2008年02月01日
みつ豆はどっから?アジアあんみつロード
あんみつというか、日本で言うとみつ豆みたいなものはタイからベトナム、台湾ぐらいまでずっとある。日本では写真のベトナムのチェーが有名でなんといってもグラスに入ってでてくるのがオシャレというか、それで有名になったのやろうか。このチェー、グラスに入って出てくるというので飲み物という範囲にはいるのかも。そうすると台湾のタピオカ入りのジュースみたいなもんとつながってくるな。
でも、タイのほうから流れてくると不思議に思ってしまう。どこからこの飲み物系になってまうのかな。タイではあんみつというのは甘く煮た豆や芋、ロンガンやバナナ、パイナップル、マンゴーなどの果物やタピオカとか澱粉から作ったものか海草から作ったものなんかよくわからんけどぐにゃぐにゃの食感のカラフルな食材が入っていて、ココナッツミルクやなんかの蜜を入れて、その上に荒めのカキ氷という感じの氷をかけてくれる。カノムワーンというらしくて、その意味は甘いお菓子というストレートなもん。お椀にいれてくれてでてくる。タイでもラオスでもカンボジアでも中身の感じはあんまり変わらんかった、カンボジアの氷はかなり荒くなる感じ。ベトナムにもカノムワーンみたいにお椀に入れてくれるのもある。その場合はココナツぜんざいという感じのものでなんと温かいのだ。でも、タイとかと同じような中身が入っているものはやっぱりグラスに入ってでてくる。色はタイの方がきれいやなあ。グラスの氷が大きくてチェーは美味しいけど食べにくいなあ。それで僕はタイのあんみつのファンで、『本日のあんみつー!』とか言いながら毎日食べてました。日本のみつ豆はいったいどっからかたんかな?中国とか韓国にも似たようなものがあるんかな。
ちょっと調べてみたい気がします。
2008年01月30日
うまい自然!どこでも砂糖キビジュース
タイではオレンジ生絞りのジュースとかあったけど、こっちではなかなか見かけない。代りにというか、ベトナムのあちこちどこでもあったのは砂糖キビジュース。タイでも同じような屋台がいっぱいあったけど。皮をむいた長い砂糖キビをバリバリと機械にかけて絞ってゆく。何度も折りたたんでギリギリッ、ギリーッとでっかいハンドルをまわして絞る絞る。途中でライムを切ったものをはさんでまたまたギリギリッ。出てきたジュースを網で漉して、たまったジュースを氷いっぱいのグラスにいれてくれる。うまいねんな。これが。でも、不思議なのがこのジュースの値段。旅行者の外人もいっぱい買ったりするせいか普段の値段に上乗せがあるみたい。なんも知らんときは5000ドンといわれたらそんなもんかなと思って払っていたけど、あるときは2000ドンやったり3000ドンやったりする。昨日は2000ドンやったのにおんなじ店やのに人が変わると3000ドンになったりする。このジュースを氷を入れたビニールに入れて、バスに乗りこんで売りにくる人も最初は5000ドン。『高いから買わへんわ。』というと突然2000ドンになったりするので、やっぱり2000ドンが相場らしい。
『いくら?』なんて聞かないでスッと2000ドン渡すとありがとうとにっこりでどうもそうらしい。値段が分からんというのはよくベトナムではある。ベトナムはとにかく上乗せ料金が多くて『いったいこれはほんまはなんぼやねん!?』と悲鳴を上げたくなることがある。でも、これはベトナム語もベトナムの事情もわからん僕らのほうが悪いのだ。いろんなことに慣れるまでの税金みたいなもんなんだろうな。
早く慣れようと思ったら、市場に行くのがいいみたい。旅行者がめったに買わんもんは正直な値段なのでだんだん物価がわかってくる。わかってきたら10000ドンの体感値段がいったいいくらなんかもじわっとわかってくる。
どうやらこの国は結構な格差社会なので、一般庶民というのがむずかしそうやけど、
日本で貧乏人の僕らみたいな人らの感覚からすると10000ドンはちょっときついけど1000円ぐらいやなあ。
