白山神駈道の風露草(かみかけみちのふうろそう)

白山の古道 加賀禅定道(18km)と美濃禅定道(19km)の統一呼称。 白山最高峰御前ヶ峰2702mをはさんで加美(神)両道を股に掛け(駈け)る道が白山神駈道。あわせて37kmのこの道を一日で歩きぬけるのが荒行登山、二日で歩き通すのが難行登山、三日なら苦行登山。 加から美が順駈 美から加が逆駈登山。2011年8月から書き始めたこの道を愛し歩こう会のまじめでマニヤックなブログです。

第10回白山神駈道登山(加賀禅定道から美濃禅定道への順駈)。

9月20~21日 難行登山(一泊二日) 6名 歩き通す

9月21日 荒行登山(一日) 15名 歩き通す


白山神駈道登山。サポートは今年でお終い、今後は志のある方それぞれが計画を立て登山してください。時期は、7月では残雪で危険、8月は熱中症が心配、10月では山中で不時仮眠は寒すぎるで、やはり9月が最適です。

白山室堂兵隊とボッカと登山道と   白山神駈道の風露草

第19回白山室堂会

白山室堂スタッフは普通の山小屋と比べて格段に多い。

昭和30年代 受付、売店、厨房員、郵便局、電電公社、兵隊、日赤、神職と巫女、ボッカ で総勢35~40人ほどで正規職員はごく少数、大半は
学生アルバイト、ボランテァの人たちで室堂主任が全体を掌握していた。

掃除や皿洗い、水汲み、ガイド、ボッカなど天気予報も含めて室堂の
雑用全般を引き受けるアルバイトを当時はなぜか兵隊と呼んでいた
(兵隊の仕事を説明した「兵隊小唄」もつくられ歌われていた)
厨房には栄養専門女学生アルバイトがいた。
日赤は室堂常設の診療所のことで金沢大学医学部生のボランテァ。
室堂奥宮社務所には白山ヒメ神社神職・巫女が交替で詰めていた。
登山口から室堂まで日に一人70kgほど荷揚げする地元のボッカ衆が
5~6人いた。

木下幸雄さんが白山室堂主任をしていた昭和25~45年
(1950~70年)ぐらいのおおよそ20年間のスタッフを中心に38年前から2年に一度の室堂会という同窓会開かれ、19回目の今年は大女将も会員の市ノ瀬の永井旅館で行われた。

前回と比べても参加人数がめっきり少なくなってしまった。さすがの木下幸雄主任さんも、もうおいそれと外出できる身体ではなくなってしまった。
それでもみなさん青春時代の室堂を語って大盛り上がり。今年、ボッカ衆の頭だった小林さんが亡くなった。それで供養を兼ねて子どもさん3人がゲスト参加されたことでボッカのことがあれこれ話題になる。


⑨



白山を愛し白山の国立公園昇格に奔走された画家玉井敬泉氏、足腰が立たなくなった晩年の敬泉氏にもう一度白山を見せてやりたいと皆さんが考え、小林さんに頼んで室堂まで担ぎ上げてもらっている。
老骨なので衣服に背負子の重さも含めて70kgくらいでしょうか、4人組の先頭が今回も大阪から奥さんともども参加した大山口さん。”一升瓶20本、重心が下なので
ズシッと来て重かった
”とのこと(木枠と背負子を含め80kg以上か?) 。





⑧


重いので座って休むと
次に立ち上がるのが
大変。それで背負子の下の凹みに
念棒という太い杖を当て荷物の重みを受け支えさせ立ったままで休む。






感動したのはボッカ大山口さんのその後の話

ボッカの毎年開山前6月の仕事はじめは登山道の点検だった。
豪雪や雪崩、落石、雪解け水での崩壊で痛んだ箇所の補修。70~100kg担ぐので足場がぐらついたら大変だから右足を乗せる石、次に左足を乗せる石と一歩一歩確認し、緩んだステップを固めてゆく作業です。日になんぼの距離も稼げないので下りて次の日また登り返して続きをしてゆく。これが終わってやっと7月1日開山でのボッカ仕事が出来る


