2007年12月14日

携帯電話が壊れた話

 日本を代表する映画監督、小津安二郎氏の誕生日であり、命日にあたる12月12日の朝、携帯電話が突然壊れた。今年3月に機種変更したばかりの携帯である。ショップに持っていったところ、完全なる故障のようで、修理すると中のデータは全部消えてしまうらしい。がっくりきたのは、4月以降にできた知人の携帯電話やメールアドレスがわからなくなってしまったことだ。3月前のデータはそれまで持っていた機種にデータが残っているので大丈夫なのだが、さすがに落ち込む。その日は仕事には遅れるし、まさに踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂といった日だった。せっかくの「小津デー」で、時間があれば「晩春」でも見ようかなと思っていたから、なんとも悲しい1日となった。しかし開き直りの早い私は、4月以降のデータのうち、ノートや名刺に記録していない電話番号などは、もう相手から連絡がこないかぎり修復不可能なのだから、そうした人たちとは縁がなかったのだと、もうあきらめている。それまでのデータを少しずつ入れていっている日々だ。あ、今日は赤穂浪士の討ち入りの日ですか。(平成19年12月14日)  
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2007年12月11日

さあ、前頭葉を鍛えよう

久々のブログ。9月から新部署で働いているのだが、どうも自分らしさが発揮できず、とまどっている。脳がまるで働かないのだ。3ヶ月経っても一向に改善がみられないどころか、むしろ悪くなっている気さえする今日このごろ。改善しなければ、という思いで、東京出張での新幹線社内で脳について記された新書を読んだ。なんでも私の原因は前頭葉に問題があるようだ。前頭葉が働かなければ、これまでの蓄積もなんら生かされないらしい。そのためにもしっかりと前頭葉を活発に動かせることが大切なのである。脳のトレーニングをはじめ、前頭葉を鍛える方法がいくらでもある。料理や掃除などもいいらしい。ブログで思いをまとめることもいいそうなので、久しぶりにブログに手をつけたわけだ。さて、いつまで続くことやら。忙しさを理由に部屋は散らかり放題だし、洗濯機も洗濯物でてんこもり状態。出張から戻ってきたら、まずは朝早めに起きて、部屋の整頓に取り掛かることにしようと思った。(平成19年12月11日)  
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2007年04月05日

ダニエラという女

  度重なる出張のため、3月は大変忙しく、今月もまた出張があって忙しいことになりそうだが、その合間に「ダニエラという女」というフランス映画を見に入った。
 ちなみにR−18指定。主演は私の大好きな女優、モニカ・べルッチ。彼女が出ていた「アパートメント」は、今でも大好きな映画である。
 今回彼女は、娼婦役で登場。娼婦のバー(フランスにはこんな風俗店があるのだろうか)にて、宝くじが当たり、大金が入ったとする男が、大金を払うかわりに一緒に過ごして欲しいとお願いする。見た目冴えない男の依頼に対し、彼女は承諾して男の部屋で暮らすが、やがて失踪。再びもとの娼婦がいるバーに彼女はいた。その後、また話は二転三転する−という内容である。フランスの名優、ジェラール・ドパルデューも登場して、ギャングのボス役を好演しているが、内容が「コメディ」であるため、思い切りコワーい悪役を演じているわけでもなく、結構親しみのある役柄であった。
 さて、この映画は「ラブコメディ」とされており、この映画にドロドロとした内容を期待していた私にとっては、それを知って少々拍子抜けしたが、実際に見た内容もその通りの内容だった。いわゆるフランスでの「お笑い」には、ついていけない部分があったので、今回もその「お笑い」が登場するのだが、どうも笑えなかったのである。笑いが高度なのか、それとも低度なのか、わからない。フランスの事物は素晴らしいと思うし、映画全般においても、全般的にフランスの質は高いと思う私であっても、やはり日本やアメリカのお笑いの方が一般的に面白いと感じる。シリアスな内容はやはり、フランス映画が一番だと思うが。
  
