Bloga enneagramica (ブロガ・エニアグラミカ)

IT革命の先にある社会の創造に貢献することを目的として、拙いながらも文章を紡いでおります。 (管理人:enneagram)

努力して、わたしたちみんなが欲するような知識社会を未来に生み出したいものです。

野暮

悪口と好評

ヤマダヒフミさんが、肯定意見は歓迎されても批判は封じられる傾向の現在の世相について悲観的な意見を出されたことがある。


いろいろな時事についての正当な批判が悪いとは自分も思わないけれど、批判行為がどうしても不適切なものになる分野というのも、これはどうしても存在してしまうのもこの世の中であるといえると思う。なんでも、何が良くて何が不適切かは場合によるのであろう。


女性芸能人の話をする場合、その人がまだ若い場合なら、うかつなもてはやし方や、うかつな悪評は、自分なんかには公然とは出しにくい。もちろん、事実に基づいて、しっかりした根拠のある悪評をいうのなら、自分の意見の正当性をどこまでも主張できるのだろうけれど、それでも、あまりな表現は、はばかられる場合が多かろうと思う。若い女性芸能人に対して悪評を出すとしたら、そこには教育的配慮みたいなものは必要だろうと思う。


だいたい、スポーツ芸能の興行の世界を仕切っている人たちがかかわっている人たちの中には、いろいろな種類の人たちが混ざっているのである。若い女性芸能人に、自分が好きだからと言って近づいて、あまりになれなれしくしたり、世間で評判のいい女性芸能人のことを、感情的に、大した根拠もなく、あまりにひどい悪罵を執拗に重ねたり、そんなことをしたら、そういうことをしている人が後でただでは済まないことになることが多いのではないかと思う。


私は、女流の寄席芸人の人たちについては、実力相応、実績相応、成果相応のほめ方をする努力をしている。もちろん、私だけが期待過剰な思い入れをしている人たちも何人かはいるであろう。それは、自分も人間なんだから仕方のないことだと思っている。


優れていれば公然とほめるし、それほどでもないと思ったら、あえてその時には取り上げないということである。芸人の芸の出来不出来は、時や機会や事情によることが多い。それほどいつも安定しているわけではない。鑑賞するこちらの体調や気分によっても感想はずいぶん違うものになる。また、女流芸人については、原則として、容姿の話はできる限り控えるし、その点のあまり極端な表現はしないようにしているつもりである。


女性の芸能人、特に、古典芸能の女流芸人の芸を、正しい批判だと主張して、傷を探したり、不備や不用意を公然と指摘したりするのは、客としては悪趣味で野暮である。公然としかりつけるとしたら、無礼や不見識がはなはだしいと思われる場合だけである。


批判というのも、多分に主観に寄りかかっていることが多い。客観的な批判を心掛けている批判者が、どの分野でも世の中にどれだけいるだろうか。


私は、女流の寄席芸人の芸の批判は、基本的には公然とはしないつもりである。彼女らの美点を探す努力をする。そういう風でない客というのは、彼女たちをあえて(、時には思い切って)起用する興行主たちにとっては、野暮で野蛮で下品で迷惑な客に過ぎないだろうと思っている。


興行主たちは、どんなに優れた芸能人を起用するときも、常に期待と不安を両方抱えて彼ら彼女らを起用しているだろうと思っている。客の側にも、その点についての配慮と理解は、ある程度は必要なことだろうと思っている。

機能的なものはたいてい審美的である

ものごとは、あんまり実用的すぎると野暮ったくなってしまう。デコレーションなしのトラックにかっこよさを感じる人は少ないと思う。路面電車も同様であろう。


しかし、機能性を突き詰めていくと、審美的に優れたものができることはよくある。


フェラーリやランボルギーニのイタリアンスーパーカーが好例である。流線型のなまめかしいスポーツカーは、美意識の高いデザインがなされているといっていい。高速走行をひたすら目的とすることで、あの形態にたどり着いたわけである。


