洛書通信(らくしょつうしん)

すこし変わった占い関係のブログです。管理人:洛書

心・技・体の一致

高校時代に、剣道の先生が、剣道で大切なのは、「心・技・体の一致」で、これは、「気・剣・体の一致」ともいうと、剣道の授業で教えてくださった。


武道の鍛錬ということで、精神的側面の重要性が強調されるわけだが、こういう話というのは、実は、剣術の練習が、おおっぴらに殺人を目的にできない事情ができてしまったので、実用的側面よりも理念的側面のほうが重要だという主張を公然のものとしないといけなくなったということなのだろうと思う。鹿島神流武術を自分が教えていただいていたときには、ことさら、「気・剣・体の一致」などという話は強調されなかった。鹿島神流の場合は、最終目的としては、相手を斬り殺すための剣術を修練している立場だったからであろう。


高校時代の友人が教えてくれたことだけれど、坂口安吾氏は、宮本武蔵がなぜ「五輪書」などというものを著作したかというと、高齢になった武蔵が、剣術の果し合いでは若い相手を破ることができなくなったので、それで、自分が剣術の権威であることを、思想的次元で示しておかないと世間にきまりが悪くなってきたから、無理に自分の剣豪らしさを他人に納得させるための屁理屈をひねり出して、それを書物にしておいただけであると主張したらしい。


「論語」とか「金剛般若経」なんかには、(本当は奥深いのかもしれないけれど)難しい話はあまり収録されていない。一方、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著とかいうと、フランス現代思想の専門家ではないふつうの哲学の素人には何を言いたいのかほとんど訳が分からない文章表現がたくさん出てくる。本当はたいしてえらくもない人たちが他人に自分をえらく思わせたいときには、もったいぶった表現をちりばめてみせるのが常套手段なのかもしれない。

器の洗浄

お仏壇にお茶をお供えするための容器が、お茶の成分のためにひどく汚れてしまうのだけれど、それも、毎日漂白剤を使って、短時間ずつ洗浄を繰り返していたら、なかなか取れなかった汚れもどんどん取れて、器が少しずつきれいになってきた。


自分の心も、毎日どれほどか長期間繰り返しお経を読むことで、どんどん浄化が進んでいくのだろうか。


これからもお経を読み続けることで、心の汚れが取れていき、心のゆがみが矯正されていくことを期待したい。

金文と儒教経典

金文の文章と、儒教経典を比較したとき、その内容の水準の違いをどう考えたらよいのだろうか。あまりに飛躍が大きいといえる。


想像するに、官製の記録命令と、口承されていた伝達記録の文字化との違いということなのであろう。


中国で、それまで文字が金文で表記されていたのが、木簡や竹簡の書物が出現したことで、記録される文章の内容も形式も全く変わったということなのであろう。


こういう話に似た事例というのは、西洋の場合、中世の書写本の時代にはラテン語でもっぱら神学と哲学の著作ばかりが記述されていたのが、近代になって印刷技術が出現すると、各国語で様々な分野の世俗の書物が出現するようになったことが挙げられるのであろう。


メディアが変わると、コンテンツも大きく変化するものなのだろう。今の時代みたいに、メディアが紙媒体から電子媒体に移行している時代も、発表される知識の種類が大きく変化していくのかもしれない。

きょうは2023年の秋の彼岸の入りの日である

お彼岸に近いのに猛暑が続いていた。今日は、雲が多く蒸している。なかなか涼しくならない。とはいえ、あすあさっては、雨降りだそうである。雨降りが終わったら、少しは涼しくなるのだろうか。


自分の2つのブログの累計記事数も、12100近くになった。たぶん、社会にいろいろ影響を発揮できているのだろうと思う。そう思いたい。


まさか、阪神タイガースがリーグ優勝するとは思わなかった。それでも、日本シリーズに進めるか、まだ油断はできない。


中国の少子高齢化がいまや深刻のようだが、インドも、少子化は起きているようである。今のうちにできる限りの手を打っておかないと、少子高齢化が進行してから大変なことになるので、インドの経済運営もこれから大変だろうと思う。


昼間は猛暑だけれど、朝夕は涼しくなってきている。お彼岸を過ぎると、もう少し過ごしやすくなるのかもしれない。


最近は、ダイソーで商品を買うことが増えた。ダイソーは便利である。消費行動の最初の着手は、ダイソーからという人が増えていると思う。これも、景気低迷の大きな原因なのであろう。

「役小角と弘法大師と君だ」

特異な神道家の金井南龍先生がある神社に参拝に行ったとき、その神社の宮司さんがあいさつをしてくれて、夢で神様のお告げがあって、君が来てくれることはわかっていた、と告げられたそうである。


金井先生が「私ごときの者にそのようにおっしゃっていただいて、恐縮です。」と返事をしたら、「何を言うか、日本の優れた行者と言ったら、役小角と弘法大師と君だと神様はおっしゃってらしたぞ。つまらないへりくだり方をするな。」と、その宮司さんから叱られたそうである。


金井先生は、滝行に励まれていた方だったらしい。滝行を通して、多くの霊場の封印を解いてまわってらしたそうである。


今頃になって、私などが突飛なものの見方を示したり、突飛な話を持ち出したり、突飛な物事の比較をしてみたりしているのは、もしかしたら、金井先生がかつていろいろな霊界の封印を解いてくださったことの効果でもあるのかもしれない。


付記(2023.9.18):かつて、神田のある古書店で、金井南龍先生の主催されていた教団のさすらの会の会員報の「さすら」のバックナンバーをいくつか立ち読みすることができたことがある。内容は、特に驚愕するようなものではなかった。さすらの会は小所帯だったので、調査費と取材費の捻出は困難だったのだろうと思う。神道系教団の経営は、容易でないことが多いのかもしれない。「さすら」も、薄い、分量の少ない小冊子で、立派な体裁のものではなかった。金井南龍先生も、まったく知る人ぞ知る存在で、有名な宗教家ではなかった。今では、金井先生の話題が出てくることも、きっとほとんどなくなってしまっているのではなかろうかと思われる。
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