論語の微子篇に、狂人のふりをした隠者の接輿が出現する。


孔子に向かって、瑞兆である鳳凰の出現を口にして、あえて孔子をからかって、接輿は、孔子に「鳳よ、鳳よ」と呼びかけた。接輿は、君主などではなく、命を狙われて少数の弟子たちと放浪している孔子に向かって、「天子様、天子様」と、皮肉を言ってからかってみせたのである。


しかし、それでも、孔子のことを、救世主であると認識することができた見識の高い隠者の接輿と孔子は話をしたかったようだが、接輿には逃げられて姿を見失ってしまったようである。論語の記述はそうなっている。


接輿も正義を主張して世に受け入れられなくて、最後は、当時はまだ未開の南方に逃れて自給自足の生活をしていた人のようである。


隠者の接輿は孔子のことを君主扱いしてからかったが、彼は、孔子のことを、本当に救世主であると認識していたようである。一方、南井三鷹さんは、わたしを、「ポストモダンのネトウヨ保守」とからかう。


「ポストモダン」は間違いだと思うが、「ネトウヨ保守」なのは、確かにそうなのだろうと思う。孔子を瑞兆に例えてからかうのが隠者の接輿で、わたしを見下した言い方をして「ネトウヨ」とひとくくりにして笑い飛ばそうとするのが南井三鷹さんである。


からかう側も、からかわれる側も、世の中に受け入れられない種類の人間にも、質の違いというのはあるものなのである。


接輿と南井三鷹さんのあいだには天地の開きがあるのだろうし、孔子と私の間には、天地の開きどころではない違いがある。古の賢人たちが、本当に賢人たちだったということは、本当のことなのである。