そうするとジュース200円、米一日分が200円、外食うどん500円から800円、お鍋料理3000円、フランスパン100円、カフェのコーヒー 400円から900円、白菜200円、あんみつのチェーが400円、バイクタクシー500円ということになるかな。
それがわかってきたら、ようやっと着地した気分になった。泊まってるホテルは8000円なんや。工業製品は『高っかいなぁ!』ということになって納得。
2008年01月29日
フォー 実は高級料理やった。
麺を食べたいなと思ったら麺系の屋台を探して、さらに食べたい麺を選んで食べるという手はずになる。米の麺や小麦のラーメンの麺(MI)とかが同じ店にあって、どっちにする?とか聞かれたりする。スープも麺も何種類もあって、麺を指定して、具を指定して食べるという高度な注文ができるようになるにはなかなか時間がかかる。そういう屋台はスープはおんなじやったり、具も大体屋台のガラスケースの中に入ってるやつなのでそんなに高くはない感じ。7000ドンとか10000ドンくらい。50円から80円くらいかな。おんなじフォーでも牛肉が入ってるとなると、やっぱり急に高くなる。そらそうよね。牛肉はやっぱり高級品やもんね。フォー・ボー(牛肉のフォー)にはたっぷりの牛肉が入ってて屋台の店でも出てくるものは立派。肉がいっぱい、油がぎらぎら浮いてたりするものね。かなりおいしい。でも、結構高くて20000ドンとか15000ドンとかする。まあ、100円とか150円とかやねんけど、2000ドンで3食食べれるくらいのお米が買えるというのがわかって、1000ドンでもやしが山ほどあるということとか市場の買い物でわかってくると、どうやら、屋台の店でも牛肉を入れている店は高級なんやというのが見えてきた。
そうやってみたら、屋台ゆうてもフォーボーの店は多少立派な気がしてきた。
この国ではみんなそんなに外食してへんなあというのが見えてきた。汁かけご飯もメニューはそんなにバリエーションないのに市場に行ったら、ありとあらゆるもんが売られているし、野菜も魚もかなり安い。お弁当持ってきてる市場の売り子さんも多いし、みんな家でちゃんとご飯つくってるなあと思った。タイから来たら多少勘くるうけど、タイほどには外ご飯はしてないみたい。
ビアホイ うまい 冷たい 安い 量おおい アルコール少ない。
出ました。ビアホイです。でえっかいタンクからビニールホースで専用のタンクについでくれる。2リットルが基本みたい。2Lのポリタンクで9000ドンやった。このポリタンクからジョッキに自分で注ぎながら飲むのだ。冷たくておいしい。アルコールは、、うん、あるやろうな。というくらいの感じ。アルコール入りのノンアルコールビールという味。2リットルなんて到底飲みきれんわ。と思ったら、飲み終わってた。飲みおわったらじわっと回ってるかなという感じです。道に面した店で飲んでたら、南京豆売りやスルメ売りなどが天秤棒で売りにくる。ああ薔薇色の酒飲み生活。すばらしいシステム。『ちょっとこれちょうだい。』なんていいながら豆やスルメをしがしが。クリームチーズもおいしいな。インドシナ安酒ロード
タイではラオカオという酒、最近はボトルに入ってたりするけど、米から作ったと思える蒸留酒がかなりお安く飲める。どんな雑貨屋にも必ず置いてある。田舎へいけば大きなビンに入れてあって、はかり売りしてくれたりする。なんかのお酒の空き瓶にラベルなしで置かれてたりもする。白濁してるのが多い。値段はw(゚o゚)wのやすやす。買ったあと、『やったぜ』のガッツポーズが出たりするくらい。
ラオスにもある。ラオスのんはよく何でも屋さんとか屋台とかに大きなビンの上に漏斗が置いてあったりするのですぐ分かる。そのそばに小さなグラスとか置いてあったらもうそれ、それです。道端の店ならとっとっとと自転車とかでおっさんが近づいてきたなと思うと店のおばちゃんがさっとグラスにその酒をついでくれてキュッといっぱい引っ掛けていきます。
