろう」

 六年前の五月のある日の放課後、俺は怜にそう話しかけられた。

「あそこに、涸れた噴水があるって聞いたことある?」

「噴水?」

「なんでも、木立の奥に隠れてるんだって聞いたんだけど」

「いや……知らない」

 ふむ、と怜はわざとらしく唸ってみせた。

「それがどうしたんだ」

「……シマノがね。そこで落とし物をしたっていうんだ」

「……落とし物?」

「そう。代わりに探してきてほしいって頼まれた」

「……シマノだろ。放っておけよ」



618: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:14:08.74 ID:8EItq2SLo

 シマノというのは、当時、俺や怜につっかかってくることが多い男子だった。
 特に、何かと注目を集めてみんなに人気だった怜のことは、嫌っていたみたいだった。

 たぶん、僻んでいたんだろう。

「でも、頼まれた」

 そういうときの融通の効かなさは、ある意味では美徳でもあったんだろう。
 それでも俺は呆れた。

「なんでシマノは自分で取りにいかないんだ?」

「それがまた、変な話でね」

 と、怜は言った。

 そうだ。今にして思えば、警告はそのとき既になされていた。

 

619: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:14:44.91 ID:8EItq2SLo


 変な噂があるらしいんだ、と怜は続けた。

 ちょっとした怪談みたいなものがね。
 まあ、漠然としてるんだけど……。

 黄昏時の公園に、
 人の気配が消えたあと、
 涸れた噴水に水が湧き、
 水面に木立の梢が浮かぶと、
 水面の月が静かに揺らぎ、
 ひときわ強い風が吹き抜け、
 鏡を覗く誰かをさらう。

 そんな漠然とした噂だった。

「……どうも、怖いらしくてね」

「……怖い? シマノが?」

 そういう奴じゃない。仮に怖がったとしても、怜に対して、怖いなんて素直にいう奴じゃない。
 俺にはもう、そのときちゃんとわかっていた。
 シマノは、わざと怜をそこに近付けようとしていた。

 からかうつもりで、怜を試すつもりで。
 怜にだって、そのくらいのことはちゃんとわかっているはずだった。


620: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:15:11.48 ID:8EItq2SLo

「悪いんだけど、隼、付き合ってもらえないか?」

「……行くのか」

「うん、まあ、頼まれたから。でも、ほら……」

「……」

「ひとりだと、ちょっと怖くてね」

 素直に言えるのも、怜のいいところといえばいいところではあった。
 けれど、俺は一緒にはいかなかった。

 俺が帰らなければ、純佳がひとりで家にいることになる。
 まずいことが起きるわけではないが、それはなんとなく避けたいことだった。

「悪いけど、行けない」

「そっか。……なら仕方ない」

「落とし物って、なんなんだ?」

「……時計だって」

「時計?」

「うん。お父さんの時計なんだって」

「……そうか」

 そのとき俺は、絶対に怜を止めるべきだった。そんなのはもちろん今だから言えることだ。
 当時は、そんなくだらない、漠然とした噂なんて信じちゃいなかった。
 怜だってシマノの思惑なんてわかった上だろうと思っていたから、それでもいいなら勝手にすればいいと思った。

 せいぜい、「暗くなる前に帰れよ」と言うくらいが関の山だった。
 怜はなまじ自負がある分、当たり前の危機に無頓着なところがあった。

 そうわかっていたなら、やっぱり俺はついていくべきだったのかもしれない。


621: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:15:44.46 ID:8EItq2SLo



 ちどりの家に戻るまでに、そんなに時間がかかったわけではないはずだった。
 袋の中のアイスは溶けていない。ただ、話の内容のせいで少し時間を長く感じただけだ。

「おかえりなさい」

「ごめん。遅くなったね」と怜は言う。

「ううん。ちょうど片付けも終わりましたから。何か飲みますか?」

「ん。……じゃあ、麦茶をもらえるかな」

「隼ちゃんは?」

「ああ、うん。もらうよ」

 ちどりはくすっと笑った。

「どうした」

「いえ、べつに」

 なんだか含みのある言い方だと思ったけれど、追及はしないでおく。

 するとちどりは、勝手に言葉を続けた。

「なんだか、本当に、昔のままだなあって」

 そんなことなんかで、こいつは本当に嬉しそうに笑うのだ。

 でも、そのとき不意に、気付いたことがあった。



622: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:16:15.53 ID:8EItq2SLo

「……ちどり?」

「……はい?」

 名前を呼ぶと、不思議そうに首をかしげる。
 それで違和感は消えてしまった。

 自分でも、その正体がうまくつかめない。

 いま一瞬、ちどりがどこか遠くにいるように感じられた。

 それが何か意味のある感覚なのか、それともさまざまな状況と情報が、俺を疲れさせているせいなのか、わからない。

 ……瀬尾青葉、鴻ノ巣ちどり。

 怜にも、話さないといけないだろう、おそらく。

 買ってきたアイスを三人で食べながら、少しの間、なんでもない話をする。

 それぞれの学校や部活のこと、友人や教師や勉強のこと、家族のことなんかを。

 それから俺たちは、解散した。

 ちどりの前で例の話をすることには当然抵抗があった。
 俺と怜は、あとで改めて連絡することにした。

 馬鹿騒ぎのあとだというだけではなく、三人とも疲れているのはわかっていた。

 ちどりは食事を準備したし、怜はひさびさにこっちにきた。俺は俺で、昼間から混乱し通しだ。
 
 やけに長く感じる、そんな一日だった。


623: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:16:41.94 ID:8EItq2SLo

 家に帰ってシャワーを浴びたあと、いつものようにベッドに横たえる。

 体が眠りたがっているのはわかっていたし、今日は例の音は控えめだった。

 いつのまにか、また雨が降り出していた。屋根を打つ雨音のせいで、やけに考え事がまとまらない。

 俺は起き上がって机に向かい、卓上灯をつけて、置きっぱなしにしてある筆記用具を手にとった。

 考えること、起きたこと、いろいろなことを書き留めていく。


・瀬尾青葉

 と、まず最初に書く。
 
 瀬尾がいなくなったのは五月の半ば頃、部誌が発行された直後だ。
 最後に彼女の姿を見たのは、おそらく俺だ。荷物も持たずに彼女はいなくなった。

 その十日ほど後、五月の末に、彼女からの手紙を大野が発見した。
 こちらから返事を送ると、二枚目の手紙が返ってきた。

 その次に手紙が来たのは数日後のことだった。今のところ、瀬尾からの手紙は三枚ということになる。

 考えなければいけないことを、そのまま並べてみることにする。

(1)瀬尾青葉は今どこにいるのか?
(2)どんな手段で『伝奇集』にメモを挟んでいるのか?
(3)彼女は今、どんな状態なのか?

