2018年05月30日

  飛び抜けていた


ちょっと遅い目のランチをした。

早速注文をした。

注文は、鴨白湯そばであった。


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鴨白湯そば

蕎麦出汁の旨さが飛び抜けて最高に美味しいのであった。











ほんでもって、ある日のおうち御飯。


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たこ焼きが真剣に美味しいのであった。







昨夜のナゴヤドームのヒーローの西野選手とプロ初ヒット初打点を記録した

西村選手です!





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秦檜と岳飛の戦い。

華北を支配している金と戦い華北を奪回するか(岳飛の主戦派)、金と屈辱的和解を

締結して華北を捨てる代わりに金の侵入を止めるか(秦檜の和平派)が、

争点だった。

実は秦檜は、靖康の変で金に拉致されていたが、ある日南宋の(仮の)都臨安に突然

現れて屈辱的和議締結を強く勧めて行った。

結果的には秦檜が岳飛を暗殺して、金と屈辱的和議を締結した。

秦檜は国を売った売国奴として現在でも中国人からは徹底的に嫌われている。

しかし、秦檜が屈辱的和議を締結した事により、南宋は平和な時代を迎えて長江

流域の稲作を大発展させて、フビライに征服されるまで長く王朝を維持したので、

現在の歴史学会では秦檜の方が岳飛より評価が高くなっている。

因みに、秦檜は金が送り込んだ人物で、金なりの南宋に対する配慮でもあった。

つまり、金と戦えば瞬時に南宋は消滅するから、秦檜の主張通りの屈辱的和議を

結んだ方が良いよ、という警告を与えた訳である。











南宋の秦檜は功罪どちらが大きい政治家か。

後代からの「大義名分論」「華夷思想」に従えば、彼は否定されるべきではある。

いや、宋国とてプロパガンダは必要だから、当時からしても一定の批判は

あり得る。

ただ、主君である高宗の政治的立場を考えれば、秦檜はむしろ「功臣」で

あったはず。

宋は、金国に攻め込まれて、徽宗と欽宗を捕らえられた。

この時、ただ一人皇子趙構が南に逃げ延びて、即位した(皇帝を名乗った)のが

高宗である。

だが、父の徽宗も兄の徽宗も捕らえられたまま生きている。

徽宗はまだ直前に退位したからともかく、欽宗は間違いなく皇帝のまま。

となると、高宗からすれば「父や兄が帰ってくる」というのは悪夢以外の何物でも

ない。

というより、どう考えても矛盾である。

建前は別としても、もし父なり兄なりが帰ってくれば、父兄はすでに玉座に座って

いる高宗を見てどう思うだろうか。

「俺が皇帝なのに、勝手に即位した。あいつは皇位を狙っていた」と疑うのは

当然である。

高宗本人にとっても、いまさら帝位を譲り渡すとは考えられないだろう。

仮に欽宗に「返した」としても、欽宗は一度でも玉座に座った弟を、決して昔の

ように無警戒にはしないはず。

最悪、殺されるかもしれない。

帰ってきてから殺すのも監禁するのも悪手。

そんなことをすれば本当に「帝位欲しさに二人を金国に売り、しかも殺した」と、

君主として最悪レベルの悪名を被るだろう。

当然、大臣たちも分裂する。

高宗に「徽宗陛下や欽宗陛下は、高宗陛下を亡き者にして帝位を取り返そうとして

います」と吹き込むこともありえれば、逆に徽宗・欽宗に接近してクーデターを

起こさせ、権力を握ろうとするものが現れたのだろう。

というより、実際に高宗の即位を不当として、反乱がおきている(明受の乱)。

しかも高宗への不平不満は、その後も朝廷に満ちていた。

高宗にとって、自分の政権と玉座を守るためには、「父兄が帰ってこないこと」と

「金国が攻めてこないこと」が何よりも大事だった。

そういう政治状況であれば、高宗の臣下である秦檜が、なりふり構わず、たとえ

売国奴と呼ばれようとも和平に踏み切ったのは、少なくとも高宗にとっては

「絶大な功績」だった。

確かに、彼は後代から「大義名分論」や「華夷思想」基づいて(あるいは岳飛への

判官びいきで)売国奴と批判され、あげく岳飛廟にて「縛られて土下座させられる

木造」を作られる羽目になった。

しかし、当時を「政治家」として生きた秦檜には現実としてああするしかなく、

かつ高宗にとってはそれが最高の手立てだった。

実際、秦檜死後だが高宗は詔勅を出し「軍を動かさずに国を守るのは最高の手立て

であり、朕はそれを望んで和議を選んだ。そして亡き秦檜は朕を助けたのみで

ある。しかるに近頃無知の輩は朕の意を知らず秦檜を誹謗する……」と、

半分自慢、半分弁護の文言を残した。

それに華夷思想ならば、すでに高宗がとっくに投げ捨てていた。

彼は南に逃げた時、追撃する金軍に対して「閣下が我らを攻撃するのは、大力士が

小人を打つようなもので」「三年に三遷し、住む場所もない。我らを哀れと思って

お救いを」と命乞いをし、さらに「天命の至る所は明らかなれば、我らは尊号を

削り、金珠玉帛を納め学士大夫を臣下として」と、属国にもなるからお見逃しを、

と卑屈極まりない手紙を出していた。

もちろんそのあと平気な顔で復興し、だいぶ後になりますがついには金軍を撃退す

る(岳飛処刑後)こともあった。

それはともかくとしても、秦檜以前から高宗は「大中華主義」をドブに捨てていた

のである。

秦檜一人を売国奴と評するのは、高宗との比較でみても、妥当とは言えない。

それから、江南は宋国の時代、開発と発展が大いに行われ、南宋の経済状況は

過去例がないほど潤っていた。

実のところ、賠償額を支払っても(父兄が帰ってくる場合の混乱に比べれば)

安い物だった。

やや信じがたいことだが。

むしろ軍事費の方が高くついただろうし、失敗すれば損害は計り知れず、成功して

も将軍からの謀反の可能性もあるとなれば、高宗が金国を阻む以外の戦争に出ない

ことは当然でもあった。

(宋国の高祖・趙匡胤がそうだが、南北朝以来軍権の最高司令官が、凱旋とともに

反乱を起こして皇帝になるということが何度かあった。

もっとも岳飛は同格の名将・張俊と不和だったこともあり、この謀反はまず

なかっただろうが)

秦檜は、むしろ良く高宗の意を理解していたと言える。

ついでに、秦檜に「陥れられた」岳飛だが、岳飛は普段から「金国の奥に

攻め入り、二帝(徽宗・欽宗)を奪還する」と言っていた。

しかしすでに述べたとおり、これは絶対に口にしてはならず、行ってもならない

行為だった。

いやむしろ、これは「高宗への反逆」に等しい。

岳飛を秦檜が陥れたというより、高宗に対して岳飛が「罪を犯した」がゆえに、

秦檜により消された。

結局、徽宗も欽宗も帰国することは出来なかった。

欽宗に至っては三十年以上を異国で過ごし、そのまま死んでいる。

なお、高宗の妻も金国に捕らえられており、彼は妻を返すことは熱心だったが、

その願いまではかなわなかったそうだ。





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h_t_tomoto at 06:31 
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