文芸雑技団ハルカトーク

文芸雑技団の公式ブログです。 リクエストや感想、執筆の依頼はコメント欄か、こちらの連絡先まで。 halkatalk@gmail.com Twitterアカウントはこちらから。@halkatalks ”今日は何の歌”を、毎日更新中。 このブログはリンクフリーですが、相互リンクご希望の方はご一報いただけると助かります。

2014年09月

文芸雑技団の公式ブログです。 文芸全般(文学・歴史・哲学・宗教・美術)からサブカルまで幅広いジャンルから、記事を書いています。 リクエストや感想、執筆の依頼はコメント欄か、こちらの連絡先まで。 halkatalk@gmail.com
Twitterアカウントはこちらから。@halkatalks

スコットランド概史

スコットランド独立が否決された。

住民投票に参加した人たちは、あるいは英国の統治が全うされたことを祝い、あるいは自治が認められなかったことを悔やんでいる。日本人の感覚でいえば、”よく分からない”、という感情が一番に来るのではないか。なぜ、独立運動にそこまで力が入るのか。単一民族による統治が長く続いた我々にとっては、北海道や九州がいきなり独立を宣言するような、そんな”有りえない”ことのように思える。

”有りえない”と思える行動をとったスコットランドの人たちの心情に少しでも寄り添うには、どうすればいいか。僭越ながら、少しでも理解しようとするならば、その歴史を探らねばならないだろう。しかしながら、メディアの報道をみてみたが、1970年代から石油で潤い、1999年にはスコットランド議会が設立したという、近現代の歴史にしか触れていない。そもそも、”スコットランド”と”イングランド”が如何にして成立し、対立し、連合王国になったのかという過程に触れていない。

また、文芸雑技団では以前”アイルランドの涙”という記事が投稿された。興味のある人は併せて読んでもらいたい。では、始めるとしようか。どこまで歴史を遡ればよいのか、考えてみたが数百年の歴史では足りない。どうか、2000年遡って、ローマ時代から紐解くことを許していただき、あわよくばお付き合い頂きたい。同じく島国である日本とは異なり、彼らの歴史は異民族の侵入にあふれている。あるいはイングランドの目線から語られることの多い、ブリテン島の歴史を、北方スコットランドから語りたい。


紀元前55年、ユリウス・カエサルがガリア一帯を席巻したとき、ブリテン島にも上陸している。ガリア戦記によれば、そこには野草で身体を青く染め、狩猟採集を行うケルト系ブリトン人の姿があった。異様な姿である。ローマはことのとき初めてブリテン島に上陸したが、長居はしなかった。

そして、100年後の紀元43年、ローマ帝国第四代皇帝のクラウディウス(ネロの父親)がブリテン島に遠征を行うと、南東部に属州ブリタンニアを設置した。後年ロンドンと呼ばれるようになる、ロンディニウムが発展したのもこの頃だ。そして、五賢帝の時代になると、ハドリアヌスが、またアントニウス・ピウスがそれぞれ遠征を行い、戦線を北へ北へと押し上げた。アントニウスの長城は、わずか20年で瓦解するが、100kmを超えるハドリアヌスの長城は、ローマ帝国の北限としてよく機能し、ローマはブリタンニアに4つの属州を設置することになる。

この頃、スコットランド一体はカレドニア(カレドゥニ族が語源との説がある)と呼ばれ、ピクト人が支配していた。ケルト系民族で、ブリトン人と同族という説も、ケルト以前の原住民という説もあるが、よく分からない。古くからブリテン島の北方に暮らしていたことは間違いない。

ひとつ言えることは彼らはローマの前に膝を屈しなかったということ。ローマ帝国はカレドニア全域を制覇することは終になかった。そして、西暦407年、ローマ帝国は崩壊を初め、ブリタンニア属州を維持することが出来なくなった。ハドリアヌスの長城は越えられ、北からはピクト人が、西のアイルランドからはケルト系のスコット人が来襲した。このままケルト系民族が再びブリテン島を支配するかと思ったが、そうはいかず、ローマを崩壊に導いたゲルマニア地方の部族たちがブリテン島にもやってきた。


ブリテン島になだれこんだのはアングル族、サクソン族、ジュート族。ブリテン島はローマの時代から、彼らの築いた7王国の時代となった。イングランドという言葉が生まれたのはこの頃だ。アングルの土地という意味から、イングランドが生まれた。

