2006年03月

2006年03月29日

復活

再びランクインすることが出来ました。これも皆様のおかげです。

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まぁ、悲しいことに題名が間違っているんですけど…



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2006年03月17日

続・枯れない花

「もう戻らない…」
そう誓いながら病院を後にしたのは紛れもない真実である。入院病室担当の先生にも看護師さんにも、もう会うことはないと思っていた。

11月23日の完全退院の後は何の問題もなく生活を送っていた。2週間に1回の外来もずっと異常はなかった。そこで先生から1つの提案があった。
「飲み薬を飲もうか」
この飲み薬は、単なる飲み薬ではない。あの辛かった抗ガン剤の飲み薬である。もちろん、そこまで強いものではないらしい。ただ、その飲み薬を飲み続けることで再発の可能性がわずかながらに低くなると言われた。どれくらい低くなるのかは聞かなかったが、先生のニュアンスから判断するとその可能性は2,3%しか変わらないといったとこだった。
しかし当時の私には、例えわずかな値でも、再発の確率が低くなるという事実が何よりも大切なもの。私は飲み薬を飲むことを決心した。

その薬を飲み始めたのは、1月中旬くらいだったろうか。先生の診察の後、私は院外処方箋を受け取った。そして病院の近くにある割と大きな薬局にその処方箋を提出した。
しかし、すぐに私は薬剤師に呼び出される。
「取り寄せないと、ない薬があるから時間がかかるけど大丈夫ですか?」
私は驚いた。大きな薬局にも薬がないだなんて。その後は2時間くらいまっただろうか、もう店内に他のお客の姿はなく、閉店の時間のため正面の入り口も閉められていた。
「ほんとにお待たせしました…」
その声とともに薬剤師が私のもとに近づいてきた。やっと薬が出来上がったのだ。
と会計に示された金額を見て私は腰を抜かした。5万円を越えていたのである。さすがにそこまで準備はしていなかった私は、すぐにお金をおろしに行った。
しかし、いくら払おうともかけがえのないものがそこにはあった。例え1%の確率の上乗せと分かっていても、断る理由などどこにも見当たらなかった。
薬を飲むのは1日3回、必然的に規則正しい生活になる。その薬の体への影響力はというと、正直だった。入院中、人1倍抗ガン剤の副作用を感じたように、弱い薬ながらも体には不快感を感じる。毎日、常に2日酔いのような感じだった。学校へ向かう前に戻してしまうことも1度だがあった。
そんな状態のため、満腹になるまで食事を摂りたいと思えなかったり、お酒は禁止したりと日常生活にも障害は多かった。
そして2週間が経つ。私は再び外来で病院を訪れた。その症状を話すと先生は、やはり驚いたような表情をみせる。
「弱い薬なのにねぇ…」
本当に抗ガン剤との相性が抜群のようだ。しかし今回も院外処方箋を渡され、薬をもらいにいく。今回は待つ事もなく、すぐに薬が手渡された…。

実は、その時飲んでいた抗ガン剤は、本当に飲まなければならない量の3分の2程度の量だった。3分の2でここまで影響が出るのだから、適量まで増えたら…。当然そんな事を考えるようになっていた。

