2005年04月05日
進学式
今日は進学式でした。
でもうっかり遅刻してしまいました。
いろいろな連絡事項を聞いた後はクラス全員で記念撮影です。
薬学部は大学の割りにはフレンドリーな学科だと思います。
それからパーティーへ。ビールとかジュースとか食べ物が出されたのでいろいろ食べました。
食べたりないので友達2人と一緒にパーティーの後食堂に行ってお昼ごはんを食べました。そのまま友達と壮大なテーマについての話や生活の話などをした後、学校のパソコンで五月祭の原稿に載せるイラストをスキャナで取り込む作業をしました。
それが終わってコンビニでコエンザイムQ10とαリポ酸が入ったサプリメントを買って帰りました。
これからこのサプリメントについて人体実験を行っていくことにする。
さっそく今日飲んでみたが、特に変化はありません。
不老不死研究が世界に及ぼす精神変化。
前回、幸福について考察したが、今回幸福における格差(前回の相対的幸福レベルに相当する)について考える。
人類は法の下に平等であるという言葉は全くくだらない。今の社会を見て人類が平等などとほざいている政治家は馬鹿以外の何者でもない。ついでに言えば女が差別されているとほざきやがる学者どもの知能も猿並みだ。と少々汚い言葉を使っているが、ここから理論的に分析していく。
まず社会で言っている平等とは全ての人間が等しくチャンスを与えられるという意味だ。誰でも高い地位についたり金持ちになるチャンスを与えられるということだ。これだけの意味で平等と言っているのであれば考えが浅はかだ。人間が持ちうる財産を今から羅列してみる。
金、地位、名誉、才能(頭のよさ、芸術やスポーツのセンスのよさ)、周りの環境、人間関係、容姿、獲得した知識や技術、趣味など何か熱中できるもの、忍耐力、性格、夢とか野望、自由な時間、寿命、(かなり個人的かもしれないが)死に対する恐怖、生への執着心
これらは全て財産と言えるのに、今の社会は金、地位、名誉という尺度でしかものを見ていない。これらの要素を社会的成功と呼ぶ時代はいずれ終わるだろうけどね。さて、容姿とか才能とかはかなり運によるものだし、人間関係とか性格とか自由な時間とかは全てとは言わないが、環境に左右されるところが大きい。実際二世タレントとかは大した努力もしていないのに気楽に過ごしているし、デヴィ夫人みたいな玉の輿が偉そうにしているし、容姿端麗なタレントはテレビ番組に出演しても座ってるだけで金がもらえる。
それゆえ自由な時間が生じやすく結果として多くの財産を得ていくことができる環境にあると言える。
逆に貧乏な家庭に生まれると家計を助けるのに時間をとられ、いろいろな才能を伸ばしていく時間も十分にとれない可能性もある。伸ばす才能は金を稼ぐ才能ぐらいだ。だが実際この世には金にならないが価値のある才能のほうが沢山あるのだ。その証拠に金持ちの家の子供は勉強はほどほどに自分の好きなことを好きなようにやっている。
つまり今の社会は物凄く不平等だ。
そして法制度をどんなふうに変えても平等な社会はまず実現不可能である。
有限時間の条件下においては。
環境が悪い、例えば家にいろいろな事情があったり生まれながらにして病気持ちだったり、という場合に人間はある一定期間において相対的に不幸な状態に置かれる(相対的にと言ったのは絶対的に不幸な状態を定義できないと思ったからである)。相対的に不幸な状態が不平等に繋がるのは、相対的に不幸な状態がある程度の価値を持つからである。つまりひたすら苦労する人生を歩んで老人になってから認められてもあまりありがたみがないであろう。そしてその人の人生において苦労した期間というのが全生涯の大半を占めるので、大きな負の価値を持つのである。これにより社会は不平等な世界観を与えることになるのだ。
ここで寿命が永遠になった場合について考える。
無限時間においてある一定期間の間相対的不幸の状態にあったとする。
