2017年06月02日

『インテリぶる世界』ご来場の御礼と、「演劇」という芸術について

こんにちは古川です。
御礼が遅くなってしまいましたが、箱庭円舞曲 第二十四楽章『インテリぶる世界』無事に幕を降ろすことができました。
ご来場くださった皆様、お気に掛けてくださった皆様、キャスト、スタッフの皆様、本当にありがとうございました。

・・・想定以上の、脳の疲弊度でした。
何だったんでしょうね、あの作品は。
長くなりますので、章立てて振り返って参ります。

【演劇という芸術について】
元々は、「何だかようわからんけどアート」ってことで良しとされちゃってる人々への懐疑、かなあ。
演劇も、ともすると簡単にそちら側に片足突っ込んでしまうところがあって。
「よくわかんなかったし全然面白くなかったけど、芸術的だったと思う」みたいな感想って駄目だと思ってるんです。「芸術」という言葉に逃げている。ここで使われている「芸術」という言葉は、非常にネガティブな印象を持っています。それじゃ、衰退するよね。
「よくわかんなかったけどずっと面白かった」こそが、芸術性を担保して良いのだと、こと、演劇については思うのです。もちろん「とてもわかりやすくて面白かった」でも良いですし、「くだらないけどずっと観てしまった」でも良いと思うんですけど、とにかく、「つまらなかった」⇒「常人には理解しがたい芸術性があったんだろう」みたいな論理の飛躍が嫌だったんです。
芸術ってそんな生易しいもんじゃないだろう、と。
演劇ってそんなところに芸術性を見い出しちゃいかんだろう、と。
本当に素晴らしい演劇は、ずっと面白いし、とても芸術的でもある。
じゃ芸術って何よ。アートって何よ。現代に生きる我々が欲しがるアートって何よ。と。

そんなところが多分発端になっていて、物語的にも、劇構造的にも、演出的にも、「アートとは?」「演劇とは?」「演劇におけるアートとは?」を問い続けることになりました。
その問いは、登場人物であるアーティストたちや家族たち、取材記者、それぞれがそれぞれに持っていて(明言する人もしない人もいて)、そのズレや食い違いの中から、お客様自身が求めるアート(演劇)を見定めて貰えたら嬉しいな、なんて思っていました。

昔からですが、終演後、一緒に観た人同士の感想が割れたら良いな、と思っています。それは「良い/悪い」「好き/嫌い」「面白かった/面白くなかった」ではなくて。作品は面白い前提で、作品の捉え方、感じたこと、好きなシーン、嫌いな人物、など、作品を楽しんだ前提で、意見が割れて欲しい。

経験上、物語における解釈をお客様に完全に委ねてしまったときは、思うように意見が割れないようです。ただ「わからなかった」とだけ言われる。これは何度か経験しています。
今作では、物語における解釈は、実は完全に委ねてはいません。匂いは醸すけど、明言していないだけです。どのシーンにもどの遣り取りにもどの小道具にもどの構図にも、ある種の解釈を配置しながら、明言していないのです。これが功を奏したのだろうと思います。
あのシーンはとある感情の増幅、その台詞はどのシーンへの布石、例の小道具は作品のテーマの提示、この立ち位置はあの絵の構図、と、まあ、これでもかこれでもかと解釈のヒントを散りばめています。
その上で、もう、これしかない、という道筋ははっきりとあるのです。
でもその道筋を伝えるのが本意ではない。
ストーリーを伝えたいのであれば演劇である必要はないのです。
テーマを訴えたいなら演劇である必要はないのです。
小説でも新書でも書けばよろしい。

僕らが創っているのは、演劇である。
俳優がお客様とともに、劇場空間という特殊な状況下、同じ時間を共有するからこそ感じられるもの、得られるものがあって、演劇の創り手は、それを提供できなければ意味がない。
『インテリぶる世界』は、演劇という形式を思い切り信じてみた結果だったのかもしれません。

そうそう、「演劇的」という言い回しも苦手です。
何をもって「演劇的」って言うの?
「演劇」自体がひとつところに収まるようなものじゃないのに、それに「的」を付けちゃうって。そういうこと?
実際「演劇的」という言い回しは、使う人によって捉え方が違います。
だから、時折見掛ける「演劇的か演劇的じゃないか」の議論は、たいてい水掛け論です。
どんな言葉でも、多かれ少なかれそういう部分はあるのだと思います。
「芸術」もそうですね。
「世界」という言葉の捉え方も「インテリ」という言葉の捉え方も、「言葉」という言葉自体の捉え方も、様々です。
「醤油」という言葉からラーメンを連想する人もいるでしょうし、卵かけご飯を連想する人もいるでしょうし、大豆を連想する人も刺身を連想する人もいるでしょう。
これらの違いは、まさに、生きてきた時間と経験の違いです。
この違いがぶつかるところに、ドラマがある、と思っています。
同じ物事に対して違う意見を持ち、それを話し合う。
その行為は、無意識に、自分の人生経験を論拠に戦っていることに他なりません。
なんて素敵なのでしょう。

『インテリぶる世界』は、まさにそこに真正面からトライしたと言えます。
終演後、その作品について誰かと語るときに、絶対にズレが生じる。
それはこの世界そのもの。
人間そのもの。
コミュニケーションそのもの。
何かについて語らえば語らうほど、人は他人との違いを一つ一つ認識していく。
できれば、目の前の、すぐ隣の、生身の人間と語り合って貰えたらと考えています。
SNSで文字と文字で議論するのも良いですが、できれば、生身の人間同士が良い。
その時に見える表情、吊り上がる眉毛、心を守る腕組み、変わる息遣い、頭からではなく口から発せられる言葉、言葉、言葉。
そんなきっかけとしての演劇を、創り続けたいと思っています。

「演劇はコミュニケーションの芸術」なんて言われたりもしますが、これは、舞台上の俳優たちやスタッフとのコミュニケーションだけに限らず、劇場空間におけるお客様とのコミュニケーションにも、終演後のお客様同士のコミュニケーションにも、すべてに言えるんじゃないかと思っています。
個人的には、今作品を通して、お客様に能動的に作品を思考してもらうことが、演劇が演劇として、芸術が芸術として生き残るための道のひとつなのだと確信できました。
同時に、誰でも同じように理解できるエンターテイメントでは満足できないくせに、より多くの人に楽しんでもらいたいという矛盾も抱えています。
この二律背反とも、ずっとずっと戦い続けるのだろうと覚悟しました。
これからも、箱庭円舞曲の切なる戦いを、温かく見守っていただけましたら幸いです。

長くなってしまったので、今日はひとまずここまでにしておきます。

日を改めて、
「自伝的な作品という言葉」
「インテリぶるということ」
「芸術と芸能の違い」
について、書きますね。
ではでは。
次回、箱庭円舞曲 本公演は、2018年3月、駅前劇場です!
ご来場、今からもう、お待ちしております!!

hakoniwa_enbukyoku at 19:50│Comments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Clip to Evernote  | 脚本作品

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