ちょうどその頃から、薬の副作用はひどくなったように思えた。普段の生活に支障が出るレベルで気持ちが悪い。体も重たい…。時を同じくして私の母の父親が他界した。当然、お葬式のため私は実家へと戻った。その機能しない体にムチをうって。
親族として、お通夜、葬式と立ちっ放しの状態が多かったのだが、私は常に倒れそうな状態だった。でも、なんでもないように振舞ってしまう自分がいた。ただでさえ皆悲しみに暮れているのに、余計な心配をかけることは自然と出来なくなっていた。
お葬式が終わり、家へ帰ると私はベッドへと直行した。そしてその日、私がベッドから再び動き出す事はなかった。
翌日になっても私はベッドから動き出す事は出来なかった。熱を測ると39.5℃前後を行ったり来たり、こんなの初めてだ。意識がもうろうとしていた。
解熱剤を飲んで一時的に楽になり、薬が切れると再び熱に苦しむ、その繰り返し。この期間は、さすがに抗ガン剤を飲む事はしなかった。私はこの熱の原因が抗ガン剤にあると疑ってやまなかった。
2日後に外来の予約が入っている。だからその日まで、何とか耐え抜けば大丈夫だろう。今も昔も変なところで我慢強い人間である。外来の前日、まずは解熱剤で熱を下げ上京するために電車に乗る。当然、途中で薬の力も切れふらふらになった。普段なら駅から家まで7分くらいにもかかわらず、その時は20分以上もかかった。家につくとすぐにベッドに横たわる。さらに熱は上がったような感じだった。一体、私の体はどうなってしまったのか…
やっと外来の日になった。当時住んでいた街から病院までは50分弱くらいだったろうか。しかし、私は電車に乗り50分かけて病院まで行く自信がなかった。それくらい、体は辛かったのである。
どうしようもなく、救急車でも呼んでしまおうかとも考えたが、そういうわけにもいかず、私はタクシーで病院まで向かう事に決めた。だいぶもったいなかったが、それしか方法はなかった。しかし、なかなかうまくはいかないように出来ている。タクシー会社に電話しても遠くの病院までの行き方に自信がないと次々と断られてしまったのだ。儲けは大きいのに何でだろう。
電車で行くしかないのかと不安に掻き立てられた瞬間、1本の電話が鳴った。どうやら、病院までいけそうなドライバーが見つかったようである。本当に救われたような気がした。タクシーに乗るとすぐに後部座席に横たわるってしまった。車の揺れは意外にも辛かった。辛抱強く耐え抜いている間にタクシーは無事に病院まで到着し、私は降り立つ。この時の私には、この後の展開がすでに予測できていた。

いつものように採血をしに採血室に向かった。そして採血、看護師さんが私の体を触った瞬間に「大丈夫?」と声をかけてくる。体が火照っていたため、調子悪さが伝わったのであろう。採血が終わると4階の内科外来の前に行き、名前が呼ばれるのをひたすら待ち続けた。もちろん長椅子に横たわりながらである。周りの人にどう思われようとも関係なかった、普通に座ることも辛いのだから。
なおも名前を呼ばれるのを待ち続けていると、誰かに声をかけられた、先生だった。採血の結果を見て私を呼ぶ前に、先生自らが私のもとにやって来たのである。
「血液の値が低くなっているから、入院しよう」
会うなりその言葉をかけられた。何の驚きもなかった。当然の出来事であった。その時、これでこの原因不明の体調不良がやっと治るんだという安心感が生まれてきた。1度入院生活を経験しているせいか不安はこれっぽっちもなかった。そして再び看護師さんに会えるという喜びも心の底には生まれていた。

衝撃の一言が私を襲う。
「今、15階はいっぱいだから、空くまで他の階の病室に入院しよう」
ありえない話であった。連れて行かれたのは12階、外科患者入院用の病室。当然知っている看護師さんはいるはずもない。外科患者とは症状も違うため、看護師さんに私の対応が出来るのかなどとも考えてしまう。
ベッドにつくなり倒れこむように横たわった私であったが、外科にここまで症状がひどい患者はいなく、周りから、看護師さんからも冷ややかな目で見られているように感じてしまった。なんて居心地の悪い階なんだろう…
後にずっと私を担当していた吉田先生が現われ、今回も私の担当になることを告げてくれた。これが唯一ホッとした事だろうか、やっと知っている人に出会えたんだなと。
そして先生は私が退院した後にどうやら結婚したらしい。その事実は、時の流れを私に感じさせるには十分であった。
その日のうちに、私は胸のレントゲン写真を撮った。その結果から肺炎にかかっていることが判明する。しかし肺炎だけでは、なぜ血液の値がここまで下がっているのかが証明できない。私はいろいろ考えた。でも行き着く答えは1つ、飲み薬の抗ガン剤が効き過ぎて血液値が下がり、抵抗力が弱まり肺炎になったのだろうと。この考えは先生も一緒だった。よってその晩から、私は悪い菌を倒す力のある、抗生剤を点滴する事になる。
この抗生剤を点滴すると、山崎さんに、先生には内緒で点滴後の処理をしてもらった入院時の思い出がよみがえってきた。ここから3階上がれば、そこは慣れ親しんだ病室なのに…
この抗生剤、1日に3回ほど点滴したが、2日、3日経っても私の体調は全くと言っていいほど回復しない。熱は常に39℃以上。トイレに行くまでに、立ち眩みがして何度も倒れそうになった。15階なら看護師さんに付き添ってもらっていたかもしれない、しかし12階では看護師さんが廊下にいないのを見計らってフラフラになりながらトイレへ向かった。それくらい12階とは大きな壁があったのだ…

