Bloga enneagramica (ブロガ・エニアグラミカ)

IT革命の先にある社会の創造に貢献することを目的として、拙いながらも文章を紡いでおります。 (管理人:enneagram)

努力して、わたしたちみんなが欲するような知識社会を未来に生み出したいものです。

[ライブ] 五街道雲助一門会 (2024年11月30日;かめありリリオホール)

人間国宝の五街道雲助師匠が人気者で実力者の真打のお弟子さんたち全員を引率されて葛飾区で土曜日の午後に一門会を開催してくださるなどということは、これはもう、この上なく特別なことだと申し上げて間違いないことで、当然、開演前の会場には、「満員御礼」の張り紙があったことを報告しておく。


そんな雲助師匠の一門会であっても、私は、いつもの通りの、ドレスコード無視の観客の一人なのであった。やはり、私の今の立場では、着慣れない服装をして、それが原因で、夜になって急に冷え込んだ時に風邪をひいてしまったらまずいのであった。その日の来場者の女性の中には、和服を着用していた観客も複数存在していたことを報告しておく。来年の年初のかつしかシンフォニーヒルズでの雲助師匠の独演会のときには、松の飾りは取れていても、まだ鏡開きのまえだから、多少はしっかりした服装をしていくべきだろうとは思っているが、それも、その日の天候と自分の体調次第の話だと申し上げておく。


チケットは、売り出し開始の日に速やかに購入したつもりだったが、17列27番という、かなり後ろのほうの座席だった。葛飾区の友の会の会員の方たちが、発売開始とともに、めいっぱい購入されていたのだろうと思われる。当日のプログラムには、新宿末廣亭の12月上席の番組表も添付されていて、12月1日本日から、12月10日まで、新宿末廣亭の夜の部では、隅田川馬石師匠がトリを務めて、雲助師匠も出演してくださるので、ぜひ、お時間のある方は、新宿末廣亭に足を運んでください。出演予定のどなたかが出演できないときは、もしかしたら、白酒師匠か龍玉師匠が代演を担当してくださるかもしれません。なお、新宿末廣亭の12月上席の昼の部は、入船亭扇辰師匠がトリを担当され、扇橋師匠初め、そのほかの扇辰師匠のお弟子さんたちも出演の予定です。


それでは、昨日の一門会の出演者たちは以下のとおりである。


桃月庵ぼんぼり、隅田川馬石、桃月庵白酒、蜃気楼龍玉、五街道雲助   お囃子担当は柳沢きょう、楽屋担当の前座は、桃月庵ぼんぼりにくわえて、隅田川わたし


前座のぼんぼり君は、「牛ほめ」を披露した。元気で、こなれた感じの出番の担当だった。かなり上手だと思ったので、この日が来る前に、ずいぶん熱心にけいこを重ねたのだろうか。


次の隅田川馬石師匠の演目は、「金明竹」だった。スローテンポで枕を演じて、演目の終わりごろで活舌を示すという演出だった。きっと、かなりフル規格に近い演じ方をされたと思うので、この演目は、そういう風に演じると、演者には体力を要求されるような気がする。


次の桃月庵白酒師匠は、「転宅」を演じられた。まくらの始まりから、全編大熱演の高座だった。この「転宅」は、以前、蝶花楼桃花師匠がまだ二つ目の春風亭ぴっかり☆だったころに聞いたことがある。桃花師匠の高座にふれた最初の演目がこの「転宅」だった。桃花師匠は、この噺を、五明楼玉の輔師匠に習ったらしいが、白酒師匠は、どの師匠からこの演目を教えていただいたのだろうか。以前は気が付かなかったが、この「転宅」は、「湯屋番」にも趣向が類似しているところがあるような気がする。かつて、雲龍亭雨花師匠は、たびたび「湯屋番」を演じていた記憶がある。白酒師匠が、桃花師匠にも、雨花師匠にも、温かい視線を注いでくださっているなら、それはとてもうれしいことである。


お仲入りのあとは、蜃気楼龍玉師匠が出演された。演目は「鹿政談」で、大変見事な名演だったと思う。この噺が鹿の話で、次の雲助師匠の出番の演目の伏線だったのだろうと思われる。