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市政をうまく運営していくために必要なこと

市職員採用をめぐって名誉を毀損されたとして、加西市の前市長が現市長を告訴した。もう泥沼化の状態で、加西の先行きは全くもって不透明である。
 それにしても疑問に思うのは、助役の存在。助役というのは、いわば市長の女房的存在であって、夫が不利な状況に立たされている際は、一緒になってその打開に努めなくてはならないはずである。現市長が辞職したならば、助役も職を解かれることになるのだから、気が気ではないはず。しかし外から見ていると、どうも助役が表舞台に登場してこない。これは一体どういうことだろうか。市長が助役を放ったらかしにして、ワンマンで突っ走っているということか?こういうときこそ、助役が関係の修復に努めるべきだと私は思うのだが、そういうことさえ無理な状態なのだろうか?関係者の話では、市長の動きに助役も外野席から見守っている−といった感じらしい。これではいけない。
 助役を一般公募したことは、確かに画期的なことではあった。実際、就任した助役の経歴は素晴らしいし、職務も淡々とこなしていることだろう。しかし助役決定当初から憂慮していたことがある。それは、2人とも民間出身だったということだ。私だけでなく、これは市民の多くも感じていたことではないだろうか。敢えて理想をいえば、行政のトップと癸欧いた場合、一方が民間であるならば、もう一方は行政経験者であるべきだと、私は思う。たとえ民間出身がどんなに仕事ができるとしても、行政経験はゼロ。しかも民間出身である2人は、市職員にとっていわば「外様」であって、助役さえも民間出身である場合、トップと市職員らとの関係を円滑に進めていく役割を果たすことは大変な労力が必要だと思ったからである。市職員側にとっても、パイプ役に自分たちの言い分がわかってもらえる存在だったならば、さぞかし相談にも乗りやすかったはずだ。何かと叩かれる行政だが、行政側にも優れた部分は多々あるわけである。民間の立場からばかり意見を述べて、行政側の仕事を否定するだけではいけない。行政の優れた部分を生かして、伸ばしてあげるようにしかなければ、市職員はうんざりして、トップに従わないだろう。
 結局、市長と市議会どころか、トップと市職員との関係さえうまくいっていないように客観的に見受けられる今日の状況をつくった原因のひとつに、2人とも民間出身であったことが挙げられると思う。新聞報道が発端となり、鬱憤が溜まっていた市職員と市議が組んで、市長を追い込んだような構図に感じられる。修復しようとするならば、とにかく市職員側の言い分をしっかりと聞くようにして、相互理解に努めていくしかない。不信任案が可決された今となっては、すでに遅い話かもしれないが。まあ、偉そうに言って恐縮だが、とにかく「2期目」があったとするならば、市長も助役も市職員との人間関係を重視していくように心がけることが1番の課題だと思う。アイデアはいいのだから、それが実現するよう、協力する職員を増やしていかなくてはならない。
 以上述べたことは、あくまで理想論である。市長や助役のお気持ちの損ねたならば、申し訳ない。市政を数カ月みるにつれて、次第に市職員の心が離れていき、崩壊は時間の問題であったと思っていたが、それにしてもここまでひどくなるとは想像していなかった。
 こちらから聞いてもいないのに、加西情報がもたらされ、時にはありがたく、時にはうんざりしている今日このごろ。私も仕事で忙しく、とてもこの騒動に首を突っ込むわけにはいかないが、ちょっとした気分転換にブログに書き込んだ。さあて、また本来の仕事に戻るとします。
  
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2007年02月12日

各新聞の書評欄は面白いか?

