文芸雑技団ハルカトーク

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デカルト「方法序説」 ~西洋哲学11番勝負 その4~

登場人物
ルネ=デカルト    フランス生まれの哲学者。近代哲学の父(1596年 - 1650年)
ハルカ=トゥーノ     私(1985年頃~)

前回より約1300年後、時空を超えた17世紀のネーデルラント・ライデン大学にて。

「デカルトさん、こんにちは」
「誰かと思えばトゥーノか。ご大層に椅子にふんぞり返って、いったい何を読んでいるんだね?」

「アウグスティヌスの著作を読んでいました。やはり古典を学びなおさねばな、と」
「私の経験でいえば、だ。人文学の本なんぞは捨ててしまって、旅をせよ、若者よ。書斎でめぐらす空疎な思弁に時間を費やすのは無駄だよ。無駄無駄」

「空疎とは聞き捨てなりませんね。たしかデカルトさんも人文学を修めておられていたのでは?」
「ああ、教えられた学問には飽き足らず、占星術や錬金術、手相学まで読破したさ。しかし、卒業するや、多くの疑いと謝りに悩まされていたものだよ。卒業してすぐに人文学をまったく放棄してしまって、世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心したよ」

「何を根拠にそうおっしゃいます。偉大な人物による著作は、価値あることでしょう。では大学の意味などないではないですか」
。「たとえば哲学が優れた精神の持ち主たちが培ってきたことは認める。しかしながら、その中身については論争の的にならないものはなく、真理はひとつしかないはずなのに、学者たちによって意見の違いがいくつもある。その点、数学はすばらしい。数学は好きだね。論拠の確実性と明証性において基礎がゆるぎない」

「では、デカルトさんは数学的なやり方で真理を探求しているんですか。哲学によってではなく。どうやって真理に向き合っているのか手ほどきいただけませんか」
「おいおい、構わないけれども、もっとすぐれた意見を自らは探究しないで他人の意見に従うことで満足してしまっているのは残念なやつのすることだよ?全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、出来うる限り真理の認識に前進していくことが本筋さ。」

「手厳しいですね。では、お互いディスカッションしながら話を進めましょう。私も私の言葉で真理に迫ってみますので。そもそも、すべての人間が真理に近づけるものですかね。言っちゃあ悪いですが、教育水準はこの時代むらが大きいでしょう?」
「この時代?いや、それこそ旅に出たまえという理由の一端だ。良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているもだよ。正しく判断し、真偽を区別する能力は生まれつきすべての人に平等に備わっている。私と例えば、まったく反対の意見をもつすべての人がそれゆえに野蛮で未開というわけではなく、私たちと同じかそれ以上に理性を働かせていることもある」

「意見がわかれるのは、理性のあるなし、あるいは多い少ないではなく、異なる道筋で思考しているということですかね」
「そうそう。そのとおり。良い精神を持っているだけでは十分ではなく、大切なのはそれをよく用いることだ」

「どうやって正しく用いるかということですね」
「正しさにこだわる必要などないさ。自分が見て知って間違えて反省して、そうやって真偽を見極めるんだ。君のようなタイプは才知とか技巧に頼りがちだが、もっともっと本質的なところからゆっくり迫らないと」

「では、わたしが今時までに受け入れて信じてきた、古い基礎の上に築いた見解すべてにたいして、一度きっぱりと取り除いてみましょうか」
「それはいい試みだ」

「ええ、この思考を建築にたとえますと、何人もの建築家が好き勝手に作ったり、昔の壁を利用するより、ひとりの建築家によって理路整然と作られた町のじょうが規則正しいく、完成度が高いですからね。ひとりで緻密に思考を築き上げるのは全然ありだと思います」
「基本的に合意するが、あまり調子に乗らないように。一個人が国家や学問の全体系をそのお根底からすべて変えたり。正しく建て直すたえめに転覆したりして改造しようとすることは理に反している」