当時、甚之助小屋から先で別当谷源頭部に入りしばらく谷底を登って
右岸の小尾根の栂の木林の中の道
(栂くぐりの道)をたどり、弥陀ヶ原の
先は現在の五葉坂ではなく水屋尻雪渓脇を登っているなど今の石段道と比べてすぐ荒れてしまう道でした。

わたし風露草はヘロヘロ兵隊で30kg余がやっとやっと。他の強者兵隊
仲間でも40kg台です。それもボッカ衆の道普請があってのことだと、
そして多くの夏山登山者が安全に登れたのも彼らのおかげだと悟り感動した。

道なき藪山を行く、道なき荒野を行く登山はごく一部の人の登山。
フツーの人の登山は麓までの便利なアクセス道とそれなりに安全な登山道を前提にしている。
中山間地で山の民が激減している今日、国民の祝日「山の日」まで設けながら、「どうしてアクセス用道や登山道を維持したらよいか」ということが
お偉方の集まる登山界で真剣に論議されないのは何故なんだろう?
みんな偉すぎて自分が登ること以外で汗とお金を出すのが嫌なのかな?

往年のボッカ(強力)
さんの話を聞きながら思いました。

親日家ブルハン氏がいたチトラル パキスタンに白山求めて(4) 白山探し世界の山ウエブで放浪 (135)  白山神駈道の風露草

パキスタン 

ヒマラヤ
西部(4)a






























白山を求めつつ、風露草の心にひっかかっている地図にマークした
山や場所前号で⑩まで見ました。今号は⑪、シリーズ最後です。

チトラル 

ヒンズークシュ、ヒンズーラジ山脈に挟まれた小さな町チトラル。
標高1517m、 歴史は古く、日本では両山脈への登山基地として知られている、山また山の中にある。

h














南の平野部から陸路でのアクセスはペシャワールからディールを経由して3118mのロワライ峠を越えるしかない。
北は中国のカシュガルから4730mのフンジュラーブ峠を越え、カラコルムハイウェーを下って1500mのギルギットに、またはパキスタン首都のイスラマバードからカラコルムハイウェーをさかのぼってギルギットに至り、
ギルギットから3734mのシャンドール峠に登り返しマスツージ川沿いに行くしかない。いずれにしても大変だ。

旅人で陸路を行くのはよほどの辺境旅好きか、
登山隊のぼう大な隊荷輸送を押し付けられた哀れな隊員だけ。
ほとんどの人はイスラマバード空港からチトラル空港まで一息で飛ぶ。
わたし?・・・風露草はもちろん飛行機です。

ロワライ峠






















哀れな我々の登山隊隊員A・Yの場合


ペシャワールから隊荷を積んだデコトラの助手席に乗りディールの町を経てヒンズーラジ山脈のロワライ峠を越えヘトヘトでチトラル入り。

A・Y談

 
”ディールは怖かった。あたり一帯ケシ畑だった。目がドロ~ンとした男たちがあちこちにいた。アヘンを吸っているに違いない。銃を持っているものも見かけた”


”ロワライ峠をトラックで越えるのが怖かった。残雪があり雪をかち割って通った、転落しないか心配だった”

チトラルの旧シャザーダ(藩主)ブルハーン・ウッディーン氏。イギリスからの独立を目指して日本の軍人と接触。この軍人、なかなかの人物だったらしくブルハーン氏大親日家になった。わたしも運転した彼のジープの
愛称はサムライ号である。
飛行機でチトラルに着き、郊外のドロムツの丘の吹く風涼しい木立の中のブルハーン氏邸宅。
まったりと待っていたわれわれ、興奮した口調で道中を物語るA・Yの話を人ごとで聞き流しながらデコトラから荷下ろししていた。

