2007年07月04日

ポンペイウスの最期

史上名高い「ファルサロスの戦い」はカエサルの戦略により、圧倒的な勝利となりました。
カエサル側の戦死者は約2百人、対して敗れたポンペイウス軍の戦死者は約6千人、捕虜が2万4千人を超え、中には、かのマルクス・ブルータスも含まれていました。


敗走したポンペイウス派(アフラニウス、ペトレイウス、ヴァッロ、ラビエヌス、キケロ、小カトーら)はドゥラッキウムまで後退し、その後コルフ島まで逃げのびます。しかし、コルフ島はイタリア南端のかかとの部分からは対岸に位置し、ギリシャ側からみても陸から非常に近い場所のため、ポンペイウス派は協議しアフリカに行くことを決意します。

アフリカでカエサルに対抗するための軍を集め、さらなる戦いをするためでした。

しかし、キケロやヴァッロらはこのアフリカ行きには賛同できないことを表明し、ポンペイウスの下を去ります。去った人々はポンペイウスの敗戦は一つの会戦に敗北したというより、カエサルに敗北したことを感じていたからでした。


カエサルはというと戦後処理と次の年の執政官対策をおこなっていました。対策とはスッラの法によると連続して執政官になれないため、再び独裁官になるというものでした。またこの時、独裁官の直属の補佐役の騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)にマルクス・アントニウスを任命し、カエサル不在のローマの内政を担当させています。


ポンペイウス派の人々とは別行動をとって敗走したいたポンペイウスはファルサロスから、まずラリッサに逃げ、その後エーゲ海を北上しアンフィポリスまでたどり着きます。ここで武装ガレー船を調達した後、小アジア側のレスボス島に向かい妻子と合流を果たします。その後、ロードス島を経てシリアまで行き、再興を図るという計画でした。


カエサルもこの動きには通じていたようで、陸伝いにエーゲ海沿岸を回り、東に向かっていました。ダーダネルス海峡に達したところで、10隻の船を率いたポンペイウス派のカッシウスと出会いますが、難なく降伏させています。
ダーダネルス海峡を渡り、アジア側に入って行軍するカエサルの元には旧ポンペイウス支持の東側諸国の使節がファルサロス戦勝祝いに集まってきていました。
このことはポンペイウスのクリエンテス(被保護者)であった地域の縮小を意味していました。つまり彼らはポンペイウスからカエサルに乗り換えたのです。


追い詰められたポンペイウスはシリア行きを断念し、アフリカのポンペイウス派と合流するか、未だクリエンテスであるエジプトに向かうかの選択に迫られます。

ポンペイウスはこの選択に属国のヌミディアの影響力が大きいアフリカより、かのクレオパトラの弟のプトレマイオス13世の支配するエジプトを選びます。
そしてポンペイウスの親書に対し、プトレマイオス13世は歓迎する旨を伝えます。しかし、さしたる実権もなく政争により不安定なプトレマイオス13世には実際にポンペイウスを匿う力はありませんでした。
周囲の側近と王側についていた駐在のローマ兵はポンペイウスを排除することを決めたのでした。


紀元前48年9月28日、ポンペイウスはアレクサンドリアに到着します。しかし、歓迎を装って近くに来たかつての部下のセプティムスによって殺害されたのでした。

4日後にアレキサンドリアに到着したカエサルは自分の元に届けられたポンペイウスの首を見て、涙したと伝えられています。かつての盟友であり、婿でもあったポンペイウスの死が名誉ある形で迎えられなかったことがその悲しさにはあるのかもしれません。

こうして「大ポンペイウス」と呼ばれたローマのかつての英雄は波瀾の生涯を終えたのでした。同時にローマを二分して行なわれた内戦は終結し、カエサルという一人の男にすべての力が集中することになります。



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2007年06月12日

「永遠の都 カエサルのローマ」 佐藤幸三著 河出書房社

カエサルのローマ
たまには書籍紹介などもしていこうかなということで、この「カエサルのローマ」を紹介します。
「英雄カエサルの波瀾に満ちた生涯を追いつつ、都市国家ローマの中心フォロ・ロマーノをはじめイタリア各地に魅惑の歴史舞台を探訪する。」