 つぐつぐ思うことがある。新聞の書評欄は面白いか?ということだ。というのも私は以前から、各新聞の書評欄の内容に疑問を抱いているからだ(個人的に一部の新聞の書評欄は納得しているが)。今日は日曜日だし、各新聞の書評欄を読み比べてみたけれど、さして興味を引く本はなかった。大阪の大型書店に行けば、全国紙の書評が壁にずらりと張ってあるからチェックしてみるとよろしい。私がみたところ、そこには、いくつかの傾向がみられるのである。
 まずひとつは、ある分野の研究者がいかにもエッヘンしていそうな感じで、自分の関係ジャンルの本を紹介しているということだ。専門書だから、数千円する高値の本ばかりである。よっぽど自分にとって必要な本か、ためにならない本でないかぎり手は伸びない額だろう。しかし専門書だから一般受けするものではなく、当然誰が呼んでも血や肉になりそうな内容ではない。それが書評欄の大部分を占めているのだから、各新聞社の意図はいったい何なのか?と首をかしげてしまうのだ。そうした本は まず、絶対に増刷などされない本がほとんど。書評というけれど、結局は知り合いの新刊を義理で紹介しているに過ぎないのではあるまいか?
  さらに感じる傾向のひとつは、先ほどの逆。書評欄では、一般受けして血や肉になる価値のある内容の本でありながら、紹介されない著者のグループがいるということである。
 ちなみに私は上智大学の渡部昇一名誉教授や、関西大学の谷沢永一名誉教授の本が大好きでよく読むのだけれど、このお二人の先生が執筆された本は実にためになる。大学生の時代から愛読しているが、人生や歴史についてどれだけ大切なことを教わったことだろう。ところが、まずこのお二人の著書は新聞の広告欄には載っても、書評欄に載ることは、少なくとも私の記憶する限り、なかった。思想的にお二人と同じ立場にいる作家や研究者の本は、どうも紹介されないのだ。このことについては、確かお二人のいずれかの著書でも触れてあったと思うが、タイトルは忘れてしまった。私には、新聞側や、書評欄担当グループという枠組みがあって、グループ外の人物の著書は内容の善し悪しにかかわらず紹介しない、というような暗黙の了解があるようにすら感じてしまうのである。こーんな内容の書評欄ばかりだったら、どんなにためになる本が出版しても、手にされることなく埋もれていってしまい、いずれは絶版になってしまうのだろうなあ、と思う。まあ、それ以前に書評欄を載せている新聞の運命の方を心配した方がいいのかもしれません。
  
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2007年02月11日

フランス映画「薬指の標本」

 先日、フランス映画「薬指の標本」を観た。原作は、「博士の愛した数式」で知られる小川洋子さんの小説である。この小説を受けたフランスの映画監督らが、フランスを舞台に映画化をしたのが、本作であるらしい。
主人公の若い女性は、工場で薬指の先端を切り、辞職。そのことを引きずりながら、職を探していたが、あるとき、標本づくりを行う技術者の助手となる。そこでは、植物や骨、楽譜など、ありとあらゆるものが標本の対象となり、依頼者の多くは自分が背負っている心のマイナス面を取り除くため、対象物を持ち寄ってくる。
 女性は標本の技術者から新品のハイヒールをもらった。とても気に入り、技術者が言う通りに毎日履いている。ある日、女性は、かつて鳥の骨を持参し、標本にするよう依頼してきた靴磨きの男性のもとを訪れ、その靴を磨いてもらう。そのときの男の言葉が、現状に満足していた女性に転機をもたらす。
…とまあ、概要にふれてみたが、結末はわかりやすいものだった。しかし所々に出てくる少年の存在や、昼と夜入れ替わりで同じ部屋に住んでいる男性の存在が、どういう意図で彼らを登場させたのか、鈍い私にはいまひとつわからなかった。原作をまだ読んでいないので、明日にも購入にして読み、映画との内容の違いや、フランス人が関心を抱いた魅力を知りたいものである。
 さて、今回この映画を観たのは、ミニシアターが2つある、とある地方の映画館である。この映画館で上映する映画は、いわゆるシネコンで上映する映画とは違っていて、都会でいうところのミニシアター系の映画が実に多い。
 ところで播州には、西脇市に「西脇大劇」という映画館があるが、播州織で栄えたころのかつてのように、繁盛しているようには思えない。生き残るひとつの方法としては、シネコンでみられる映画ではなく、都会でもなかなかみられないミニシアター系の映画の上映だと思うのだが、いかがだろうか。このような映画は確かに万人受けしないから、儲けにはならないが話題にはなるだろうし、わざわざ大阪や神戸にいかなくとも、そうした映画がみられるというのは、「マニア」にはうれしいものである。加古川にもあるのに、加西にもシネコンができるという話も出ているぐらいだし、参考にしてみる価値はあると思うのだが。



