Bloga enneagramica (ブロガ・エニアグラミカ)

IT革命の先にある社会の創造に貢献することを目的として、拙いながらも文章を紡いでおります。 (管理人:enneagram)

前座、二つ目、真打って、英語でどう言えばいいんだろう

落語で用いられる様々の言葉も、落語協会か落語芸術協会が標準英訳語を定めているのかもしれない。その作業がまだなら、これから、落語議連がそういう作業をするのかもしれない。


それでも、落語の世界の序列と寄席の成り立ちを説明するうえで、前座、二つ目、真打という用語の英訳をどうするかは、重要かもしれない。べつに、外国人に落語を説明しなければどうでもいいことだが。

前座は、first stage ranking performer、二つ目は、second stage ranking performer、真打は、final stage ranking performer,who is called by master(=shisho)程度の表現で、外国人に十分通じると思う。performerは、もちろんplayerでもいい。見習いは、pre-first stage ranking pupilで意味が分かってもらえると思う。

どんなことでも無理やり英語で表現することを考えなくてもよいのだが、なんとなく、そんなことも考えてみたので、こんな記事も書いてみた。

経済発展の前提が変わってしまった

今となっては自明の話の確認になるのだけれど、戦後日本の基本方針のおさらいをしようと思う。


戦後日本の経済開発の前提は、まず、護送船団方式による金融の保全が出発点であった。さらに預金も奨励した。そうして作った大きな資本金で徹底的に強力な製造業を育成し続けた。国土については、開発に次ぐ開発で、日本中、常に地価を上げ続けた。地価が上がることで、事業のうまくいっていない会社でも、大企業は、帳簿の上では資産が増えて成長していることにできる仕組みになっていた。


これが、バブルがはじけ、インターネットが出現してすべて変わった。護送船団方式の金融は、かえって国際競争力を失うことになった。市場は流通主導になり、強力な製造業が、それ自体では大して有力なわけでもなくなった。バブルの後は、土地は必ず値上がりするというわけにはいかなくなった。むしろ、土地の有効利用法が技術進歩のためにいろいろ編み出され、土地は値下がりするところも増えた。それに、少子高齢化も加わった。


そういうわけで、戦後日本の経済成長の「方程式」の前提は失われた。今の時代は、物をたくさん作って売るより、知識の掘り起こしの時代である。大体、IT自体が、論理学の飛躍的進歩がソフトウエアの作成ということを可能にした結果としての最新鋭の知識の産物である。物自体は価格が値崩れを起こしている。


そんなわけで知識の改良と刷新なのだけれど、みんなに注目されている物性物理学や分子生物学の分野は、健全に知識の蓄積が進んでいる。新しい種類の知見も増えている。一方、これから肝心な分野の宗教とか芸術の知識の改良と刷新については、まだあまり手がついていないように思われる。専門家の問題意識の一般人への移転も順調に進行してはいない。


これからの時代の経済発展のためには、あらゆる知識を総動員する必要がある。自然科学やその応用の各分野の工学の進歩だけでは何とかならない。優れた人材については、人文科学や社会科学の人材に対しても手厚くする必要がある。それにしても、大学の学問が世間から遊離して、陳腐化しているのも確かである。教育について、民間の参入も侮れない時代である。私立大学も、革新の必要な時代の到来ということなのであろう。

そもそも村上春樹って

ヤマダヒフミさんの力作の村上春樹論を拝読させていただいた。比較として論じているドストエフスキーについてはよく調べていて感心した。


それでも、「ところで村上春樹って、今の時代にドストエフスキーと比較して論じるのに適切な作家なの?」という疑問も持った。彼の視点力点で論じるなら、ドストエフスキーとの比較の対象にふさわしいのは、むしろ、松本清張とか賀川豊彦あたりではないかと思ったりした。もっとも、私は、村上春樹氏の作品を一つも読んだことはない。


私も、中島みゆきさんの音楽が、楽理上たいしたことはないみたいな話をするけれど、比較の対象は、ピンク・フロイドやレッド・ツェッペリンやクイーンや小室哲哉さんで、ブラームスやショスタコーヴィチを中島みゆきさんの比較の対象になどしない。そういうのは滑稽である。


ついでに、三遊亭圓朝大名人を持ち出して、現代の柳家喬太郎師匠や三遊亭白鳥師匠の創作の水準を拙劣であるなどと評価しない。そんなのナンセンスである。時代が違うのだから。でも、圓朝作品の復元に努めた桂歌丸師匠のことは尊敬する。


村上春樹氏も村上春樹氏なりに、現代というものに食い込み、踏み込んでいるのだろうと思う。しかし、ドストエフスキーの時代のロシアと現代日本では社会が違う。表現の対象が違うのは仕方がない。技巧論、手法論だけに限定して話をすれば、村上春樹氏のほうが、ドストエフスキーよりすぐれた仕事をしている場面はいろいろ取り上げられると思う。


