ヤマダヒフミさんが、肯定意見は歓迎されても批判は封じられる傾向の現在の世相について悲観的な意見を出されたことがある。
いろいろな時事についての正当な批判が悪いとは自分も思わないけれど、批判行為がどうしても不適切なものになる分野というのも、これはどうしても存在してしまうのもこの世の中であるといえると思う。なんでも、何が良くて何が不適切かは場合によるのであろう。
女性芸能人の話をする場合、その人がまだ若い場合なら、うかつなもてはやし方や、うかつな悪評は、自分なんかには公然とは出しにくい。もちろん、事実に基づいて、しっかりした根拠のある悪評をいうのなら、自分の意見の正当性をどこまでも主張できるのだろうけれど、それでも、あまりな表現は、はばかられる場合が多かろうと思う。若い女性芸能人に対して悪評を出すとしたら、そこには教育的配慮みたいなものは必要だろうと思う。
だいたい、スポーツ芸能の興行の世界を仕切っている人たちがかかわっている人たちの中には、いろいろな種類の人たちが混ざっているのである。若い女性芸能人に、自分が好きだからと言って近づいて、あまりになれなれしくしたり、世間で評判のいい女性芸能人のことを、感情的に、大した根拠もなく、あまりにひどい悪罵を執拗に重ねたり、そんなことをしたら、そういうことをしている人が後でただでは済まないことになることが多いのではないかと思う。
私は、女流の寄席芸人の人たちについては、実力相応、実績相応、成果相応のほめ方をする努力をしている。もちろん、私だけが期待過剰な思い入れをしている人たちも何人かはいるであろう。それは、自分も人間なんだから仕方のないことだと思っている。
優れていれば公然とほめるし、それほどでもないと思ったら、あえてその時には取り上げないということである。芸人の芸の出来不出来は、時や機会や事情によることが多い。それほどいつも安定しているわけではない。鑑賞するこちらの体調や気分によっても感想はずいぶん違うものになる。また、女流芸人については、原則として、容姿の話はできる限り控えるし、その点のあまり極端な表現はしないようにしているつもりである。
女性の芸能人、特に、古典芸能の女流芸人の芸を、正しい批判だと主張して、傷を探したり、不備や不用意を公然と指摘したりするのは、客としては悪趣味で野暮である。公然としかりつけるとしたら、無礼や不見識がはなはだしいと思われる場合だけである。
批判というのも、多分に主観に寄りかかっていることが多い。客観的な批判を心掛けている批判者が、どの分野でも世の中にどれだけいるだろうか。
私は、女流の寄席芸人の芸の批判は、基本的には公然とはしないつもりである。彼女らの美点を探す努力をする。そういう風でない客というのは、彼女たちをあえて(、時には思い切って)起用する興行主たちにとっては、野暮で野蛮で下品で迷惑な客に過ぎないだろうと思っている。
興行主たちは、どんなに優れた芸能人を起用するときも、常に期待と不安を両方抱えて彼ら彼女らを起用しているだろうと思っている。客の側にも、その点についての配慮と理解は、ある程度は必要なことだろうと思っている。
いろいろな時事についての正当な批判が悪いとは自分も思わないけれど、批判行為がどうしても不適切なものになる分野というのも、これはどうしても存在してしまうのもこの世の中であるといえると思う。なんでも、何が良くて何が不適切かは場合によるのであろう。
女性芸能人の話をする場合、その人がまだ若い場合なら、うかつなもてはやし方や、うかつな悪評は、自分なんかには公然とは出しにくい。もちろん、事実に基づいて、しっかりした根拠のある悪評をいうのなら、自分の意見の正当性をどこまでも主張できるのだろうけれど、それでも、あまりな表現は、はばかられる場合が多かろうと思う。若い女性芸能人に対して悪評を出すとしたら、そこには教育的配慮みたいなものは必要だろうと思う。
だいたい、スポーツ芸能の興行の世界を仕切っている人たちがかかわっている人たちの中には、いろいろな種類の人たちが混ざっているのである。若い女性芸能人に、自分が好きだからと言って近づいて、あまりになれなれしくしたり、世間で評判のいい女性芸能人のことを、感情的に、大した根拠もなく、あまりにひどい悪罵を執拗に重ねたり、そんなことをしたら、そういうことをしている人が後でただでは済まないことになることが多いのではないかと思う。
私は、女流の寄席芸人の人たちについては、実力相応、実績相応、成果相応のほめ方をする努力をしている。もちろん、私だけが期待過剰な思い入れをしている人たちも何人かはいるであろう。それは、自分も人間なんだから仕方のないことだと思っている。
優れていれば公然とほめるし、それほどでもないと思ったら、あえてその時には取り上げないということである。芸人の芸の出来不出来は、時や機会や事情によることが多い。それほどいつも安定しているわけではない。鑑賞するこちらの体調や気分によっても感想はずいぶん違うものになる。また、女流芸人については、原則として、容姿の話はできる限り控えるし、その点のあまり極端な表現はしないようにしているつもりである。
女性の芸能人、特に、古典芸能の女流芸人の芸を、正しい批判だと主張して、傷を探したり、不備や不用意を公然と指摘したりするのは、客としては悪趣味で野暮である。公然としかりつけるとしたら、無礼や不見識がはなはだしいと思われる場合だけである。
批判というのも、多分に主観に寄りかかっていることが多い。客観的な批判を心掛けている批判者が、どの分野でも世の中にどれだけいるだろうか。
私は、女流の寄席芸人の芸の批判は、基本的には公然とはしないつもりである。彼女らの美点を探す努力をする。そういう風でない客というのは、彼女たちをあえて(、時には思い切って)起用する興行主たちにとっては、野暮で野蛮で下品で迷惑な客に過ぎないだろうと思っている。
興行主たちは、どんなに優れた芸能人を起用するときも、常に期待と不安を両方抱えて彼ら彼女らを起用しているだろうと思っている。客の側にも、その点についての配慮と理解は、ある程度は必要なことだろうと思っている。