一方、キリスト教の布教もきっかけとなり、ピクト人とスコット人は数百年の時間をかけて融和し、810年のケネス1世による統一アルバ王国が成立した。やがてここに、ゲール語を話すケルト系スコットランドと、英語を話すアングロ=サクソン系イングランドという、全く人種の異なる二つの王国が、南北で対峙することになる。

国境は相変わらずハドリアヌスの長城一帯。しかし、スコットランドがイングランドの前に膝を屈することはなかった。、7王国はいずれも、終にローマ帝国と同様に、ハドリアヌスの壁を超えることが出来なかった。また、アングロ=サクソンの時代も、間もなく終わった。イングランドではヴァイキングの侵入が相次いだ。デーン人がが現れて国土の多くを接収すると、最終的には1066年ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドを制圧し、イングランド王ウィリアム1世として即位した。


スコットランド王国も決して平和であったわけではない。タニストリーと呼ばれる独特の相続制度があり、王が成年に達すると、次期王が合議で決められた。政権の空白期間を無くすという大きなメリットはあったが、新王を支持する一派が現王を暗殺するという事例が相次いだ。だいたい次期王は親族が任命されるので、肉親同士の血で血を争う抗争に至る。

肉親同士の殺し合いのすさまじさに着目したのは、劇作家のシェイクスピアで、実在のスコットランド王マクベスを題材に四大悲劇のひとつ”マクベス”を書き上げた。脚色が多いので実態と齟齬はあるが、史実が血なまぐさいことに代わりは無い。1040年、マクベス王は、兄のダンカン1世を殺害して王位に登り、反対者を次々に殺戮した。それでも17年の統治を得たのは、能力が優れていたのだろう。しかし、甥っ子にあたるダンカン1世の子、マルコム3世によって戦死の憂き目にあった。

そのマルコム3世は、30年以上の長期にわたり政権を担い、繰り返しウィリアム1世のイングランドを攻めた。服従を強いられても、4度敗戦しても懲りずに南進を進めて、終に5度目の戦役で没した。しかし、スコットランドとイングランドの関係は、敵同士というだけでは片付かない。マルカム3世の6男にあたるデイビッド1世は、イングランドでノルマン式の教育を受け、1124年に即位した後もノルマン人の友を招いて改革を進めていた。

イングランドに服従する羽目になったり、逆に友好関係を築いたり、目まぐるしく関係を替えながら150年ほど経過した。フランスとスコットランドが同盟して、しばしばイングランドを挟撃している。例えるなら、上杉謙信と北条氏政が組んで武田信玄に対抗したようなイメージ。スケールはもっと大きいし長続きしたけれども。

ここでどうしても触れておきたい人がいる。ノルウェーの乙女、と呼ばれたスコットランド女王マーガレットだ。スコットランド王アレグザンダー3世が急死すると、孫娘のマーガレットが即位することになった。男児がおらず、彼の娘とノルウェー王エイリーク2世の間の一人娘、マーガレット以外に直系の血縁者がいなかったためだ。わずか7歳のマーガレットを擁することになったスコットランドに対し、イングランドのエドワード1世ははここぞとばかりに僅か4歳の息子を婿に送り込んだ。どうしてだと思う?スコットランドの王位継承権を奪おうとしたためだ。幼い子供達は政治の道具にされた。さらに、マーガレットはノルウェーからスコットランドへの船旅で体調を崩し、到着直後に急死した。

国境を隣接している国同士というものは、絶えず緊張を強いられる。このとき、イングランドが王位継承に口をさしはさみ、息のかかったジョン・ベイリャルという男を傀儡の王として立てた。しかし、このジョン・ベイリャルがイングランドに反発するわ、ロバート1世は寡兵でイングランドを破るわ、散々だった。一時占領することはあっても、スコットランドをイングランドが長期にわたって支配することはなかった。


イングランドとの関係にも重要になるので、スチュアート朝について触れておこう。スコットランド王デイヴィッド2世には子がなかったので、スコットランド執事長のウォルター・ステュアートの息子、ロバート2世が即位した。ウォルターがロバート1世の娘を妻にもっていたためで、つまりデイヴィッド2世からみると、ロバート2世は甥にあたる。こうして、1371年に、”執事”を家名にもつステュアートが始まった。

