2005年04月

2005年04月24日

眠いな〜。

暖かくなってきましたね〜。
こう暖かいと眠くてしょうがないですよ。
昼寝は最高です。
いっそのことこのまま永遠の眠りに…。
というのは冗談ですが、今日はなんか五月祭の代表者会議とかいうのがあって、学校まで行ってきました。
なんで日曜は東大の前で絵を描いてる人が多いのでしょう?
まぁ、理由なんてけっこうどうでもいいことなんですが。

コエンザイムQ10+αリポ酸について。
毎日飲んでも自分では何も分からない。
実際何か良い効果が表われているのかもしれないですが。
まぁ、自分のことなんて自分でもよく分からないものです。
きっとそういうものなのでしょう。

自我転送による自我無限ネットワークの形成

脳の情報処理のメカニズムを完全に解明することで、脳の情報をロボットへ、ロボットの情報を脳へ送ることで、自我をロボットへと転送しているように感じられる技術のことを前回書いた。
要は情報処理媒体と運動媒体の分離が起こるわけである。

ロボットと一口に言っても、様々なタイプが存在する。
人間型が主であるが、動物型(ネコとか犬など)、ミッキーマウス型、ドラえもん型なども開発されるのである。

そしてロボットは個人所有のものと共有のものがあり、個人所有のものは個人だけが使う運動媒体であり、共有のものは自我転送を行う時間帯を予約して、一定時間の間、運動媒体として用いるのである。
ロボットは高価であるため、一定時間レンタルすることで、安い金額で様々な属性のロボットに自我をインストールして楽しむことができるのだ。
つまり共有のものは一つの運動媒体の中で自我がころころ入れ替わるのである。

そうすると、ロボットのコンピューターの中に記憶情報が蓄積されていく。
記憶情報は膨大であるが、この情報は全ロボットを支配しているメインコンピューターの中に保存される。
この記憶情報群にはそれぞれタイトル、キーワード、説明文などを設定することができ、個人がロボット(個人・共有両方において)において体験した記憶情報をメインコンピューターに登録することができる。

自我転送の最中はロボットが体験している情報が人間の頭脳の中に送られてくるが、一旦メインコンピューターの中の記憶情報をロボットのコンピューターにダウンロードし、それを人間の頭脳に転送することで、他人が体験した情報をまるで自分が体験したものであるかのように感じることができる。

これは他人と自我を共有しているかのように感じるので、自我共有と呼ぶことにする。
記憶情報はメインコンピューターに蓄積されていて、タイトルなどが設定されているため、記憶情報は検索することができる。ある記憶情報から他の記憶情報へリンクを設定することもできる。
例えるなら、各記憶情報は今のホームページであり、メインコンピューターの蓄積している情報はグーグルがキャッシュしたデータである。

そして記憶情報を検索して面白そうなものにアクセスし、その情報をダウンロードすることで、自分の脳内では他人が体験したことを自分が体験したものとして、処理されるのである。

技術が進めば、職人が長い訓練の後に身につけた技術を、その訓練中の記憶情報をダウンロードすることで、努力せずに技術を身につけることができる。

通訳の脳内情報をダウンロードして、外国語が自由に話せるようにもなる。

感動を誰かと分かち合いたい人は、その記憶情報をメインコンピューター上の記憶情報のネットワーク(以下自我ネットワークと呼ぶ)上にアップして、自分の感動を伝えることができる。ついでにそれについての感想も聞けたりするのだ。

自分の悲しみを分かって欲しい人も同様、他人にその悲しみを伝えることができる。

自分の全記憶情報をそのままコピー(自我複製)して、他人に自分の全てを公開するということもできるようになる。

このように一定の運動媒体群の中でころころ自我が入れ替わりながらも、至るところで自我共有が起こっている。つまり未来において巨大な自我ネットワークが形成されるのである。

さて、未来においては自我は増殖するのか。
つまり、人口が増えれば空間や資源がどんどん減っていく。
そして不老不死の世界では一定の自我群(同じ人たち)のまま、新しい人間が生まれることなく、続いていくのか。

解決策はなくはない。
人間の脳だけを保存するのである。
人間が無数に増殖していっても、脳だけを保存するのであれば大して場所を取らない。宇宙ステーションを打ち上げ、そこに人間の脳を格納しておくという方法もある。