もちろん全ての看護師さんが冷たかったわけではない。山崎さんのように気がつき、お風呂場で私の髪を洗ってくれる優しい看護師さんもいた。それでもやはり、何か壁のようなものを感じた。それは、私が内科の患者だからなのか、それとも15階の思い出が強すぎて、12階の看護師さんが不親切に思えてしまったからなのだろうか…
入院して5日が経った頃、なおも下がらない熱を不思議がった先生は再びレントゲンを撮ることを指示した。その結果、新たにわかったことがあった。肺炎と診断されていた病名はただの肺炎ではなく、白血球の値が下がっている人しか、かからない特殊な肺炎、“カリニ肺炎”というものに私はなっていたという事実である。
このカリニ肺炎は特効薬を飲まなければ治らず、その日からすぐにその特効薬を飲む事になった。見たこともないくらい大きな錠剤の特攻薬、ホントに飲み込みのに苦労し、喉に詰まってしまうのではと思うほど大きかった。

やはり特効薬と言うだけあって、みるみるうちに熱は下がり、咳きもおさまっていった。それまでの生活が嘘と思える程、体調が戻ってきた私は、また1つおかしな事考え始めてしまった。このまますぐに体調が回復したら、15階に戻ることなく退院してしまうではないか…と。しかし、その不安を打ち消してくれる言葉を先生にかけられた。
「特効薬はあと2週間くらい飲もうか」

単純に考えればあと2週間の入院が保障された事になる。当時の私からすれば、この言葉はありがたいものであったとともに、2週間もあれば15階に行けるだろうとの確信も持った。私が退院していた3ヶ月の間に各部屋に設置されていたテレビがそれまでの課金制から、無料で見れるようになっていた。体調もある程度回復し、テレビをずっとみ続ける生活。それは、再び仲の良かった看護師さん達に会えるという期待の半面、一体こんなところで何をしているのだろうという不安も私にもたらした。ただただ、春休みでよかったなと。

12階の病室に来てからちょうど1週間が経った時、とうとう私に声がかかった。
「12階の病室から移動になりました」
ずっと待っていた一声である、さぁ15階へ向かおうという気持ちが高まった時に、さらに付け足された。
「あっ、次は14階の病室になるから」

「…え!?」

私はこれ以上声が出なかった。12階の病室が満室になった追い出されたという形だった…。たらい回しにされていた。
14階は眼科の病室だった。当然、入院している患者はそう多くはない。それどころか、14階全体が何か土日のようなゆったりした雰囲気をしていた。もちろん点滴を落としている人などはいなく、手術を待つ人か、術後の人しかいないからこの雰囲気になのだろう。看護師さんも年配の人が多く、やたらやさしいし、やたら病状をうかがってくる。同じ病院でも階が違うとこうも異なるものかと正直、思ってしまった。