「ふくろうの本 世界の歴史」というシリーズで、超古代文明からエジプト、ギリシア、ケルト、オリエント、チベット、インドなど幅広いラインナップがあります。
図説というだけあって、ビジュアル的に見やすいように遺跡や博物館の写真が豊富で、文章とのバランスがとてもいい感じです。
歴史というだけでも敬遠してしまう人もいると思いますが、この本ならわりにすんなり読めるのではという内容です。

詳細な内容は以下のようなものです。

プロローグ:カエサルのローマ
第1章:カエサルと共和政
第2章:賽は投げられた
第3章:カエサル暗殺
第4章:カエサルの都「フォロ・ロマーノ」
第5章:カエサル後のマルスの野
エピローグ:「皇帝のローマ」から「教皇のローマ」へ

前半はカエサルの人生について触れていて、カエサルがどんな人物だったかや周辺の人物について、ガリア戦記、内乱、カエサルの天下などを順を追って書いています。地図なども載せてカエサルがどのように行動したかなども把握できるようになっています。

表題は「カエサルのローマ」となっていますが、古代ローマのその後的な話も若干触れています。
特にこの本ではフォロ・ロマーノ内の各凱旋門、神殿、バシリカ、元老院などの建物やパラティーノの丘、その周辺の遺跡などの起源や由来などを説明しているので、観光ブックとしても使えるのではという内容です。もっとも各遺跡へのアクセスなどの情報はないので、別でチェックが必要ですが・・。
ローマの遺跡はわりとわかりやすい場所にあるので、そこに行くのはそんなに苦労しないと思いますが、そこに行ってからが結構重要だったりします。

どれがどの建物かがわかりにくいのです。

すべてを暗記していれば別ですが、案内とかもそんなにないので各自資料というか遺跡に関する本を持っていた方がベターというところです。せっかくその場に行ってもあまり何だかわからなくて雰囲気だけ味わうというのではちょっともったいない気がします。
かといってツアーでガイドが案内というのもカッコ悪いし、第一人から話を聞いても後にあんまり残らないのではないかと思います。(体験談(´−д−;`)

そうするとこういう本が活躍するわけで、「地球の歩き方」などに載っていない話を読みながら遺跡チェックしたりするとなお面白いと思います。


PS:ローマは英語の語源になっている地名とか結構あるんですよね。パラティーノはパレス(宮殿)、カピトリーノはキャピタル(首都)、フォロはフォーラム(公開広場、公開討論会)の語源となっていたりします。


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2007年06月06日

決戦ファルサルス(後編)

歩兵4万7千、騎兵7千の合計5万4千人の軍勢を持つポンペイウスと歩兵2万2千、騎兵1千の合計2万3千人のカエサル軍は、ファルサルスの地でついに決戦の時を迎えました。

これはローマ帝国の真の支配者を決める戦いでもあり、共和政という政体を続けるか、カエサルが新しく始める新秩序による政体が確立するかを決する戦いでもありました。
もちろんその時点でカエサルがどのような政治を行なうかまではわかっていなかったでしょうが、カエサルが勝てば何か新しいことが始まるということはわかっていたことでしょう。

ポンペイウスを中心とする元老院派の人々は当然それを阻止しようとしていたし、またそれができるとも考えていたのでした。

2倍近くの兵力を持ち、初戦のドゥッラッキウム攻防戦を制したポンペイウスの心情を詳しく伝える史料は存在しません。ただ戦いが始められる前、「カエサル軍を全面戦闘になる前に壊滅する」といい、「私は勝者としてでなければ帰営しないことを誓う」ともいったとされています。
なぜか、ポンペイウスの言葉には絶対的な勝算を感じさせる印象がありませんが、「勝つ」という意志と歴戦の英雄の重みだけは感じられる言葉だと思います。