ラオスでは飲んだあとちょっぴりグラスにお酒を残しておいて、パッと大地へ撒いてしまう。大地の神様に感謝とともに飲んでもらうことになってるみたい。タイでもおんなじようなことしてるおっちゃんがいた。カンボジアでも同じでやっぱり屋台で酒が売ってる。入れ物をもって行かなかったら、当然のようにビニール袋にはかり売りしてくれるのだ。
写真のはベトナムのお酒の勇姿。ベトナムでもカンボジアと同じようにいろんな薬草が漬けてある酒とがいっぱい並んでたりする。蛇とかサソリとかトカゲとかゲジゲジ
とかが漬かってあるのもあってなかなか飲むのには勇気がいる。でも、興味深そうにしげしげと眺めていると『どうや。飲めるか?』見たいな感じで一杯ついでくれることになってる。僕はそういうときは『おー、すごいなあ!うわー飲めるかなあ?』とかなんとか言いながら何杯か飲んでしまうことにしてる。写真はオーソドックスなルオイという普通の米の焼酎とチュオイというバナナから作った焼酎がならんでいるところです。米の焼酎は変わりなく美味しく。バナナはまたまた特別の感慨をもって飲めます。やっぱりバナナの香りがしてます。
こんなのを買ってしまうと次の日からおっちゃんらの仲間です。ペタンと歩道や道端に座りこんで車座で飲んでるおっちゃんらの真ん中にこいつらはいつもいます。
おっちゃんらは必ずこのお酒をおごってくれるのです。
ベトナムまでやってきた焼酎ロードはこのまま海にでて、船に乗って、ロンとかラムとか呼ばれる酒になっていくんやなあというのが実感できるように思う。糖蜜とか砂糖の絞り糟で酒をつくるというのはやっぱり『あるもんで』なんとかしようの精神やなあと感慨深いなあ。
ニューデリープッシャー
ニューデリープッシャー
もうインド旅行は2ヶ月近くになっていた。
そろそろインド以外の土地にいきたくなっていた。ちょうど地理を勉強していた友だ
ちがトルコへ留学していたし、別の友だちが、「一月ほどあとにトルコへ行くから会
おうな。」というのでインド旅行のあと、なんとか地べたをつたってパキスタン、イ
ランを抜けてトルコまでいけたらいいなあと思っていた。
パキスタンに入ってからイランへ抜ける手段を考えよう。
イランのヴィザも取らないといけないし、とりあえずインド側の国境の町アムリトサ
ルまで汽車でいこう。それからパキスタン側の国境の町ラホールという町に行こう。
でも、
ラホールはかなり危ないという。
どう危ないかというとあまりはっきりしないのだ。どうやら宿には気をつけたほうが
いいということらしい。泥棒が多いらしいのだ。
泥棒ならインドでもタイでもなれっこになっているのだが。ラホールは気をつけたほ
うがよさそうだな。
僕はニューデリーの安宿街で有名なパハルガンジのこれまた最低クラスの宿屋「パヤ
ル」の窓のない部屋の汗臭いベッドに寝っころがって、そんなことを考えながら、 インドの地図を広げていた。
天井には暖かい空気をかき混ぜるだけの扇風機がくるくると回っていた。
汗が額にたまってポタポタと地図の上に落ちた。
ドアにノックがあった。
開けると長髪でひげの背の高い西洋人がたっていた。
「私は隣の部屋のフランツというものだ。オーストリア人だ。よろしく。ほう。いい地図をもっているね。これからどこへ行くつもりなの。」
随分あいそうがよかった。それにとてもきれいな英語だった。発音も語彙も、いいまわしも申し分ないし、どこのなまりもないようなまるで教科書についてるテープか
CDみたいな英語だった。
「一週間ほどデリーにいてそれからパキスタンからトルコに抜けようと思っているんやけど。」
「それじゃイランとトルコの情報を教えてあげよう。」インド服のよれよれのクルタとズボンのピジャマを着たフランツは実に丁寧にトルコの情報やイランの話をしてくれた。
何年単位の長い旅をしているようだった。
ひとしきり旅のことを話したあとで、
いいにくそうにこう切だした。
「実は銀行がしまってしまって、困っているんだよ。今晩お金がいるんだけどね。
100ドルばかりかしてくれないかな。
明日銀行が開いたら一番に行って返すから。」