トリの五街道雲助師匠の演目は、「二番煎じ」であった。都都逸や小唄や謡の披露もしてくださって、雲助師匠の美声も、この日は鑑賞させていただいた。真冬の夜間の場面を題材にしているが、この日はもう暦の上では小雪を過ぎていて、初冬は半ばを越えているのだから、演目の選び方に不自然はないのは間違いない。牡丹鍋の話が出てきて、この日の前日が三の酉の日で、「二晩先」だと、亥の日なので、そのあたり、しゃれの含意が込められているのかと思ったりもした。そして、その本日の12月1日の亥の日は、旧暦でも11月1日の月初めの新月の日で、しかも、大安のめでたい日である。ついでに、私の老母の86歳の誕生日の日でもある。


この日に雲助師匠が演じてくださったのが「二番煎じ」で、そのことについて私などが、あまり不自然に考えすぎなどをするべきではないのだろうけれど、もし、雲助師匠とその門下の師匠たちと、そして、新宿末廣亭の北村席亭様が、私の近々の身の上をいろいろ案じてくださっていらっしゃるのだとするならば、私のいまの本音を正直に申し上げると、私は、自分の生活環境については、これからも納豆と豚肉を気兼ねをせずに食することができる場所に居住することを希望しているし、そして、もう還暦を過ぎてしまった自分としては、今となっては、「一番搾り」か「二番煎じ」かなどというようなことは、もはやほとんどまったく気にかけるようなことではなくなっているというのが偽りのない回答です。わたしがなにかとんでもない勘違いをしてしまっていて、そのために申し上げた内容と表現に非礼がございましたならば、どうぞ、この弱輩者をお許ししていただけるようお願い申し上げます。


English summary of this article:


A wonderful rakugo performance show was held at the Kameari Liriohall on 2024.11.30.


The members who took part in the event were Gokaidoh,Kumosuke;Kumosukes' three shinn'uchi-grade pupils;Kumosukes' two zenza-grade grandpupils and stage-support shamisenn player.


The shinn'uchi-grade pupils were Tougetsuann,Hakushu;Sumidagawa,Baseki and Shinkirou,Ryuugyoku.The zenza-grade grandpupils were Tougetsuann,Bombori and Sumidagawa,Watashi.The shamisenn player was Yanagisawa,Kyoh.


The last and main player of the day was,of course, glorious Gokaidoh,Kumosuke.


Kumosuke played the story named "Nibansenji(Second Boil :: In the ending scene of this story,a samurai policeman who looked after some citizens' patorol and required more cups of hot liquor in a cold winter midnight appears.Then,he used the word,'nibansenji'.)",excellntly.

[書評] 外資系金融の英語 (齋藤浩史 著;中央経済社)

慣れない分野のこなれない知識の入手を試みてみた。


この本を読んでみてわかったが、結局、国際金融、今の言い方だとグローバル金融の術語というのは、まず、グローバル金融の全体像や枠組み一般の知識を先に入手しておかないと、英語の対応語彙だけ仕込もうとしても、それぞれの用語が何を言っているのかさっぱりわからないということなのであった。経済学とか、経営学とか、会計学とか、そういう実務的な社会科学というのは、いきなり英語の具体的な言語表現を入り口にして入り込もうとしても、どうもそのやりかたでは容易に手に負える代物ではなさそうである。最近の各種の先端分野の知識体系というのは、この種の、「習うより慣れろ」という態度では、なかなか身に着けることが難しい知的領域が増えてきているような気がする。


この書物の著者も、大学所属の経済学者や経営学者や会計学者というわけではなく、博士号取得者ではあっても、投資銀行での金融実務の勤務経験が長かった人のようである。この方は、今では金融コンサルタントとして独立されているようである。


この分野は、実務経験が皆無の素人が容易に参入できる分野ではないことがよく分かったが、本書で触れられていた、なぜ、アベノミクスが比較的順調に軌道に乗ることができたのかの背後理由の説明は、とても興味深いと思った。


いわゆる「黒田バズーカ」が功を奏して円安と日本株の株価上昇を誘導できたわけだが、背後では、実は、2012年のギリシャ危機の際に、ギリシャの財政破綻か、あるいはユーロ離脱を防ぐために、当時のECBのドラギ総裁が、ECBは絶対にギリシャを救済すると明言したために、投資家たちがユーロ売りを断念し、代わりにその後の投資対象として意識を向けたのが日本市場だったということなのだそうである。