人間の身体自体の数は一定数に保っておく。
そして、人間としての存在時間を割り当てるのである。
つまり、ある一定の数の人は一定の時間、人間の身体を持って、現実世界に生きることができる。
その間、順番待ちの人は自分の番が来るまで、完全3D・五感刺激型のデジタル空間に生きたり、ロボットに自我転送を行い、生活する。

ロボットの大きさは小さくしていけば、ロボットの存在数はどんどん増やしていくことができる。ロボットの質はどんどん向上していくため、限りなく人間に近づいていく。それと同時に宇宙の開発や宇宙ステーションの開発が進み、生活空間はどんどん広がっていく。

そして自分の順番が回ってきたら、人間の身体を手に入れ生活するのである。
しかし、どうやって人間の身体を手に入れるのか。
それは、この頃には脳移植技術が進歩し、脳移植技術を機械で全自動化している。そして順番が来た時に機械が脳移植を行い、人間の身体を手に入れ、元の持ち主は脳を取り出され保存される。
人間の身体は整形手術と遺伝子操作による能動進化により、すべて俳優・女優並みのルックスになっているため、どの身体に移植されるかということで不公平になることもない。

このようにして自我を無数に増殖していくことも可能である。
最も自己中な人類が自分達の人間としての生活時間を削ってまで、その選択肢を取るかどうかは知らないが。
だがこの選択肢を取った場合、自我を無限に増殖していき、その全ての自我にアクセスすることができる。
そして自我無限ネットワークが形成され、全ての自我が共有される。

人類の進化の最終形態は巨大な化け物なのである。

2005年04月18日

死んじゃうよ〜(泣)

日記の更新も周一ペースになってきました。
やはり平日は毎日8時くらいにならないとお家に帰れないので、なかなか時間がないのです。
そんなわけでサイトの更新は主に土日が中心ですね。
今日はアルコー延命財団のホームページに行って、人体冷凍保存の原理などをワードで日本語にまとめたりしていました。
休日にこんなことをやっている物好きな人もなかなかいないでしょうけど。笑

ところで前回のブログの内容に人間的に不適切な表現がありました。
自分で書いたとはいえ、やはり公開するような内容ではないと判断し削除いたしました。
読んで気分を害された方、本当に申し訳ありませんでした。

コエンザイムQ10+αリポ酸について
飲んで特に変わったことはありません。
副作用もないです。
直接食べると酸っぱいので、水と一緒に飲むようにしましょう。

自我転送で単一自我から複数自我へ。
脳の情報処理のメカニズムが完全に解明されたら、人工的に脳に信号を送ることで、あたかも現実の世界が存在するかのような感覚に陥る。
これにより完全3D・五感刺激型のゲームや個人空間ができてくるというのは昔書いた。
そしてさらに技術が進歩していったとき、人工知能をもったロボットが受ける刺激を電波により本体である人間のもとに送り、その信号を脳内における言語に訳し人間に信号を送ることで、あたかもロボットが見ている世界を自分が見ているかのように感じることができる。また人間が頭の中で考えた情報をロボットの方に転送することで、ロボットが自分の体であるかのように動かすことができる。

この技術は人間の自我をロボットに転送しているかのように感じられることから、自我転送と自分で勝手に呼んでいる。

そしてさらに便利なことにロボットには単調作業を自動的に行ってくれる機能が備わっている。
会社に出勤する会社員を例に考えてみる。
朝起きて朝飯を作るのはロボットだ。
ロボットが作ったご飯を人間が食べ、ロボットは会社に出勤する。
現在は出勤時間はただの暇な時間であるが、ロボットが代わりに出勤してくれているので、人間はその間に筋肉トレーニングを行っている。
ロボットが仕事場に着いたら、自我転送を行いロボットが見ている世界をそのまま自分の脳内にインストールする。
人間は家にいながらにして仕事ができる。
仕事帰りに同僚と飲みに行くわけだが、この場合も自我転送によりビールの味や酔った気分などの信号を人間に転送する。
帰る作業はロボットに任せ、その分の空いた時間を趣味に費やす。
こんな感じで一日の時間を全く無駄にすることなく、効率的な生き方を実現できるのである。

