2018年05月26日

  心も薄っぺらくなりそう


この日はカレーライスを作る事にした。

使ったルウは三種類×2セットであった。


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この日の材料は『業務スーパー枚方高田店』で買って来た極々普通の国産牛

約3.0㎏と玉葱とじゃが芋であった。


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これらをいつもの大きな鍋の中にルウと一緒に入れた。

後は鍋が勝手に美味しく作ってくれるのであった。


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そんな感じのカレーライス。


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スタッフの皆と一緒に食べるカレーライス。

これがむちゃくちゃ美味しい。

ほんまにえげつない程に美味しいのであった。

使っている牛肉と野菜の量が物凄く多い。

それにより想像を越える美味しさが表現される。

これ程に美味しいカレーは中々簡単には出会えないだろう。

カレーは2013年6月28日の金曜日から作り始めた。

芥川賞が芥川龍之介を記念したものであることはだれでも知っている。

直木賞が直木三十五を記念したもの.

直木三十五の代表作というと、「南国太平記」しか残っていない。

それも長編だから、一般的ではない。

だから、読まれなくて、忘れ去られた。

直木三十五は、無名の作家ではない。

昔の人気作家も、時の流れで忘れ去られた作家になるということ。

直木三十五が亡くなってから、菊池寛は直木賞と芥川賞を創設した。

つまり、芥川龍之介が亡くなった時に芥川賞ができたわけではない。

ここが重要。

確かに現在の評価・感覚では、芥川龍之介と直木三十五を並べて置くのは無理が

あると思う。

芥川の作品はそれなりに読んでいるが、直木の物は一作も読んでいない。

二人の名前が文学賞に冠せられた理由の一つは、当時の知名度によると思う。

芥川についてはかなり知られた作家だったという事だろう。

但し現在のように日本人なら中学生でも大抵その名前を知っている。

と言う程ではなかった筈。

一方直木の方は映画制作活動などを積極的にやっていて、当時の一般的な知名度は

芥川よりも高いくらいだったのかもしれない。

もう一つ大きな理由は両賞を創設した文藝春秋社主・菊池寛にとって、二人がとも

に大切な友人だったからだと思う。

三人は学年で言えば同級生となる。

芥川とは一高時代からの親友で葬儀の際には弔辞を読んでいる。

直木とは上記の映画制作活動を長く一緒にやった“同志”である。

両賞は芥川の死後8年後・直木の死の翌年の1935年に設けられたが、菊池寛の亡き

友二人への思いを込めた命名だったと思う。

またよく言われる様に純文学と大衆文学を代表するという意味でも、二人を選ぶの

は据わりが良かったのだろう。

川端康成について言えば三人より7歳若く、菊池寛にとっては後輩格となる。

文藝春秋社の同人でもあり菊池とも親しかったので、もしもう少し早く生まれて

(そして実際よりもずっと若く死んで)いたら、「川端賞」も同時に誕生していた

かもしれない。

現在立派に「川端康成文学賞」があるので、当人に不満は無いと思うが。








昨日のお昼に用意されたのは『牛たん炭焼 利久』と言うお店の

『牛たん丼&牛たん炊き込み重』であった。


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牛たん丼&牛たん炊き込み重


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『利久』と言えば、仙台で超有名な牛たん専門店。

牛たんと言えば『利久』と言っても過言ではないぐらいに有名。

でも、まあー、有名かどうか知らんが。

薄っぺらい牛たん喰わされて全然旨いとは思わんかったわ。

薄っぺらい牛たん喰わされて心も薄っぺらくなりそうになったわ。

リピートは絶対にないなー。

的屋のたっちゃん曰く。

『利休のタンは元々薄いからどこれ食べてもあんなもんですよ』と言っていた。

利休が薄いのは俺は全く知らなかった。

大阪の牛たん定食はありと厚いもんな……。








『トップワールド香里園店』で『鹿児島産 旨水の鰻』を買って来た。


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あっつあつの御飯の上に『鹿児島産 旨水の鰻』を乗せた。


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そして食べた。

これがもーう!!

(゚Д゚)旨~い!!(゚Д゚)旨~い!!(゚Д゚)旨~い!! 

スーパーメチャ旨い!!

メチャクチャ旨ーい!!