「過激すぎる考え方に陥りがちですからね。そこは気をつけます。道徳は守らないと」
「ああ、私もこれだけは気をつけようと思っている。私の国の法律と慣習に従うこと。神の恵みを受けて子供のころから教えられた信仰をしっかりと守り続け、良識のある、穏健な意見に従って自分を導くこと。世界の秩序より自分の欲望を変えるように努めること」

「穏健ということが大事ですね。とかく人は過激に走りやすい。真理を見出すにあたって、何をよりどころとするか、ですね」
「ふむ。では、こうしよう。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄しよう。その後で、私の信念の中にまったく疑いえない何かが残るかどうかを見極めよう」

「では、まず私のこれまでの考えは駄目ですね。絶対的に正しいか確信が持てません」
「そうだ。大学や他の学問・研究機関も、絶対に信頼できるとはいえない。さらに幾何学においても、単純なことでさえも推論を間違えて誤謬推理をおかすひとがいるのだから、以前に論証とみなしていた推理をすべて捨て去ろう」

「過去の哲学や本の類も真理かどうか、確定していません」
「ふむ、そもそも感覚は?これはだまされやすい。感覚から感じられるものもNoだ。感覚的観念は人を誤しうる。
たとえば、あれだけ大きな星も私たちには小さく見える」

「人から聞いた話。外部から発せられた何かも、何らかの感覚器官を通じて受信するわけで、全部疑わしいですね」
「とはいえ、たとえば夢。これは頭の中でだけで完結しているが、夢が真理とはとうてい思えん」

「なかなか難しいですね。他に何が残りますかね」
「ふむ、何もないか……いや、思考は?すべてを誤りと考えようとする間も、そう考えているこのわたしは存在する」

「たしかに、それはいえますね」
われ思う、ゆえにわれあり。この真理は堅実で確実だな。人間の動脈、骨、筋肉、神経、内臓を完璧に精緻に作り上げた自動人形(オートマータ)があったとしよう。それと人間を見分けることは出来ないだろうか」

「話の流れからすると、思考ですね。考えること」
「そう、思考を組み立て言葉にすること。認識すること。これが自動人間や動物と人間を隔てる壁だ」

「正しい気がします。身体も場所も世界もないとしても、自分はいますね。真理性を疑う自分がいることは存在することが帰結します。そうなると、思考がなくなると、存在がなくなりますね」
「だから、自分の拠り所は身体ではなく魂なのではないか」

「疑っている自分がそこにいますね。ですが、われわれが何を拠り所にして疑うのでしょうか。より確かなもの、完全である何かをどこから学んだのであろうか」
「完全なある本性から学んだに違いない。幾何学でいえば、三角形の証明には三角形の存在が含まれない。そんな架空な証明よりもっと確かな、観念がその中に含まれる完全な存在」

「それが神である、とおっしゃるわけですね。その存在がどこにあるか、われわれにイメージできなくとも」
「イメージするということは物質的事物に特有な思考法だよ。神は、感覚のなかにはけっしてない。思考と論理の果てにこそ存在すると、私は考える」

「では、デカルトさん、だいぶ時間もお取りしたのでひとつ質問させてください。あなたのお仕事は?これからなすべき仕事は何だとお考えですか?」
「そうだね。自然科学の研究もそうだが、こういった真理の探求についても書いてみようと思う。私は私がこれまでの真理の探究においてすでに成しとげたと思う進歩に非常な満足感をおぼえずにはいられないし、未来に対しても大きな希望を抱かずにはいられない」

「真理の探求、それを広い定義で規定すれば哲学ですかね」
「呼び方は自由だ。人間の職業、純粋に人間としてなせる職業のうちに、たしかに優れた重要なものがあるとしれば、それこそわたしが選んだ仕事だと信じたい。ふむ、考えが整理できたな、お互いに。有意義な時間だった
。では、これで失礼するよ」