しかし相対的不幸の状態から抜け出し、人生がプラスに動き出した時、その人に残された時間は無限のままだ。つまり不幸に対して寿命という分母が無限大に大きくなるので、全生涯における相対的不幸の負の価値は極限的にゼロに近づいていく。未来において不幸が訪れるとしても、未来のことは予測できないし、重要なのは未来に対する世界観なのだ。世界の本質が不幸なものでも、未来に対する無限の可能性を思わせる世界観を持てば、それが未来の世界なのだ。同時に未来において容姿とか才能なども遺伝子操作で変えられるという期待感から、運に左右される財産による格差も大した問題ではなくなる。
つまり不老不死の世界ではあらゆる相対的不幸をゼロに近づけさせることができるのである。俺はこの効果を[無限時間における価値の無限小化]と呼んでいる。
永遠の命を想定した場合、金とか名誉とか安定な平凡な生活といったものも価値は無限小化するだろう。その世界では人生設計という概念がなくなるだろうから、いつか崩れ去るものを持っていても意味がないのだ。今のように有限時間の世界においては意味があるように見えるだろうが。だが未来においては個人の欲求に素直に従う生き方を誰もが選ぶだろう。
永遠の時間があれば生きるのに飽きるだろうという人が必ずいる。
だがそう思った者はその場で死ねばよいのだ。せいぜい満足な人生を送れたのであろう。未来において存在する人間は生きたいという意志を持つ者だけなのだ。生きる者と死に行く者がどちらが正しいかという議論はナンセンスだ。そもそも存在自体に意味はない。(だが不老不死の人間は無限の価値を持つと言える。意味はないのだが。だから殺人は最高に重い刑になるだろう。)
まとめるとこんな感じだ。
不死が実現すれば世界の全ての不幸の重みを極限的にゼロにし、無限の可能性を思い描ける世界観を与え、不平等の価値をゼロに近づけていける世界ができるのである。これは精神変化による現象だが、人間が見ていると思っている世界は個人の世界観なので、精神変化は世界の変化とほぼ等しい。
芸術が人間に大きな精神変化を与えるものであるとすれば、不老不死研究により創られる世界観は偉大な芸術作品と言えるだろう。
でもうっかり遅刻してしまいました。
いろいろな連絡事項を聞いた後はクラス全員で記念撮影です。
薬学部は大学の割りにはフレンドリーな学科だと思います。
それからパーティーへ。ビールとかジュースとか食べ物が出されたのでいろいろ食べました。
食べたりないので友達2人と一緒にパーティーの後食堂に行ってお昼ごはんを食べました。そのまま友達と壮大なテーマについての話や生活の話などをした後、学校のパソコンで五月祭の原稿に載せるイラストをスキャナで取り込む作業をしました。
それが終わってコンビニでコエンザイムQ10とαリポ酸が入ったサプリメントを買って帰りました。
これからこのサプリメントについて人体実験を行っていくことにする。
さっそく今日飲んでみたが、特に変化はありません。
不老不死研究が世界に及ぼす精神変化。
前回、幸福について考察したが、今回幸福における格差(前回の相対的幸福レベルに相当する)について考える。
人類は法の下に平等であるという言葉は全くくだらない。今の社会を見て人類が平等などとほざいている政治家は馬鹿以外の何者でもない。ついでに言えば女が差別されているとほざきやがる学者どもの知能も猿並みだ。と少々汚い言葉を使っているが、ここから理論的に分析していく。
まず社会で言っている平等とは全ての人間が等しくチャンスを与えられるという意味だ。誰でも高い地位についたり金持ちになるチャンスを与えられるということだ。これだけの意味で平等と言っているのであれば考えが浅はかだ。人間が持ちうる財産を今から羅列してみる。
金、地位、名誉、才能(頭のよさ、芸術やスポーツのセンスのよさ)、周りの環境、人間関係、容姿、獲得した知識や技術、趣味など何か熱中できるもの、忍耐力、性格、夢とか野望、自由な時間、寿命、(かなり個人的かもしれないが)死に対する恐怖、生への執着心