 ……ひとまず、こんなところだろう。今日瀬尾の家で聞いた話については、考えることはない。
 少なくとも、瀬尾の居所のヒントにはならない。


624: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:17:21.34 ID:8EItq2SLo

 まず、(1)瀬尾がどこにいるのか、という部分。

 誰かの協力を得て、普通に過ごしている、と考えることもできなくはないが、難しい。
 なにより、やはり、『伝奇集』にメモを挟まなければいけない理由がわからなくなってしまう。

 いろいろな情報を統合して考えると、可能性として検討の余地があるものはふたつ。

 まず、瀬尾が──こう考えるのは俺にはひどく苦しいことだが──"神さまの庭"にいる、とすること。

 根拠は、怜が持っていた学生証だけだ。
 けれど、そのひとつが決定的だという気もする。

 瀬尾は鞄ひとつ持たずにいなくなった。学生証は瀬尾の手荷物として部室に残されたままになっていたはずだ。
 もしそうでなかったとしても、怜が"あっち"でそれを拾ったというなら、瀬尾が"あっち"にいるというのは突飛な想像とは言えない。

 もうひとつは、瀬尾が学生証を鞄とは別に持ち歩いていた場合。
 もしそうだとすると、怜が学生証を持っていてもおかしくはない。

 怜が瀬尾をかくまっている、と考えることができるからだ。

 けれど、実際的にそれはありえないことだろう。

 怜と瀬尾は知り合いではないはずだし、やはり『伝奇集』の問題も残る。
 付け加えて、怜が瀬尾をかくまっているのなら、俺に瀬尾青葉の学生証を拾ったとわざわざ報告する理由もない。


625: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:17:52.14 ID:8EItq2SLo


 そうだとすると、やはり、瀬尾青葉は、"神さまの庭"にいる。あるいは、いた。

 それ以外の可能性は、ありえなくはないが、"学生証"があちらに存在することに矛盾する。
 あるいは……"あっち"では、そういうこともありえるのかもしれないが、いずれにせよ、
 瀬尾青葉が、現状何かの形で"あっち"に関わっている可能性は否定できない。

 それは、瀬尾の手紙からも、なんとなく想像ができる。

 湖畔というのは……"あっち"の湖畔のことなのかもしれない。

 次に、(2)『伝奇集』のメモのこと。

 もし、瀬尾が"あっち"にいるのだとしたら、これはあながち謎であるとも言えないのかもしれない。
 あんなおかしな場所があるのなら、その程度の不思議はありえないことでもない。

 ましてや俺は、そうした不思議をいくつか目の当たりにしている。

 さくら。彼女についても、考えたいところだ。

 最後に、(3)瀬尾青葉がどんな状態にあるのか、だ。

 ちせが懸念するまでもなく、状況がよくないのは確かだろう。
 あの場所について、俺は詳しく知っているわけではない、けれど……。

 あそこに長く居たら、きっと、戻れなくなる。それは、なんとなく分かる。


626: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:19:07.47 ID:8EItq2SLo

 そこまで考えてから、俺は(4)を書き足した。

(4)瀬尾青葉を連れ戻すためにはどうすればよいのか?

 怜は言っていた。
「入り口はどこにでもある」。俺もそう思っている。

 けれど、あの中は迷路だ。
 入り口は無数にあるが、その先の空間は必ずしも繋がっていない。

 ……とはいえ、ものは試しだ。やってみる価値はあるかもしれない。
 俺は(4)の横にメモを書き足した。

「← 実際に行ってみる」

 書いてから、重く鈍い痛みが頭の中にのしかかってくるのが分かる。

 ……あとで考えよう。

 こうして書き出してみて、俺がいくつものことをごちゃごちゃとないまぜにして考えていたことがわかった。

 自分のことや、さくらのこと、カレハのこと、真中のこと、……ちどりのこと、怜のこと。
 六年前の五月のこと。

 それは、たしかに、問題だし、今、やけに話に上がってきている。

 けれど、それらは、瀬尾には直接関係はない。

 今は、それについて、すぐさま考える必要はない。


627: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:19:48.03 ID:8EItq2SLo


 肝心なのは瀬尾のことだ。

 他のことは、とりあえずは、考えないほうがいい。
 そのはずだ。

 やれることを、考えてみよう。

 ひとつは、さっきも書いたとおり、直接、あちらに向かうこと。

 怜の手を借りる必要はあるかもしれない。
 けれど、こうなってしまうと、真中やちせを巻き込む気にはなれない。
 協力すると言った手前ちせには申し訳ないが、彼女には伝えないでおこう。

 他にあるとしたら……。

「……」

 見落としていた。

『伝奇集』を使ったやりとりは、まだ行える。
 そこで直接、瀬尾の居場所を本人に聞くことはできるはずだ。

 ……それが、まだ繋がっていれば、だけれど。



628: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/15(月) 19:20:14.76 ID:8EItq2SLo


 困ったことに今日は土曜で明日は日曜。学校の図書室は閉まっている。
 早くても、試せるのは来週だ。

 となると、明日すべきことは……。

 まあ、いい。

 やれることを、いくつか検討してみよう。
 怜の協力を仰ぐかどうかは、またあとで考えよう。

 そこまで考えると、体が一層重くなった。
 
 特別なにかしたわけではないにせよ、今日はひどく……ひどく、疲れた。

 瀬尾を連れ戻すなら、行動をするしかない。

 けれど、と考えてしまう。

 みんな、瀬尾がいなくなったことで、心配している。
 心配させるのは、本意ではないだろう。

 でも……瀬尾は、それさえも気にかけることができないくらい、追い詰められていたんじゃないか。
 そうだとしたら、瀬尾を連れ戻すことは、瀬尾にとっていいことなんだろうか?

 彼女が抱えているものがなんなのか、俺は、かけらさえ知ってはいない。

 それはもしかしたら、六年前の五月、あのときのことと、関係があるのだろうか?
 考えても、たしかめようはない。けれど、考えてしまう。

 無関係、なのかもしれない。でも、何もかもが符号する。

「こんなことってあるんだろうか?」と何度も思った。
 瀬尾の顔を見るたびに、不思議な気分にさせられた。

 彼女の顔は、姿は、鴻ノ巣ちどりに瓜二つなのだ。

 でも、それがいったい、どういうことなのか、俺には、わからない。


634: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:19:44.13 ID:uiZuUIAoo

 どうしても眠る気になれずに、こっそりと家を抜け出した。
 
 六月の夜の風は湿気を多く含んでひそやかに重く肌に張り付く。濡れたアスファルトに街灯の光が滲むのを見て、なんとなく息をついた。
 もう少しすればもっと寝苦しい夜が来ることだろう。今はまだ、涼しいくらいだった。

 妙に、目が冴えてしまっている。馬鹿騒ぎのあとだからかもしれない。

 どうせ気分だって落ち着かないままなのだ。そのまま散歩をすることにした。
 俺たちの暮らす住宅地は大きな丘の傾斜に沿った並びになっている。

 怜があのとき向かった公園は、この丘のちょうど中腹あたり、住宅が途切れる場所に今もまだある。
 夕方にはこのあたりの子供のたまり場になって、けっこう賑わっているが、この時間はどうなのだろう。