ドストエフスキーにおいては、文学の問題は、哲学の問題であり、政治の問題でもあったということである。そうなのだろう。それなら、ヤマダヒフミさん自身が、思想を動かし、政治を動かし、社会を変動させるような文学作品を発表すべきである。村上春樹氏の悪口などに熱弁を振るわないで。別に小説でなくてもいい。テレビドラマの脚本でもいいのである。橋田壽賀子先生の「おしん」は、世界中から共感された。もっとも、ヤマダヒフミさんは、「おしん」を文学の埒外としているのかもしれないが。


ドストエフスキーみたいな人生経験と才能を持った人は少ない。村上春樹氏にドストエフスキーみたいな内面の所有を期待しても無理である。それより、彼の美点も探してあげることである。彼も現代社会に大きな影響を与えている人物であることは確かなのだから。彼が社会に対して有害な人ならば、もっと、理路整然とした実証的議論で彼を攻撃すべきである。もちろん、それでは芸術評論にはならないのであろうが。

[ライブ] 第38回辨天寄席  橘ノ圓満、三遊亭遊かり出演

本日、辨天寄席に行ってきた。寒くなったせいか、観客が少ない。寺子屋みかんさんもいらしていた。


今日は、圓満師匠2席、遊かりちゃん2席。圓満師匠は、足の痛みを抱えているそうであった。


具体的な演目については、圓満師匠のブログをご覧になってください。


代演の遊かりちゃんに話を集中させると、写真より、実物のほうが美人である。芸風は、双葉ちゃんに似ている。どちらも四代目圓馬師匠の門流だからそうなるのだろうか。両方とも小遊三師匠のところに出げいこに行くとこういう風になるように習うのだろうか。


双葉ちゃんの高座も、元気のある激しい高座だが、遊かりちゃんは、もっと元気である。まだ削りは荒いけれど、若いうちは元気なほうがいいのだろうと思う。今後の成長が楽しみである。


今年は、できればもう一回落語会に行ってみたいと希望している。でも、できないかもしれない。来年は、残念だけれど、あまり落語会に行けないと思っている。でも、来年の双葉ちゃんの真打昇進披露興行は、できれば、浅草か池袋か新宿に最低一度は行きたいと希望している。



English summary of this article:The visiting record of the 38th Benten Yose rakugo show.This day's performers were Tachibana no Emman and San'yuhtei,Yuhkari.Both talked 2 stories,so total 4 stories were talked.Yuhkari is a pupil of San'yuhtei,Yuhjaku.



付記(2018.12.4):番組も示すことにする。

圓満   権助魚("Gonsukezakana"=Gonsuke Buys Some Strange Fish)
遊かり  新聞記事("Shimbunkiji"=A Surprising Story of Today's Newspaper's Article)
圓満   豊竹屋("Toyotakeya"=Toyotakeya's Shallow Understanding of Gidayu{a kind of Japanese classic voice music}-Playing)
遊かり  締め込み("Shimekomi"=A Conflict of a Couple about Their Not-Stolen Things,And the Appearance of a Stupid Thief)

ローマ字入力とかな入力

自分なんかは、パソコンは、ローマ字入力だけれど、かな入力の人もなかなか多いようである。


ヤマダヒフミさんは、どうもかな入力のようである。芸能人のブログやツイッターでも、かな入力の人は多いみたいな気がする。渡辺美里さんは、ローマ字入力だと思うが、こちらのほうが少数派なのかもしれない。


自分も、フルテキスト英語の記事は書けないけれど、記事に英語の要約文を入れたり、英語の本を読んで、読んだ本の書誌的事項を紹介する場合なんかは、やはり、ローマ字入力に慣れていて、そちらが便利だと思う。


多分、かな入力の人というのは、外国語を習得する気持ちのない人だろうと思う。生活するうえで、外国語が全く必要のない人もずいぶんいるということなのだろう。でも、それでローマ字入力の訓練をしないと、余計外国語の習得能力は失われてしまう。


別に、ローマ字入力がよくて、かな入力が悪いと言っているのではないけれど、ローマ字入力のほうが、パソコン(スマホ)の場合には、融通が利くのは確かなのではないかと思う。ローマ字入力が容易になるだけでも、外国語の学習の敷居は低くなるような気はする。また、プログラム能力やコマンド操作の能力も獲得しやすくなると思う。
記事検索
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
役立つブログまとめ(ブログ意見集): オープンスカイを推進 by Good↑or Bad↓ (役立つブログまとめ(ブログ意見集)(投稿募集中)by Good↑or Bad↓)
羽田空港本格国際化の影響
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

プロフィール

h7bb6xg3

カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
楽天市場
  • ライブドアブログ