高校時代に、剣道の先生が、剣道で大切なのは、「心・技・体の一致」で、これは、「気・剣・体の一致」ともいうと、剣道の授業で教えてくださった。
武道の鍛錬ということで、精神的側面の重要性が強調されるわけだが、こういう話というのは、実は、剣術の練習が、おおっぴらに殺人を目的にできない事情ができてしまったので、実用的側面よりも理念的側面のほうが重要だという主張を公然のものとしないといけなくなったということなのだろうと思う。鹿島神流武術を自分が教えていただいていたときには、ことさら、「気・剣・体の一致」などという話は強調されなかった。鹿島神流の場合は、最終目的としては、相手を斬り殺すための剣術を修練している立場だったからであろう。
高校時代の友人が教えてくれたことだけれど、坂口安吾氏は、宮本武蔵がなぜ「五輪書」などというものを著作したかというと、高齢になった武蔵が、剣術の果し合いでは若い相手を破ることができなくなったので、それで、自分が剣術の権威であることを、思想的次元で示しておかないと世間にきまりが悪くなってきたから、無理に自分の剣豪らしさを他人に納得させるための屁理屈をひねり出して、それを書物にしておいただけであると主張したらしい。
「論語」とか「金剛般若経」なんかには、(本当は奥深いのかもしれないけれど)難しい話はあまり収録されていない。一方、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著とかいうと、フランス現代思想の専門家ではないふつうの哲学の素人には何を言いたいのかほとんど訳が分からない文章表現がたくさん出てくる。本当はたいしてえらくもない人たちが他人に自分をえらく思わせたいときには、もったいぶった表現をちりばめてみせるのが常套手段なのかもしれない。
武道の鍛錬ということで、精神的側面の重要性が強調されるわけだが、こういう話というのは、実は、剣術の練習が、おおっぴらに殺人を目的にできない事情ができてしまったので、実用的側面よりも理念的側面のほうが重要だという主張を公然のものとしないといけなくなったということなのだろうと思う。鹿島神流武術を自分が教えていただいていたときには、ことさら、「気・剣・体の一致」などという話は強調されなかった。鹿島神流の場合は、最終目的としては、相手を斬り殺すための剣術を修練している立場だったからであろう。
高校時代の友人が教えてくれたことだけれど、坂口安吾氏は、宮本武蔵がなぜ「五輪書」などというものを著作したかというと、高齢になった武蔵が、剣術の果し合いでは若い相手を破ることができなくなったので、それで、自分が剣術の権威であることを、思想的次元で示しておかないと世間にきまりが悪くなってきたから、無理に自分の剣豪らしさを他人に納得させるための屁理屈をひねり出して、それを書物にしておいただけであると主張したらしい。
「論語」とか「金剛般若経」なんかには、(本当は奥深いのかもしれないけれど)難しい話はあまり収録されていない。一方、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著とかいうと、フランス現代思想の専門家ではないふつうの哲学の素人には何を言いたいのかほとんど訳が分からない文章表現がたくさん出てくる。本当はたいしてえらくもない人たちが他人に自分をえらく思わせたいときには、もったいぶった表現をちりばめてみせるのが常套手段なのかもしれない。