 携帯を取り出して時間を確認する。自宅の灯りが消えているとだいぶ遅いように錯覚するが、まだ普段なら起きている時間だった。

 歩こうと思った。去年の暮れから履き続けているスニーカーの靴紐が、もうだいぶ汚れたままになっているのに不意に気付く。
 いつもそうだ。


635: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:20:11.72 ID:uiZuUIAoo

 街灯の灯りはゆらゆらと頼りなく揺れていた。

 ひそかに息を吐いて、幽鬼にでもなったような気分で静まり返った家々の間を歩いていく。

 と不意に、うしろから誰かが俺の服の裾を掴んだ。

 びっくりして振り返ると、そこに純佳が立っている。

「……どこに行く気ですか」

 少し、むっとしたような、けれど寝ぼけたような顔で、純佳は俺をじっと見た。

「どこって、散歩だよ。寝てたんじゃなかったのか」

「玄関の、ドアが開く音がしたので」

 そんな過敏なタチだったか、と思ったけれど、口には出さない。

「どこまで行く気ですか」

「だから、散歩。ちょっと公園まで」

 俺はひとつ息をついて、純佳の表情を見た。
 居心地悪そうに目をそらして、けれど俺の服を掴んだまま離そうとしない。

「一緒にいくか?」

「はい」

「即答。寒くない?」

「へいきです」と純佳は言う。平気ならいいのだ。


636: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:20:55.11 ID:uiZuUIAoo

 どこにいく、とも聞かないまま、俺が歩き出すと、純佳は黙ってついてきた。

 夜空を厚い雲が覆っていて、月明りも星明りも望めそうにない。

「……兄、今日はいつにもまして様子が変です」

「いつもどおりだと思うけど」

「そりゃ、いつも変ですけど、今日はことさら」

「……なんにもないんだけどな」

「そんなことないです」と純佳は言った。

「なんにもないこと、ないです」

 どうしてなんだろう。
 わからないけど、別に不快ではない。

「部活、ちゃんと行ってるの?」

「……はい。いちおう」

「そっか」

 それ以上どう続けていいか分からなくて、すぐに黙ってしまう。

637: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:21:31.73 ID:uiZuUIAoo

「もうすぐ、引退ですから」と純佳は言う。

 そうか、もうそんな時期なのか、と、他人事のように思う。

「サボりすぎて、試合に出させてもらえるかは怪しいですが」

「まずいね、それは」

「それもひとつの結末です」と純佳は悪びれずに言った。

 本当はどう考えているのか、俺にはわからない。そう簡単な話でも、きっとないだろう。

 俺たちは風に吹かれながら坂道を昇る。民家の灯りはついていたり消えていたり、さまざまだった。
 時折どこかの二階から騒がしい笑い声が聞こえて、それがかえって住宅街の物寂しさを浮き立たせる。

 雨が降ったらどうすればいいだろう、と俺は思う。

 純佳を、連れて行っていいのだろうか。

「兄、何か考えていますね」

「またそれか」

「今は本当にそう感じました」

 裾を掴む手が、ほんの少し引き寄せられる。



638: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:21:57.32 ID:uiZuUIAoo


「どうした?」

「……兄、どこにいくんですか」

 と、いまさら純佳は訊いてきた。

「公園だよ」

「公園?」

「確かめたいことがある」

 純佳は、黙ってついてくる。俺たちはそのまま坂道をのぼり、目的地までたどり着いた。

 開けた空間に、ブランコ、滑り台。奥の方は展望デッキ……というと大げさだが、小高い位置からあたりの街を見渡せるように、四阿と柵がある。
 敷地は広く整備されていて、木々の合間を縫うように小路が続き、囲うようにベンチが並んでいる。周辺には木立がある。

 木立の向こうは鬱蒼として暗く、ここからでは覗けない。

「……」

 俺は、どうしようか迷ったあと、結局、木立の方へと進んでいく。

 純佳は物問いたげに立ち止まろうとしたが、俺が止まらないのを見てついてきた。


639: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:22:28.39 ID:uiZuUIAoo

 どう言ったものかな、と思ったけれど、結局そのまま口に出した。

「純佳がいれば安心だよ」

「……また、そんなことを言う」

 純佳は文句ひとつ言わない。もっと怖いものがあるというみたいに。

「木立の奥には……」

 そうだ。木立の奥には、涸れた噴水。
 
 どのあたりだったろう、と考えながら進んでいく。
 空間がねじれたみたいに、木立の奥は広く感じる。実際はさほどでもないのかもしれないが、わからない。

 草花の露が服の裾を濡らす。
 そこで待っていろ、と、純佳に言ったところできかないだろうとわかった。

 やがて、少しだけ開けた空間があり、そこには確かに涸れた噴水がある。
 雨水が溜まったのだろうか。汚れた水に、枯れ葉が浮かんでいる。

 途端、耳もとに音が鳴り響く。いつもの音だ。

「……」

 耳鳴りみたいに、意識が一瞬で持っていかれそうになる。
 それを抑え込んで、噴水へと近付いていく。

 夜の闇は暗く、周囲のものは縁取りくらいしかつかめない。

 俺はポケットから携帯を取り出してライトをつけた。

 他にはなにもない。


640: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:22:54.54 ID:uiZuUIAoo


 ここが、まずひとつ。

 この奥に……小屋がある。

 小屋には鏡がある。

 怜は、そこ。

 俺は、ここだ。

「兄、何を探してるんですか」

「……なにかを探してるって、どうして思うの」

「なんとなくです。ただの散歩にしては、変だから」

 まあ、それはそうか、と納得した。

「少し、手がかりみたいなものを」

「手がかり?」

「友達と、ミステリーゲームみたいなのをしててな」

 適当な嘘をついて、もう一度あたりを見回す。

「いなくなったやつを、探さなきゃいけないんだ。……そういう遊びだよ」

 心当たりがここしかないから、ここに来るしかなかった。
 とはいえ、やはり、何もなさそうだ。

 もしかしたら、瀬尾の持ち物がこの辺にあるかもしれない、と思ったのだが。


641: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:24:09.55 ID:uiZuUIAoo

「……どうして」と純佳は言う。

「どうして、兄が探さないといけないんですか」

 その問いかけに、俺は意表を突かれたような気持ちになった。

「あのときだってそうだった。どうして、兄が探さないといけなかったんですか」

「……あのときって」

「怜ちゃんとちどりちゃんがいなくなったときのことです」

「……」

「どうして、兄が探さなきゃいけなかったんですか。兄が何かしたわけじゃないのに」

 怜とちどりが、いなくなったとき。

 あの、五月のこと。

「純佳」

「他の誰かが探してもよかったのに。他の誰かに任せてもよかったのに。なんで兄が探さなきゃいけなかったんですか」


642: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:24:53.78 ID:uiZuUIAoo

「……結果見つかったんだから、よかったじゃないか」

 そうじゃない、というみたいに、純佳はもどかしそうに首を横に振った。
 それでも、言いたいことが言葉にならないのか、口は引き結んだままだ。

 それは、そうかもしれない。『結果見つかった』、なんて、都合の良い言い方にもほどがある。
 問いただして来ないのは、恐れているからかもしれない。

 そのとき、俺は噴水の底に、何かが浮かんでいるのを見た。

 ……葉、ではない。紙切れ。

「……」

 何かの紙片。汚れた水面に浮かんでいる。それは……。

 メモ用紙。何かが書かれていた様子がある。けれど、滲んでいて、読めない。
 もしかしたら、明るいところでなら、もう少しちゃんと見ることができるかもしれない。
 破れないように、俺はそれをそっとポケットに入れる。

「兄は馬鹿です」

 と純佳は言った。

「……なんだよ、急に」

 そう訊ねてみても、純佳はそれ以上何も言ってこなかった。

 結局、俺たちはそこで帰ることにした。それがちょうどよかったはずだ。



643: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:25:29.27 ID:uiZuUIAoo



 家に帰ってからもう一度シャワーを浴び、今度こそ灯りを消してベッドに入った。
 
 目が冴えているのは変わらないし、音はさっきよりも大きくなっている。
 やっぱり、今日は止めておくべきだったかもしれない。

 さっき拾った紙は、とりあえず机の上に置いておいた。
 灯りの下で見てみてもよくわからなかったが、ところどころ読めそうな部分もあったので、明日検めてみることにする。

 そう考えて、純佳のさっきの問いについてもう一度考えてみる。

 どうして、俺が、探さなきゃいけないのか?

 ……責任を感じているから?