  
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2007年02月05日

「あるいは裏切りという名の犬」

 休暇で見たもう1本の映画が、フランス映画の「あるいは裏切りという名の犬」。大阪の「テアトル梅田」で見てきた。タイトル名からして、いかにもフランス映画らしい一筋縄ではいかないようなタイトルだ。フランスを代表する俳優であるダニエル・オートゥイユと、ジェラール・ドパルデューの主演だから、とても楽しみにしていたが、タイトル名は「裏切り」であっても、その期待を裏切らない実際最後まで飽きさせない展開で、とても満足した。ストーリーもスムーズに運ぶし、突然「Fin」になることもない。フランス映画にありがちな、映画を見終わった後に頭にいくつもの「?」が浮かぶようなことはないから、フランス映画に興味がない人も、この映画ならばすんなり入ることができるのではないか。
 刑事2人を主人公にしたこの映画は、実話がもとになっている。「橋の上の娘」「サンピエールの未亡人」「隠された記憶」などにも登場するオートゥイユは相変わらず渋い演技で素晴らしい。また、かつて友だった相手を裏切り、権力の座につく一方の刑事役を演じたドパルデューは、やはりうまいと思った。物語の展開の方法も、なんら結びつかない事象を平行させて登場させながらも、佳境を迎えるころにはしっかりと結ばれているようにつくってあった。フランス映画は大好きなのだが、オリヴィエ・マルシャルが監督した映画は初めて見た。しっかり覚えておきたい。
この映画は好評だったため、ハリウッドがリメイク権を獲得し、ロバート・デニーロ主演でアメリカ版もやがて上映されるらしい。この映画だけでも十分素晴らしいのに、なんでリメイクするの?と思ってしまう。現金輸送車を強盗団が襲うシーンがあるが、おそらくこうしたところをとことんド派手に演出するのだろうな。フランス映画が魅せる男たちの微妙な心のうつろいを、果たして現代のアメリカ映画でも表現できるか、見物である。ぜひ比べて見てみようと思う。
  
