千葉雅也さんには、古典古代の重視に違和感があるようだけれど、千葉さんも、50歳を過ぎると、あるとき、アリストテレスや荀子や龍樹菩薩の破格の偉大さに気が付く日が来るはずである。


千葉さんが50歳をいくつか過ぎると、きっと、若い人たちに、古典古代を重んじるように説くようになり、ギリシャ語やラテン語やサンスクリットを学ぶことは大変良いことだというようになるはずである。


だいたい、千葉さんの専門のジル・ドゥルーズにしても、エピクロスやルクレティウスやドゥンス・スコトゥスを重視している。古典と無縁の大学者などいないのである。ミシェル・フーコーの先達のニーチェもハイデガーも、出発点は、ギリシャ古典学者だった。


千葉さんも、なぜそうでないといけないのかがわかる日がきっと来るはずだと思う。


付記(2020.6.1):私も、ある年齢になるまでは、ギリシャ古典や仏典や中国古典の価値などわからなかった。若いころは、量子力学や非平衡熱力学の議論や向精神薬などの生理活性物質の利用による意識の変容などにひどく関心を持ったものである。そういう議論のほうが、新しく高度で、新鮮だと思っていた。若いころは、最先端にこそ価値があると思ってしまう。ほとんどの人はそうだろうと思う。しかし、人生経験を重ねると、はるかな過去の賢人の洞察の深さや見通しの確かさに恐れ入り、最近の賢人たちの賢さも、過去の賢人たちからの学習の成果であることがわかってくる。


私の御恩ある武道の恩師も、お若いころは、自身の神道系流派の武道を紹介する書物で、剣術の効果の説明に、高度な力学的、数学的解説を加えられる記載をされるような方だった。この方は、きわめてすぐれた自然科学者でもある方である。その方が、老境に入って、私に助言してくださる書簡の返信をくださるときには、論語などのすぐれた中国古典を引用して私を指導訓育してくださるようになった。人生経験が蓄積されると、だれでも、まともに努力して生きている者ならば、はるかな過去の賢人たちの賢明さがわかるようになってくるのである。


千葉さんもとても優れた人だから、50歳をいくつか過ぎると、いま私の言っていることがよくわかるようになるはずである。千葉さんはまだ42歳だからよくわからないのである。人生経験を蓄積しないとわからないことはたくさんある。貝原益軒先生が健康で長生きするようにと教えられた理由はこんなところである。


付記(2020.6.3):人間、長く生きていると、あるとき、自分は大したことをしてこれなかったことに気が付くものである。


そして、何かのきっかけで古典の記述を調べて古典を読み直してみると、かつての賢人たちの恐るべき賢明さが了解できる時がやってくる。


その時、自分がいかに怠け者で卑小でつまらないみすぼらしい人間だったかを思い知るようになる。それにたいして、古代の偉大な賢者たちがいかに純粋で、ひたむきで、集中力と忍耐力にすぐれ、創意工夫に満ち、高貴な魂を持っていたかが理解できるようになる。


そういう風にして、じぶんが怠け者で、卑小なみすぼらしい人間であることに気が付くと、それからは、古代の賢者たちの偉大な模範に従って生きようと努力することになる。もちろん、古代の賢者のようにはまるっきり生きられない。


それでも自分が卑小なつまらない怠け者であったということに気が付くことが、自分もまた古代の賢者たちのようになる出発点で、そういう、古代の賢者の通った道を歩きなおそうと努力し始めることが、また、次の時代のあたらしい賢者たちの準備と用意につながるものなのである。


そういうことが分かったときは手遅れになる人が多いし、もちろん、一生そういうことがわからないで死んでいく人たちが圧倒的に多いわけだけれど、たぶん、千葉さんは、手遅れにならないで済む年齢で、私が今言っていることを思い知る日が来ると思っていますよ。