 わからない。

 瀬尾が何を望んでいるのかはわからない。
 でも、俺は、瀬尾に訊きたいことがあるような気がしている。

 それがなんなのかは、まだわからない。

 わからなくなって、目を閉じたとき、ノックの音がした。

 すぐに部屋のドアが開かれる。

「……兄、いますか」

「いるよ」

 返事をすると、純佳は身体を扉の内側に滑り込ませて、ドアを閉めた。
 それからおもむろにベッドに近付いてきて、静かに布団の端を持ち上げ、潜り込んでくる。


644: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/16(火) 20:26:31.76 ID:uiZuUIAoo

「どうした」

「文句がありますか」

 すぐそばから声が聴こえる。
 ないよ、とも、あるよ、とも言えない。

 純佳がこんなふうになった理由が、俺には少しだけ分かるような気がする。

 ──あのとき、お兄ちゃんはどこにいたの?

 ──兄は、どこにも、いなくならないですよね?

 ──兄は……わたしを置いていきませんよね?

 何も言わずに、俺は純佳の耳もとに手を伸ばし、彼女の髪を指先で撫でた。
 彼女はその指先の存在を不安がるみたいに、そっと首を動かして自分から耳を近づけてくる。

 そうして瞼をやさしく閉じてからも、口元が不安そうに、何か言いたげに震えて見えた。

「いくつになっても子供のままだな」

「……いけませんか」

「違うよ」

 と俺が言うと、彼女は目を開いて言葉の意味を訊ねるみたいに怪訝げな顔をつくる。
 俺がごまかすように首を振ると、純佳は小さく身じろぎをした。

 髪がシーツに擦れる音がする。

 子供なのは俺の方だ。

 葉擦れの森に風が鳴る。
 
 ここは俺のための場所ではない。
 そう思った。



647: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:52:37.64 ID:sjMCg9ojo

 その日はそのまま、純佳と一緒に眠った。
 
 不思議と、あの音は気にならなかった。ざわめいてばかりの日、ひどい一日だと思ってたのに、単純なものだ。
 
 そのおかげといっていいのか、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来て、朝起きるのだって純佳よりも早いくらいだった。

 カーテンをほんの少しだけ開けると、空はようやく黒からかすかな藍色に近付いているところだった。
 小鳥の声もまだ聞こえない。

 なにか、不思議な気持ちだった。
 
 ベッドから上半身を引き抜くようにして身体を起こしたあと、隣で眠る純佳の寝顔を見た。
 子供みたいな寝顔だと思う。

 俺は、布団からこぼれるようにほんのすこしだけ姿を見せている彼女の指先に触れる。
 それから、静かにそれを、自分の指先で持ち上げてみる。

 あたたかな指先だった。

 どうしてなんだろう。

 やっぱり、よくわからなくなってしまった。


648: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:53:21.81 ID:sjMCg9ojo

 純佳の手のひらを持ち上げて、両手でそれをすくいあげるようにしてみた。
 ほっそりとした親指の付け根の、丘のように膨らんだ部分を、自分の指先でなぞってみる。

 どうしてそんなことをしようと思ったのか、わからない。

 ──せんぱいにとって、青葉先輩って、なに?

 瀬尾青葉は、俺にとって、なんなのか。
 友達なのか、それ以外のなにかなのか。

 わからない。

 ──どうして、兄が探さないといけないんですか。

 彼女がいなくなったのは、俺が原因だという気がするから。
 彼女が、本当は、いなくなることを望んでいないような気がするから。


649: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:53:53.64 ID:sjMCg9ojo

 ──隼さん。わたし、青葉さんのこと、探そうと思うんです。あの人を放っておいたら、よくないことになりそうな気がする。

 よくないことに、なるかもしれない。
 暗闇は、どこにでもある。でも、そこにさらわれるのは、きっと、瀬尾だけとは限らない。

 ──だから、わたしはちゃんと、知ってますよ。隼ちゃんが、本当に、本当に優しい人だってこと。

 優しいから、探すわけじゃない。でも、じゃあ、どうして俺は、瀬尾を探すんだろう?
 こんなことを考えるのは、人間としての欠格事由かもしれない。
 友人がいなくなったんだ。心配くらいして、当たり前かもしれない。

 ──何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。

 でも、わからない。

 ──それって悲しいことのようで、実はとても気楽なことなんじゃないかって思うんです。

 どうして俺は、瀬尾を探すんだろう。
 
 ──何か、ずっと抱えていたものがあったから、この家にも帰ってこないのだと思う。

 瀬尾青葉について、俺がいったい何を知っているだろう?

 ──前から思ってたんだけど、わたしは、『他の誰か』じゃないよ。

 俺は、

 ──重ねるのはやめてね。

 瀬尾青葉の何を見ていたんだろう?
 彼女に、誰かを重ねていたから、俺は彼女を放っておけないと思っているだけなのか?
 


650: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:54:20.17 ID:sjMCg9ojo

 ──わたし、やっぱり偽物なんだ。

 彼女は言葉を吐き出して、

 ──やっぱり、いらないんだ。

 そのとき俺は、どうして何も言えなかったんだ?

 そもそも、俺は本当に、瀬尾のことを心配しているのか?

 ──あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。

 本当のところ、実は俺は、瀬尾青葉を見つけ出すことに、何か期待をしているだけなんじゃないか。
 彼女を見つけ出すことで、俺自身のこの空虚を根こそぎ帳消しにできるんじゃないか、というようなことを。

 そんなふうに考え始めると、何がなんだかわからなくなってしまう。

 窓の外の藍色の空を眺めていると、そんな視界が無性に滲んで、俺は思わず泣き出してしまった。
 ぽろぽろと涙がこぼれるのを止められない。

 俺は女々しくめそめそ泣いた。
 泣きながら純佳の親指の付け根のあたりをふにふにと触っていた。

 向こうで風が吹いているのが分かる。耳鳴りみたいに消えてくれない。


651: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:54:54.45 ID:sjMCg9ojo

「……兄」

 気づけば、純佳のまぶたが開かれていた。眠たげな瞳のまま、こちらを見ている。

「泣いてるんですか」

 俺は首を横に振った。でも泣いていた。もう隠す気にもなれない。

 純佳は静かに俺の手を握って、引き寄せるように俺の身体を倒させた。
 それから、俺の頬をつねる。

「よしよし」

 言っていることとやっていることが違うな、とか、そんなことくらいしか考えられなかった。
 どうして自分が泣いているのかもわからない。

 また音が響いている。
 それがおそろしいのだ。

 いつもいつもいつもいつも、ずっと鳴り止まない。静けさが戻っても、またすぐに連れ戻される。
 意識の半分はいつもあの暗い森の中にある。

 俺が知らないだけで、みんなそうなのだろうか?
 それとも、俺だけがこうなのだろうか?