100ドルというのはかなりの大金だ。特に旅行中は。それに今あったばかりの見ず知らずの人に貸すなんてちょっと出来ないな。
やっぱり断ろう。
だが、フランツの言葉には絶対にノーとは言わせないような迫力があった。でも、明日返すというてるしなあ。
部屋は隣やし、いつでも催促できるし、この教養ありそうなしゃべり方なら大丈夫かもしれへんな。よっぽど困ってはんねんやろう。力になってやろうか。100ドル貸すことにした。
かれはピン札の100ドル札を受け取ると喜んで部屋を飛び出していった。
つぎの日の昼ごろバザールの道端でフランツにあった。まだ、銀行には行ってないと言った。「一週間ほどしたらここをでるからそれまでに返してほしい。」といっておいた。
ニューデリーをうろうろしているときにインド人の学生がとても上手な日本語で声をかけてきた。
インドではいやインドに限らず、上手な日本語をしゃべる人にはよく会うが、たいてい警戒をしたほうがいい人たちなのだったが、このアニル・セチ君はどうやらそういう人たちとは違うようだった。
彼はデリー大学の学生だといった。勉強家らしくかなり難しい感じも不思議な書き醇で書いた。
将来日本とインドのために働きたいという夢を言った。
キラキラとした目を持った青年だった。
彼のお父さんの生地屋がオールドデリーのチャンドニーチョウクにあったので、遊びにいったり、アグラへいったりとセチ君と遊んでいるうちに一週間はすぎにたってしまった。
フランツのほうはというととなりの部屋にいるといっても、どうやらかえってくるのは明け方で、僕が起きて動き始めるころには寝ているらしい。
夕方や夜僕が帰ってくるころにはもういなくてなかなか会うことがなかった。
時々バザールで見かけることはあっても逃げるようにしていっ
てしまってちゃんと話はできなかった。
明日にはもうニューデリーを出てアムリトサルにいこうというときに、朝のうちにノックをしたら彼がでてきた。やっぱりお金はないとうことなのだ。
でも彼の話によると、
「オーストリア政府には旅行中のオーストリア人にはお金を貸してくれる制度があるのだそうで、うそか本当か一応、一緒にオーストリア大使館までついていった。」
でも、そんなことが出来るなら僕にお金をかりるより先に大使館からお金を借りとけばいいのに。
案の定そんなことは出来ずに帰ってきた。
アムリトサル行きの切符はキャンセルした。
また何日かが過ぎてしまった。
また数日後のアムリトサル行きの列車を予約したが、やはり今回もフランツにちゃんと話ができないままキャンセルになってしまった。
さすがに2度目に列車をキャンセルするとあきらめモードになってきた。
100ドルは痛いけど、このままニューデリーにずっといてて、フランツに金ができるまで待っているのもいややし。
早ようどっかへいきたいし、もう100ドルはあきらめたほうがよさそうやなあ。
セチ君にその話をした。
「そら、ひどい、絶対返してもらうべきやで。」
「でもどうさかさまに振っても何にも出てきそうにもないで。ないもん返せ言うてもしゃあないし、お金を貸したんはこっちの責任やし、もうあきらめてアムリトサルにいこうと思うてんねん。」
「なにをそんな甘いこと言うてんねんな。そいつはいつもそんなことを繰り返して、人のええ日本人にたかっとんねんで。」
「なんでそんなことわかるん?」
「このホテルの人に聞いたんや。あいつはプッシャー(麻薬の売人)やで。いつも日本人にたかってトラブル起こしとるらしいで。
宿のお金だけはキチンと払ってるからホテルにはおるねん。
取り返したるよ。懲らしめたらなあかんねん。」
正義漢のセチ君はそういって次の日の朝ホテルにやってくることを約束してくれた。
本当はそんな面倒くさいことはしたくなかったので、フランツがお金はないというなら、多分返ってはこないやろうけど、こっちの住所でも教えておいてサッサとつぎの目的地に行きたいと思っていた。
でも、セチ君は絶対に許さんという。
どうも僕はお金に余裕のある、人のいい、あまちゃんの日本人の典型であるらしい。