兵力では劣勢のカエサルが立てた作戦は騎兵力による機動性をもった敵に対し、逆に「動かない」というものでした。

馬は突進して障害物があった場合、飛び越えるための助走距離がなければ立ち止まってしまう
という習性をカエサルが知り尽くしていたことから立てられた作戦でした。
まずカエサルは7倍の騎兵力に対抗するためベテラン兵のみで1個軍団をつくります。彼らは騎兵が突進してきてもうろたえずに踏みとどまり、敵の騎兵の機動力をなくし彼らを囲い込んでしまうという役割をもつことになりました。またもう一つの部隊はカエサル軍の1千騎に若年の軽武装兵を加え、敵の騎兵をかく乱するという役割を持つこととしました。

そして紀元前48年8月9日、両軍は激突します。

ポンペイウスは騎兵を使った常道の作戦ともいえる敵兵の囲い込みと背後からの攻撃という作戦を展開してきますが、これに対しカエサルは立てていた作戦を始動します。
1千騎と400の軽装歩兵を加えた部隊を敵7千騎にぶつけると見せかけ、敵前で逃げるように避けます。それによりポンペイウス側騎兵7千は勢いづき、さらに突進したところをカエサル軍のベテラン兵1個軍団をの踏みとどまりながらの囲い込みを行います。
この作戦はおおむねカエサル軍の成功となります。大部分の騎兵の機動性を失ったポンペイウス軍は健闘したものの、カエサル軍のさらなる攻撃に総崩れとなります。

総大将のポンペイウスはというと騎兵7千の攻撃が失敗した段階で陣営に引き揚げてしまっていました。その後大方の戦いの決着がついた時点で陣営を捨て、敗走したのでした。

たった30騎兵ほどを連れてのポンペイウスの敗走。

この時点で、もしかしたらポンペイウスは完全に負けたわけではないと思っていたのかもしれません。しかし歴史的な視点から覗いてみると、カエサル対ポンペイウスという両雄の決戦は事実上決着がついていたのでした。
東地中海世界をローマ帝国に組み込んだ大ポンペイウス(ポンペイウス・マーニュス)と呼ばれた昔日の英雄はこの時姿を消したといっても過言ではありませんでした。
<つづく>



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2007年05月29日

決戦ファルサルス(前編)

カエサル対ポンペイウス・・・ローマ帝国を代表する二人の英雄が雌雄を決する戦いがまさに行なわれようとしていました。

前哨戦ともいえるドッラッキウム包囲戦は、カエサル軍の2万で6万の軍を包囲するという戦いとなりました。しかし戦いの結果は包囲戦という特性上、ポンペイウス軍より長い包囲網をつくらねばならなかったこともあり、少ない軍勢しかなかったカエサル軍の作戦は失敗に終わります。

カエサル側の戦死者が約1200人ポンペイウス側の戦死者の数も2000人以上にもなりましたが、全体の比率でいえばカエサル側の方が被害が大きかったといえます。
しかし失敗した後の立ち直りの早さはガリア戦のアレシア戦のようにカエサルはすばやいものがありました。

ドッラッキウム包囲戦に勝利して士気の上がっているポンペイウス軍をギリシャ中央部の方へ誘導したのです。そしてドッラッキウム戦で勝利をしたポンペイウス軍は戦勝気運にまかせてカエサル軍を追っていくこととなります。

戦いの場はテッサリア地方のファルサルスの地が選ばれました。

カエサル軍は軍団兵2万2千に騎兵1千、ポンペイウス軍は軍団兵4万7千に騎兵7千とポンペイウス軍はカエサル軍の倍以上という戦力でした。

ポンペイウス陣営の様子は戦いが起こる前から戦いの後の話をするほどの戦勝ムードとなっており、軍勢の数や騎兵力の差などすべてはポンペイウス軍有利という状況でした。実際、過去のローマの戦いをみてもこれほどの騎兵力の差で勝っているケースはほとんどないといえました。
アレキサンダー大王の時代まで遡れば、イッソスの戦いの時に騎兵力が5千対1万というケースで勝っています。しかしローマ軍はそれまでの戦いの歴史をすべて吸収した戦法を身につけており、カエサルが今回相手をするのは同じローマ軍なのでした。

