こんばんは、とってもお久しぶりです、ひさしです。
土曜日、大分県の豊後大野市で「大地と生きものシンポジウム」というのに呼んでいただき、話をしてきました。自分にとってものすごく学びが多かい経験で衝動的に書きたくなったので、忘れる前に書いてしまいます。

あ、その前に。ずっとライブドアの方でブログ書いてきた癖のせいなのか、やっぱり僕はさらっと短文を書くのがどうしても気持ちわるくて仕方ないので、最近晋作くんが書いてくれてる離島ブログの雰囲気とは全然ちゃうんですが、自分のスタイルで書いてしまいます。面倒だと思う方は読み飛ばしてくださいね。

というわけで、シンポジウム。

まずは登山家の戸高さんの話。
戸高さんは登山家で20代の頃から十数年ヒマラヤに通い続け、K2の単独無酸素登頂もされている方。所作の中に、自分のミスが自分の生命に直結する生活をしてきた登山家の方に特有の丁寧さ、みたいなものが見えたのが初対面の印象でした。

ご講演をうかがってとくに印象深かったのが、ブロードピークの縦走のお話。
最後の3連ピークにアタックしている途中、帰りに使うハーケンが足りないことが発覚。生きて帰るにはピークを越えて別のルートに合流するしかないと悟ります。その瞬間から、日常頭を占めている過去や未来のことが吹っ飛び、目の前の岩壁、氷壁を踏み外さないようにただ進む「いまの一瞬」を生きることだけの存在になったのだそうです。なんと食料も落としてしまいましたが5日間を白湯だけで踏破し無事に生還。その間、戸高さんはいわゆる「ゾーン」に入っていました。下山中、雪面に足を置いて踏み込みかけた瞬間、反射的にシャンプしたら、踏みかけた雪面が崩れて穴があき、そこがヒドンクレバスだったことが分かった、という経験もあったということ。

これ、とんでもない話です。雪の下にクレバスがあるかどうかを知るなんて、箱の中を開けずに当てるような話で物理的に無理。訓練して知覚できるものではありません。戸高さんは確か「身体が機能として持っている能力を引き出す」という表現をされていたと思うけど、全身の感覚を研ぎ澄まし、過去や未来に対する思考を外してただただ現在感じている感覚に集中することで、反射としてそれができた、ようなことをおっしゃってた気がします。あり得へん。また、そうして思考を外して感覚で身体を満たし、訪れる一瞬を感じ楽しむことで、生きている実感を得ることができたということも言っておられたと思います。うろ覚えだけど。

戸高さんは語られなかったけど、十数年に渡って毎年死の世界に行って無事に帰ってこられたということは、自分の身体能力と向き合った上で、行程、食事、エネルギーなど全てを設計し、刻々と変化し続ける自然を見極めてベストな判断を下し続けた、ということです。それができるようになるためには限界と言っていい努力が必要なことは明らかだし、酸素がない極限状態でも恐れや恐怖や虚栄心に思考を奪われないだけの最高に高度な知性、思考をもって生き抜いてきたことは間違いない。その上で訪れた本当の極限状態において自分を救ったのが、そうやって積み上げたものではなく「もともと持っていた身体の機能」だった、というのが本当に面白い。その機能とはつまり本能であり、僕たちも持っているものです。意図して簡単に引き出せるわけではないとはいえ、自分の身体にもそれが宿っていると思うとわくわくするし、やっぱり自分のそこに触れてみたい、とも思います。

この話に僕はすごく引き込まれ感動したのだけど、それは何故だろうってのを、帰りの車の中で改めて考えてみました。
自分は役場の職員でとかジオパークの人で、とかっていう社会的属性の前に、一個の生物の個体であって、生命を維持することを最優先する本能があります。

僕も転職や大きな決断をするときには、散々考え迷った後、最終的には自分の直感とか感覚を信じて決めてきました。それは、人生の目的である「幸せ」というのが多分に感覚的なものだからです。幸せは年収いくら以上だからとか社会的地位が高いからとかみたいな「条件」によって論理的に感じるものではない。「自分の好きなことをやっている」ということも、一見幸せっぽいけどやっぱり違うかもしれない。結局は自分がその状態に身をおいたときに幸せを感じられるかどうか、というとても曖昧で感覚的なものです。思考を挟まない本能に近いもの。だからそこ思考ではなく感覚で決めるべきだと僕は考えています。もちろん熟慮があった上で、の話だけど。で、それで決断した結果が今で、たぶん研究者続けてた時より自分らしい姿で、自分らしい人生を送れているという確信があります。だからこっちが自分にとっては正解だと思うわけです(あくまでも自分にとっては、ね)。

自分の経験と戸高さんのK2を比べるのはおこがましいけど、自分が本能に近い感覚に従って選択してきたことと、戸高さんが本能をもって危険を回避して生き抜いてきたことと、全く違うステージ・ジャンルでのそれぞれの経験が本質的に繋がっていることが、本当に、これすごくないすか?僕はめちゃくちゃ面白いと感じました。

身体が機能としてもっている、という話に戻るのだけど、以前ぼくのブログで紹介した甲野善紀さんの本や、尹雄大さんの本にも似たような記載がありました。身体がもともと知っている身体の使い方、「身体知」とかいう類のもの。彼らが目指している体術は、生命の個体としての本能を呼び覚ますような身体運用の方法なんだろうなあと想像して、すごく興味があります。それをやることで、もっと自分色を濃く人生を選びとれるようになるんじゃなかろーか。体得したいなあ。

そう、それで、戸高さんは山中湖のそばに自然学校を作って、子供たちに自然をありのままに「感じて」もらう活動をされているとのこと。とにかく「感じる」という行為は、過去とか未来とか思考を挟まず、まさに訪れる一瞬を生きる、というあり方。で、それがブロードピークでの身体知を引き出した方法論そのもので、そんなのこどもの時からやってたらどんな感覚が身に付くんだろう、とすごく知りたくなりました。自然学校遊びに行かせてもらいます。必ず。

そんで、自分も都会にいながら訪れる一瞬を感じる、楽しむ、という生き方ができれば(日々に追われるのではなく)もっと面白い感覚が開けてくるのかもな、ということも感じました。

それから歌の話。
戸高さんは後半で、自然に身を置くことで自然と身体の中にわき上がってくる音があり、それを歌として聞かせてくださいました。それは僕らが知っている、歌詞と旋律とリズムの決まった歌というより、うなりとか、原始的な音楽、きっと原始人はこうして歌うということを始めたのだろう、というようなものでした。身体を透明にするというか、自然に身体を同調させていったときに(戸高さんは「山になじむ」という表現をされてた気がする)、身体がその場の空気に呼応して喉が動く、それが歌になった、というような印象を受けた。身体の中にわき上がってくる音をそのまま外にだす、というような感じ。自分が感じた自然を歌にする、ってこういうことか、と。

ながくなっちゃった。

あと2人のスピーカーがいらして、この方々もすごく面白い話をされてたので書きたいのだけど、疲れたのでやめます。ふう。また近日中に続き書きます、たぶん。