この14階は、12階にいた時以上に退屈を感じた。私は思わず、入院後からし始めていた資格の勉強を病室でしてしまうほどだった。何が楽しくて年配の看護師さんと談笑しているのかとふと思ってしまった。すると自分が情けなく思えた…
でも、当然考えることがある。15階の看護師さんは、私が入院していることを知っていないのか?と。もし知っているなら、仕事の帰り際やお昼休みに、ふと顔を出してくれたりしてくれるのではないのか?と。
しかし、ここまで10日近くが経過したが、そんな事は1度もなかったし、そんな気配も全く感じられなかった。半年の入院生活で仲良くなったと思っていたのは私だけだったのか…
きっと私の入院は15階の看護師さんの耳には届いてないんだ!そう自分に言い聞かせる私がいた。思い出を信じたかったのだろう。
14階に移動して5日ほどが経っただろうか、12階にいた時の日にちも合わせれば、実に2週間近くが経とうとしていた。私にとってこの2週間はまさしく“空白の2週間”である。
しかし、この日になってとうとう私が待ち望んでいたことが起こった。
「15階へ移動になったよ」
朝食を食べた後ゆっくりしていると突然看護師さんにこの言葉をかけられる。私は本当に待ち望んでいたことであったために思わず顔がにやけてしまう。しかし、その一方では緊張感が高まり、不安にもなった。あの時と変わらず私を受け入れてくれるのか…と。
15階へはなぜか、14階の看護師さんもついてきてくれた。15階へ到着するとその看護師さんにお礼を言い別れを告げる…とその時、向かいのエレベーターの扉が開いて看護師さんが降りてきた。
「あっ!こんにちはー久しぶりだね」
前回の入院時に仲良くしてくれた看護師さんの1人であった。その瞬間、私の心は安心感で満たされた。やっぱりこの病院での私の居場所は、ここなのだと。

連れて行かれた病室も願っていた側の方、こればっかりはホントにいつもついていた。
そして日中担当の看護師さんが顔を見せる。現われたのは逆のチームに属するはずの看護師さんだった。休みなどの関係で、いつもとは違う側の病室を担当したのだろう。時期にして約1ヶ月くらいはその逆側の病室の方にもいたことがあったので、顔見知りではあったが、特に深い話には至らなかった。
私の心の中は、早く仲の良かった看護師さんでも病室に現われてくれないかなと、そわそわした気持ちでいっぱいだった。
お昼を過ぎて別の看護師さんが私のもとを訪れた。初めてこの病院に入院した時、私に病院の仕組みを教えてくれたり、優しい言葉をかけ不安をやわらげてくれた看護師さんであった。さすがだな!とその看護師さんを見上げたが何か様子が違う。
「ベッドを交換しても大丈夫ですか?」
何ともよそよそしいその言葉、私のベッドがたまたま自動で上下に動くタイプのものだったため、他のお年寄りにそのベッドを譲ってくれと言うことだった。
もちろん私はそのベッドを譲った。そしてベッドの移動後、再びその看護師さんが私のもとに現われ、「ベッド交換してくれてありがとうございました」と一声残し去っていく。
以前なら「ベッドありがとね〜」などと気さくな言葉をかけられたはずだ。もちろん私はそれを期待していた。一体何なんだろう…
その後、掃除のおじさんも現われた。目が合うなり「お久しぶりです」と声をかけると、「おぉー」と返してくれる。しかし、そこまでだった。以前なら、互いに巨人ファンと言うこともあって話が弾むことも多かった。土日以外は毎日あっていたため、もしかしたら病院で1番話した人だったかもしれない。しかし、掃除のおじさんもまた仲の良かったという面影をほとんど見せてはくれなかった。

何か自分だけ仲間外れにされたような感覚。そして私はふと我に返る。これが時間というものの恐ろしさなのか…。私にとってあの半年間は忘れるはずもないもの、しかし周りの人にとってはある一瞬での衝撃なり悲しみ。特に多くの患者を目のあたりにする病院関係者はその感覚が強いのだろう。時間の恐さを肌で感じた時であった。
その孤独感を胸に私はボーっとしていた。昼過ぎからずっとである。そして天井を見つめながらベッドに横たわっていたその時である。
「お久しぶりです」
カーテンが開き、声を掛けられた。
その言葉を耳にした時は誰であるかが正直わからなかった。しかし、その掛け声からある程度の親しさがある人だという事は判断できた。そして私は起き上がり、その姿を確認する。
…先の看護師さんとは違い、笑顔で私をみてくれていた。懐かしいその姿、それは紛れもなく山崎さんであったのだ。
私はベッドから飛び起きた。看護師さんの交替の時間なんて今日は意識していなかった。当然、山崎さんが現われるなんてことも。
なんて話せばいいのかわからなかった。「髪が伸びて雰囲気が変わったね」そう山崎さんから話し掛けられたのを覚えている。坊主から伸ばしかけていたその髪形。きっと恥ずかしさから私の顔は、真っ赤になっていたに違いない…
ただうまく言葉は返せなかった。