その日の夜、僕はフランツと話ができないかなと思って宿の入り口でホテルのマネージャーと話しをしながらフランツの帰りを深夜までまっていた。
それでよけいに帰りにくかったのかもしれないが、やっぱり帰ってこなかった。隣の部屋にはやっぱり明け方帰ってきたようだった。
あくる日、セチ君は時間どうりにやってきた。いろんな話をしたあとで、さあ、いよいよ隣の部屋に行こうという。
セチ君がドンドンとドアをノックした。
しばらくして眠そうなフランツがでてきた。彼の連れの女の人もいた。二人はドイツ語でなにやら話しをしていた。
どうやらフランツは開き直っていたみたいで、セチ君とはしばらく穏やかに話していた。と思うと段々声が大きくなり、どう聞いても喧嘩とわかる大声になった。
「そんなことばっかりしているんやったら警察呼ぶぞ。」
「ないもんはない。」
宿中の人たちが起きてきた。なんやなんやと集まってきた人のほとんどがインド人だったのは驚きだった。
このホテルの客はほとんどがインド人なんだ。
商用で旅行していると思える、おっちゃんやにいちゃんたちにセチ君は何事かなのかを大声のヒンディー語で説明した。
まるで演説みたいに。
フランツにはもう勝ち目はないな。ああ、こんな大事にするつもりはなかったのに。
宿中の泊り客も宿のマネージャーも出てきてこちらの味方をしてくれた。
「こいつは悪いやつやで。いつも日本人をカモにしとんねん。」
いや、本当に悪いのはこのあまちゃんの僕なのに。
人数に圧倒されたのか、フランツはあきらめて、「どうでもしてくれ。持ってるものは何でもやるからもっていってくれ。」
といった。
本当にお金はないんや。
フランツがかわいそうになってきた。
セチ君はフランツと彼女から彼らのほとんどなにもない持ち物の中から衣類をうけとると僕に手渡した。
「100ドルにはなりそうもないけど。」フランツたちを見た。おびえているようにも見えた。そんな目で自分のことを見られるのがつらかった。
自分のことが情けなかった。もうこの足でこの町を去ろうと思った。そのまま自分の部屋に帰って荷物をまとめてセチ君とニューデリー駅へむかった。
2回も予約とキャンセルを繰り返したアムリトサル行き急行はもうホームでまっていた。
セチ君と僕はほとんど無言だった。
ニューデリー駅の雑踏で物乞いする少女にその衣類をあげた。
セチ君は列車に乗り込んで僕の席を探してくれたあと、お弁当にとサモサとチャイを買ってきてくれた。
いっしょに食べながら話をしているうちに列車が動きだした。
セチ君はさっと列車から降りると、「元気でね。また会おうね。」といった。
僕は「ありがとう。」というのが精一杯だった。握手をしてから、セチ君が見えなくなるまで、手を振った。セチ君も見えなくなるまで、手を振った。
セチ君もニューデリーもそしてニューデリーの町も見えなくなった。また一人きりになった。ボーッとしていた。気がついたら、列車は夕日に向かって走っていた。
頭のなかがいっぱいになっていて何を考えているのか何を考えたらいいのかわからなかった。
いったい僕は何をしにインドに来ているのだろう。ただ夕陽で顔も体も真っ赤になりながら、涙を止めることができなかった。
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もうインド旅行は2ヶ月近くになっていた。
そろそろインド以外の土地にいきたくなっていた。ちょうど地理を勉強していた友だ
ちがトルコへ留学していたし、別の友だちが、「一月ほどあとにトルコへ行くから会
おうな。」というのでインド旅行のあと、なんとか地べたをつたってパキスタン、イ
ランを抜けてトルコまでいけたらいいなあと思っていた。
パキスタンに入ってからイランへ抜ける手段を考えよう。
イランのヴィザも取らないといけないし、とりあえずインド側の国境の町アムリトサ
ルまで汽車でいこう。それからパキスタン側の国境の町ラホールという町に行こう。
でも、
ラホールはかなり危ないという。