ギリシャ危機回避後のそのころの円安が順調に進行した時期に、当時のドイツのメルケル首相が、中国市場へのドイツ製品の輸出が多少不利になったことがあったために、その時に日本のアベノミクスによる円安政策を感情的に非難したということがあった。それに対して、そのときに日本の財務大臣だった麻生太郎元首相は、この上ない不快感をメルケル首相に対してあらわにして、彼女は、いったいどういうつもりで我々に対してそういう口を利くことができるのか理解に苦しむというような反応をされたことを覚えている。


麻生太郎元首相が、なぜそのときにあれほどの不快感を隠すことなく公然のことにしたのか、その時は私にはその理由がわからなかったが、きっと、ECBのドラギ総裁によるギリシャ救済の発言の背後には、日本の金融当局(そのころは民主党の野田内閣のはずである)によるECBへの支援が水面下で誓約されていて、そのおかげで、ギリシャの財政破綻も回避され、その結果ドイツ経済も「大やけど」をかろうじてまぬがれることができたのに、場面がこういう風に変わると、メルケル首相という人は、恩知らずもいいことに、そういう手前勝手な話を遠慮なく公言する人なのか、というように、麻生先生はこのとき、ひどく立腹されていたのではないかということが今頃になってようやくわかってきたようなところである。

禁酒の戒律

本題に入る前に、関係のない話題を2つ並べさせていただく。


まず、生稲晃子外務政務官の被った理不尽な災難の件だが、これは、はじめに韓国政府が、生稲政務官がかつて靖国神社に参拝したとして、それをとがめて、佐渡市での追悼式への政府代表の出席を見送ったのだが、そうしたら、共同通信社がいきなり誤報を配信したことを自発的に発言して謝罪し、それに対して韓国政府は、今度は、以前とは打って変わって、追悼式への代表出席の見合わせは諸般の事情のためであるとの回答を示し、その件について共同通信社を非難することもなければ、不当な攻撃をされた生稲政務官に対する陳謝も全くないという展開になった。その後はさらに、種子島宇宙センターでの小型ロケットのイプシロンSのエンジン燃焼実験が爆発により再度失敗するというおまけまでついた。あまりに話の流れに説得力が満ち溢れているので、きっと、苦笑するにも苦笑できない人が多いのではないかと思われる。後でこんなことも書き加えた自分が大きな後悔をすることになるような気がするが、この一件を準備するために立ち回った者たち全員は、いつか、思わぬ時に、森山自民党幹事長から、大変厳しい「お仕置き」をされることになるのだろうと、いまのところ私はそう考えているところである。こんなことを手配した連中が、後でただで済まされるはずがないのである。


つぎの余計な話は、上記よりもはるかにちんけな話題といっていいと思う。性懲りもなく、また、ヤマダヒフミさんが武蔵大学の北村紗衣教授とそのとりまきの一人に無用と思われるような論難をしたのだが、自分の出身校の大学をまともに公表できないようなヤマダヒフミさんが、東京大学教養学部を卒業して、さらにイギリスの大学で哲学博士号を取得した北村教授と対決しても絶対にかなうはずがないのである。この人は、どうしてそういうことがいつまでもどうしても分からないのだろうか。


私は、北村教授とは、関心も問題意識も、どちらも焦点がかなり別様なところにあると思っているので、北村教授とむりに対立する気持ちはさらさらない。北村教授は、自身の出身の高校の同窓生である北口榛花選手に強い好意をお持ちのようだし、北口選手も、どうも、私に対しては、共感してくださることが多いようである。それに、私としては、武蔵大学教授の北村紗衣教官といらぬ悶着を起こして、そのために、武蔵大学の卒業生の現在の六代目神田伯山先生に迷惑をかけるようなことは絶対にしたくないと思っている。神田伯山先生も、その大切な友人である現在の三代目の柳亭小痴楽師匠も笑点に出演されている人気者の桂宮治師匠も、私のとても大切な同志たちであるという風に私は認識している。わたしが北村教授といらぬ争いをすることで、仮に、小痴楽師匠の六代目柳亭痴樂襲名に支障が生じてしまうことになったら、わたしはそのことを後悔してもしきれないだろうと思う。