フランスとスコットランドが同盟し、イングランドと戦うという関係はひとつの典型は長く続いたが、百年戦争・ばら戦争で疲弊したイングランドとしてはスコットランドとの融和を目指していたらしく、ジェームズ4世の代で1502年に平和条約を結び、イングランドのヘンリー7世の娘を娶った。が、英仏の戦線が激化すると、やはりフランスに就き、ジェームズ4世は戦死した。なんだか浅井長政を彷彿とさせる。
息子のジェームズ5世も若死にしたので、生後6日のメアリー1世が即位した。一時はイングランドのエドワード6世と婚約したが、戦争状態に陥ったので、フランスに逃れ、フランソワ2世と結婚した。このメアリー1世が、イングランドの王位継承にも強く首を突っ込むことになるのだが、なぜそんな事態になったのか少し歴史の針を巻き戻す。


世の中にははた迷惑を地でいく人がいるが、それが王様だと国中に激震が走る。エドワード6世の父である、イングランド王ヘンリー8世がそういう王様だった。6人の妻を得た、これだけならまだ許せる気がするが基本的に横暴である。離婚を許さないローマ教皇と喧嘩して、イングランド国教会を作る。批判したトマス=モアを処刑する。離婚した妻をロンドン塔で幽閉したり刑死したりする…などなど、付き合う家臣は悲惨という他ない。
この結果、当然ながら跡目争いが起きた。エドワード6世が早逝すると、長姉のメアリー1世が即位した(同じ名前だがスコットランド女王メアリー1世とは別人、ただし血縁関係はあるので二重にややこしい)が、子供を残さずに死んだ。そして、エリザベス1世が即位したのだが、ここで父親であるヘンリー8世の悪行が活きてくる。母であるアン・ブーリンは死刑になったため、エリザベスは庶子扱いだった。直系の子孫が他にいないので即位したが、庶子から王位を継承したわけである。

これに目を付けたのが、フランスに逃れたスコットランド女王のメアリー1世(というより、たぶん夫のフランス王家の方)。庶子が継ぐくらいなら、ヘンリー7世の血を正当に継ぐ私が即位すべき、と主張。もっともな主張ではある。ヘンリー8世が妻を刑死するなんてことをしなければ、この問題自体が起きなかった。
そして、フランソワ2世が早逝した結果、スコットランドに戻ったメアリー1世だが、二人の女王の間で牽制と戦争が続いた。お互いがお互いの結婚相手に口を挟み、内乱を起こそうと画策しあう。メアリーが庶子が王位を継ぐことの不当を宣伝すると、エリザベスはスコットランド貴族をたきつけて内乱を起こさせる。そこにカトリックとプロテスタントの対立が深まってきて、結構混乱は続いた。
結局、メアリー1世は傍系の貴族と結婚して、子供をなすが、間もなく家庭トラブルから国が揺れる。関係が冷えた夫は暗殺され、愛人だったボスウェル伯がメアリー1世と結婚した。が、野心みえみえなボスウェル伯に反対する貴族たちによりスコットランドで反乱が相次いで、メアリー1世はイングランドに逃れた。当時メアリー1世は25歳、エリザベス1世が33歳。同世代で同性で女王同士、個人としてはお互い嫌いじゃなかったかもしれない。意外とメアリー1世は自由にふるまうことをゆるされた。が、しばしばイングランドの王位継承を口にしたので、1587年44歳で死刑を宣告された。


一方、スコットランドでは何が起きたかというと、メアリー1世の産んだジェームズ6世が即位した。健康かつ順調に統治していくと、思わぬチャンスが転がり込んできた。エリザベス1世が崩御した1603年、イングランド王に即位したのだ(スコットランド王ジェームズ6世、イングランド・アイルランド王ジェームズ1世)。エリザベス1世に子は無く、他に直系の親族がいなかったためである。メアリー1世の念願がかなったというべきか、母を殺した英国王位を継ぐ悲劇というべきか。しかし、本人はイングランド暮らしを気に入ったらしく、即位後は入りびたりだった。

しかし、ひとつ言えることは、スコットランドの王が、イングランド王に就いたのである。その逆ではない。スコットランドとイングランドが同じ王様を抱える同君連合になった後、ジェームズ6世の曾孫にあたるアン女王の治世で、グレートブリテン王国が成立した。これはカトリックを信仰する王様が即位して内乱が起きる可能性を削除するためだったが、結果として同じ国となった。13世紀からイングランドに服従する羽目になったウェールズ、今なお独立・内乱の火が絶えないアイルランド、対立を続けてきたスコットランドとイングランド。全く異なる4国が連合王国として併存し、今の英国がある。