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「墨攻」を見て感じた国防論

 先日休暇をとって、映画を2本見た。休日に映画を見ると、その1日がとても充実した気分になるのは、私だけではあるまい。思えば私が映画を見たのは、今年になって今回が初めてである。見たい映画もあったけれど、行きそびれてしまったのだ。
 まず見たのが「墨攻」である。攻撃を自ら仕掛けることはせず、ひたすら守る戦術に長けた墨家のひとりである革離が指揮を取り、大国・趙の10万の大軍から小国・燕の城を守っていく話である。主役の革離役を演じたアンディ・ラウが、もうとにかく格好いい。梁王役を演じたワン・チーウエンが憎たらしさを実にうまく出していて、これまたよかった。
 それにしても、「自ら攻めずにひたすら守る」というのは、戦後の日本に対する当て付けかいな、と、ひねくれ者の私は思ってしまった。
 もちろん私は、別に「先手必勝」よろしく、積極的に戦争を仕掛けることを支持しているのではない。しかし、ただ守っているだけでは、いつかは攻め滅ぼされていくことを懸念しているのである。やはり「攻撃は最大の防御」なのではあるまいか。
 血を流さずとも「攻め」という行為は、いくらでもできるわけである。
 例えば、「情報戦」はその最もたるモノだ。すでに中国側はその意味からも日本を攻撃している。同じ映画でいえば、今度、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・南京」をもとにした「南京」という映画がアメリカで上映されるらしい。中国側は自分たちの残虐性をカモフラージュするため、日本人の残虐性を伝えるこの映画を、世界の人々に見せようとしている。それがどんなに嘘であっても、利があれば、ねつ造をなんとも思わない中国には、てんで関係ない。それが「武器」として使用できれば、なんでも用いるのだ。この「武器」がアメリカで使用されるやいなや、アメリカ国民はなんらかの形で日本バッシングを始めることだろう。アメリカを動かそうと思えば、世論に訴えるのが一番。さすがは中国である。日本を支持するブッシュ大統領をはじめとする共和党政権の任期もあとわずかで、その後は、日本に好感を抱いていない民主党が政権を握るはず。いったい、日本はこうしたじわりじわりと進行している中国の情報戦略にどう対応していくつもりか。
 革離の功績によって、一時は梁王の城は守られたものの、それは一時的なもの。革離が去った数年後、燕は滅びてしまう。守りだけでは所詮、一時しのぎに過ぎず、相手側に十分に対峙できる戦力がなければ、国を守ることはできないのである。
 いっそのこと日本側も、中国がチベット民族を大量虐殺した内容の映画でもつくって、中国人の残虐性を世界に知らしめて、反撃してみてはいかがだろう。親中的な日本人は「けしからん」と怒るだろうが。そうした人々はすでに中国側の情報戦略の洗脳下にあるのだ。  
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2007年01月28日

「聞いていない」

 先日、加西市が夕張市職員の受け入れについて批判した文章を載せたが、知り合いに尋ねたところ、どうやら少々私が誤解していた部分もあったようである。受け入れの決定はしていないらしい。新聞報道を鵜呑みすることの危険性を感じ、私自身も反省している。
 さて、ただこの問題、新聞で早速報道されると、職員の一部が「(市長から)聞いていない」と怒りを露わにしたらしい。これは仕方のないことである。人間というものは、とかく「聞いていない」という状況に自分が置かれた場合、怒りを感じるものらしい。以前このブログで薦めた本を再び紹介することになるが、ここで関西大学名誉教授の谷沢永一氏の著書「人間通」(新潮選書)から引用してみよう。
 「なんらかの組織に属する我が国びとが、猛然と腹を立てる最も普遍的な情景はなにか。決まりきった通例がどこにでも見られる。すなわち、それを私はまだ聞いていない、と怒りだす場面である。ひとりがこう開き直って異議の申し立てを始めると大抵の会議は二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる。日本人は常に仲間のひとりとしての座を確保していなければ気が済まない。この場合の仲間とは情報を共有している関係であり、それを確認して安堵している自己満足が生き甲斐なのであろうか。情報がいつもおのずから当方に達するのは自分が重んじられているからである。この俺様が承知していなければ何事も前へ進まないのだと自信を強めるためには、あちらこちらからしょっちゅう情報が耳打ちされていなければならない」
 その上で谷沢氏は、そのためにも「根回し」の必要性を説く。さらに引用する。
 「我が国では会議の前に根回しが必須となる。あまねく同意を得てから漸く開催に漕ぎつけるのだから殆どの会議は儀式でしかない。これは勝者と敗者をつくらないための欠くべからざる措置である。(中略)根回しは単に面子(めんつ)を立てるだけではない。その人の自覚を高め遣る気を起こさせる手立てである。人を心の底から喜ばせる素晴らしい措置なのである」
 組織の長が組織内の人間に「根回し」に該当する情報の提供を一斉せず、いきなり外部へ情報を漏らせば、どうなるか。「聞いていない」と、トップに対する怒りと不信感が起こることは間違いなく、双方の信頼関係はますます崩れていくことだろう。