私は、そのほかにも、北村教授にとっては不快な人物のひとりであるらしい東浩紀さんとも、無理に対立点を探す気が今のところは全くない。この人も、私とは、関心も問題意識もかなり隔たりのある人だろうと考えている。こういうあからさまないい方はとても失礼なのだが、私は、東さんという人が、神戸学院大学の上脇博之教授のようなやりかたで、実力行使で萩生田光一衆議院議員や高市早苗衆議院議員や西田昌司参議院議員と「刺し違え」の「相討ち」になることをはなっから覚悟で、命を張って、まさに生き死にをかけて対決するような意欲と度胸を示すような人だとは思っていない。東さんは、自民党安倍派の支持者たちの大半とは、口論で彼らを言い負かせればそれで満足している人で、上脇教授のように、萩生田先生を刑務所送りにすることに成功するか、さもなければ、自分のほうが路上生活者に転落するほかなくなるかというくらいまで思い詰めて、萩生田議員や高市議員や西田議員と「ガチンコ」の対決を演じる考えなど全くない人だろうと、私は考えているところである。


いろいろ、本題と関係のない話を長く並べてしまったが、以下に、上記の記載よりももっと内容豊潤であるはずだと自分としては考えている話題への言及に移らせていただく。


かつては、インドの社会と、イスラム教徒の社会は、どちらも、人類全体の精神活動の指導の中心となっていたといっていいほどの偉業の量産に成功していた。


しかし、資本主義経済が発展していくうちに、どういうものだか、インドの社会も、イスラム世界も、西欧と日本の社会に後れを取るようになっていってしまった。それが、経済だけではなく、学術にも政治にも及ぶようになってしまったのは、今考えると、かなり不思議なことだったといっていいのではないかと思われる。


その原因を探すと、いろいろな話題を見つけることができるのだろうと思うのだけれど、その中でもかなり大きなことがらには、もしかしたら、ヒンドゥー教も、イスラム教も、飲酒を禁止する戒律が厳しいことも取り上げることが可能なのではないかと思われる。


おおっぴらに飲酒ができないということは、醸造業者を積極的に育成することがはばかられるということである。すなわち、発酵産業をのびのびとは発展させられないのである。


飲酒が禁止されるどころか、美徳でさえある場合がある西洋社会の場合は、スコットランドのウィスキー醸造業者も、フランスのワイン製造業者とブランデー製造業者も、ドイツのビールの蔵元も、きっとみんなその地域社会の名士で、多くは下級貴族かもともとは下級貴族の出身者ばかりだろうと思われる。


日本では、祭事の時にはふつうは清酒が神前に奉納され、日本酒の蔵元は、どの地域でもたいていはみんな名門の名家ばかりである。九州の焼酎の蔵元たちも、それぞれの地域の名士たちのようである。


そういう感じで、西欧社会や日本社会と違って、酒類の醸造業をはじめとする発酵産業を大きく育成できなかったことは、インド社会とイスラム社会にとっては、貨幣経済が浸透し、流通業と製造業が成長した後は、とても不利に作用しただろうと思われる。


乾燥している気候の場所がほとんどのイスラム世界にしても、あまりに高温多湿であるために食物の腐敗が急速で容易なインド社会でも、発酵産業を熱心に発展させる動機付けと社会資源は乏しかったはずで、ある意味、生活の基本となる自然条件が宗教的戒律に結実するほど社会の成員たちに禁酒を強く要求したということだったのだろうと思うが、こういうような話も、資本主義経済の出現と発展についての育成要因と制約要因という考え方の材料にすることが可能なのではないかと思われる。

陽明学受容の可否について

中国、朝鮮半島、ベトナムとはちがって、日本は、漢字文化圏の中ではどういうものだか例外的に陽明学の定着が可能な場所だった。では、なぜそうだったのか。私見に過ぎないが、とりあえず思いつくことができた、その原因らしき日本特有と言っていいのであろうかつての状況を以下に示してみたい。


1.武家が統治する軍事政権の時代が長く継続して存在した。


王陽明先生は武人であった。陽明先生が司令官として盗賊討伐をされたことはとても多かったそうである。それゆえ、武家が統治主体だった日本では、陽明学に対して共感を持つ人たちが多かったのは不自然ではなかったと思う。その他の東アジアは、基本的には文官統治の社会であった。


2.科挙がなかった。


1.と関係が深いのだろうが、高級文官登用試験としての科挙が日本にはなかった。そのために、社会の上層エリートの関心が科挙の試験科目だった朱子学だけに集中するということがなかった。世襲社会の日本では、朱子学は基本的にはあくまでも模範的な教養で、朱子学を熱心に学ぶだけでは、高級官僚の職を得て階級移動の機会を得るのは極めて困難だった。ついでに、朱子学者たちも、江戸時代の日本の場合は、ほとんどの者は、ある仏教宗派の菩提寺の檀家にさせられていた。