その後、夜の検温の時間に山崎さんが再び現われた。やはり他の看護師さんと違い、やさしさを感じる。前回の入院時もその気持ちは持っていたが、他の看護師さんとの距離を感じていた今回は、よりいっそうその思いが強かった。
なぜ今回入院したのかや、他の階にいた時はどうだったかなど、他の看護師さんがしてくるような質問は一切してこない。ただただ、その日その日の話を私に持ちかけてきた。
山崎さんは準夜勤の担当だったため、夜勤、次の日の日勤は当然、山崎さんが担当ではない。そして、その時私を担当した看護師さんには、それまでと同じように何か壁を感じてしまう。私の雰囲気が変わったのか、時間がこうしたのか、やっぱりこんなものなのか、やはりなんてするもんじゃないとこの時は心の底から思った。
夕方になり看護師さんが交替する時間になる、今日の準夜勤は、山崎さんではなかった…

もう3月の下旬に差し掛かっていただろうか、気付けば入院して3週間が経過していた。入院の原因だった“カリニ肺炎”なんてすっかり忘れてしまうほどの状態になっていた。先生の話を聞いていると4月前には退院させるよと言うニュアンス。もう少しで退院だという事は明らかであった。
それに飲み薬を飲み続けて、こんな事になってしまったのだからもう、飲み薬も中止になるのだろう、その時は言われてはいなかったが、これもまたもはや既成の事実であった。
つまり退院した後ここに来る理由があるとすれば、それは再発した時。これらの事はそんな意味を含んでもいた。永遠の別れとなるのか、瀕死の出会いとなるのか、そんな事を考えると胸が締め付けられるような思いとなってしまった…

その後3,4日経過していたが、山崎さんは私の担当にはなかなかならなかった。もしかしたら、このまま出会わずに退院してしまうのではないのかと私は気になって仕方がない。
そんなことを考えていた時、準夜勤に山崎さんが私の担当となった。まるで砂漠の中のオアシス、私の心も何か安心する。そんな中で、山崎さんからかけられたある言葉が印象に残っている。
「4月になったら若い看護師さんがたくさん入ってくるよ〜。良かったね。あっ、でもその頃には退院してるか…」
さりげなくかけられた言葉である。何だか凄く重みのある言葉だった。ただ、周りより長く私と話してくれることや何度も私のもとを訪れてくれることを誇りとしながら生活することで満足感を獲ていたからそう感じたのかも知れない。

翌日の準夜勤の看護師さんも山崎さんであった。特定の看護師さんが、1週間に私の担当になってくれる日は2回くらいであろうか、多くて3,4回、逆に全く担当が当てはまらず0回という事も決して少なくはなかった。
2日続けて山崎さんが担当になったという事はうれしかったが、突然退院になったら、もう会えないじゃないか!という気持ちの方が圧倒的に強かった。
寝る前に看護師さんが薬を持ってきてくれるのだが、その日はなぜか、担当のはずの山崎さんではなく、日勤をしていたもう1人の仲の良かった看護師さんが持ってきてくれた。どうして?という驚き半分、なぜ山崎さんじゃないの?という寂しさ半分が私を覆う。いや、寂しさの方が強かっただろう。その看護師さんも、私の気持ちを知っているわけではないので仕方はない。ただ、いろいろ良くしてくれていた仲の良い看護師さんであったので、だいぶ話し込んだ。それなりに有意義な時間だった。
そして、この看護師さんの突然の訪問は1つの事を意味していた。退院が近いから顔を見にきてくれたのである。その時私は、その事実に気がつきはしなかった…