  
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2007年01月27日

「えーかっこしー」はやめよう

 先日の新聞を読んで驚いた。加西市が、財政破たんした北海道夕張市を退職する職員を受け入れるらしい。発案者の中川市長は確かに面白い発想の持ち主で、これまでその発想を実現した方でもあるから、支持できる部分もあるのだが、これには納得できない。失礼ながら、ただの「えーかっこしい」にしか思えず、私は反対である。
 なぜ、反対なのか。第1に、今後も苦しまなくてはならない夕張市民を置き去りにして、自分は退職金をもらって、やすやすと安住の地に逃げ込もうとする「公僕」を、私は人間として信用できないからである。そんな職員が、加西市の職員になったとしても、市民が歓迎するか?ということだ。
 財政破たんの苦悩を経験した人材が同じ職場にいたら、他の職員が財政の危機感を持つ−という理由も理解できない。カネを使えるだけ使ってつぶれた街の職員が、いったいどれだけの戦力になる?むしろ逆効果で、職員は、夕張からやってきた職員のように、勤務する市がつぶれても、退職金はしっかりもらって、またどこかに逃げていくとも考えられる。同情する必要など全くない。財政難が問題になっていなかった時期に入庁した職員ならまだしも、あらゆる観光事業がうまく機能していない状態が続いていた数年前に入庁した職員を採用しても、私にしてみたら、その職員は先見性ゼロ。沈みゆく船から逃げるネズミではなく、その職員は、沈み行く船に何も考えずに入ったネズミであって、私は×(ペケ)だと思う。
 第2に、かつてのハコモノ行政などが災いして多額の借金を抱える加西市が、他の自治体に手を差し伸べられるほど自治体として優れているといえる状況なのか、ということだ。そんなことしている場合か?本当は借金大国なのに、いまだ諸外国にODAを供給しているお人好しのどこかの国みたいである。まず、自分のまちの「身の程」をわきまえるべきだろう。行政が外見を繕っているだけでは、やがてどこかの夫みたいに「バラバラ」になる。夕張をひとつの反面教師ととらえて、そうならないように学習するのは結構だが、雇い入れたところで職員の意識改革ができるなど、魔法ではあるまいし、非現実的である。夕張市の職員を採用したばかりに、加西市まで破たんした−という決して冗談では済まされないような結果を招いてはいけない。たとえ有力な人材がいたとしても、そんな職員ならば、北海道内でいくらでも就職口があるはずだし、わざわざ見ず知らずの土地にやってくることもないだろう。
 第3に、財政再建中なのだから、費用の主要部分を占める人件費の削減のため、職員数はできるだけ増やさないべきである。数年前からの財政再建計画が着実に進んでいるとはいえ、それでも「まだまだ」であり、一層の再建策を進めるべく、人件費の削減にもっと取り組む必要があるはずなのだ。数年、市役所を観察してきたが、私が見たところ、市職員ははっきり言って、「働く職員」と「働かない職員」の差が歴然としているように感じた。働く職員は夜遅くまで他の職員の何人分も働いているので、頭が下がる思いである。しかしその一方、開庁時間なのに、ひまそうに新聞を読んでいたり、パソコンをいじくって(とても仕事で使用しているとは思えなかった)いる人がいて、何してるの?と疑ってしまいそうな職員がいることも確かなのだ。そんな状況なのに、夕張市の若手職員を約20人も受け入れて、どうするのか。「採用」よりも「削減」でしょう?と言いたいのである。
 確か隣の小野市は兵庫県の自治体中、極めて借金が少なく、貯金(財政調整基金)が多い都市だったはずだ。そんな小野市では蓬莱務氏が市長就任後、新規採用を数年見送り、賃金の安い嘱託職員を雇うなどした結果、職員数の削減に成功した。隣に格好の見本がありながら、それに倣わずに、また職員数を増やそうとしている。新規採用を行わず、極限まで職員数を減らして運営してみたらどうなのか?
 以上、|出した「公僕」は人間として信用できない◆嵜箸猟」を考えるべき「採用」よりも「削減」が優先−という3点から反対の意見を述べた。市長が宣言した以上はその意向はまず撤回されないだろうが、市議らがぜひ市長に問うてほしいものである。
  
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