紀元前48年8月9日、ローマの今後を決めることとなる戦いの火蓋が切って落とされることとなります。<つづく>


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2007年05月22日

ドゥラッキウム攻防戦

カエサルがルビコン河を渡ったことによって始まったローマの内戦は、カエサルがイタリア、ガリア、スペイン、シチリア、サルディニアを制覇し、次の局面へ移っていました。

前49年1月5日、カエサル軍はポンペイウスが待ち受けるギリシャの地へ上陸を果たしたのです。

ここまでで内戦開始から約1年が経過したことになりますが、これまでのカエサル軍は戦いづくめできたのに対し、ポンペイウスの本隊は約1年の準備期間があったことになります。
カエサル軍の一軍団が定員を大きく割り約2500人程度になっていたと推測されるので、10軍団2万5千人程度。対するポンペイウス軍は戦闘をほとんどしていないので一軍団には少なくとも4800人以上はいたと思われますから、11個軍団5万2千人以上の兵力があったことになります。

カエサルは全軍ではなく6個軍団約1万5千人と共に上陸後、すぐさまギリシャ西南部のオリクムの町を陥とすことに成功します。わずか一日の攻略戦でした。
カエサル軍はそのまま勢いに乗り北上し、ポンペイウス派の補給基地のドゥラッキウムを目指します。一方ポンペイウス軍は9個軍団4万3千人に騎兵6千人程度を率いてイニャツィア街道を通り、カエサル軍より先回りしてドゥラッキウム南30kmアプスス川北の地点に陣を構えます。
その後に到着したカエサル軍もアプスス川南に陣を構えます。

通常であれば自軍の3倍以上でしかも歴戦の強者ポンペイウスを相手に正面から戦うとなると勝算があるようには思えません。しかしカエサルは対岸に陣を構えることにしたのでした。

しかし、戦いは始まりませんでした。ポンペイウスにその気があれば戦いを起こすことが可能だったのにも関わらず、すぐに会戦とはならなかったのでした。同じローマ軍と戦うことへの抵抗感があったのか、カエサルの出方をみるつもりだったのかはわかりません。

動きはカエサル軍からありました。

それは和平の使者を立てるというものでした。しかしこの和平交渉はポンペイウスの返事のないまま2ヶ月が経過します。この2ヶ月という歳月はポンペイウスの苦悩のようなものが伝わってくるような気がします。

そして事態は急変します。

カエサル軍の第2弾目のアントニウス軍が到着したのです。アントニウス軍がカエサル軍と合流を果たしたことで、ポンペイウスは撤退を開始し、補給基地であるドゥラッキウム寄りの海岸に陣を移動したのです。当然のことながらカエサル軍はそれを追うことになります。

こうしてドゥラッキウム攻防戦が始まることとなります。
<つづく>


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2007年05月19日

独裁官カエサル

前49年12月カエサルはついに独裁官(ディクタトール)に就任します。これでカエサルは執政官不在のローマで最高の独裁権力を公式に得ることになります。

独裁官としてカエサルがまず行なったのは、翌年の執政官選出の市民集会を開くことでした。そして当然のことながら当選に成功します。

独裁官は意味合いとしては国家が危機的状況となった時に一人の人間に権力を集中させて強いリーダーシップで状況を打破することにあるので、元々非常職のものです。カエサルにとって執政官になるということはこの時点で大きい意味を持つものといえました。


次に行なったのは各政策の実行でした。内容は次のようなものです。

・スッラにより国法化された反スッラ派の公職追放解除
・国外追放者の帰国許可
・各属州の総督任命
・債権者の債権の減額
・6万セステルティウス以上の現金所持禁止
・密告制度廃止
・通貨発行

この内容だけ見ても今までの制度の廃止が主になっていることがわかります。それだけスッラ以降のローマの政治がすさんでいて、通常の状態からはずれていたことが窺えます。

この政策の実行はローマの政治体制をカエサル中心の体制に持っていく第一段階ともいえる内容で、これからポンペイウスを相手に決戦を控えたカエサルにとっては自分の地盤を固めるのに重要な一歩といえます。


これを終えたカエサルは独裁官を辞任し、ブリンディシウムに向けてローマを後にします。
ローマにはわずか10日間しかいなかったことになります。

そして、ついに決戦のためギリシャに向けて軍を進めることになります。
<つづく>


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2007年05月15日

カエサル 西を撃つ

前49年4月、ローマを制圧したカエサルは一路スペインを目指して進軍を開始していました。スペインにいるポンペイウス配下のアフラニウスとペトレイウス、ヴァッロの率いる軍、約9万の軍勢をたたくためでした。

