1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:00:06.30 ID:tRlgaT5iO
「あら、貴音ちゃん」

聞き覚えのある丸く柔らかな声に振り返ると、そこには私服姿の小鳥嬢が立っておりました

手には白いびにーる袋
夕餉の買い出しでしょうか?

「ええ。お給料貰ったばかりだから、ちょっと奮発」


引用元: 貴音「歌のまにまに」 



2: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:01:57.11 ID:tRlgaT5iO
「なるほど。今宵の献立は?」

不躾だとは知りつつも、食への興味の方が上回ってしまうわたくし
淑女への道はなんと険しきものなのでしょう…

「今日はすき焼きを」

「なんと!」

す、すき焼きと
そう申されましたか、小鳥嬢!

4: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:06:22.14 ID:tRlgaT5iO
「う、うん。申しました」

つい先ほど柚塩らぁめん温玉付きを食したばかりだというのに、卑しくも反応してしうわたくし

「えっと…貴音ちゃんも一緒に食べる?」

「い、いえ。わたくしは既に夕餉を済ませてしまった身ですから」

らぁめんを食したことを悔やんだのは、今日が初めてです

8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:11:16.06 ID:tRlgaT5iO
「そっか。残念」

「はい、真に」

ぐつぐつと耳障りの良い音を立てて煮える割り下…
まだしゃきしゃきとした食感を残している水菜…
出汁を吸い、鍋の中でふわふわとそよぐしらたき…

あぁ…
なんという"粋"!

「あ、あの、貴音ちゃん?」

10: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:17:18.90 ID:tRlgaT5iO
「わ、わたくしとしたことが!取り乱してしまいました!」

「…うふふ。今度すき焼きするときは前もって教えるね?」

「はい。是非とも」

「そういえば、貴音ちゃんもこっち?」

そう言って月の昇る方角を指差した小鳥嬢

「帰り道のことよ?」

あぁ、そのような意味でしたか

11: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:21:46.16 ID:tRlgaT5iO
「はい。そちらの方角です」

「私も。良かったら途中まで一緒に帰らない?」

「えぇ、ご一緒致します」

そういえば、小鳥嬢の私服姿を見るのは初めてかもしれません

黒いじーんずに空色のじゃーじ
そして白いにっと帽

ずいぶんと動き易そうですね

13: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:28:43.45 ID:tRlgaT5iO
太陽は姿を隠し、辺りはもうすぐ宵の刻

小鳥嬢と肩を並べて歩きながら、取り留めの無い会話を楽しみました

「貴音ちゃん、こっちこっち」

わたくしの手を引いた小鳥嬢が、公園の中へと入って行きます

「この公園を横切るのが近道なの」

公園の中には、仄かな桃花の香りが漂っていました

14: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:33:48.89 ID:tRlgaT5iO
公園の中心には小さな池
そこに渡された木橋の半ばで、小鳥嬢は足を止めました

「ちょっと休憩」

そう言って欄干に両肘を付き、大きな息を一つ

その横顔を、昇り始めた月が白く照らしていました

17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:38:09.85 ID:tRlgaT5iO
「春らしくなってきたね」

「えぇ、真に」

「私にも春が来ないかなぁ」

わたくしに気の利いた返しなどできるワケもなく、

「そのうちきっと」

などと、芸の無い言葉を返してしまいました
やはりまだ幼いのです、わたくしは

18: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:42:33.36 ID:tRlgaT5iO
「貴音ちゃんには春が来そう?」

「わ、わたくしは別にそのようなことは」

どうやら口というものは、心情の通りには動いてはくれないようです

慌てているのが丸わかりではないですか、これでは

「わたくしには、まだ早いですから…」

そう取り繕うのがやっとでした

19: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:45:51.80 ID:tRlgaT5iO
「しのぶれど 色に出でけり わが恋は」

「なんと!」

「うふふ。やっぱり知ってるんだ、百人一首」

「…平 兼盛、ですね?」

「正解。私もね、小さい頃にお祖母ちゃんに教わったの」

それにしても、その歌は…

22: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:50:07.59 ID:tRlgaT5iO
「顔に出ていますか、わたくしは?」

「そこまでじゃないけど…何て言うか、女の勘?」

「そうですか…」

自分では忍んだつもりでも、やはり隠せぬものなのですね

23: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:55:11.98 ID:tRlgaT5iO
「貴音ちゃんらしいけどね。忍ぶ恋って」

「…持て余してばかりです」

そう
一人で持て余して、一人で泣いて…
そしてそれを、月のせいにしているのです

なげけとて 月やは物を 思はする
かこち顔なる わが涙かな

という、西行法師の歌の如く…

25: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 19:58:54.73 ID:tRlgaT5iO
「私も同じだったなぁ、貴音ちゃんくらいのときは」