休日においてはゴルフに行きながら、ディズニーランドを楽しむことができるだろう。ディズニーランドで一時間待ちがあってもその間ゴルフをしていればよいのだ。ただ人間の場合、単純作業の自動化は難しいからロボット2体を使って、うまく自我を切り替えながら効率良く楽しむという感じになるだろう。

ちょっと遠くの目的地まで行きたいけど面倒だというときは、ロボットに行かせれば良い。

このように、うまく切り替え機能を使って複数の自我を同時に生き、楽しいところだけを取り出して体験することができるようになるのだ。

一人で複数のロボットを持ち同時に操縦するような人も存在してくるだろう。そうして面白いところだけを体験し、つまらないところはロボットに任せる。
だからロボットが行える作業の質はどんどん向上していくだろう。

人間が生活の中から完全に退屈を排除するまでロボットの進化は止まることがないのだ。(つづく)

2005年04月12日

はぅ〜。

薬学部の生活が始まり日は浅いが、みんな結構楽しそうですよ。
行事やカリキュラムが比較的しっかりしている薬学部には充実した大学生活みたいな雰囲気があるのだろう。
俺は別にそんなに楽しくないが教養学部時代に比べたらやはり楽しいほうですね。
今日は朝から実験の予習をしに薬学図書館に行った。
そうしたら薬学部の人たちが下のロビーで勉強会をやってるのを発見した。
でもよく複数人で勉強できるな。
俺は一人で勉強するほうが慣れてるので、複数人で集まって勉強したことがないんだよね。
でもこういうのはやってみてもいいかもしれない。

実験の予習を終えて、溜まっていた健康食品班の人たちとお昼ご飯を食べて実験へ。
6時くらいに終わって薬学図書館でスキャナーで画像を取り込んで帰った。

で最近なんかいろいろ面倒な用事が多い。
このホームページとか五月祭とかサッカー幹事とかは自分の意思でやってるから、それで忙しいのは全然良いのだが、模擬店の責任者までやらされるとさすがにきついです。模擬店のほうは誰もやらないから俺がってことになったが、誰かやる人が一人くらいいてもいいだろう。お手伝いなら積極的に参加してくる人はいるが、責任者となるとやりたがらないのはどういうわけだ。
まぁ、だからといって引き受ける俺も俺なんだが。
だいたい責任者をやりたくないというのはちょっと引きこもりすぎだろう。
責任者なんて別に大した才能を必要とするわけでもなく、大変な仕事をするわけでもないと思うんだが。
俺なんかこんな変なホームページを作ってて、俗世間からかけ離れた日記などもつけているが、外部の人に理解してもらいたくて必死にやっているのだ。
引きこもっていても何の得にもならないと思うが。

コエンザイムQ10+αリポ酸について。
味は酸味がかなりあってすっぱい感じです。
お肌の調子が悪いのだが、多分これは徹夜続きで体調が崩れているせいだろう。効果も副作用も全くないですね。というか効果はどうやって確かめたら良いのかよく分かりません。

死がエンターテイメントとして成り立つ時代。
人体冷凍保存というのは死んでから遺体を液体窒素の中にいれ保存する技術だ。で未来になったらそれを生き返らせるのだ。
死後間もなく冷凍保存した人間を蘇生する方法は今のところないようだが、未来においてそういった技術が開発されることが予想される。
だいたい死後60分以内なら何らかの処置を施して蘇生させることが可能であるらしい。
つまり医療技術やナノテクノロジーの進歩により、一度死んだ(脳機能が停止した)人間を生き返らせることも可能になるだろう。
これは事故や病気により死ぬ確率を確実に減らせるであろう。

だが、社会の変化はそれだけには留まらない。
人間は死ぬことを一種のスリル満点な娯楽とみなすようになる。
人間がジェットコースターに乗りたがる心理と同じである。
まず殺し合いゲームが流行るだろう。
銃や爆弾を持って対戦相手を本気で殺しにかかるのだ。といってもこの場合の銃や爆弾というのは本物ではなく、くらうと致死量の電流が流れるというものだが。
それでも死ぬことには変わりはないのでかなりのスリルが味わえる。
そして死んだ人間はすぐに治療され元通りの健康体になる。