近年、スコットランドが強く独立を言い始めたのは1970年代から油田によって経済が潤ってからかもしれないが、そもそもの背景として、もともと違う国同士なのだ。この点を理解せずに、日本の地方自治とスコットランドの独立住民投票を同列に論じる向きもあるが、私は別次元の話だと思う。その国には、その国独自の歴史や文脈がある。少しずつでもいいから、知って行きたいと思う。今後も独立の話は已むことはない。ジェームズ6世が即位してからまだたった400年あまりしか過ぎていないのだから。その歴史の重みを汲みつつ、彼らの重ねる歴史を同時代に住む人間として見守っていきたいと思う。もう流血沙汰にはならないで欲しい、と願いながら。


この稿を書いていて、ついぞイギリスという言葉は使わなかった。イギリスの正式名称は”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”である。4国のうち1国にすぎないイングランドを指すイギリスという言葉を使うのは、あまりに敬意がないように思えたためだ。英語だとU.K.で済むが日本語表記をすることが難しい。”連合王国”といってもピンとこない。Britishにはアイルランドが含まれない。

イギリス由来ではあるが、”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”の略称として外務省は英国と表記しているので、英語ではU.K,、日本語ではイギリスではなく”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”の略称として英国という表現を使おうと思う。

以上

”鍋ラボ” の紹介

今年はいろいろと文芸活動上で出会いがありまして、そんな中でひょんなことから”鍋ラボ”の なべとびすこ さんの活動に参加させて頂きました。素人で短歌を詠んだり、小説を書きあったりする、文学系イベントを始められたんですけれども、面白いですね。
こじんまりちまちま書き物をしている文芸雑技団の地味さに比べて、”同好の士”を集めて活動されようとする姿は、まさに現代版の正岡子規のようで、すごいですね。
また、ビジネス書を読んでバリバリに働いているサラリーマン・キャリアウーマンの対義語として、”意識低い系”を自称されているのが大変面白いです。

さて、そんな現代版根岸短歌会もとい”鍋ラボ”さんですが、ブログで活動予定を公表されはじめました。場所は心斎橋近辺で10月以降にいろいろと活動される予定とのことですが、さしあたってこの場を借りて紹介させて頂きます。


鍋ラボ 様。
http://blog.livedoor.jp/nabelab00/ 


文芸活動がどんどん盛り上がっていくといいですね。私も参加応援しております。 乞うご期待&ご参加。

深読み猿蟹合戦-なぜ蟹の子は死ななかったか-

猿蟹合戦という童話は、みなさんご存じと思います。地方によって細かなバリエーションがあり、どこが元祖かは調べきれなかったのですが、江戸時代には”猿蟹合戦絵巻”が発表されており、少なくとも一般的な普及は、江戸時代以降に進んだものと推測されます。あらすじをなぞる意味をこめて、この物語をまとめましょう。

【猿蟹合戦の概要】
(前半) 蟹の持つおにぎりと、猿の持つ柿の種を交換。蟹が育てた柿をとってやろうという猿は、蟹に青い柿を投げつけて殺す。
(後半) 蟹の子たちは、栗と臼と蜂と牛糞と協力して、猿を殺して復讐を終える。


猿は契約の不履行と殺人(蟹?)という二重の罪を犯しています。後半部では親の仇をとるという復讐譚です。動物による復讐という意味ではかちかち山に近いですし、異なる動物たちが徒党を組むという意味ではブレーメンの音楽隊にも近いです。

通常の”仇討”というよりは、桃太郎のような勧善懲悪なすっきりした物語ですね。仇討ものって結構悲惨なオチが多いでしょう。日本三大仇討ちと呼ばれる、曽我物語・鍵屋の辻の決闘・忠臣蔵では、いずれも最終的に復讐者が無事に本懐を遂げながらも、彼らの死を以て物語が終わります。
江戸幕府の建前と本音、忠孝心にあふれ武俠に富む武士を讃える武家の顔と、物騒な報復殺人を忌む治世者の顔が透けてみえるようです。もちろん、すべての仇討ちが復讐者の死で終わるわけではありませんが、傾向としては悲劇的です(他には実朝の暗殺など)。