ディール一帯は今も農民がケシを栽培し、タリバンなどが背後にいて
資金稼ぎしていると言われている危険地帯である。
40の急カーブを持つロワライ峠、最近トンネル工事と舗装化が進んでいるようだがA・Yのときは大変だっただろうと思う。このブログのためネットで調べて認識が深まった。次にA・Yと飲む機会があればロワライ峠のときは大変やったんやな~とねぎらいたい。

cd






e











if


















⑪ - コピー































風露草のふるさと金沢でのヒンズークシ・カラコルム研究会にも来たことのある
チトラルの親日家ブルハン氏、数年前に手入れ中の猟銃が暴発して亡くなった。最近の日本登山界はヒンズークシュへの関心が薄れ、遠征隊を出さなくなった。”日本人がちっとも来なくなって寂しい”と言っていたとのこと。わたし風露草、
ブルハン氏元気なうちにみんなを誘い飛行機で訪ねて行こうと思っていたのに残念。


次回からパミール・天山に白山探しです。


パキスタンに白山求めて(3)美人長寿の桃源郷  白山探し世界の山ウエブで放浪 (134)  白山神駈道の風露草

パキスタン 

ヒマラヤ⑨ - コピー
西部(3)


(地図上でクリック、拡大してみて下さい)


白山を求めつつ、風露草の心にひっかかっている地図にマークした
12の山や場所前号で⑦まで見ました。今号は⑧からです。

ギルギット 

②
ギルギットは西カラコルムへの基地の町、

K2など東カラコルムへの前進基地はスカルドゥである。


①




不老長寿の桃源郷フンザはギルギット空港に降りてカラコルムハイウエーをさかのぼる。

④ - コピー







可愛かったので思わず写したフンザの女の子。

住民は遥か昔のアレクサンダー大王東征軍人の末裔だとか。確かに顔を見るとギリシャ人・マケドニア人の血が
混じっているのかな思えたりする・・・。

③










ギルギットの街角での風露草。
アレクサンダー大王の面影が遺っているように見えませんか?




⑫


ともあれ
フンザにまた行ってみたい、春3月、アプリコット(あんず)の花咲くころ、花の向こうの白山(ディラン)を見てみたい風露草です。




イストル・オ・ナール 7403m

7403m、ヒンズークシュで第3位、世界で68位のこの高峰、インド測量局のイギリス人が山頂稜線の形状を見て馬蹄山と名付けた(イストル=馬 ナール=蹄)。 
ネットに「ヒマラヤ七四〇三メートル 女性によるイストル・オ・ナール登頂記」
という佐藤(遠藤)京子ら4人の日本女子隊1968年登山記録の古本がたくさん載っている。彼女らが実際に登ったのは西稜7200mの岩搭ロックピナクルまでだったとのこと。初登は1969年のスペイン隊、ロックピナクルを越え西峰からグレートサドルに下り、主峰に登っている。第2登は71年のユーゴ隊で別ルートから、1978年、風露草の石川労山隊が主峰第3登目でスペインルートです。

⑤












⑥

このブログのためネットで調べていたら
同峰のTシャツがあって驚いた、目指す隊の資金集めなのだろう。多くの隊の記録はUnclimedだった。Tシャツ隊はどうだったのだろうか?ネット通販なので風露草も一枚買おうかな。





テリッチ・ミール 7706m


イストル・オ・ナールテリッチ・ミール 2016/7/22号ブログ ヒンズークシュの「白山」かな~?のグンバズ峰 ヒマラヤ名峰事典の山々(4で紹介しました。青字をクリックしてみて下さい。白山だろうと思えるグンバズ峰も載せてあります。

テリッチ・ミール
はチトラルからよく見えるヒンズークシュ山脈最高峰の名山。1949年ノルウエー隊初登、1967年千葉県山岳連盟隊第3登、1971年日本山岳会石川県支部隊は第5登目です。

⑧


















記事検索
livedoor プロフィール
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