かつて、バッハやヘンデルは、大作曲家にして大演奏家として世界史に名を刻んだ大音楽家だった。


こういう巨匠たちが西洋音楽史の中で出現する最後の光芒が、リストとショパンだったのだろうと思う。かれらも、大作曲家にして大演奏家として、世界史に名を刻むことができた。その後は、大作曲家か大演奏家かどちらかである。


では、我々の時代の巨星といえるジミー・ペイジとエドワード・ヴァン・ヘイレンは、大作曲家にして大演奏家として、世界史に名を残せるであろうか。


記録され、記憶されることは間違いない。しかし、ジミー・ペイジとエドワード・ヴァン・ヘイレンの扱いが、バッハとヘンデル、リストとショパンと同格の扱いになるとはとても考えられない。


どうしてそうなのか、というと、ある時代区分の中での文化史における音楽の扱いの違いもさることながら、演奏家、作曲家の側だけでなく、それを受容する鑑賞者の質がまるっきり違うからである。おそらく、これまでのスペインには、まるっきり無名でも、演奏家としては、ジミー・ペイジやエドワード・ヴァン・ヘイレンに負けない技量を持ったギタリストはたくさんいただろうと思われる。彼らは世界的に有名になる機会を持てなかっただけなのである。そういう演奏家や編曲家のギタリストたちと同水準のジミー・ペイジやエドワード・ヴァン・ヘイレンは、マスコミや流通機構のおかげで世界的な有名人になれても、音楽家としての評価は、バッハやヘンデルとは同格にはなりえないのである。


芸術の評価というのもなかなか厳しいもので、それなりに客観性は保証されているのである。歴史の審判はそれなりに公正なもので、単に技量が優れた人気者であるだけでは、大芸術家の仲間入りはさせてもらえないわけである。