自動車でなく、スポーツだと、ある種の中国武術とか、日本の古武道や合気道や居合道の形(かた)の中には、審美的に優れたものがいくつも見られる。非常に戦闘目的に即して形成された武道の形は、優れた武人によって演武で演じられるとき、感嘆すべき見事さの武芸となる。もちろん、実戦ではいつもそのままは応用できないだろうが。それでも、機能的であることに、審美的であることがついて回ることはよくあることである。でも、審美的なフィギュアスケートが逆に機能的になることはないわけで、逆は真となるわけでもない。機能的でも、ノルディックスキーでは、あまりカッコよさは発揮しにくい。こういうこともある。


そんなところで、機能的であるがゆえに審美的であるというようなことは珍しくなくて、私の文章も、十分実用的ではなくても、機能的であり、社会的有用性があることを目標にしている。それゆえ、私の書いた文章でも、記事の中には、読者が審美性を感じ取れるものもいくつかはあろうかと思う。プロの芸人の、春風亭一花ちゃんなんかにそのあたり尋ねる機会があったら、たぶん、私がニュートンとゲーテの関係なんかを論じたような文章とか法華経のことを扱った文章の一部には、審美性があるような気がすると回答してくれるように思っている。


他人の悪口で記事を終わらせるのは気が引けるのだが、申し訳ないけれど、私は、ヤマダヒフミさんや南井三鷹さんの書いた文章を読んで、彼らの書くものが審美的であると感じ取れない。主観的で、実証性に欠けていて、手前勝手な理屈で自己正当化を重ねていく彼らの文章には、正直、醜悪さを感じる時もある。


彼らの書く文章がなぜ審美的でないかというと、彼らの書く文章が、実用性も機能性も有用性も乏しいもので、彼らは彼ら自身にはとても正直でも、人間性の奥深い真実や神性について、本当のところはひどく無知で、本音では社会というものをひどく見くびっていて、世間に対して斜に構えて、ひねくれたからかいを交えたすえた感情を抱えながら、自身が見下しているはずの世間に向けて発信を続けているからだろうと思う。


現代文学の不毛を主張する彼らだが、彼ら自身もそういう現代文学の不毛さに加担している人たちで、現代における審美性の回復は、まず、機能性の回復から着手すべきかもしれないと思ったりする。


付記:司馬遼太郎作品が審美的といえるかどうかわからないけれど、司馬遼太郎作品にも審美性があるとしたら、それは、彼の作品の機能性に負うところが大きいと思う。歴史について、ある見方を提供してくれているわけで、教養としては、すぐれた水準に達している部分が確かにある。純文学再生の模範は、もしかしたら、司馬遼太郎作品に見つけられるのかもしれない。そこでのキーワードは、「機能性」である。


付記(2021.1.3):阿佐田哲也作品も、麻雀の心理を通して、人生を活写している。ここでも、機能性が審美性に結びついているといえる。大衆小説だと、こういう創作方法がとりやすいのかもしれない。

[CD評] 古今亭志ん朝1 お見立て・火焔太鼓  (古今亭志ん朝;ソニーレコード)

古今亭志ん朝の1999年の録音。

「火焔太鼓」は、古今亭一門の奥の手の出し物なので、これは気迫の塊のような名演である。

三遊亭圓生師匠の場合は、はなしがうまい、なのだろうけれど、志ん朝の芸は、まず、わかりやすくて面白いが出発点である。落語は面白く無いとやはり価値の半分は実現していないと思う。

橘家圓蔵の「火焔太鼓」も聞いたことがあるけれど、あまりにコミカルで、初めから終わりまで全部笑いを取ろうとするような落語で、こういうのは上手すぎてかえって面白くないということになってしまうだろう。

ダラダラ長い話は避けたい。こっちが野暮ったくなってしまうから。
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