3.異民族支配ではなかった。


明朝後期の時代には、明朝の朝廷は、陽明学に対してある程度は寛容だったみたいである。その次の王朝の清朝はm陽明学の弾圧にはとても熱心だったようである。その清朝は少数民族の満州族が支配する王朝で、李氏朝鮮もベトナムの阮朝も清朝の朝貢国にさせられていた。日本は、満州族支配の清朝の朝貢国ではなく、清朝とは正式の外交もなかったくらいだったそうだから、多くの日本の陽明学者たちが公然と日本国内で陽明学についての著作を刊行していてもそのことを清朝から抗議されたことはなかったようだし、仮にあったとしてもその種の内政干渉を跳ね返す力を江戸幕府は有していたようである。


4.日本は多元社会であった。


中国では伝統的に、建前としては皇帝の一元的政治支配が成立していることになっていた。皇帝が朱子学が官学であると宣言すれば、それ以外は異端であるほかはなかった。中国の朝貢国にさせられていた朝鮮半島とベトナムの王朝もそれに従って、朱子学のみを正統として、それ以外は、極端な場合には破邪の対象とするほかはないようなものだったようである。


しかし、日本では、支配者階級は武家だけではなくて、事実上無力ではあっても朝廷とその周りの公家もいたし、武家にしても、幕府と、幕府の直属家臣の旗本と御家人と、幕府の親戚の大名だった親藩と、幕府の由緒ある家来ということになっていた譜代大名以外に、さらに外様大名という、幕府と対立し、幕府に警戒されている地域的な独立採算制の徴税軍事政権も世襲の藩主たちの支配下で存在することができていたことも、日本で陽明学が成立できる大きな要因だったはずだと考えてよいと思う。


日本の代表的な陽明学者であった熊沢蕃山先生は、京都の公家たちの強い支持を集めていて、幕府とは良好な信頼関係を得ていた外様大名の備前岡山藩の池田家の家老の職まで得られた人だった。こういう風に、江戸時代というのが、幕府の独裁ではなく、ある程度はいろいろな社会的立場と社会的機能を発揮できる支配者階級が複数存在できたことが、日本だけが東アジアの中で唯一陽明学を受容し、陽明学者たちを養成できた最大の原因だったのかもしれない。江戸時代には、朱子学は官学ではあっても、重要な模範であるだけで、絶対唯一の規範の地位を得たことは、日本では全くなかった。それは、朱子学の公認以前に朝廷や、将軍家や、多くの戦国大名たちの強い支持を得られたことがあった、天台宗にしても臨済宗妙心寺派にしてもやはり同様のことであった。


とにかく、陽明学を日本が受容できたために、あらゆる分野で実証的な研究の方法論を駆使する学術的な成果を江戸時代に自発的に量産できたし、多岐にわたる産業技術に対する学術的な態度での調査や分析も数多くなされたし、西洋の学術を導入する上での心理的な準備と研究方法の確立も達成できたといって間違いないと思う。


これから、西洋化、近代化を軌道に乗せることを希望する第三世界の各地域にとっては、陽明学の若干の内容と、日本の陽明学者たちの学術上の業績の概要を調査してみることは、決して無意味なことではないように思われる。


付記(2024.11.28):江戸幕府も、キリスト教や日蓮宗の不受不施派などは、つねに厳しい弾圧の対象にしていた。また、江戸幕府は、日蓮宗の総本山は身延山であるということを強行して指定し、修験道については日蓮宗系を一切承認しないで真言宗系と天台宗系に完全に二分して色分けし、浄土真宗の中心勢力も、東本願寺の大谷派と西本願寺の本願寺派に無理に分割した。そういうことも、江戸幕府が、陽明学に対してはある程度寛容であろうとした理由だったのかもしれない。