 ずっと鳴り止まないのだ。ずっと自分が半分どこかに置き去りにされたままなのだ。


652: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:55:25.46 ID:sjMCg9ojo

 真中のこと、瀬尾のこと、怜のこと、ちどりのこと、俺には全部全部わからない。

 本当はいつだって全部投げ出してしまいたい。

 怜と会って、あの場所のことを話したせいなのか。

 あの暗い森が、やっぱりたしかにそこにあるのだと、今も耳の奥にあるのだと、そう実感させられる。
 それがひどく悲しい。

「泣かないで」

 涙が止まらない。……葉擦れの音が、止まない。
 
 ずっと夢だと思っていた。

 嘘だ。

 ずっと夢だと思おうとしてきた。

 あんなのは全部悪い夢で、本当に起きたことじゃないんだと、そう思い込もうとしてきた。
 それなのにあれは夢じゃなかった。なにひとつ終わってなんかいなかった。


653: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:55:52.39 ID:sjMCg9ojo

「兄」

 俺は黙ったまま、ようやくまぶたを擦った。

 純佳は何も言わずに、俺の手のひらを掴んで、頬を擦り寄せてくる。
 
 そのすべてが、なんだか俺をこの場につなぎとめてくれるような気がする。
 それなのに、そんなすべてが、無性におそろしくもある。

 なにかを騙しているようで、ふとした拍子に、表情を変えてしまいそうで。

 純佳は、俺の手の甲をやさしく撫でた。
 俺は反対の手を伸ばして、彼女の頬のあたりに触れる。

「泣いてない」

 と俺は言った。

 純佳は困った子供を見るみたいに微笑した。

「はい。兄は、泣いてません」


654: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:56:19.42 ID:sjMCg9ojo



 
 そのまましばらく、なんにも話さずに似たようなことを続けていた。
 日が昇り空がようやく白み始めた頃に、俺はベッドから抜け出した。

 机の上に、昨日置いた、メモがある。
 下手に触るよりもと思ってそのままにしていたが、やはり、湿っていて、滲んでいる。
 ゴミを拾ってきたようなものだ。何の収穫にもならないかもしれないことなんてわかりきっている。
 
 メモ用紙には字が書かれている。大半は読めないが、ところどころ、どうにか解読できそうな部分もあった。
 もちろん、こんなものは、俺達には何の関係もないものなのかもしれないが……。

 ありえないことなんて、ない。

 俺があの噴水に行ったときに、俺たちに関係があるものが浮かんでいる可能性。
 そんな可能性を否定できないくらい、事態は既に混乱している。

「……」

 ふと、文字列だったもののなかに、くっきりと読み取れる部分があるのを見つけた。 
 まるでそれだけを伝えようとするみたいに、それ以外の部分がおまけか何かみたいに、そこだけがいやに綺麗に字の形をなしている。


655: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:56:46.99 ID:sjMCg9ojo


 そこには、

「わたしはだれ」

 と書かれている。

 ……これは、瀬尾が書いたメモなのか、そうじゃないのか、それはやっぱりわからない。
 わからないことの材料が増えていくだけで、事態はちっとも進展しない。

 もどかしさばかりが募っていく。
 
「兄」

 見ると、純佳がまだ、布団のなかに身体を横たえたまま、こちらを見ていた。
 薄手のカーテンに透けた陽の光を浴びて、彼女の表情はやけに大人びて見える。

「昨日はああ言いましたけど……兄が、したいようにすると良いと思います」

「昨日……?」

 どうして俺が瀬尾を探さなければいけないのか、という話だろうか。

「それをこらえても、苦しいだけですから。やりたいようにやって、それで文句を言われたら、そのあとにあらためればいいんです」

「……」

「兄ははじめから考えすぎなんです」

「肝に銘じとくよ」

 日が昇ったからだろうか、純佳がいたからだろうか。気分はだいぶマシだった。


656: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:57:42.26 ID:sjMCg9ojo



 それでもまだ、どことなく身体が重いような気がしている。

 日曜の朝だったけれど、俺以外のうちの家族はみんな寝て午前中を過ごすつもりらしかった。
 純佳は寝足りない様子で俺のベッドを抜け出す気配を見せなかったし、両親も部屋から降りてこなかった。

 俺はひとりで朝食をとり、頭の痛みを感じて薬も飲んだ。たまの日曜に頭が痛くて何もできないというのも嫌なものだ。
 
 何はともあれ、瀬尾のことを今すぐにどうこうすることはできない。そうでない以上は俺たちは平然と生活を続けなければいけない。
 これは最初からわかっていたことだ。
 最近はずっと、そんなふうに過ごしていたんだから。

 午後はバイトがあった。いつもどおりに店に行くと、今日は人手が足りないとかで、いつもは夕方しかいない先輩が入っている。

「調子はどうだい」と彼は言う。

「普通ですよ」と俺は嘘のような本当のようなことを言った。
 大半の状態は「普通」の振れ幅の範疇に過ぎない。
 
 日曜の午後というのは基本的に暇な時間帯だ。
 ピークタイムである昼を過ぎてしまえば、あとは夕方までほとんどやることもない。


657: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/17(水) 20:58:29.63 ID:sjMCg9ojo

 少ない人数でも回せるからという理由で人手は少なく、ふいに忙しくなったときは大変だけれど、めったにそんなことも起こらない。

 俺と先輩は、別に仲が悪いわけでもないけれど、お互い話す方でもないから、品出しや補充の作業を終えてしまっても、世間話に興じる気にもなれない。
 先輩が発注を始めたので、俺はレジを見つつ床の掃除でもすることにした。

 ときどき来る客と言えば、二十代くらいの男性客の立ち読みや、出かけた帰りか、飲み物を買っていく家族連れや、そんなところだ。
 あとは、近所の家に集まっているらしい、同年代くらいの集団。

 俺はレジを打ちながら、発注端末を首から下げながら棚の様子を眺める先輩の顔を盗み見た。

 彼はいつだったか言っていた。俺の目に彼が変に見えるんだとしたら、俺の目が変なんだ、と。

 ちどりは俺のことを優しいと言った。
 でも違う。ちどりの目に俺が優しい見えるのは、彼女自身が優しい人間だからだ。

 目に映るすべてはこころの風物に過ぎない。

 さくらは世界が愛に満ちていると言った。
 彼女はきっと世界を愛しているんだろう。

 俺には世界が空虚に見える。
 空虚が充溢しているように見える。

 何もかもが、実感を伴わない。
 生活はいつも、どこか、他人事めいている。

 映画のなかの出来事みたいに。



661: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:19:28.24 ID:GtkquWbio

 バイトを終えて携帯を確認すると、怜からメッセージが来ていた。
 
「昨日の話の続きがしたい」とあった。

 その話を聞くのは、とても大事なことだろう。

 俺と怜はどこに行くか迷ったけれど、落ち着いて話せる場所というのがいくつも思いつかなかった。
 それで、結果的に「トレーン」以外にふさわしい場所がないというのがおかしい。

