あまりにも良い本なので、どうまとめてよいかわからない。自分がつたなくも理解できたと思い込めたところだけ紹介させていただく。無論ひどく難解な書物ではない。しかし、読解して読み通すためには、ある程度の知的準備が必要な書物でもある。

著者は、フランス人に日本語を教授する仕事にも携わっている哲学者である。そういうわけで、問題意識は、外国人に日本語を運用させることができるための日本語文法の確立、という日本人にとってきわめて困難な課題を背負っている方である。そういう方が、日本語文法を題材にして、日本人が哲学的思索を行うということはどういうことかも射程に入れて、論理学、日本語論、日本語文法論をまとめてくださっている。

表題に、本居宣長、西田幾多郎、三上章、柄谷行人の名が記されているので、この4人の名前を利用させてもらって、内容を少し紹介させていただく。

明治の日本語文法研究者が頼りにしたのは、江戸時代の国学者の国語研究成果、特に本居宣長のそれだったそうである。本居宣長は、係り結びの発見を基にして、画期的な助詞文法論を展開し、その成果は、現在の日本語文法学も強く拘束しているそうである。

宣長の弟子の鈴木朗の文法学を大胆に取り入れて、日本語を「詞」と「辞」に分別した時枝誠記も、同時代の西田哲学の影響を強く受け、西田のドグマが時枝の先入観を強く構成していたのは必然で、やむをえないものらしい。その西田哲学の大きな主張点は、場所論だが、これは今考えると、日本語の助詞の機能から抽出した議論とみなせるみたいである。それから、西田がおそらくカントの「純粋理性批判」の影響であろうが、主語と述語に強くこだわり、この点が、のちにおそらく、和辻哲郎の日本語で哲学することの利点の思想に結びついていることが観取可能ならしい。ただし、西田とカントの関係については、ブロガーである私による補足である。また、西田幾多郎は、西洋の概念である「神」に対して「絶対無」を対峙させ、これは、禅や大乗仏教の影響から引き出した構想とされているが、「絶対無」については、ベルクソンも「創造的進化」で少し言及しているので、西田は、仏教の知識を利用して、ベルクソンが少しだけ言及した「絶対無」の発想を展開したかったのかもしれない。「絶対無」とベルクソンの関係の知識もブロガーによる補足であることをお断りしておく。

三上章は、優れた文法学者で、格助詞と係助詞の関係、特に助詞「は」の機能に日本語理解のつぼを見出した人で、この文法学者が著者に大きな影響を与えているのであるが、この偉大な日本文法学者が、現在正当な評価を受けているとはいえない状況にあるらしい。むしろ、三上からの逸脱が注目されてさえいる状況のようである。

和辻哲郎の今思えば恥ずかしい、「ハイデガー批判」、「ハイデガー超克」、「哲学言語としての日本語の優位」の言説も、厳密に、日本語文法の知識を適用して和辻読解を進めると、和辻の議論の詐術が明瞭になり、和辻の立論がもろくも崩れ去ることを、著者はこの著書の中で証明してくれている。しかし、著者は、和辻の結論については異論を提起するが、和辻の問題提起そのものまで誤っているとしているわけではない。それが、柄谷行人への言及に連なっていく。

柄谷行人は、思想において主軸を成すもの、意識的なものは、歴史的なものであり、流入語彙、創出語彙、表記法の工夫などであり、非歴史的なものである文法ではないと説く。そして、宣長らの「詞と辞」の区別とは、基本的に漢字表記されるものとかな表記されるものの区別であり、文法機能から抽出した概念ではない、と説明する。柄谷のこの問題提起は、著者を動揺させたようである。さらに、柄谷は、日本を考えるためには、何よりも、地政学的に、古代から現代まで日本に影響を与え続けた朝鮮半島の研究が欠かせないと提案する。

こんなところが、このすばらしい著書のつたない情けない紹介である。

自分として、この著書に対して意見を持つとすれば、日本語の特性として、助詞、とくに助詞「は」の問題だけでなく、動詞と形容詞が同じ資格で用言となること、動詞の活用類型は、未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形あるいは已然形、命令形に統一できるのに、活用形態が豊富であることなどは、日本人の発想や着想にどういう特色を与え、日本人の考えをどう拘束しているかに言及がなかったので、その点、どういう理解が可能な知りたいものだと思った。

また、西洋語のcopura(繋辞)の問題にも言及し、ここが西洋語の大特色であると規定されるが、私などには、英語もフランス語もドイツ語もbeとhaveが助動詞となって、受身や完了時制に重要な働きをすることのほうが、copuraの問題よりも西洋人の発想を強く規定しているように思われるのだけれど、文法と思想の問題をつきつめて極めていくだけでなく、語法と思想の関係にまで裾野を広げて論じてもらえると、言語と論理形成と思想の関係についてもっと納得の行く議論が展開できるのではないかと思った。

また、柄谷の朝鮮半島への注目に対しては、逆に、同じ漢字文化圏でありながら、これまでまったく日本人がほとんどまったく看過してきたベトナムとの関係はどうなのかも今後は考えたいテーマだと思う。朝鮮の無視は軽視が原因であるが、中国、朝鮮と違い、ベトナムとは交流そのものがないといっていいほど関係が希薄であった。しかし、ベトナム文化には、日本人が見過ごしてきた中国文化のある側面が必ず潜んでいる。この点も今後注目したい観点だと思われる。そして、チベット仏教は、インドのサンスクリット仏教も中国仏教も自国語に翻訳して咀嚼消化したが、日本仏教、朝鮮仏教、ベトナム仏教は、中国仏教だけを事実上受容して、成立してきた。この点がチベットとどういう差異を生んだか、インドとチベットと漢字文化圏の仏教の比較も、朝鮮、ベトナムへの注目と並行して行われるべき課題だと思われる。日本をより確実に知るためには、まず軽視してきた重要で重大な朝鮮半島に加え、まったく目に入らなかった、遠い親戚であるベトナムとチベットへのまなざしも今後不可欠になろうとわたしには思われるのである。

とにかく良い本である。すばらしい書物である。もちろん、私が疑問を持った意見にまで回答しようと思ったら、いつまでもけりがつかない話になりかねない。この内容量の書物としては、これ以上充実した良書はめったにないと思う。それゆえに、わたしも著者の考えをずいぶん曲解していると思う。しかし、それは、著者と私がどれほどかでも対話ができた証だと思っている。