デカルト、去る。トゥーノ、引き続きネーデルランドに留まり、数十年後のハーグに飛ぶ。

次回予告: スピノザ「エチカ」~西洋哲学11番勝負 その5~

参考文献
方法序説 デカルト著 谷川多佳子訳 岩波文庫 1997年初版 2005年発行16刷
 

聖アウグスティヌス「告白」 ~西洋哲学11番勝負 その3~

登場人物
アウグスティヌス    ヒッポの司教。神学者にして哲学者(354年 - 430年)
トーノ=ハルカス      私(1985年頃~)

前回より約600年後、時空を超えた中世初期の北アフリカ、ヒッポにある教会にて。

「司教様、お早うございます」
「おや、ハルカスではありませんか。お早うございます。今朝はずいぶんと早起きですね」

「お忙しいところ朝早くからすみません。どうしても司教様に尋ねたいことがあって参りました」
「構いませんよ。教会の門は常に開かれています」

「何度か教会に足を運んで、司教様や教会の人たちの話を聞いていますが、どうも私には、神様というものがよくわからないのです。こう……なんといいますか、雲をつかむような存在で」
「なるほど、主の存在や愛について確信がもてない。こうおっしゃりたいわけですね?」

「はあ。司教様の前で申し上げるのも恐縮なのですが」
「とんでもない。私もよく神について尋ねていますよ。しかし、どれだけその名をたたえても、語りつくし、説明できるものではありません。聖書にもあるように、神は天と地を作られ、天と地に満ちています。存在するものはすべて主なしには存在しません。万物が神から、神によって、神のうちに存在するのです。しかし、その存在を実態として定義できるものではありません」

「実体がないということが、どうもしっくり来ないのです」
「ハルカス、あなたの疑念ももっともです。かくいう私も長いこと、神を形体の集積しか考えることはできなかった。形のないものは何でも存在しないものに思われたからでです」

「天も地もいかなる物体も神ではないということですか?」
「そのとおり。神はいわば内的人間の光であり、大地にも海にも大気にも天にもありません。感覚や肉体で捕まえられるものではなく、内側に依存する魂、精神としてのわたしが知るのです」

「精神ですか。これは難しい」
「わかりますよ。かくいう私も、神の愛をこころより信じ、洗礼を受けたのは30歳を過ぎてからのことでした」

「司教様ですらそうなんですか。意外です。なんというか、教会の偉い人は生まれたときから、自然と神を信じておられるものかと思っていました」
「罪なく清らかな者はいませんよ。地上に生きること一日の幼児でさえも清くはない。私も悪いことをたくさんしてきました。それでも、恐怖を感じないのは、神によって許されたためです。罪を氷のように溶かしてくださったことは神の恵みとあわれみであり、その他多くの悪事を行わなかったのも神の御業であることを知ったからです。
他に尋ねてくる方もいませんし、私の半生を語らせていただきましょう。いかにして、私が神を確信するようになったか。かまいませんか?」

「はい、むしろこちらからお願いしたいです」
「子供のころの話から始めましょう。私は子供のころから遊んでばかりいました。両親や教師の言うことも聞かず、それは勉強≠神の道と考えて、善い道を選んだからではなく、ただ遊びたいからでした。競技と虚偽の物語り、見世物を楽しみに生きていました」

「その頃は信仰をお持ちではなかったのですね」
「わたしたちに約束された永遠の生命のことは聞いていましたたが、洗礼も受けませんでした。悪い子供でした。数えきれないウソをつき、家の倉庫や食卓から盗みをしたことさえありました。両親をあざむいて親しい人たちにさえ嫌われていましたよ」

「ご両親は、神を信じておられたのですか」
「父は死ぬ間際に洗礼を受けましたが、それまでは母だけが神の僕でした。母は、父よりも主にわたしの父となることを切望していたほどです」