陽明学と日本神道を優遇した備前岡山藩の場合は、(おそらく陽明学の影響が濃厚だったはずの)教派神道の宗派の黒住教の教団と黒住教の教祖に対する日蓮宗の聖職者たちやその周囲の狂信者たちによる迫害と嫌がらせはどうも熾烈を極めたものだったらしい。岡山県は、どうも日蓮宗不受布施派の中心地ならしい。大塩の乱を起こした大塩中斎先生を過激な陽明学者であったということにしたのは、明治時代の国柱会(代表的な日蓮宗系在家教団)の関係者たちだったのかもしれない。大塩先生は、日蓮宗不受布施派の全国一斉摘発の中心人物のひとりだったそうである。さらに詳しく調べていくと、大塩先生は、朱子学の影響をかなり濃厚に受けているそうで、純粋な陽明学者であったと考えるのは随分無理があるのだそうである。


そういうようなことで、どうも、仏教よりも日本神道を重視する傾向があった陽明学者たちを意図的に悪宣伝しようとする勢力が、かつては色々と存在したようである。その種の事柄について、江戸時代の寺社奉行たちがどのように対処していたのかは、自分にはいまのところは不明である。

小惑星イトカワ、小惑星リュウグウ、そしてこれから衛星フォボス

この種の話題は、高市早苗前大臣や小林鷹之元大臣などが大変お好きな話題の一つなのではないかと存じ上げている。高市議員や小林議員が好む話題であるということは、ほぼ間違いなく、西田昌司参議院議員も、木村三浩一水会代表も、格闘家の前田日明さんも好きな話題だろうし、さらに、発明家のドクター中松長老のお名前も加えないと失礼に当たるのだろうと思われる。まだまださらにいろいろな方々のお名前を加えられるはずだけれど、そうしているときりがないので、残念ながらここまでにさせていただく。


日本の宇宙探査機のはやぶさとはやぶさ2が、かつて、小惑星イトカワと小惑星リュウグウのサンプルリターンに成功した。大偉業である。火星の外側の太陽系のあり方の多くがかなり具体的に分かるようになるための糸口が獲得できたと言っていいと思う。次に予定されている探査機によるサンプルリターンは、火星の衛星で、大きい方の衛星であり、内側の軌道を周回しているという衛星フォボスに狙いをつけているという。これが実現できれば、わたしたちの住む地球を含めて、太陽系の成り立ちが更に詳しく解明されるのだろうし、その次には、火星の小さな方の衛星で、外側の軌道を周回しているダイモスの方も、サンプルリターンを成功させるための準備と用意になるのかもしれない。


なんで、こんなような、直接の事業利益に全く繋がらないような話がとても重要なのかというと、じつは、それまで未知であったような知識を、無理を重ねて獲得していくことこそ、その後に、経済発展にとって最重要の要素を提供する事例が過去には極めて多かったからである。特にわかりやすい具体的な話を一つ上げれば、コロンブスが大西洋横断に成功しなかったら、その後にペルーの銀山も見つからなければ、五大湖周辺の丹田と鉄山も、テキサス州やオクラホマ州の油田も見つからなかったというようなことである。コロンブスこそが、アメリカの資本主義経済の最初の祖先のはずである。


経済学について、知ったかぶりの話を少ししてみると、どうも、イギリスの大経済学者のデヴィッド・リカードは、市場経済を原則の通りに事実上規制をなくして継続させていくと、そこでの商品交換により生じる利益はどんどん枯渇していくしかなくなるという指摘をしたらしい。それに対して、フランスの大経済学者のジャン・バプティスト・セイは、本来の企業家とは、それまで資源化されなかった物事を資源化する人たちであり、そういう人たちが、経済の新天地の開拓者たちであるという指摘をしたそうである。そのセイ先生はさらに、それゆえ、企業家とは、社会に変動と不安定をもたらすしかない存在でもあるという指摘も合わせてしたそうである。そして、オーストリアからアメリカに移住した大経済学者のジョセフ・シュンペーターは、経済発展はただ、イノベーション(革新)だけが可能とするものであり、全く新しい何物かあるいは全く新しい何事かを既存市場あるいは新市場に持ち込むことだけが、その後の経済活動での利潤拡大を可能にするという結論を示したのだそうである。


そういうわけで、宇宙探査機によるサンプルリターンの成功は、おそらく、そして間違いなく、未来の偉大な、経済だけでなく多くの分野についてのイノベーション(革新)の源泉をこれから提供してくれるはずだと思われる。


きっと、こういう記事は、読者の方々の多くにとって、読んだあとに気分が良くなる話題だろうと思われる。いつもこの種の話題を探し当てるのは難しいのだが、時にはこの種の話題にも触れるように努力したいとはいつも念じているところである。
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