対するカエサル軍は約3万でしたから、約3倍の敵を相手に戦うことになります。

ポンペイウス派軍はスペインの入口ともいえるレリダでカエサル軍を撃退するよう町の南側で陣をひきます。一方カエサルより先に到着したガリアからの軍は町の北に陣をひき、カエサルを待ちます。

紀元49年6月、レリダの町にカエサル軍が到着し、すぐさま行動を開始します。軍を率いて敵軍と補給地となっている町を引き離す作戦に出たのでした。

この補給路を断つという作戦は見事に成功します。

土木作業で運河をつくって補給路を断ったことでポンペイウス派軍は浮き足立ち、脱走兵が出るようになったのでした。そして、このままでは充分な補給が得られないポンペイウス派軍は南スペインへと撤退を始めることになります。

レリダの町の南西約40kmにはエブロ河が流れていました。カエサル軍より先にこの河を渡れるかどうかがポンペイウス派軍にとっては重要な問題となります。
しかし約8万の軍と約2万5千の軍では行軍速度でカエサル軍が勝りました。エブロ河に先回りをしたカエサルは戦闘はせずに、ポンペイウス派軍をレリダの南側の元の陣地へ押し戻すことに成功します。

ここまでのカエサルの行動をみてわかるのは、カエサルは敵軍であるポンペイウス派軍との戦闘をなるべく避けているということです。それはなぜなら、この戦いがローマ人対ローマ人の戦いであったからでした。
カエサルにしてみれば自軍を同じローマ人との戦闘で死なせたくないというのもあったでしょうし、敵軍であってもカエサルが内戦の勝者となれば、本当の意味での敵ではなくなるという理由があったのでした。

完全に敵の補給路を断ったカエサルは紀元前49年8月、アフラニウスとペトレイウス率いるポンペイウス派軍の降伏を勝ち取ります。
ポンペイウス派軍の兵は退役という形で解体とし、捕虜とすることもありませんでした。アフラニウスとペトレイウスらの将軍についても去就の自由を与えました。
そしてカエサルはその後、残ったヴァッロの軍も同じく降伏させ、ポンペイウス派軍のすべてを解体させてスペイン戦を終えています。

いわゆるカエサルのクレメンティア(寛容)を表す一例ともいえます。後にカエサルはこういう言葉を残しています。

「私が自由にした人々が再び私に剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。
何ものにもまして私が自分自身に課しているのは自らの考えに忠実に生きることである。だから他の人々もそうであって当然と思う」(キケロ筆 アッティクス書簡集 )

この言葉の通りに寛容を示し敵に自由を与えたカエサルでしたが、敵は何度となく再び剣を向けてくることにもなります。
<つづく>


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2007年05月11日

カエサル ローマ制圧

フォロ・ロマーノ
前49年3月17日、ポンペイウスは執政官2名他、五個軍団と共にギリシャへ撤退します。このことは、カエサルのイタリア本国での内戦決着の望みもむなしく、内戦の長期化を意味していました。

なぜこうも早い段階で、ギリシャへ撤退することを決意したのかについてですが、カエサル軍がコルフィニオの町を難なく開城させたこともギリシャ行きを早めた要因のひとつといえそうです。

イタリア半島のアドリア海側の中間地点に位置するコルフィニウム(現コルフィニオ)の町にはカエサルに代わってガリア総督に任命されていたエノバルブスが約三個軍団でカエサルを迎え撃つべく待ち構えていました。
ポンペイウス軍は五個軍団を持っていましたので、単純に計算するとカエサル軍は二個軍団とガリアからの援軍の一軍団を加えても三個軍団しかしないので、倍以上の軍ということになります。しかしポンペイウスはそこでカエサルを迎え撃つのではなく南進するという決断をとります。

ポンペイウスら元老院派が一つにまとまっているわけではないという面もこのことから窺えます。ポンペイウス自身としてみれば東地中海側に自勢力を持っているということもあったというのが一番大きかったのかも知れません。なんといってもかつての制覇行で東地中海側をローマ帝国に組み込んだという業績があるからです。