 ちどりは今日はいないようで、ちどりの父親が俺を迎えてくれた。
 昨日もそうだったけれど、ちどりの両親はうちの親たちとは違って落ち着いた雰囲気なのが羨ましい。

 そうは言っても、べつに両親に文句があるわけでもないのだけれど。

 先に店に着いたのは俺で、少し待たされたあとに怜もやってきた。

「やあ」と怜は言った。黒っぽいスキニージーンズ、薄い水色のシャツ、いつもみたいに爽やかだった。

「待った?」

「少しだけ」

「うん。ごめんね」

 いいよ、と俺は言った。


662: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:19:56.80 ID:GtkquWbio

 俺はブレンドコーヒーを、怜はカフェモカを頼んだ。
 話を途中で分断されるのもよくないだろうと、注文したものが届くまで、俺達は世間話をすることにした。

「日曜だけど、彼女さんと会ったりはしなかったの?」

「今日はバイトだったよ。……それに、昨日会ったって言っただろう」

「ああ、そう言ってたね。たしかに、あんまりベタベタするのも隼らしくはない」

 ……そうだろうか。わからない。
 怜は記憶のなかの俺と今の俺が符号するのがおもしろいみたいにクスクス笑う。

「怜はそっちで、そういうのいないのか……ああ、昨日もしたか、この話」

「うん。したよ。ぼくは全然、そういうの縁がないんだ」

 こいつのことだから嘘だろうなと俺は思った。どうせそういう気分になれないだけだろう。

 どうもうまく話せない。違和感があるとかそういうわけでもない。なんとなく、気まずさみたいなものがある。

 カップがふたつテーブルに置かれて、マスターは別のお客の相手を始めた。
 俺たちはようやく本題に入ることができる。

 それでも少し声のトーンを落としながら。


663: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:20:27.98 ID:GtkquWbio

「それで、昨日の話の続きをしよう」

 怜は頷いた。

「俺はたぶん、いくつか話せることがある。その前に、おまえの話を訊きたい」

「うん。うまく話せるか、自信ないんだけど」

「謙遜は似合わない」と俺は言う。

「知ってるみたいに言うなあ。……けっこうひさしぶりなのにさ」

「まあ、そう言われればそうだけどな。そんな話がしたいわけじゃない。分かるだろ?」

「うん。そうだね。話をしよう」

 怜は抱えていたリュックサックからノートとペンを取り出した。
 そう、こういう奴だ。


664: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:20:58.79 ID:GtkquWbio


「どこから話せばいいだろう、と思う。でも、やっぱり順番に話すべきなんじゃないかと思う」

「ああ」

「隼は平気?」

「なにが」

「あのときのこと、落ち着いて話せるかな」

「……」

「ぼくらはあのときのことを、真剣に検討したことってなかっただろう?」

「そうだな」

 俺は頷いた。
 たぶん、それは仕方ないことだったんだろう。俺も怜も、あのとき自分たちの身に起きたことをうまく消化できないでいた。

「……そこから話を始めるべきだろうな。おまえの身に起きたことと、俺の身に起きたことを、それぞれに」

「うん」
 
 いくらかほっとしたみたいに、怜は微笑んだ。俺がまた怒ると思ったのかもしれない。
 
 昨夜はいくらか、俺も感情的になりすぎた。おまえのせいなんだぞ、と言いかけるくらいに。
 でも、落ち着いて考えてみれば……いったい、何が怜のせいだったんだろう?



665: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:21:29.94 ID:GtkquWbio

 俺のそんな戸惑いを無視するみたいに、怜は話を始める。

「始まりはシマノだった」

 そう、俺の認識も同じだ。

「六年前の五月の始まり頃、ぼくはシマノから頼まれごとをした。シマノのことは覚えてる?」

「覚えてる。おまえを目の敵にしてた」

「正確にいうと、隼をだよ」

「……俺? なんで」

「彼はちどりのことが好きだったんだよ」

「それは初耳だ。俺はあいつに何かされた記憶はないけど」

「それは隼が気にしなかっただけだよ」と怜はなんでもないことのようにいった。

「それに、ぼくもいた。直接隼になにかをするなんて、シマノには怖かっただろうね」

 たいした自己評価だと思うが、じっさい、そうだろう。
 怜と仲の良い俺にどんな嫌がらせをしようとしたところで、きっと怜に看破されていただろう。
 

666: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:22:21.28 ID:GtkquWbio

「シマノは、丘の上の公園で父親の時計をなくした。それで、ぼくに探してくるように頼んだ。
 自分で取りに行くのが怖いから、と言っていたけれど、実際には違うだろうね」

「ああ。おまえを怖がらせたかったんだろうな」

「うん。……だからこそ、ぼくは引き受けたんだけど」

 怜は、実のところ、怪談やおばけや幽霊の類が昔から苦手だった。
 合理主義者に見える怜は、その合理主義ゆえに、霊的現象の存在を否定しきれなかった。

 それは「起こりうるかもしれない」という畏怖を当時から抱いていたような気がする。
 そう考えれば、怜は当時からずいぶん成熟した考え方をしていたわけだ。

 あるいは単にそれは俺の錯覚で、当たり前に、子供らしく、怖かっただけなのかもしれないが。

 怜は昔から独特のプライドのある奴だった。
 シンプルに言うと、格好つけで、見栄っ張りだった。自分が怖がってるなんて悟られるのはいやなやつだった。

 とはいえ、そんなのは普段から一緒に生活している人間なら、なんとなく気付いているような話だ。

 シマノだって、まがりなりにも怜と同じ校舎で何年も一緒に過ごしたのだ。
 怜のそういう性格だって、お見通しの上だっただろうし、怜はそれを見越したうえで、引き受けたのだ。

 両方共、実は肝試しのつもりだったのだ。


667: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:22:47.76 ID:GtkquWbio

「でも、さすがにひとりで行くのは怖かった。だから隼に声をかけた。覚えてる?」

「うん。俺は断った」

「純佳がいたからね」

「そう。純佳がいたから」

 とはいえ、俺はいつだってそんなふうに付き合いが悪かったわけではない。
 純佳だってひとりで家には帰れるし、留守番だってできたはずだ。

 考えてみるとどうしてだろう、と思ったところで、怜が言った。

「純佳はあの時期、ちょっと過敏なところがあったからね」

「……ああ、そうだ」

 そうだったかもしれない。
 原因ははっきりしている。

 あの地震だ。
 
 あのときから、純佳は少し、いわゆる「赤ちゃん返り」のような状況になった。
 
 もちろん、このあたりでは電気やガスや水道が止まったくらいで、人的被害なんて言えるものはほとんどなかった。
 それでも、あの非日常と言ってもいい状況は、大人の心さえも不安定にさせていた。

 それからまだ、ほんの一、二ヶ月後のことだったのだ。
 そう考えれば合点がいく。


668: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:23:51.92 ID:GtkquWbio

「それでもぼくは、ひとりで行くのが怖かった」

「ああ」

「それで、ちどりに声をかけたんだ。ちどりは、二つ返事で頷いてくれたよ」

「そうだろうな」

 ちどりならきっと、シマノの悪意になんてまったく気付かなかっただろう。
 昔から、そういうやつだった。あるいは、シマノのこととは無関係に、怜が困っていたら、ついていっただろう。

「それで、ふたりで行ったわけだ」

「そう。丘の上の公園。涸れた噴水」

「……例の都市伝説だな」

「そう。覚えてる?」

 覚えている。不思議なものだ。

「昨日も思い出してたんだ」

 黄昏時の公園に、
 人の気配が消えたあと、
 涸れた噴水に水が湧き、
 水面に木立の梢が浮かぶと、
 水面の月が静かに揺らぎ、
 ひときわ強い風が吹き抜け、
 鏡を覗く誰かをさらう。


669: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:24:36.95 ID:GtkquWbio

「その噴水のそばに落としたって話だった。ぼくらはそこに向かったんだ」

「……そうだな」

「そしてぼくらは、"さらわれた"」

 怜はそう言った。まっすぐに俺の方を見ている。俺だっていまさら疑ったりしない。
 
「気付いたときに、ぼくとちどりは、"神さまの庭"にいた」

 もちろん、そういう話になる。

「でも、ぼくらはあの噴水からさらわれたわけじゃない。あの木立の奥に、小さな小屋があった。
 たぶん、物置小屋かなにかだったんだと思う。スコップとか、そういうものを置いておくような。そこに、鏡があった」