「いまは違うのですか?」

「いまは…そうだなぁ…謙徳公?」

それはまた随分と…

「侘びしい?」

「はい、失礼ながら」

「うふふ、ちょっと自虐的だったかしら?」

27: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:08:08.22 ID:tRlgaT5iO
あわれとも いふべき人は おもほえで
身のいたづらに 成りぬべきかな

ただ一人と思っていたあなたに捨てられてしまった私には、情けをかけてくれそうな人は誰も思い当たりません
私はこのまま、独り空しく死んでしまうのでしょう…

という意味の、謙徳公の名歌

ですが小鳥嬢
やはり侘びし過ぎます…

29: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:12:55.24 ID:tRlgaT5iO
「じょ、冗談よ、貴音ちゃん」

「そうなのですか?」

「さすがにそこまで諦観できないわ。私、まだ若いつもりだから」

「ならば良いのですが…」

はて?
そういえば…

「小鳥嬢はお幾つなのでしょう?」

33: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:15:48.94 ID:tRlgaT5iO
「…何が?」

「いえ、年齢が」

「まだ若いわよ?」

「具体的には?」

「…二十代後半」

…どうやら、触れてはならぬ話だったようです
響にもよく言われるのです

「貴音、空気読んで」

などと

34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:21:09.29 ID:tRlgaT5iO
「人には誰しも秘密があるものよ、貴音ちゃん」

「はい。一つや百個の秘密が」

辺りはすっかり宵闇に包まれ、公園内の電灯が木々を照らしています

わたくしたちの足下を、一羽の鴨がすーっと泳ぎ去っていきました

その際に生まれた波紋が、水面に映えた月をゆらゆらと揺らしています

38: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:25:34.69 ID:tRlgaT5iO
「貴音ちゃんは」

「何でしょう?」

「どこを好きになったの?」

「えっ?」

「お相手の」

…まさかそのようなことを聞かれるとは…
虚を衝かれるとは、このような状態を言い表すのでしょうか?

どこを好きに…
あらためて考えると、面映ゆいものですね

39: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:30:42.50 ID:tRlgaT5iO
返答を待つ小鳥嬢を余所に、思案に耽るわたくし

理由は幾つも考えつきます

ですが、一つ一つ理由を挙げることは、無粋なことのように思えました

それに…
どの理由も、言葉にした途端にあわあわと宙に溶けていきそう…

「ですからただ、"愛しているから"と、そう申し上げておきます」

41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:34:41.89 ID:tRlgaT5iO
「…うん、貴音ちゃんらしいわ」

「初めてです。このようなことを口にしたのは」

「うふふ。顔赤いわよ?」

「み、見ないで下さい!そのようにまじまじと」

「なんだか私がドキドキしちゃった。プロポーズされてるみたいで」


42: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:38:50.42 ID:tRlgaT5iO
「わたくしは、はしたないのでしょうか?」

「へ?なんで?」

「女の方から愛を告げるなどと…」

淑女への道がまた遠のいていきます…

「本人に告げたわけじゃないから大丈夫なんじゃないかな?」

「そうなのでしょうか?」

「んーっと、たぶん?」


44: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:47:29.54 ID:tRlgaT5iO
ご本人に告げるなど、考えただけでも息が苦しくなります…

そんな心情を見透かしたかのように

「大丈夫大丈夫」

と微笑む小鳥嬢

「貴音ちゃんからさっきのセリフ言われたら、どんな男の人もコロってなっちゃうから」

ころっ?

「そうそう。コロコローって」

そう言いながら、右手で宙に円を描いた小鳥嬢

なるほど
ころころ、なのですね?

46: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:52:32.58 ID:tRlgaT5iO
「勉強になりました」

「私から学ぶと、私みたいになっちゃうわよ?」

自虐的な物言いをしながら、しかしその笑顔はとても愛らしいものでした

「小鳥嬢は素敵な女性です、真に」

「うふふ。一人ですき焼きしちゃうけど、それでも?」

「…ふふ。それでも、です」

僭越ながら、わたくしが保証致します

47: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 20:58:46.83 ID:tRlgaT5iO
「さて、休憩終わりにしますか」

「はい」

「そろそろお腹減ってきた?」

「えっ?」

「食べにいらっしゃい。一人より二人だから」

「そのための休憩だったのですか?」

「うふふ、秘密」

…ふふ
わたくしが太ってしまったら、責任を取って下さいね?

50: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/03/04(日) 21:05:02.79 ID:tRlgaT5iO
「春ね、もうすぐ」

「ええ、直に」

「みんなでお花見しなくちゃね」

「はい、是非とも」

木橋を渡り終えたわたくし達の傍らを、春を乗せた風が通り抜けて行きました

その風を受けて、桃の花が一枚、はらりと

歌のまにまに、花のまにまに

そして

空を渡る、月のまにまに



お し ま い