「お母様も強制はされなかったのですね」
「強制は、たとえそのなすことが善であっても、意思に反してなすものは善をなすのではなく、またわたしに強制したひとたちもけっして善をなしたのではないのですよ」

「先ほど、虚偽の物語とおっしゃいましたが、これは演劇のことですよね。そこが解せません。プラトンも創作を毛嫌いしていましたが、それに感動することもありましたよね」
「たしかにそれが架空のもので芝居にすぎないことがわかっていても、それに涙をしぼられると、ますますその役者の演技にほれ込み、ますます強く引き寄せられた。しかし、それは神から遠ざかっていたことを意味します」

「作品の多くは、ギリシャやローマの神々をテーマにしていますよね。それは神ではないのですか」
「雷を轟かせながら姦通するゼウスは、神ではありません。どう考えても、この二つを同時に行うことはできないでしょう。にせの雷を体裁のよい仲立ちにして本当の姦通のまねをする口実をうるためであったと考えるのが自然ではありませんか」

「肉欲にまみれている神は、この教会で語られている神とは違うようです。しかし、肉欲も自然現象ではありませんか」
「たしかに自然なことです。私もそれを知らないとはいえません。16歳で家庭の事情から、一時的に学問をやめて両親のもとで暮らしていましたが、汚らわしい肉の情欲に目がくらんでいました」

「つまり、その、女性におぼれていたと?」
「要はそういうことです。愛の明るい輝きと肉欲の暗い曇りとがみわけることができませんでした。神は、神に忠実な母を通じて繰り返しわたしの耳に忠言しましたが、その言葉は一言もわたしの心中に入っていなかったのです」

「それは司教様だけに限ったことではありませんよね。それくらいの年頃なら」
「ええ、醜行が少ないことを、かえって仲間内で恥じていました。それだけではありません。さらに仲間内で盗み、ブドウ畑の近くになっている梨の実をどっさり持って帰ったりしていまsちあ。わたしたちが食べるためではなく、豚に投げてやるためでした。禁じられていることをするのがかえって面白かったのです」

「仲間との共謀が楽しかったんですよね」
「今となってはおろかなことをしたと思いますが、そのとおり。転機となったのは19歳のころ、弁論術を学んでいるころでした。キケロの書物を読み、哲学がわたしの情念を一遍しました」

「古代ギリシャはどうです?アリストテレスとか?」
「優れた哲学者も多くいます。しかし、アリストテレスは例えば範疇論を読んで、はじめこれを信じましたが、害悪でしかないですね。この世のものは実態・量・質などの10のカテゴリーに包括されるという、もっともらしい説明ですが、何の役にも立ちませんでした」

「なるほど。しかし、司教様のおっしゃる神は現れていましたか」
「いえ、哲学を学んで唯一物足りなかったことは、キリストの御名が見当たらなかったことです。そこで聖書を読んでみました」

「聖書ですか、私もチャレンジしてみましたが、難しいです」
「いや、私もすべて理解したとは到底いえませんよ。まして当時は、いまのように神秘におおわれた奥深いものに思えなかった。傲慢なわたしは、ぶっちゃけ単調なのにがっかりしました」

「がっかりですか」
「そうです。そこでキリスト教の道には進まず、当時流行っていたマニ教のとりこになりました。それだけではなく、多くの人々をこの邪教に誘い、さらに占星術にものめりこみました。母は激しく泣いていましたよ」

「それはどれくらいの期間ですか」
「9年くらいでうすかね。光に背を向け、わたしの目を光によって照らされるもののほうに向けていました。真理がどこから由来するか知らなかったのです」

「それはまさにプラトンのイデア論ですね。哲学はマニ教と比べてどうでした?」
「哲学者たちの多くの書物を読んでいたので、マニ教の冗長な作り話より、たしからしいと思いました。当時人気だった司教ファウストゥスに失望しましてね。哲学を学んでいたこともあいまって目が覚めましたよ」