「鏡」

「そう、鏡。あの廃屋に、鏡があったんだ」

「訊いてもいいか?」

「ん」

「どうしてその小屋に入ろうと思った?」

「時計が見当たらなくて、探しているうちに、その小屋を見つけたんだ。入ったのは、好奇心だったかな」

 好奇心。

「なるほどな」

「鏡を見つけた。そして、それが光った」

「……」

「眩しくて、目を瞑った。そうして気付いたら、あっちにいた」

 荒唐無稽な話。それが嘘じゃないと俺は知っている。


670: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:25:03.89 ID:GtkquWbio

「あれは、どのくらいの時間だったんだろう?」

 怜は、俺の目を見てそう訊ねてきた。

「……その日の夜、俺の家に電話がかかってきた。怜とちどりの家からそれぞれだ。
 ふたりとも家に帰っていないが、行方を知らないか、という話だった。
 俺は母親に、ふたりと会っていないか、と言われて、会っていない、と答えた」

「ふむ」

「たぶん、時計を探してるので遅くなっているのかもしれないとも思った。でも、ふたりの親がパニックになった様子でうちに来た」

 そのとき俺が怜の父親に何を言われたのか、それはべつに話す必要のないことだろう。
 もともと彼は俺のことをよく思っていなかった。

 怜の父親は、怜があの頃のような性格に、つまり、何にでも首を突っ込みたがる、好奇心旺盛な性格になったのは、俺の影響だと考えていたらしい。

 事実がどうかは、俺にはなんとも言えない。
 それで、俺が何かを知っていると決めつけてきた。
 
 子供を心配する親心と言えばそうだが、当時としてはけっこう恐ろしかったのを覚えている。

 そうなると俺も余計に、知らない、と言い張るほかなかった。

 でも、心の中ではちゃんと思いついていた。

 結局、話を聞き終わると、ふたりの親は家へと帰っていった。
 子供が帰ってくるかもしれないと、うちの親も説得した。

 明日の朝になっても帰ってこなかったら、そのときは……。そんな話をしていたのを覚えている。


671: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:25:29.87 ID:GtkquWbio

 その夜は、もうどこからも連絡は来なかった。
 
 ひょっとしたらちどりも怜も、家に帰ってきていたのかもしれない、と俺は想像したけれど、今にして思えば逆の話だ。
 もしどちらかがだけでも帰ってきていたなら、帰ってきた、とうちに連絡をよこしたはずだろうから。

 そして翌朝、ちどりも怜もいなかった。
 普段一緒に登校していたから、朝の段階でそれはわかった。

 俺は当然のように学校に行った。ふたりは当然のようにいなかった。

 シマノが話しかけてきて、ふたりはどうしたのか、と訊いてきた。

 わからない、と俺は言った。昨日は家に帰ってこなかったらしい、と。

 シマノの顔ははっきりと蒼白になった。
 俺は彼に、怜の言っていた噂の内容を問いただしたけれど、結局シマノもたいしたことは知っていなかった。
 単なるうわさ話だと彼の方も思っていたらしい。

 放課後、俺はひとり、丘の上の公園へと向かった。

 木立の奥の噴水を見つけるのは簡単だった。

 五月の夕暮れは、冬よりはだいぶ明るいにしても、いくらか暗い。
 夕空がやけに綺麗だったのを覚えている。


672: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:25:57.87 ID:GtkquWbio


 涸れた噴水を見つけたとき、不意に話しかけられた。

 中学の制服を着た、知らない女の子だった。

 ──きみ、この先に行くつもりなの?

 不意に、そんな声をかけられて驚いた。
 この人は、いったい何を知っているのか。そう思った。 

 ──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。

 俺は、息を呑んで、けれど言い返した。

 ──友達が、迷子なんだ。

 彼女は困ったような顔をした。
 本当に困った、という顔をした。
 それは困ったね、と実際に口に出しもした。

 ──じゃあ、仕方ないから、ついていってあげる。

 彼女は、なんだったんだろう。誰だったんだろう。
 記憶のなかの彼女の顔はおぼろげだ。
 
 ただでさえ黄昏時だった。
 誰そ彼。陰影に飲まれて、記憶の中の彼女の顔はまっくらだ。



673: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/18(木) 22:26:40.75 ID:GtkquWbio

 そして、俺と彼女はむこうに行った。
 
 怜とちどりが帰ったタイミングがいつなのか、俺は知らない。

「たぶん、一日じゃないか」と俺は言う。

「一日……」

「うん。たぶん、一日だと、思う。怜とちどりが帰ってきた正確な時間は、俺にはわからない」

「……そうか、そうかもしれない。考えてみれば、一日なのかもしれない」

「……」

「ぼくらは、あそこに行って、隼と会って、助けられて……帰ってきたら、隼がいなかった」

「……」

「二週間。隼は、姿を消していた」

 悔恨だろうか、後ろめたさだろうか、怜は、目を合わせようとしない。

 俺が怜とちどりが帰ったタイミングを知らないのは当たり前だ。
 そのとき俺は、まだむこうにいたんだから。

 ……あの日、あのときから、そうだ。

 あの日、葉擦れの森に迷い込んでから、俺のからだの半分は、まだあそこに取り残されているような気がする。
 あのときから、葉擦れの音が、止まないままだ。


677: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 21:56:59.43 ID:R2O/nCn/o

「隼が帰ってきたのは二週間後のことだった」

 と怜は言う。

「ぼくとちどりは先に戻ってきた。でも、ちどりはあっちのことを何も覚えていなかった。
 ぼくは大人たちに説明しようとしたけど、あまり信じてはもらえなくて、途中で諦めた。
 隼がいなくなったことで、状況はむしろ混乱していった。うちの親は……」

 怜は、言いよどんだ。

「おまえは気にしなくていい、と言って、ぼくが隼のことを話すのを嫌った。
 たぶん、心配していたんだと思う。また何かしでかさないようにと、ぼくは登下校親に車で送られて、自由に動けなかった」

「……そりゃ、そうなるよな」

「ちどりは何も覚えていなかった。鏡を見たところまでは覚えていたけど、それ以降の記憶は、ちどりにはなかった」

 それは俺も確かめた。ちどりは何を話しても覚えていない。

 あの日のことなんて、何にもなかったみたいに、ちどりは過ごしていた。


678: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 21:57:27.80 ID:R2O/nCn/o

「隼がいなかった二週間、隼の家族は……当然だけど、憔悴した様子だった。
 今度はぼくとちどりが、隼の行方を聞かれる番だった。
 ちどりは何も覚えていなかったし、ぼくの言うことは……当然だけど、まともな大人なら信じられない内容だった。
 途方に暮れただろうね。それでも、おじさんたちはぼくらを責めなかった」

「……」
 
「ぼくは、純佳にはあのときのことを話さないようにした。純佳にもし教えたら、彼女まであっちに行きかねないと思った。
 ふたりは昔から仲が良かったからね」

「……どうだろうな」

 そうかもしれない、とも思う。とはいえ、ミイラ取りがミイラ、が増えるのも馬鹿な話だ。
 怜の判断は正解だった。

 怜は身動きが取れず、
 ちどりは覚えておらず、
 純佳は知らない。
 大人たちは怜の言葉を信じなかった。

 だから、俺は……。

「でも、隼はひとりで帰ってきた。そして、それ以降、誰もいなくならなかった。
 だからひとまず、一旦は、そこで話が終わった。ぼくも、けっこう怖い目をみたし、隼もそうだった。
 だからぼくらは、今までその話を避けていたところがあったね」

「……そうだな」

 ──今もまた。
 葉擦れの音が聴こえる。


679: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 21:57:57.68 ID:R2O/nCn/o

 
「あの場所は、結局なんなんだろう?」

 怜は、そう言った。それについて話すのは、きっと困難だけれど必要なことだ。
 少なくとも検討の必要がある。

 あそこがいったい、どんな場所なのか。

 考えたところで、分かるものだろうか?