これらは全て財産と言えるのに、今の社会は金、地位、名誉という尺度でしかものを見ていない。これらの要素を社会的成功と呼ぶ時代はいずれ終わるだろうけどね。さて、容姿とか才能とかはかなり運によるものだし、人間関係とか性格とか自由な時間とかは全てとは言わないが、環境に左右されるところが大きい。実際二世タレントとかは大した努力もしていないのに気楽に過ごしているし、デヴィ夫人みたいな玉の輿が偉そうにしているし、容姿端麗なタレントはテレビ番組に出演しても座ってるだけで金がもらえる。
それゆえ自由な時間が生じやすく結果として多くの財産を得ていくことができる環境にあると言える。
逆に貧乏な家庭に生まれると家計を助けるのに時間をとられ、いろいろな才能を伸ばしていく時間も十分にとれない可能性もある。伸ばす才能は金を稼ぐ才能ぐらいだ。だが実際この世には金にならないが価値のある才能のほうが沢山あるのだ。その証拠に金持ちの家の子供は勉強はほどほどに自分の好きなことを好きなようにやっている。
つまり今の社会は物凄く不平等だ。
そして法制度をどんなふうに変えても平等な社会はまず実現不可能である。
有限時間の条件下においては。
環境が悪い、例えば家にいろいろな事情があったり生まれながらにして病気持ちだったり、という場合に人間はある一定期間において相対的に不幸な状態に置かれる(相対的にと言ったのは絶対的に不幸な状態を定義できないと思ったからである)。相対的に不幸な状態が不平等に繋がるのは、相対的に不幸な状態がある程度の価値を持つからである。つまりひたすら苦労する人生を歩んで老人になってから認められてもあまりありがたみがないであろう。そしてその人の人生において苦労した期間というのが全生涯の大半を占めるので、大きな負の価値を持つのである。これにより社会は不平等な世界観を与えることになるのだ。
ここで寿命が永遠になった場合について考える。
無限時間においてある一定期間の間相対的不幸の状態にあったとする。
しかし相対的不幸の状態から抜け出し、人生がプラスに動き出した時、その人に残された時間は無限のままだ。つまり不幸に対して寿命という分母が無限大に大きくなるので、全生涯における相対的不幸の負の価値は極限的にゼロに近づいていく。未来において不幸が訪れるとしても、未来のことは予測できないし、重要なのは未来に対する世界観なのだ。世界の本質が不幸なものでも、未来に対する無限の可能性を思わせる世界観を持てば、それが未来の世界なのだ。同時に未来において容姿とか才能なども遺伝子操作で変えられるという期待感から、運に左右される財産による格差も大した問題ではなくなる。
つまり不老不死の世界ではあらゆる相対的不幸をゼロに近づけさせることができるのである。俺はこの効果を[無限時間における価値の無限小化]と呼んでいる。
永遠の命を想定した場合、金とか名誉とか安定な平凡な生活といったものも価値は無限小化するだろう。その世界では人生設計という概念がなくなるだろうから、いつか崩れ去るものを持っていても意味がないのだ。今のように有限時間の世界においては意味があるように見えるだろうが。だが未来においては個人の欲求に素直に従う生き方を誰もが選ぶだろう。
永遠の時間があれば生きるのに飽きるだろうという人が必ずいる。
だがそう思った者はその場で死ねばよいのだ。せいぜい満足な人生を送れたのであろう。未来において存在する人間は生きたいという意志を持つ者だけなのだ。生きる者と死に行く者がどちらが正しいかという議論はナンセンスだ。そもそも存在自体に意味はない。(だが不老不死の人間は無限の価値を持つと言える。意味はないのだが。だから殺人は最高に重い刑になるだろう。)
まとめるとこんな感じだ。
不死が実現すれば世界の全ての不幸の重みを極限的にゼロにし、無限の可能性を思い描ける世界観を与え、不平等の価値をゼロに近づけていける世界ができるのである。これは精神変化による現象だが、人間が見ていると思っている世界は個人の世界観なので、精神変化は世界の変化とほぼ等しい。
芸術が人間に大きな精神変化を与えるものであるとすれば、不老不死研究により創られる世界観は偉大な芸術作品と言えるだろう。
h_kanata at 01:25│Comments(0)│TrackBack(0)