「そこからはまっすぐ信仰の道に進んだのですか」
「いえ、まずミラノの司教アンブロシウスに心動かされましたが、まだあなたのように神を信じることが出来なった。実在しない神が、霊的存在ということが腹落ちしませんでした」

「まだ洗礼は受けていなかったんですね」
「そうですね。何か確実なものが輝き出て、わたしの進むべき道を示すまで両親がわたしに勧めたカトリック教会の洗礼志願者のままでいようと決心したのです」

「結婚はされていたのですか」
「これまで同棲していた女を離され、少女と婚約しました。別の女を引き入れたりしていました。前の女性との間に子供もいて、寂しかったこともあり、肉欲にしばられていたんです。使徒パウロの著作を読み次第にはらわたにしみ込んでいましたが、彼は独身をすすめていたが結婚を禁じてもいなかったので肉欲におぼれ続けました」

「その頃は、何が人生の目標でしたか」
「名誉と利得と結婚とに大いにあこがれていました。30歳にもなりながら、あいかわらず同じ泥沼の中にはまりこんで、気を散らすはかない現生の享楽を求めてこういったのである。わたしは明日こそ真理をみつけるであろう。肉欲の絆と世俗の仕事への隷属と、真理への道の間で、揺れていました」

「善悪でゆれていたのですね」
「いえいえ、そのような二元論はよくありません。、本性を異なる二つの善悪の精神があると主張する人々がいますが、それは違います。存在も意思もすべてあるものは善です。ただ、意思がまとまるまで争うだけなのです」

「つまり、信仰にいたるまではまだ時間がかかったのですね」
「そのとおり。証明できないものを信ぜよと命じる際にただ理性のみをもって真理を見出すにはあまりにも弱く、聖書の権威を必要とします。他の何よりもまず、聖書の由来がなぜ神によってもたらされたかと疑うものの言葉に耳をかさず、信じるということが大切です。そこに気づくまで時間がかかりました」

「いつごろの話ですか」
「信仰の弱いものをうけいれよ、という言葉があります。その言葉にも励まされて、31歳のときに弁論術教師をやめて洗礼をうけました」

「女性関係も整理されたのですね」
「女たちは、永久にあれもこれもできなくなるのか、と卑猥で汚らわしい言葉を投げかけましたが、洗礼をうけました」

「なぜ、そこまで信仰をもつ必要があるのでしょうか」
「幸福な生活のためです。人は幸せを求めて生きますが、それは人間の記憶の奥の院の奥には、幸福な生活が脳裏に刻み込まれています。一方で、私はどのような喜びを喜ぼうとも、自分を幸福であると考えるようなことはけっしてありません。肉欲、五感の誘惑、好奇の誘惑、こういった喜びの模造とはことなり、神の愛が喜びであるような人々にのみ与えられる喜びが存在するのです。」

「つまり、神への信仰は幸せのためにあるのですね。信仰を持たないもの、異教徒に対しても、それは幸福な生活を導くために説法をするのですね」
「そのとおり。真理の根源である真理そのものによって喜びをえるときはじめて幸福となるのです。それを伝えるために教会の門は開いているのです」

「なるほど、私はまだ神の存在を確信するにいたりませんが、キリスト教の愛の深さを知りました。そして、自分の精神と真理に向き合う過程で神に見えるかもしれないと考えるに至りました。そして、いつの日か確信が持てたときにもう一度教会の門をたたきます。それでもいいんですよね」
「たとえ話をしましょう。十枚の銀貨をもつ女性が、一枚のなくした銀貨をみつけたとき、それは十枚の銀貨をもつこと以上の喜びになりますね。神は、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改める必要のない99人にの正しいものにまさって喜ぶのです」