これを毎日のように仕事帰り・学校帰り・塾帰りなどにやって帰るわけだ。
人々の会話の中には「今まで何人殺したか」とか「今まで何回死んだか」という話題が上がってくる。
前にも述べたが未来においては確率による淘汰を回避するために各々が様々な技術訓練を行っている。今あるスポーツ(柔道とか剣道とかプロレスとか)の発展型や新生のタイプ(俺的には忍者の修行とかがあったら面白いと思う)などがあるだろうから、殺し合いも無数のパターンが存在し、観戦するほうもかなり熱中するだろう。チーム戦になると戦い方のバリエーションは無限大だ。

プロになる人も沢山存在し最も人気のスポーツとなる。
オリンピックやワールドカップでは世界中が熱狂するだろう。

つまりこのような殺し合いがやる側にしても見る側にしてもエンターテイメントとして成り立つことになる。

この技術の効果はこれだけではない。
よく映画で人が殺されるシーンが出てくる。
時代劇とか西部劇とか今はその他どんな映画でも出てくるだろう。
で人が殺される瞬間に役者に高圧電流を流すことで白熱の演技が完成する。

あげくの果てには死ぬこと自体に快感を覚える「自殺マニア」というものが誕生してくる。未来においては大体の死体を生き返らせることが出来るであろうから、自殺マニアはいろいろなタイプの自殺を試してみて、「あれは楽に逝けた」とか「あれは気持ち良かった♡」とか「こんなの初めて!」とかの評価をつける。そんな個人空間(今のホームページの発展型)やサークルがどんどん出来てくるだろう。

そして美しい死を追求する芸術家が誕生する。
例えば死体をいかに美しく魅せるかということを追求したり、ただ人間の首吊り死体を無数に並べただけの空間芸術を創ったりするのだ。
(削除しました)

こんな感じで死というものを中心に様々なエンターテイメントが新しく生まれるのだ。そして死の美しさをどんどん開花していくだろう。

人間は死を支配した瞬間にその美しさに気づくのである。



2005年04月08日

実験始まり

いや〜3年になって実験が始まりましたよ。
これから月曜から金曜まで実験の日々です。
実験内容については俺の実験ノートの内容をこのページ上にアップしていくので、興味あったらご覧下さい。といってもこのページほとんど人は来ていませんが。
実験は一年のときの基礎実験とは随分違いますね。
自由度が高くTAの人が親切に教えてくれるので、非常にやりやすいです。
といっても今日TAの人に質問したら分からなかったみたいで逃げられましたけど。
それにしても桜が満開で春って感じがしますね〜。
今日は薬学部でお花見やったらしいけど、盛り上がったのかな?
来る人はかなり少ないって聞いたけど。

αリポ酸+CoQ10について。
非常に飲みやすいサプリメントです。
今まで飲んでみて全く副作用らしきものはありません。
味もお菓子みたいで美味しいです。
若々しくなったかどうかはよく分かりません。
20歳で飲んでも効果の確かめようがありませんね。

この前書いた幸福論についての補足。
それで俺自体は果たして幸福なのか(満足しているのか)ということについて書きたい。
幸福であるとはあまり感じないですね。
満足しているとも言えないです。
どちらかと聞かれたら不幸だと答えますね。

老化研究をしたいという夢があるように見えるので、充実してるように見えるかもしれないです。そして老化研究は確かに社会に大きな貢献のできる研究だと思います。
しかし俺は社会に貢献したいとか研究が好きという理由で老化研究をしようと思ったわけではないんですよ。
第一に俺は死というものが恐くて仕方がないんです。
子供の頃に死というものの意味を知ってから、俺は毎日死について考え続け、生とは何かとか死とは何かという問いに対する答えを見つけようとしていました。死について考えないようにすれば、他の人と同様楽しく生きられるだろうとも思いましたが、それでは全ての人が死んでいくように俺も死んでしまうだろうと思い、逆に毎日死の恐怖を思い出すように自分に暗示をかけました。
毎日死の恐怖を思い出し、自分に「明日も今と全く同じことを考えろ」と唱えるわけです。
それゆえこれまでの十数年間毎日死について考えてきましたね。
意味のないものについてひたすら考えるなんてちょっと滑稽ですけどね。