その後、山崎さんも私のもとをちゃんと訪れてくれた。
「薬配るのとられちゃったよ」
ふと発せられたその言葉、それは私の心にずっしりと響いた。少なくとも私に会うことにはプラスに思ってくれていたんだなーと。今まででかけられた中で1番うれしかった言葉だったかもしれない。そして消灯の時間になり私のもとを去っていく。もちろんいつもと変わらぬように。この先の事なんて全く考えていなかっただろう、でも、もしかしたら知っていたのかな。…私が山崎さんを見たのは、結果的にこれが最後となってしまった。
この事実に私が気付いたのは翌日だった。担当医が私のもとを訪れ、「明日、退院だよ」と告げる。まさに運命のイタズラと言うべき瞬間だろう。前回の入院は一時退院を含めて半年、今回は1ヶ月、つまり半年以上もこの病院、この15階と関わってきた事になる。もう、山崎さんが私の担当になる確率がない事なんて、1+1の答えを求められるより簡単だった。最後ぐらい「ありがとう」と言いたかった…
壁を感じていた看護師さんとの壁は、なぜか最後まで埋められなかった。全てはあの頃のようにはいかないんだ…

「4月になったら若い看護師さんがたくさん入ってくるよ〜。良かったね。あっ、でもその頃には退院してるか…」

その言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。本当にこれで退院なんだな…と。
そしてとうとう退院の日。お世話になった看護師さんに挨拶すら出来ないシステムに怒りを覚えたが、それ以上に自分の行動力のなさ、非力さに怒りを覚えた。何にも出来ない自分は変わらずダサかった。

前回同様、その日の担当の看護師さんはあまり仲良くはない看護師さん
なぜだか退院するのが嫌だった。今回の入院は肺炎が良くなった時点で、なにかホテルで静養しているような気分。その長かった休みが終わってしまう、そんな心情だったのだろう。思い起こせば、今回の入院中に大学では卒業式があった。私が1年生だった時の3年生、お世話になっていただけに顔をみせに行きたかった。先生に相談したら、それくらいの事は出来たかもしれない。でも、それすら出来なかった。きっとその長い休みの魅力に負けてしまったのだろう。私のことを忘れずに、卒業式の写メールを送ってきてくれる当時の卒業生に本当に申し訳なかった。でも、それくらい体調がいい時に、病院にいる事は私にとって居心地が良かったのだ。そんな場所を去るのは嫌だった。
部屋を去る前に、ベッドの掛け布団とシーツを正した。カーテンで囲まれた部屋の中を何度も見渡した。心に焼き付けたかった、そして、ありがとうと感謝し続けた。私を支えてくれ、ほのかな夢を与えてくれたこの部屋に。

正した部屋を去る時、仲の良かった看護師さんや、山崎さんは誰もいなくなったこの部屋を見てどう感じるのだろうかと思った。
ナースステーションの前を通過する時、1人の仲の良かった看護師さんの姿が見えた。山崎さんが配るはずだった薬を私のところに持ってきた看護師さんである。お世話になった度合いでは山崎さん同等、もしかしたらそれ以上だったかもしれない。その看護師さんには!と思った私は何度も視線を送り、声をかけた。しかし、ナースステーションの奥にいたその看護師さんには届かない。むしろ、他の看護師さんを無視してその看護師さんだけに挨拶するのもおかしいと思い始め、私はどんどん縮こまってしまった。
そんなやりきれない思いを胸にエレベーターの前に足を進めると、その看護師さんが小走りで私のもとに駆け寄ってきてくれた。きっと他の看護師さんが教えてくれたのだろう。

大した話は出来なかった。エレベーターが来るまでの凄い短い時間ではあった。けれども、「ありがとうございました」その言葉だけは伝えることが出来た。山崎さんには1度も伝えられなかったその言葉だけは…。
病院を出た私はある感情にとらわれた。それは前回退院した時と同じ感情だった。居場所を無くしたような何ともいえない疎外感、一方的に自分のことを忘れ去られてしまうのではないのかという恐怖感、それは時間の流れしか解決してくれない私の1番嫌いな感情である。次に会う予定なんて立てられないのだから…

暦はもう4月に変わろうとしていた。私の闘病生活も、看護師さんとの別れもこの時期が区切りになるように、もともと定められていたのかも知れない。なぜならこの時期は出会いの季節でもあり、別れの季節でもあるから。
これが、長く苦しかった闘病生活、そしてほのかな恋物語からの卒業であったのだろう。卒業したのだから、もう戻ってくるなよ…とね。

「もう、この場所には戻って来ません!!」
これが卒業生代表の私の言葉です。


hagi0855 at 00:32|PermalinkComments(3)TrackBack(0)clip!