であった。

見た目の濃厚な感じとは全く違って無茶苦茶柔らかくて優しい味わいである。

優しさの中でゆったりとした包容力に心が安心する。

『鹿児島産 旨水の鰻』は無茶苦茶真剣に美味しいのであった。








『万代寝屋川宇谷店』でマグロの切り身を買って来た。

マグロの切り身を漬けにした。


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とりあえず炊き込み御飯を作った。


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炊き込み御飯の上にマグロの漬けをトッピングした。


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そして食べた。

これがもーう!!

(゚Д゚)旨~い!!(゚Д゚)旨~い!!(゚Д゚)旨~い!! 

スーパーメチャ旨い!!

メチャクチャ旨ーい!!

であった。

極々普通のマグロを漬けにする事で食感に高級感が生まれる。

このマグロの漬けと炊き込みご飯が絡み合って最高に美味しいのであった。








今週のおかず。





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ほんでもって、ある日のおうち御飯。

この日は中華の素を使った中華鍋をした。


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水餃子と穴子を食べながらの中華鍋が無茶苦茶最高に美味しいのであった。








そんな感じの土曜日です。

この週末も皆様にとって素晴らしいものでありますよう心からお祈り致します。

それではまた来週お会いしましょう。





←ここを押して下さい!!

よろしくお願い申し上げます!!

読み逃げは厳禁ですよ――!!

自分の携帯電話から。

自宅のパソコンから。

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他人の携帯電話、パソコンから。

とにかく一杯押して下さい!!