でも実は自殺したがっている人ほど不老不死になりたがるんじゃないかと思うんですよね。死というものを最も身近に感じているので生きるということについてもかなり考えているはずです。本当の所、自殺志願者とは(今の状態で)生きていたくないけど死にたくない人だと思うのです。
そして短い人生において(その個人の世界観が)相対的不幸の状態が続くのであれば今死んだ方が得だろうと考えるわけです。
俺がそうだったからそう思うんですけどね。

だから老化研究をしようと思った第二の理由は、俺のように生きたくないけど死にたくない人とかその他不幸な状況にある人が持っている不幸な世界観を、精神世界・現実世界において大きな変革を起こすことで不幸の価値を無限小化し、世界の全ての不幸な人を救いたいと思ったからです。
これって社会に貢献したいってことかもしれないですが、俺は貢献するという意思は全くなく完全に自己満足のためにそうしたいと思っているのです。

そしてそうすることで何の不幸もなく未来にどんな期待でもできる、世界という芸術作品を創りたいと思ったのです。俺が何もしなくても世界はその方向に動いていくでしょうけどね。それでも

俺は俺にしかできないやり方で楽しい世界観を創造していきたい

と真剣に考えています。俺はそのためならどんなことでもやろうと思っているのです。そのためだけに生きているといっても言い過ぎではないのです。

でどこが不幸なんだって感じですけど、俺がやりたいことは自分にとって荷が重過ぎるのかもしれませんね。自分で始めていることといえばこのホームページを作っていることくらいで、まだ実際に研究も何も始めていないのです。やっと時間が少しずつ動き出したかなという感じはありますけど、まだ非常にゆっくりとしたものです。研究すること自体は特に好きというわけでもありません。化学などの教科書を読んでも面白いとは思わないです。
だから幸福であるとは言い難いというだけのことです。
不安とか焦りが大きいからどちらかと言えば不幸だと言っているだけで、自殺したがっている人から見たら不幸でも何でもないでしょう。

でも他の道を選んでいたらきっと俺は後悔したでしょうから、その他の選択肢を選んでも俺は幸福にはなれませんね。今思うと俺に選択肢は一つしかなかったんだと思います。

無限の時間を手に入れ無限に選択肢を増殖するために全力を尽くすという選択肢しか。

2005年04月05日

進学式

今日は進学式でした。
でもうっかり遅刻してしまいました。
いろいろな連絡事項を聞いた後はクラス全員で記念撮影です。
薬学部は大学の割りにはフレンドリーな学科だと思います。
それからパーティーへ。ビールとかジュースとか食べ物が出されたのでいろいろ食べました。
食べたりないので友達2人と一緒にパーティーの後食堂に行ってお昼ごはんを食べました。そのまま友達と壮大なテーマについての話や生活の話などをした後、学校のパソコンで五月祭の原稿に載せるイラストをスキャナで取り込む作業をしました。
それが終わってコンビニでコエンザイムQ10とαリポ酸が入ったサプリメントを買って帰りました。

これからこのサプリメントについて人体実験を行っていくことにする。
さっそく今日飲んでみたが、特に変化はありません。

不老不死研究が世界に及ぼす精神変化。
前回、幸福について考察したが、今回幸福における格差(前回の相対的幸福レベルに相当する)について考える。
人類は法の下に平等であるという言葉は全くくだらない。今の社会を見て人類が平等などとほざいている政治家は馬鹿以外の何者でもない。ついでに言えば女が差別されているとほざきやがる学者どもの知能も猿並みだ。と少々汚い言葉を使っているが、ここから理論的に分析していく。
まず社会で言っている平等とは全ての人間が等しくチャンスを与えられるという意味だ。誰でも高い地位についたり金持ちになるチャンスを与えられるということだ。これだけの意味で平等と言っているのであれば考えが浅はかだ。人間が持ちうる財産を今から羅列してみる。
金、地位、名誉、才能(頭のよさ、芸術やスポーツのセンスのよさ)、周りの環境、人間関係、容姿、獲得した知識や技術、趣味など何か熱中できるもの、忍耐力、性格、夢とか野望、自由な時間、寿命、(かなり個人的かもしれないが)死に対する恐怖、生への執着心