ハルカス、教会を出る。ギリシャ哲学とキリスト教を知って、いよいよ西洋哲学と真正面から向き合うため、約1,200年後のフランスに飛ぶことを決意。

以上

次回予告: デカルト「方法序説」~西洋哲学11番勝負 その4~

参考文献
告白(上) 聖アウグスティヌス著 服部英次郎訳 岩波文庫 1976年初版 2007年発行34刷
告白(下) 聖アウグスティヌス著 服部英次郎訳 岩波文庫 1976年初版 1992年発行17刷 

承前 三国志張飛伝

今回のテーマは、もともと張飛のヴィジュアル(虎髭・ひげもじゃで目が怒っている)がいつから固定化したのか、にしようと思っていたのですが、承前として三国志(正史)における張飛の描かれ方をまずおさえます。

早速参りましょう。まずは蜀書の先主伝や張飛伝にみえる張飛の描かれ方について。(最後に張飛伝の訳と原文を載せています)

 蜀書を紐解いてみると、張飛は、兄貴分と慕う関羽とともに、劉備の若い頃からしたがっていたようです。その頃から転戦を重ねていましたが、大失敗もしでかしています。劉備不在時に下邳を任されたときのこと。張飛と対立していた曹豹がなんと敵方の呂布に寝返ったことで、下邳は陥落。劉備の妻子は捕えられてしまいます。なんとか呂布と和睦した劉備陣営ですが、この失敗は大きかったのでしょう。このときのことを反省したのか、以降の張飛は活躍が目立ちます。
 曹操とともに呂布を破った際には功績があったとして爵位を授けられました。曹操の参謀たちからは、関羽とともに”万人の敵”であると武勇が評判となり、警戒されているほど。群雄割拠の三国志世界でも、その武力はかなり上位にランクインしていたようです。それを推察できる逸話が、南郡当陽の長坂での有名な話。
 今度は曹操から追撃されて大軍に追われていた時、僅か数十騎で劉備の背後を守り、さらに橋のたもとで敵兵を恫喝し、「決死の覚悟でかかってこい」と威圧したところ近づくものはありませんでした。その結果悠々と逃げることが出来、益州に入ってからも功績を重ねて、破竹の進撃を進めて厳顔を生け捕りにし、張郃を撃退するなど結果を残して、順調に出世しました。が、最期は部下に寝首をかかれて横死しました。


 演義のイメージではかなり粗暴ですが、実際はそうでもなさそうです。たしかに若い頃の下邳陥落事件はヒドいですし、部下に厳しくて最期に寝首をかかれたことも大概ですが、演義の督郵を鞭打ちする逸話とか本当は劉備の話ですから、劉備関羽張飛の中で、粗暴担当な描かれ方をしてしまって割を食っている気がします。
 また、ついでに言うと桃園の誓いはフィクションなので、三人義兄弟というのも創作ですね。張飛は関羽を兄貴分と慕っていたようですし、張飛の長女は劉禅に嫁いで敬哀皇后になっているので、兄弟に近い存在ではあったようですが。
 日本では正直人気がない張飛ですが、中国では”登場人物のなかでも民衆にはもっとも人気があったようです(中国の五大小説上三国志演義・西遊記・井波律子・2008年岩波文庫)”。元代の三国志平話でも結構見せ場が多いようで、神のごとき関羽(というより神そのもの)よりも身近に感じたのではないでしょうか。

 今回オチも何もまったくない記事になってしまいましたが、そんな張飛のヴィジュアルがいかにして固定化していったのか、という点を次回記事で考察して、三国志を深読みしたいと思います。乞うご期待。