どう危ないかというとあまりはっきりしないのだ。どうやら宿には気をつけたほうが
いいということらしい。泥棒が多いらしいのだ。
泥棒ならインドでもタイでもなれっこになっているのだが。ラホールは気をつけたほ
うがよさそうだな。
僕はニューデリーの安宿街で有名なパハルガンジのこれまた最低クラスの宿屋「パヤ
ル」の窓のない部屋の汗臭いベッドに寝っころがって、そんなことを考えながら、 インドの地図を広げていた。
天井には暖かい空気をかき混ぜるだけの扇風機がくるくると回っていた。
汗が額にたまってポタポタと地図の上に落ちた。
ドアにノックがあった。
開けると長髪でひげの背の高い西洋人がたっていた。
「私は隣の部屋のフランツというものだ。オーストリア人だ。よろしく。ほう。いい地図をもっているね。これからどこへ行くつもりなの。」
随分あいそうがよかった。それにとてもきれいな英語だった。発音も語彙も、いいまわしも申し分ないし、どこのなまりもないようなまるで教科書についてるテープか
CDみたいな英語だった。
「一週間ほどデリーにいてそれからパキスタンからトルコに抜けようと思っているんやけど。」
「それじゃイランとトルコの情報を教えてあげよう。」インド服のよれよれのクルタとズボンのピジャマを着たフランツは実に丁寧にトルコの情報やイランの話をしてくれた。
何年単位の長い旅をしているようだった。
ひとしきり旅のことを話したあとで、
いいにくそうにこう切だした。
「実は銀行がしまってしまって、困っているんだよ。今晩お金がいるんだけどね。
100ドルばかりかしてくれないかな。
明日銀行が開いたら一番に行って返すから。」
100ドルというのはかなりの大金だ。特に旅行中は。それに今あったばかりの見ず知らずの人に貸すなんてちょっと出来ないな。
やっぱり断ろう。
だが、フランツの言葉には絶対にノーとは言わせないような迫力があった。でも、明日返すというてるしなあ。
部屋は隣やし、いつでも催促できるし、この教養ありそうなしゃべり方なら大丈夫かもしれへんな。よっぽど困ってはんねんやろう。力になってやろうか。100ドル貸すことにした。
かれはピン札の100ドル札を受け取ると喜んで部屋を飛び出していった。
つぎの日の昼ごろバザールの道端でフランツにあった。まだ、銀行には行ってないと言った。「一週間ほどしたらここをでるからそれまでに返してほしい。」といっておいた。
ニューデリーをうろうろしているときにインド人の学生がとても上手な日本語で声をかけてきた。
インドではいやインドに限らず、上手な日本語をしゃべる人にはよく会うが、たいてい警戒をしたほうがいい人たちなのだったが、このアニル・セチ君はどうやらそういう人たちとは違うようだった。
彼はデリー大学の学生だといった。勉強家らしくかなり難しい感じも不思議な書き醇で書いた。
将来日本とインドのために働きたいという夢を言った。
キラキラとした目を持った青年だった。
彼のお父さんの生地屋がオールドデリーのチャンドニーチョウクにあったので、遊びにいったり、アグラへいったりとセチ君と遊んでいるうちに一週間はすぎにたってしまった。
フランツのほうはというととなりの部屋にいるといっても、どうやらかえってくるのは明け方で、僕が起きて動き始めるころには寝ているらしい。
夕方や夜僕が帰ってくるころにはもういなくてなかなか会うことがなかった。
時々バザールで見かけることはあっても逃げるようにしていっ
てしまってちゃんと話はできなかった。
明日にはもうニューデリーを出てアムリトサルにいこうというときに、朝のうちにノックをしたら彼がでてきた。やっぱりお金はないとうことなのだ。
でも彼の話によると、
「オーストリア政府には旅行中のオーストリア人にはお金を貸してくれる制度があるのだそうで、うそか本当か一応、一緒にオーストリア大使館までついていった。」
でも、そんなことが出来るなら僕にお金をかりるより先に大使館からお金を借りとけばいいのに。
案の定そんなことは出来ずに帰ってきた。