うにゃうにゃとちゃんと言わん奴がいるとする。

最近はそう言う奴を。

『お前は日大かー!!』と言うらしい。

笑えんな。










894年、菅原道真の建議により廃止された遣唐使。

道真の頃は既に唐は黄巣の乱により消滅寸前にまで弱体化しており、907年に唐は

滅亡し、中国は五代・十国という分裂時代を迎える。

唐の滅亡とそれに続く中国の分裂・混乱時代、日本は王朝文化を栄えさせて

行く。

中国の混乱は朝鮮半島にも影響を与え、新羅も弱体化して後三国時代を迎え、

王建による高麗の建国へと繋がった。

中国の五代・十国の混乱を治めたのが趙匡胤による宋の建国(960年)である。

源氏物語がつくられ、藤原道長が活躍した西暦1000年ごろになって、中国はようや

く安定したことになる。

北宋によって中国が安定しはじめると日中の民間交易も盛んになり、奝然(ちょう

ねん)や成尋(じょうじん・阿闍梨の母集で有名)といった僧侶も宋へ渡って

いる。

宋は朱子学をはじめた朱熹が現れ、王安石による新法改革といった文治国家で

あり、武将は重んじられなかった。

宋は華北~満州に勢力をつけたモンゴル系遊牧民契丹(キタイ)には抗することが

できず、契丹を滅ぼした満州族の金にも叶わかった。

1127年、金は宋の首都に攻め込み、徽宗、欽宗をはじめとする皇族を拉致して

滅ぼし、中国の北半分を奪った(靖康の変)。

金に連れ去られた欽宗の弟が急きょ杭州(臨安)に建国したのが南宋である。

日本は摂関政治が終わり、院政が盛んな時期にまたもや中国は一時的ですが混乱

状態に陥った。

南宋は金を懐柔することで、何とか独立を保つことになり、再び中国大陸は平和に

なった。

宋の繁栄というのはこの南宋の繁栄のことを指す。

この南宋の繁栄に目をつけたのが平清盛だった。

平清盛の日宋貿易というのは南宋との私貿易のことを言う。

この頃の日本は西国を中心に商業活動が活発になっていて、南宋との交易から

決済手段に通貨を使うことがはじまっていた。

平清盛はこの通貨に目をつけ、南宋では使わなくなった古銭(北宋銭)を日本に

輸入することで莫大な富を得る。

朝廷に南宋の珍品(白磁や書画)を献上して、「南宋との貿易はこんなに素晴らし

いものが手に入って、儲かります!」と宣伝する。

しかし、国として公式に中国と貿易するには朝貢しなければならない。

朝廷が中国の皇帝にひざまづいて、弟のように振る舞うことで中国再度が貿易の

経費を持ってくれるので、朝廷は平清盛の貿易構想には否定的だった。

やがて、平氏は後白河院と対立し、源氏の挙兵によって壇ノ浦で滅亡。

時代は鎌倉を中心とする武家時代に突入する。

日本で鎌倉による武家政権が力を持ち始めたころ、大陸でも変化が起こる。

チンギス・ハンによるモンゴル民族の活動が活発化する。

鎌倉幕府が承久の乱により、朝廷の政治力を奪うようになった頃には金はモンゴル

によって滅ぼされ、中国大陸は北半分を支配するモンゴルと南宋に分かれる。

南宋では迫りくるモンゴルの攻撃から逃れるために日本に亡命する南宋の人も

増えた。

鎌倉時代にやってきた蘭渓道隆や無学祖元は南宋の亡命僧である。

ということで、北宋も南宋も軍事的には弱体であったため周辺民族の圧迫を受け

続けて苦しんでいた。

北宋も南宋も周辺民族の国に賄賂や買収を行って、アメを舐めさせて独立を維持さ

せていた。

日本は南宋を文化国として遇していたが、朝廷や鎌倉幕府は中国の中華思想は

拒否したので公的な国交はされないままだった。











宋、北宋、南宋の違い。

「北宋」は、960年に趙匡胤(ちょうきょういん)が建国し、五代十国時代を終わら

せて979年に中国を統一した王朝。

文治主義を取り、科挙を整備し、科挙官僚制を整備して皇帝専制政治体制を作り

上げたが、北方民族の遼・金の圧力を受け続け、それに対する軍事費が増大した

結果、国家財政難に陥り、11世紀後半に王安石が改革に当たりましたが

(「王安石の新法」)結果的には失敗した。

そして、1127年、金に首都開封を占領されて滅亡し、その一族が長江流域に移り

「南宋」を建国した。

その「南宋」は都を臨安(現杭州)に置き、長江流域の稲作等農業生産力を大発展さ

せたが、元のフビライ=ハンによって1276年に滅亡した。

「宋」は「北宋」・「南宋」どちらとも意味する。

例えば、以下の点では「宋」となる。

①支配者層は、地主階級(形勢戸)で、農民(小作人。「佃戸」)を雇い

「地主=佃戸制度」を確立する。

この地主制度は1950年の毛沢東による「土地改革法」迄続いた。

また、地主は「士大夫」・「読書人」と言われる知識人でもあり、科挙に合格した

官僚として支配階級を形成した。

また、地元では大商人でもあった。

②資源の開発・技術の革新が進み、各地の特産品と生まれて地域分業が行われ、

流通経済が発展した。

特に銅銭である「宋銭」が大量に鋳造されて国内だけではなく、海外に迄流出

した。

日宋貿易では平清盛が大量の「宋銭」を輸入している。

次第に銅銭が不足してくると、それを補う為に世界初の紙幣として「交子」(北宋)

・「会子」(南宋)が流通するようになった。

さらに地方には商業都市である多くの「草市」・「鎮」が生まれ、商工業者は

それぞれ「行」・「作」という同業者組合を結成した。

因みに「銀行」は銀を扱う商人の組合で、現在の日本の「銀行」の語源となって

いる。

③中国商人による盛んな海外との交易が行われて、商人の船(「ジャンク船」)は

遠くインド洋迄達した。

この海外との交易は元朝にも引き継がれて、ムスリム(イスラーム教徒)商人が広州

・泉州・広州等の港市に往来した。

④宋の時には、新しい庶民文化を生み出した。

その担い手は人口の大半を占める農民ではなく、学問・文学・絵画に秀でた

「士大夫」(上①での地主階級)だった。

飲茶(いんちゃ)の風習が普及して、青磁・白磁の陶磁器も景徳鎮で盛んに

製造され、高麗・李氏朝鮮及び日本にも輸出された。

特に儒学においては、唐までの訓詁学の形式的な理解にとどまっていた段階から、

「宋学」という世界観や精密な哲学的論理を極めていく学風が起こった(「南宋」

の時代に朱熹が朱子学として大成しました)。

そして、世界初の三大発明である、火薬・羅針盤・印刷術が生まれた

(但し「活版印刷術」を発明したのはドイツのグーテンベルクである)。





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h_t_tomoto at 06:27コメント(0)トラックバック(0) 

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