【蜀書巻6訳】
張飛。字は益徳。涿郡(現在の河北省保定市涿州市=北京の北の方)の人である。
若くして、関羽と劉備とつるんでいた。関羽は数歳年上だったので、張飛は兄事した。劉備が曹操に従って呂布を破ると、許都にともに帰った。曹操は張飛を中郎将に任じた。劉備は曹操から離れて袁紹、のちに劉表に従った。劉表が亡くなると曹操は荊州入りし、劉備は江南に奔走した。曹操はこれを追いかけ、一日と一夜で南郡当陽の長坂に至った。劉備は曹操が追いついたことを知ると、妻子を捨てて走り、張飛に二十騎を従えて後方を守らせた。張飛は水断橋に至ると、目を怒らせて矛を横にしてこう言った。「俺は張益徳である。来い。共に死を覚悟して臨もう」。敵はみな敢えて近づこうとする者はなく、逃れることが出来た。

劉備は江南に拠点を定め、張飛を宜都太守、征虜將軍に任じて、新亭侯に任じた。後に南郡に転任した。劉備は益州入りを果たしたが、かえって劉璋を攻めた。張飛と諸葛亮らは川をさかのぼって、定郡県で分かれた。江州に至ると、劉璋の将軍で巴郡太守の厳顔を破り、生け捕りにした。張飛は厳顔をなじって言う事には、「大軍が迫ったのになぜ降参して、戦を拒まないのか」と。厳顔が答えて言ったことには、「お前たちは無礼にも我が州を侵略した。我が州には断頭将軍はいても降将軍はいないのだ」と。張飛は怒って周りの者に連れていって首を切るように命じたが、厳顔は顔色を変えず「首を斬るなら斬れ。なぜ怒ることがある」と言った。張飛は男ぶりに感じ入って厳顔を許して賓客にした。

華陽國志に曰く、劉備が蜀に入って巴郡に至ったところ、厳顔は胸を叩いて嘆いて言った。「これは一人で山に座り虎を放って自らを衛ることだぞ」

張飛は進軍するたびに勝ち、成都で劉備と合流した。益州はすでに平定されていた。諸葛亮、法正、張飛、関羽に五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹を与え、他の者には与えるものに差があった。張飛を巴西太守にした。

曹操は張魯を破ると夏侯淵、張郃を留め置いて漢川を守らせた。張郃は諸軍を監督しながら巴西に下り、漢中に民を移そうと考えて、宕渠、蒙頭、盪石に軍を進めた。張飛と互いに防ぎ合うこと五十日あまりに及んで、張飛は精兵一万人あまりを連れて、他道から張郃を攻撃したところ、山道は狭く前後で味方と助け合うことが出来ず、張飛は張郃を破った。張郃は馬緣山を棄てて、配下十数人を連れて引き上げて、南鄭まで引き返したので巴郡は平和を取り戻した。

劉備が漢中王となると、張飛は右将軍・假節となった。章武元年(221年)、車騎將軍。司隷校尉となり、西鄉侯に封じられた。

策によると、「朕は天序を承り洪業を嗣奉して、残党を除くことで乱を靖んじたが、未だ理をあきらかにしていない。今盗賊の寇虜は害を作し、民は荼毒を被り、漢を思う士は首を延して鶴望している。朕は怛然としており、坐しても席を安めず、食べても味を甘しとせず、軍を整えて誥誓し天罰を行なおうとしている。君の忠毅は召虎に匹敵するほどで、名が知れ渡っていることから特に命じて、城壁を高めて爵位を進め、京師を司る事を兼ねさせることとしよう。大い天威を用いて、徳を以て服従するものを手なづけ、叛いて者を刑を以て伐ち、朕の意志をかなえよ。『詩経』も云っていないか、“疚ませず、棘るな。王国に来たりて極めよ。敏やかに戎功を肇して、爾に祉を錫らん”と。勉めよ!」