アムリトサル行きの切符はキャンセルした。
また何日かが過ぎてしまった。
また数日後のアムリトサル行きの列車を予約したが、やはり今回もフランツにちゃんと話ができないままキャンセルになってしまった。
さすがに2度目に列車をキャンセルするとあきらめモードになってきた。
100ドルは痛いけど、このままニューデリーにずっといてて、フランツに金ができるまで待っているのもいややし。
早ようどっかへいきたいし、もう100ドルはあきらめたほうがよさそうやなあ。
セチ君にその話をした。
「そら、ひどい、絶対返してもらうべきやで。」
「でもどうさかさまに振っても何にも出てきそうにもないで。ないもん返せ言うてもしゃあないし、お金を貸したんはこっちの責任やし、もうあきらめてアムリトサルにいこうと思うてんねん。」
「なにをそんな甘いこと言うてんねんな。そいつはいつもそんなことを繰り返して、人のええ日本人にたかっとんねんで。」
「なんでそんなことわかるん?」
「このホテルの人に聞いたんや。あいつはプッシャー(麻薬の売人)やで。いつも日本人にたかってトラブル起こしとるらしいで。
宿のお金だけはキチンと払ってるからホテルにはおるねん。
取り返したるよ。懲らしめたらなあかんねん。」
正義漢のセチ君はそういって次の日の朝ホテルにやってくることを約束してくれた。
本当はそんな面倒くさいことはしたくなかったので、フランツがお金はないというなら、多分返ってはこないやろうけど、こっちの住所でも教えておいてサッサとつぎの目的地に行きたいと思っていた。
でも、セチ君は絶対に許さんという。
どうも僕はお金に余裕のある、人のいい、あまちゃんの日本人の典型であるらしい。
その日の夜、僕はフランツと話ができないかなと思って宿の入り口でホテルのマネージャーと話しをしながらフランツの帰りを深夜までまっていた。
それでよけいに帰りにくかったのかもしれないが、やっぱり帰ってこなかった。隣の部屋にはやっぱり明け方帰ってきたようだった。
あくる日、セチ君は時間どうりにやってきた。いろんな話をしたあとで、さあ、いよいよ隣の部屋に行こうという。
セチ君がドンドンとドアをノックした。
しばらくして眠そうなフランツがでてきた。彼の連れの女の人もいた。二人はドイツ語でなにやら話しをしていた。
どうやらフランツは開き直っていたみたいで、セチ君とはしばらく穏やかに話していた。と思うと段々声が大きくなり、どう聞いても喧嘩とわかる大声になった。
「そんなことばっかりしているんやったら警察呼ぶぞ。」
「ないもんはない。」
宿中の人たちが起きてきた。なんやなんやと集まってきた人のほとんどがインド人だったのは驚きだった。
このホテルの客はほとんどがインド人なんだ。
商用で旅行していると思える、おっちゃんやにいちゃんたちにセチ君は何事かなのかを大声のヒンディー語で説明した。
まるで演説みたいに。
フランツにはもう勝ち目はないな。ああ、こんな大事にするつもりはなかったのに。
宿中の泊り客も宿のマネージャーも出てきてこちらの味方をしてくれた。
「こいつは悪いやつやで。いつも日本人をカモにしとんねん。」
いや、本当に悪いのはこのあまちゃんの僕なのに。
人数に圧倒されたのか、フランツはあきらめて、「どうでもしてくれ。持ってるものは何でもやるからもっていってくれ。」
といった。
本当にお金はないんや。
フランツがかわいそうになってきた。
セチ君はフランツと彼女から彼らのほとんどなにもない持ち物の中から衣類をうけとると僕に手渡した。
「100ドルにはなりそうもないけど。」フランツたちを見た。おびえているようにも見えた。そんな目で自分のことを見られるのがつらかった。
自分のことが情けなかった。もうこの足でこの町を去ろうと思った。そのまま自分の部屋に帰って荷物をまとめてセチ君とニューデリー駅へむかった。
2回も予約とキャンセルを繰り返したアムリトサル行き急行はもうホームでまっていた。
セチ君と僕はほとんど無言だった。
ニューデリー駅の雑踏で物乞いする少女にその衣類をあげた。