 その瞬間、脳裏によぎる記憶があった。

 ──あそこは異境の入り口だから。

 ……そうだ。言っていた。
 誰が言っていたんだ?

 ましろ先輩だ。

 ましろ先輩はたしかに言っていた。さくらのことを、去年、俺に説明するときに、確かに。
 桜の木の下は異境の入り口だと。
 
『異境』ってなんだ?

 ましろ先輩は、何かを知ってるんだろうか。
 どうして、そのときの会話をよく覚えていないんだろう。


680: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 21:58:24.68 ID:R2O/nCn/o

「なんなのか、は、わかりそうにないな。少なくとも、俺達の常識じゃ判断できない領域ってことはたしかだろう」

「ファンタジーだね」

「起きたことがファンタジーだからな」

「そこには、そこなりのルールがあるんだろうか?」

「あったとしても、俺達にそれを推し量れるとは限らない」

「……たしかにね」

 あの空間、あの世界が、どんな理屈で人をいざない、どんな理由で人をあんな目に遭わせるのか、それを考えるのは、ひどく難しそうに思う。

 世界そのものがひとつの生き物のからだの中のようだった。

「グリム童話に、『トルーデさん』っていう話がある。怜は知ってるか?」

「……知らない。どんな話?」


681: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 21:58:54.86 ID:R2O/nCn/o

「あるところに、好奇心旺盛な女の子がいた。女の子はある日、トルーデさんの家に行ってみたいと言う。
 両親は、トルーデさんという女の人はとても悪い人だからとそれを止めようとする。けれど、娘は止まらない。
 そして彼女はひとりでトルーデさんの家に行く。家についた娘は、真っ青な顔をしている。
 それで、トルーデさんは、どうしてそんな青い顔をしているんだって訊くんだ」

「……」

「娘は、トルーデさんの家に来るまでの途中でとてもおそろしいものを見たんだと答える。
 最初は、真っ黒な姿の男、次に、緑の姿の男、最後に、赤い姿の男。
 そして最後に、窓から見たトルーデさんの姿が、頭が火で燃えている悪魔の姿に見えたのだという」

「……」

「トルーデさんは答える。『おまえは、魔女の姿を見たんだ』と。
 そして続ける。『私はお前を必要としていたんだ。さあ、光っておくれ』」

「……それで?」

「魔女は娘を一切れの木っ端に変えて、火に投げ入れる。娘はあっというまに燃え上がり、周囲をほのかに照らす。
 魔女はその火で暖を取り、『なんと明るい光だろう』と笑う。……それで終わりだ」


682: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 21:59:36.37 ID:R2O/nCn/o

「……終わり? それで?」

「ああ」

「なんとも……言いがたい話だね。どんな教訓がある?」

「見ようによっては、そうだな。人の聞く耳を持たない頑固さや、不相応な好奇心は身を滅ぼすとも取れる。
 だけど、俺は違う見方があると思う。この話は、ある意味で、そのような理不尽があることを示してるんじゃないか」

「理不尽」

「そう。ただ他人の家を訊ねたというだけで、薪に変えられて火にくべられるような、理不尽だ」

 娘は、おそろしいものを見ても引き返さなかった。
 当たり前だ。どれだけおそろしいものを見たとしても、自分が薪に変えられ火にくべられるなんてこと、普通は想像できない。

 けれど、そのような、普通では想像できないことは……起こりうる。
 
「そういう種類の、この世ならざる理とでも呼ぶべきものに対する、戒め」

「……この世ならざる理、ね」

 少なくとも、俺や怜の身にはそれが起きた。
 
 その意味を検証するのは、俺には不可能に思える。

 俺や怜の身に起きたことに理由があるとすれば、それは俺たちがあそこに踏み入ったからだ。

 それ以上のことを考えるには、材料があまりにも足りない。


683: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 22:00:06.61 ID:R2O/nCn/o

「……冷静に話そう」と怜は言う。

「まず、前提。ぼくらが暮らしている生活空間。この日常。つまり、こっちの世界がある」

「ああ」

「それとは様相の異なる空間、つまり、むこう、がある」

 その認識は、いまさら覆しようがない。あれが夢だとでも言われない限り。

「入り口は無数にある。おそらく。ぼくはそれを知っている」

「むこうに、何度も行ったって言ってたか?」

「うん。通っていた。あの建物には、近付いていない。べつの入り口から、向かった」

「入り口。たとえば、どんな?」

「多いのは、鏡、絵。それから、人目につかない自然の中。川べりや、木立の奥」

「……鏡」

「何でもいいんだ。条件は、あるのかもしれない。でもぼくは、たとえば、手鏡なんかでも、もうむこうに行ける」

「……どうしてなんだろう」

「たぶん、存在を知っているからじゃないかと思う。むこうの存在を知っているから、行けるんだ」

 そうかもしれない、とも思う。でも、根拠はない。そう感じるだけだ。

「それはぼくらの世界と繋がっているし、隔たりもほとんどないように見える。
 でも、たしかに別の場所、空間だ。少なくとも、あの木立の奥、あの小屋の中に……あんなに広い空間があるわけがない」

 俺は黙って頷いた。そうである以上、あそこは『こちら』とは異なる空間なのだ。


684: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 22:00:32.68 ID:R2O/nCn/o

「ぼくとちどりが迷い込んだのは、森の中の、広場のような場所だった」

「それはたぶん、俺が最初についたところと同じだ」

 森の中の、どこか開けた場所。

 太陽は中天に浮かび、
 吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、
 影は川の流れのように姿を変える。

 噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
 藤棚の向こうは、どこかに繋がっている。

「藤棚があった」

「うん。たしかに、あのとき、あった」

「……"あのとき"」

「そう、あのときは、それを見た。でも、二度目以降は、違った」

「どういう意味だ?」

「どこから入るかによって、着く場所が変わるみたいなんだ」

 たとえばぼくの手鏡からだと、人の気配のしない西洋風の町並みに着く。
 学校の廊下に飾ってあったある絵から入ったときは、暗い地下室についた。

 あるいは校舎裏の木立のそば、切り株のそばからだと、ぼくの通っている学校にそっくりの、けれど誰もいない校舎についた。



685: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 22:01:05.70 ID:R2O/nCn/o

「瀬尾さんの学生証を拾ったのは、図書室から入ったときだ」

「どこの図書室だ」

「うちの学校の図書室だよ」

「そこから着くのはどんなところだった? ……湖があったか?」

「湖? ……いや。森の中の小川のそばで拾った」

 これが本当だとしたら、かなり厄介な話になってきた。さすがに頭が混乱してくる。

「訊きたいんだけど、隼は、あっちに行ったことはないの?」

「あのとき以来、一度もない。……どうして、怜だけ行けるようになったんだ?」

「わからない」と怜は言う。それはそうだろう。わからないことだらけだ。それはわかっている。

 いや、考えるだけ無駄だ。


686: 以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/10/19(金) 22:02:04.01 ID:R2O/nCn/o

 
「わかるのは、どこから入ったとしても、ある一定の距離を歩いたところに、森があるってことだ」

「森……」

「そう。あの、森だ」

「あの……」

 暗い森。

 怜はそこで、俺の顔を見た。

「隼、あのとき……」

「ん」

「助けてくれて、ありがとう」

「……いや」

 助けた。
 そんな大げさなことを、俺はしただろうか。


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