ルビコン越えをしてからのカエサルにはじめて「待った」を掛けるべく迎え撃つエノバルブスは町の住人の内通により、あっけなく敗北してしまいます。住人にしてみれば元々カエサルに敵対する理由もなかったということもあったと思いますが、エノバルブス軍と共に滅ぶつもりもなかったということだと思われます。

ポンペイウス軍を追うカエサル軍は第八、第十二、第十三軍団に加え、ガリアでの非正規軍アラウデ軍、投降兵を加えて六個軍団にまで拡大をしていました。軍事的な形勢は逆転しポンペイウス軍を上回ったことになります。撤退を決断したポンペイウスにしてみれば、こういったことも計算にあったのかもしれません。


ポンペイウスがブリンディシウム(現ブリンディシ)を去った後、カエサルは軍団輸送の艦隊の手配とイタリアへの食料確保のためのサルディニア島制圧軍の手配を指示するとアッピア街道を北上し、首都ローマを目指します。

カエサルにとってはイタリアを制圧することがまず先決となるからでした。

ローマに着いたカエサルはさっそく元老院会議を開きます。会議は今だガリア総督という公的身分のためローマの町の城外にての開催となりました。
会議では、ルビコン越えの経緯の説明の後、ポンペイウスへの和平交渉についてが話し合いされました。この時点で首都ローマについてはカエサルが実質的に全権を握ったことになります。

しかしローマ帝国全体の全権となるとポンペイウスら元老院派の握る部分が大半を占めていました。ガリア、イタリア、シチリア、サルディニアを押さえたカエサルとヒスパニア、アフリカ、地中海の東側地域を押さえているポンペイウスでは、まだ軍事的にも経済的にもポンペイウスの方が上の状態といえました。そこでカエサルは次の一手を打ちます。

西への進軍です。

なぜなら西のヒスパニアにはポンペイウス派のアフラニウス、ペトレイウス、ヴァッロの三将がおり七個軍団と現地兵合わせて九万もの軍団がいたからでした。
ローマに内政責任者としてレピドゥスを、防衛責任者としてアントニウスを任せたカエサルは自ら三個軍団を従えて陸路ヒスパニアを目指します。ガリアにいた六個軍団もヒスパニアへ向け出動命令を出していました。

カエサル対ポンペイウスの第一回目の衝突の幕開けとなります。
<つづく>

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2007年05月06日

カエサル内戦突入

サトゥルヌス神殿(フォロ・ロマーノ)
「カエサルのルビコン超え」、この時はだれも気がつかなかったかもしれませんが、これはローマ共和政約460年間の終焉の始まりを意味するものでもありました。

国境であるルビコン越えをしたカエサルの行動は速いものでした。カエサルの現時点での総兵力は第十三軍団のみという少なさでしたが、国境の町リミニを何の抵抗もなく入城を果たします。次いで第十三軍団の十個大隊の内の五個大隊をアントニウスに与えアレッツォを、クリオに三個大隊を与えアンコーナを攻略します。ガリア戦でみせた、まさに電光石火の速さというべき戦略で重要拠点のペーザロ、ファノ、アンコーナ、アレッツォの制圧に成功します。


これでカッシア街道とフラミニア街道というローマへの道を確保したことになります。ローマへは約3日で到着できる準備ができたのでした。


この頃、ようやく前回登場した元老院からの「元老院最終勧告」がカエサルに手渡されることになります。同時にカエサルの武力侵攻を止めるよう勧告する信書がポンペイウスから届きます。
それに対し、カエサルはポンペイウスが本来の役職であるスペイン属州総督としてスペインへ赴き、イタリアを非軍事化すること、平時の政治体制に戻すことを条件に要求をのむという返信を送ります。


しかしこの信書は届くことなく内戦はつづくことになります。


なぜならポンペイウス、現執政官2人ともにローマから逃亡し、すでにローマを放棄していたからでした。
ポンペイウスにしてみればローマにいる限り、軍団を持たない無防備な状態となるからでした。元老院派側の軍は以前にガリア遠征を行なっていてイタリアに召還した二個軍団がカプアに在駐していました。