はじめ張飛は勇壮で猛々しく、関羽に匹敵した。魏の謀臣である程昱らは関羽と張飛を万人之敵であると称した。関羽は士卒には善くしたが士大夫には驕る態度を見せた。張飛は君子を敬愛したが部下には優しくなかった。劉備が常に戒めて言ったことには、「お前の刑罰で殺すことは行き過ぎてあるし、また鞭で叩いた男たちを左右に置くことは災いとなるぞ」と。張飛は反省しなかった。劉備が呉を征伐しようとしたとき、張飛は万人の兵を率いて、江州に向かった。出発しようとしたとき、部下の張達、范彊が張飛を殺して、孫権のもとに奔った。張飛の都督が劉備に報告へ向かうと、これを知った劉備は「ああ、張飛が死んだ」と言い、張飛を謚して桓侯とした。張飛の長男の苞は早死にして、次男の紹が嗣いで,官職について侍中・尚書僕射となった。苞の子である遵は尚書となり,諸葛瞻に従って綿竹で鄧艾と戦って死んだ。


【蜀書巻6原文】
http://ctext.org/sanguozhi/36/zh
張飛字益德,涿郡人也,少與關羽俱事先主。羽年長數歲,飛兄事之。先主從曹公破呂布,隨還許,曹公拜飛為中郎將。先主背曹公依袁紹、劉表。表卒,曹公入荊州,先主奔江南。曹公追之,一日一夜,及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至,棄妻子走,使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」敵皆無敢近者,故遂得免。

先主旣定江南,以飛為宜都太守、征虜將軍,封新亭侯,後轉在南郡。先主入益州,還攻劉璋,飛與諸葛亮等泝流而上,分定郡縣。至江州,破璋將巴郡太守嚴顏,生獲顏。飛呵顏曰:「大軍至,何以不降,而敢拒戰?」顏荅曰:「卿等無狀,侵奪我州,我州但有斷頭將軍,無有降將軍也。」飛怒,令左右牽去斫頭,顏色不變,曰:「斫頭便斫頭,何為怒邪!」飛壯而釋之,引為賔客。 

華陽國志曰:初,先主入蜀,至巴郡,顏拊心歎曰:「此所謂獨坐窮山,放虎自衞也!」

飛所過戰克,與先主會于成都。益州旣平,賜諸葛亮、法正、飛及關羽金各五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹,其餘頒賜各有差,以飛領巴西太守。 

曹公破張魯,留夏侯淵、張郃守漢川。郃別督諸軍下巴西,欲徙其民於漢中,進軍宕渠、蒙頭、盪石,與飛相拒五十餘日。飛率精卒萬餘人,從他道邀郃軍交戰,山道迮狹,前後不得相救,飛遂破郃。郃棄馬緣山,獨與麾下十餘人從間道退,引軍還南鄭,巴土獲安。 

先主為漢中王,拜飛為右將軍、假節。章武元年,遷車騎將軍,領司隷校尉,進封西鄉侯,

策曰:「朕承天序,嗣奉洪業,除殘靖亂,未燭厥理。今寇虜作害,民被荼毒,思漢之士,延頸鶴望。朕用怛然,坐不安席,食不甘味,整軍誥誓,將行天罰。以君忠毅,侔蹤召虎,名宣遐邇,故特顯命,高墉進爵,兼司于京。其誕將天威,柔服以德,伐叛以刑,稱朕意焉。詩不云乎,『匪疚匪棘,王國來極。肇敏戎功,用錫爾祉』。可不勉歟!」 

初,飛雄壯威猛,亞於關羽,魏謀臣程昱等咸稱羽、飛萬人之敵也。羽善待卒伍而驕於士大夫,飛愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰:「卿刑殺旣過差,又日鞭檛健兒,而令在左右,此取禍之道也。」飛猶不悛。先主伐吳,飛當率兵萬人,自閬中會江州。臨發,其帳下將張達、范彊殺飛,持其首,順流而奔孫權。飛營都督表報先主,先主聞飛都督之有表也,曰:「噫!飛死矣。」追謚飛曰桓侯。長子苞,早夭。次子紹嗣,官至侍中尚書僕射。苞子遵為尚書,隨諸葛瞻於緜竹,與鄧艾戰,死。 


以上
 
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