これらは全て財産と言えるのに、今の社会は金、地位、名誉という尺度でしかものを見ていない。これらの要素を社会的成功と呼ぶ時代はいずれ終わるだろうけどね。さて、容姿とか才能とかはかなり運によるものだし、人間関係とか性格とか自由な時間とかは全てとは言わないが、環境に左右されるところが大きい。実際二世タレントとかは大した努力もしていないのに気楽に過ごしているし、デヴィ夫人みたいな玉の輿が偉そうにしているし、容姿端麗なタレントはテレビ番組に出演しても座ってるだけで金がもらえる。
それゆえ自由な時間が生じやすく結果として多くの財産を得ていくことができる環境にあると言える。

逆に貧乏な家庭に生まれると家計を助けるのに時間をとられ、いろいろな才能を伸ばしていく時間も十分にとれない可能性もある。伸ばす才能は金を稼ぐ才能ぐらいだ。だが実際この世には金にならないが価値のある才能のほうが沢山あるのだ。その証拠に金持ちの家の子供は勉強はほどほどに自分の好きなことを好きなようにやっている。

つまり今の社会は物凄く不平等だ。
そして法制度をどんなふうに変えても平等な社会はまず実現不可能である。
有限時間の条件下においては。

環境が悪い、例えば家にいろいろな事情があったり生まれながらにして病気持ちだったり、という場合に人間はある一定期間において相対的に不幸な状態に置かれる(相対的にと言ったのは絶対的に不幸な状態を定義できないと思ったからである)。相対的に不幸な状態が不平等に繋がるのは、相対的に不幸な状態がある程度の価値を持つからである。つまりひたすら苦労する人生を歩んで老人になってから認められてもあまりありがたみがないであろう。そしてその人の人生において苦労した期間というのが全生涯の大半を占めるので、大きな負の価値を持つのである。これにより社会は不平等な世界観を与えることになるのだ。

ここで寿命が永遠になった場合について考える。
無限時間においてある一定期間の間相対的不幸の状態にあったとする。
しかし相対的不幸の状態から抜け出し、人生がプラスに動き出した時、その人に残された時間は無限のままだ。つまり不幸に対して寿命という分母が無限大に大きくなるので、全生涯における相対的不幸の負の価値は極限的にゼロに近づいていく。未来において不幸が訪れるとしても、未来のことは予測できないし、重要なのは未来に対する世界観なのだ。世界の本質が不幸なものでも、未来に対する無限の可能性を思わせる世界観を持てば、それが未来の世界なのだ。同時に未来において容姿とか才能なども遺伝子操作で変えられるという期待感から、運に左右される財産による格差も大した問題ではなくなる。
つまり不老不死の世界ではあらゆる相対的不幸をゼロに近づけさせることができるのである。俺はこの効果を[無限時間における価値の無限小化]と呼んでいる。


永遠の命を想定した場合、金とか名誉とか安定な平凡な生活といったものも価値は無限小化するだろう。その世界では人生設計という概念がなくなるだろうから、いつか崩れ去るものを持っていても意味がないのだ。今のように有限時間の世界においては意味があるように見えるだろうが。だが未来においては個人の欲求に素直に従う生き方を誰もが選ぶだろう。
永遠の時間があれば生きるのに飽きるだろうという人が必ずいる。
だがそう思った者はその場で死ねばよいのだ。せいぜい満足な人生を送れたのであろう。未来において存在する人間は生きたいという意志を持つ者だけなのだ。生きる者と死に行く者がどちらが正しいかという議論はナンセンスだ。そもそも存在自体に意味はない。(だが不老不死の人間は無限の価値を持つと言える。意味はないのだが。だから殺人は最高に重い刑になるだろう。)

まとめるとこんな感じだ。
不死が実現すれば世界の全ての不幸の重みを極限的にゼロにし、無限の可能性を思い描ける世界観を与え、不平等の価値をゼロに近づけていける世界ができるのである。これは精神変化による現象だが、人間が見ていると思っている世界は個人の世界観なので、精神変化は世界の変化とほぼ等しい。

芸術が人間に大きな精神変化を与えるものであるとすれば、不老不死研究により創られる世界観は偉大な芸術作品と言えるだろう。
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