2006年03月14日

ランクイン

もう1つのほうにも載せてありますが、こちらにも。

http://www.yamanishobou.co.jp/best/best.htm

そうそうたる作家に囲まれ夢のようです。素晴しい地元パワー。1つ前の週は4位だったとか。ここまで来たら一回くらいねてっぺんをとってみたいですよ、ホント。
11日には新聞にも載ったようなのでもうちょっと期待してみます。

さて、講演会の話は曖昧な返答をしたにも関わらず着々と進んでるとか、しかも一般市民にではなく病院関係者に向かって話すんだとか。ここに来て雲行きが怪しくなってきました(>_<)

hagi0855 at 23:19|PermalinkComments(1)TrackBack(0)clip!

2006年03月12日

そろそろ

本を読んだよと言うメールも、未だにちょくちょくいただきます。本当にありがとうございます。
しかし、俺の希薄なネットワークはそろそろ手詰まりになってきた感も否めず。映画化という今年最大の目標があるのに(;^_^A
福島での爆発頼みって感じです。現状は品切れということらしいんで。

さぁ、待つだけじゃなくここらで動かないと。何かいいアイディアないかなー

hagi0855 at 23:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2006年03月10日

本、買いました

とうとう買いましたよ、自分の本を。
50冊送られてきた本も、もう手元にあんまりないってのと、やっぱり自分で買ってみたいと思ったので。
それはそれは不思議な感じでしたね。ばれるわけないのに、店員に気づかれんじゃないかとも思ったり…。でも、送られてきた本よりも何か特別な感じがします。
この本はあげられないな。一生物です。

hagi0855 at 23:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2006年03月08日

チケット

映画・『火火』のチケットが送られてきましたよ。それとパンフレットも。
やっぱり感動すると思う。パンフレットを読むだけでジーンときました。

チケットの右下に884と判が押されてるんだけど、まさかそんなに居ないよね!?
松戸市民劇場だもんね。

女性陶芸家の草分けであり、骨髄バンク立上げに力を尽くした神山清子。今も信楽で日々窯を焚く女性の真実の物語です。


話はガラっと変わり、福島民友社から電話をいただきました。どうやらこちらの新聞でも取り上げてくれるそうです。旧掲示板の話を中心に長々と話したんで、記事の中心になるのでは!?
そしてもう一点、なんと地元いわきで講演会をしてくれないかと言う話もいただいています。病気の人とかその家族向けの講演らしいです。40、50人くらいに向かってなのかな。迷うねー、こんな若造がお年寄りに話しするのも、どうなんだろ(;^_^A

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2006年03月06日

手紙

今日は、手紙が2通届きました。
1通は実家から。土曜に掲載された新聞の切抜きが。でもね、写真がよくないなー。撮って送ってくれと言われたから7,8枚も送って選んでもらったのだけれど、それを選んだかと言う感じです。
そしてもう1通。こちらは大学の医務室の看護師さんから。ほんと心温まる手紙です。
入院中、お世話になった教務課の方や、学生相談室にも読んでいただいたとか。
そしてそれぞれ、エネルギーにするために机の上に置いて下さるとか、読んで欲しい学生がいるという言葉を貰ったとか。人のやさしさを感じますよ、ほんとに。

久しぶりに清々しい気分になりました。




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2006年03月04日

追加発注

今日ね、本が完売してたって書いた本屋を覗いてみたら、また5冊本が棚に並べてありました。素晴しいね。しかも売れてる本のような手厚い扱いで。このサイクルを当分続けて欲しいものです。
福島でも今日、新聞に掲載されたようです。手元に届いたらUPしたいと思います。
簡単ですが、現状報告でした。

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