先ほどの信書が届いたのはポンペイウスがカプアに到着した後のことになります。この手紙に対しポンペイウスが返信した内容はカエサル軍が先に軍団を解散した後でならば、スペインへ赴任するという内容のもので、カエサルとしては受け入れられる内容ではありませんでした。このことから察するに元老院派及びポンペイウスはカエサルに負けるとは思ってはおらず、なんらかの譲歩が得られると確信していたように思われます。


ポンペイウスの行動はというとカプアで軍勢を確保した後に自らの地盤である南伊へ移動していきます。地盤での兵力確保が目的と思われる行動でした。


両軍の進軍の様子はポンペイウス軍がナポリ近郊のカプアからベネヴェントを通ってブリンディシに移動し、カエサル軍はローマへは向かわずに丁度アドリア海沿いにリミニからアンコーナ、コルフィニオ、ルチェリアを通ってブリンディシへ向かっていました。

南へ向かったカエサルの目的はポンペイウス地盤の地域での彼らの徴兵を防ぐこととこの南イタリアの制圧でした。ポンペイウスは地盤に留まるのではなく、さらに南進を続けたためポンペイウス地盤の地域も見捨てられたと思い、さしたる抵抗もなく制圧されていきました。途中、カエサル軍にはガリアから呼び寄せた第十二軍団が合流しています。



3月4日、ついにポンペイウスはイタリア本国での一戦を交えることなく、イタリアを放棄しギリシャへ撤退していきます。まるで逃げるような勢いでの行軍となりました。


そして両軍はいずれ有名な戦いの地「ファルサロス」で決戦を迎えることになります。
<つづく>

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2007年05月04日

ルビコン川を渡る 

カエサル像
ガリア戦を終えた後のカエサルを最終的に追い詰めたのは「元老院最終勧告=セナートゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」でした。




この「元老院最終勧告」とは一種の非常事態宣言で、元老院の決定に従わない者は国家の敵となるというものでした。この勧告に対しては護民官の拒否権(ヴェトー)も通用しないので、通常は決定権を持っていない助言機関である元老院が唯一持っていた強権といえます。


なぜこうなったのかという経緯ですが、まずカエサルの属州総督の期限をなんとか早めたい元老院派は反カエサル法案を次々に提出していました。カエサルの名声が高くなりすぎると元老院派の意見が通らなくなるからです。またガリア戦を終え10個軍団を保有しているカエサルは脅威でもあり、中には「カエサルが王になろうとしている」という非難もありました。

首都ローマにてカエサルの利益を守るのは民衆派のカエサル信望者やカエサル派の護民官の役割となっていました。護民官クリオ、アントニウスの活躍により拒否権を行使し反カエサル法案は決議できないでいました。


通常の手段を失った元老院派は前49年1月7日、元老院最終勧告を提出することになります。これにより護民官の拒否権は効力を失い、元老院とポンペイウスに無制限の大権を認めるとした法を可決されました。
カエサルはこれにより元老院、及びポンペイウスの命令に従わなければ国賊になることが決定されました。



これに対するカエサル派の反応は速く、アントニウスとクリオらはその日のうちにローマを脱出しラヴェンナにいるカエサルの元へと向かっています。
カエサルは内戦に突入するということに悩みながらも、一つの決断をすることになります。



前49年1月12日、カエサル軍は駐屯していたラヴェンナを発ちリミニへ行軍を開始します。ラヴェンナからリミニまでは約50kmの道程でした。そしてこの間の約35km地点に国境ルビコン川がありました。
朝方にルビコン川到着したカエサルは幕僚達にこう言います。

「ここを超えれば人間世界の悲惨、超えなければ我が破滅」

そして兵士達にも大声でこう告げます。

「進もう、神々が待つ所へ、我々を侮辱した敵の待つ所へ、賽は投げられた」


「賽は投げられた=Jacta alea est」はカエサルの言葉では一番有名で、一大決心をした男の意志の強さをうかがわせます。



カエサルがルビコンを超え、ローマの内戦に突入します。ここでは様々な人間ドラマが繰り広げられ「帝政」というローマ第二の建国のはじまりともなっていきます。



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