カントが「純粋理性批判」で問題にしたのは、数理科学、自然科学を成立させるような種類の理性能力のようである。すなわち、数学や物理学を成立させるような種類の論理理性の行使では、物自体の認識が不可能であるという結論を出したらしい。実際、ユークリッド幾何学以外に、ボーヤイ・ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学もリーマンの非ユークリッド幾何学も成立するし、ニュートン力学も、相対性理論も、量子力学も無矛盾的に成立する。数学とか、数理科学とはそういうもので、前提が変われば別の体系が成立するものなのであって、単一の絶対真理は編み出せないのである。カントが「純粋理性批判」で言いたいことは、どうもそういうことらしい。


そんなわけで、我々の知覚的諸能力や様々な認識能力がすべて絶対的な何者かに全く触れることができていないということは、カントはまるっきり言っていないそうである。だから、「純粋理性批判」の後に、「実践理性批判」の議論も、「判断力批判」の議論も、「道徳の形而上学」の議論も可能になるわけである。


そんなわけで、カントの「純粋理性批判」の議論もあらゆる認識能力や存在のすべてに適用可能な議論というわけではなくて、カントの議論が正しいとしても、ヘーゲルの絶対知の議論も、ベルクソンの直観の議論も、ゲーテの事実と現象の関係の議論も、すべて排除されずに成立できるらしいのである。いままでの哲学者たちの議論は、何かひどい誤解がなされていることが多かったらしい。


私たちは、自然科学や数学をあまりに過信しすぎていたようなのである。だから、自然科学や数学が絶対知ではないとカントが宣言すると、絶対知というものはあり得ないものだと誤解されたのである。カントの議論は、ひどく一般的なものではなく、ある限定と制約の中での議論だったらしいのである。数学や物理学が絶対知ではないことはカントが明らかにしたが、私たちがまるっきり絶対知を持ち合わせていないなどとは、どうもカントは主張していないようである。私たちは、実は、数学的、物理学的でない認識能力で、物自体を認識できているかもしれないのである。


ゲーデルの場合も、演繹論理行使一般であるペアノ算術についてなら、論理には体系的完結性はないことを指摘したが、ゲーデルは、帰納推理も類比推理も直観認知も、演繹推理以外のあらゆるあらゆる推論も体系的完結性が同様に存在しないなどとは証明もしていないし、主張もしていないらしい。これが、ゲーデルの不完全性定理の正体である。


ミシェル・フーコーによれば、カントが古典力学について「純粋理性批判」で行ったような作業を、フッサールは数学一般に拡張し、メルロ・ポンティは言語使用一般にまで拡張したという。フーコーは、フッサールの仕事やメルロ・ポンティの仕事を高く評価し、肯定しているみたいである。


しかしながら、カントの成果は、多くの人たちから称賛され、広く受け入れられているが、フッサールやメルロ・ポンティの仕事については、評価が確定しているというわけではないみたいで、多くの哲学者が、みんな、フッサールやメルロ・ポンティの検証作業を完璧だと受け入れているわけでもないようである。カントが「純粋理性批判」でおこなった理論理性の物自体の認識不可能性の議論の場合とは違って、フッサールやメルロ・ポンティの議論は、強引で、性急に彼らの意図する結論を出そうとあせっていて、検証に精密さが欠けているようであり、ずいぶん疑問も持たれ、多くの同意が得られているわけでもなく、現象学派の内部でだけ、それも、フッサールやメルロ・ポンティの研究者たちの間でだけ通用しているような話みたいである。


結局、数学の専門家たちや言語学の専門家たちにしてみれば、フッサールやメルロ・ポンティは、本当に数学や言語を深く理解しているのかいな、みたいなことになってしまうようである。カントは、古典力学について、とても奥深い理解を持っていたから、「純粋理性批判」みたいな成果を出せたわけである。