セチ君は列車に乗り込んで僕の席を探してくれたあと、お弁当にとサモサとチャイを買ってきてくれた。
いっしょに食べながら話をしているうちに列車が動きだした。
セチ君はさっと列車から降りると、「元気でね。また会おうね。」といった。
僕は「ありがとう。」というのが精一杯だった。握手をしてから、セチ君が見えなくなるまで、手を振った。セチ君も見えなくなるまで、手を振った。
セチ君もニューデリーもそしてニューデリーの町も見えなくなった。また一人きりになった。ボーッとしていた。気がついたら、列車は夕日に向かって走っていた。
頭のなかがいっぱいになっていて何を考えているのか何を考えたらいいのかわからなかった。
いったい僕は何をしにインドに来ているのだろう。ただ夕陽で顔も体も真っ赤になりながら、涙を止めることができなかった。
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2008年01月28日
ベトナムカフェは飲茶の文化とフランス文化の融合かな
ベトナムといえばこれがなくっちゃ。どこへいってもどこを歩いていても必ずあるのが、カフェ。
カフェ・ス・ダーと注文すればアイスコーヒーがでてくる。はず。なんやけど、これがなかなか通じへんねんなあ。ソーダー水がでてきたり。ホットコーヒーがでてきたり。もう、泣きそうになる。
ちゃんと通じたら、カフェなら、氷のいっぱい入った大きいグラスと、ドリップ式のアルミやステンレスでできた器具を小さめのグラスの上において、その中に挽いた豆と熱湯を入れてもってきてくれる。小さいほうのグラスにはもうすでに練乳がいっぱい入れてある。ポタポタと濃そうなコーヒーが落ちてくるのをゆっくり待ちながら、話などしておく。店によったら、同時にお茶をポットに入れて持ってきてくれる店もあるし、コーヒーを飲み終わったかなというころに持ってきてくれるところもある。
すぐに持ってきてくれる店なら熱いうちにお茶を飲めるように熱いお茶用の湯のみを持ってくるところもある。コーヒーが出きったなと思ったら、ドリップ器具を小さいグラスからはずして、そのグラスの中身をよく混ぜて、大きいほうのグラスにそそぐ。いっぺんにアイスコーヒーの出来上がり。大きいほうのグラスには氷のほかに長いスプーンがさかさまにいれてあったり、ストローがいれてあったりする。飲み終わるまえに適当にお茶を入れて、お茶とコーヒーをミックスすることに。最後はお茶だけになって着地。うーんうまかった。熱いお茶、濃いコーヒー、ミルクコーヒー、アイスミルクコーヒー、お茶とミックスミルクコーヒー、冷たいお茶。そして最後には冷たい水という風に順番にいろんなバリエーションが楽しめる。なんとも悦楽の店なのだ。大体4000ドンから1万ドンくらいで2時間は楽しめる。こんな風にゆーくりと外の景色をみながら、みーんなゆーくりお茶飲んでます。どういうもんか、カフェの椅子は背もたれがビニールのリラックス折りたたみ椅子ということになってるみたいで、どれもこれもみんな外の道路を見るようになってる。店の中のユッターリとは違って、みんなが眺めてる道には大量のバイクや自転車やらがドドドーッと流れているねんけどね。
道端エステで正月美人 (2)
ベトナム屋台揚げバナナはお餅の代りか。
ベトナムでも最安値。さぶがずいぶん気にいってもうひとつ注文した。
よく考えてみれば、これは2008年になって初めて口にいれたものやった。
新年1日といっても別になんにもないよ。と人からも聞いていたし、以前ベトナムにいたときも特になんにもイベントみたいな特別なこともなかった。今回も別になーんにもないという、昨日とまったく変わりない日がはじまっていた。まるでオールナイトで開いてるンかいなというほど朝早くから夜遅くまでやってる、川のほとりのマーケットも昨日と変わらずにぎやかだった。僕らはカントーというメコンデルタの中心の町にいてる。いまから船を見つけて、フローティングマーケットにいくのだ。

