猿蟹合戦を復讐譚・敵討ち物語としてみていいものか考える一方、猿蟹合戦の類話を調べてみたところ、餅争いという物語がありました。猿とガマガエル(または兎や蟹が登場するパターンもある)が、餅を独り占めにしようとした猿(または兎)が、臼を先に転がしてゴールしたものが独り占めしよう、と口八丁で丸め込めて、さっと駆けだす。しかし、肝心のもちは臼から落ちた(落ちやすいように濡らしてあった)ので、カエル(または蟹)が持ち帰った。そういうお話です。


独り占めしようとすると損するよ、というお話ですね。この餅争いを下敷きに猿蟹合戦を考えると、どうでしょうか。仇討ちというより、独り占めしようとする猿への制裁の物語に思えます。蟹は物語中一生懸命柿を育てます。が、美味しいところだけ猿がもっていって、あまつさえ生産者を殺して奪った。野盗が農村を襲って収穫物を奪ったことに対して反撃したような、制裁の物語としてニュアンスが強く感じられるように思います。

武家的な報復ではなく農村的な制裁と考えれば、なぜ続々と協力者が出てきたのかが分かります。牛糞は堆肥、臼は餅や米などの穀物、栗は山菜果実を表していると考えると、一人だけ丸儲けしようとするもの。共同体のフリーライダー(ただ乗りするやつ)への制裁というニュアンスが濃くなりますね。

蜂は何を表しているのだろう、と考えてみましたが、蜂と猿で連想するものがありました。特に江戸時代はそうですが、猿と蜂はよく一緒に描かれます。これは中国画の影響で、蜂申(猿)が封侯=侯に封ぜられるという意味から、めでたいものとして描かれたためです。特に武家としてはより良くより多い土地を領有することが本能ですから、猿蜂図は広くブームとなりました。蜂と猿が仲たがいすることは、武家=農民の収穫物にただ乗りする者への反発と連想することは穿ちすぎかもしれませんが、頭をかすめます。

いずれにしても猿蟹合戦を、復讐譚ではなく制裁譚として読むと、蟹の坊やたちが無事にハッピーエンドを迎えた結末がスッキリ受け入れられるように思えます。

以上




肝は肝臓とちがう話

”肝”についてフォロワーさんから調査依頼が来ました。

質問 ”どうして肝心とか肝に銘じるとか肝臓って大事な部位って思われてるの?”

”肝胆相照らす仲”とか”肝っ玉”とか、肝に関す言葉は多いですね。調べてみましたが、まずいえることは肝は肝臓とは別物です。肝臓とはご存じ、内臓の一つ。ホルモンでいうところのレバーですね。解毒や代謝、胆汁の分泌など、数百の機能をもつ複雑な部位です。

一方、肝は肝臓と必ずしもイコールではありません。科学的・解剖学的な生物の部位の話ではなく、身体の役割を陰陽五行思想に当てはめたもののひとつです。五臓六腑という言葉がありますでしょう。あれは2000年以上前の中国で生まれました。原典はまだみていませんが、前漢の黄帝内経が最古の古典といわれています。歴史が長い。そして、漢人の五臓六腑ですが、具体的には以下のとおり。

五臓とは、 肝・心・脾・肺・腎。
六腑とは、胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦。


五臓が陰、六腑が陽で、陰陽思想をベースにしています。臓で気血を貯めて、腑でそれを体に行き渡らせる、というイメージです。
また、それぞれ基本的に五行(木・火・土・金・水)に相当します。三焦はちょっと例外的です。調べてみましたが、どうもしっくりこない。五臓は心包という心をガードする臓を加えて六蔵とも言われており、三焦は心包と呼応するようです。

五臓五腑の働きは下記の通り。実際の内臓としての機能もあれば、より精神的・神秘的な要素も含みます。

【木】
肝:血を宿し魂の拠り所となる。心と隣接している部位。
胆:中正の官と呼ばれ、胆汁を送り、また勇気や決断を司る。

【火】
心:知覚や心の働き=神の拠り所となる。通称、五臓六腑の大主。
小腸:受盛の官と呼ばれ、消化物を選り分けて身体に送ったり、大腸へ送ったりする。

【土】
脾:水穀の吸収を担当し、営=精気の拠り所となる。
胃:消化吸収を行う倉廩の官。

【金】
肺:呼吸と気を司る。
大腸:排泄を担当する伝導の官。

【水】
腎:生命の根源を宿す機関。
膀胱:排尿にかかわる州都の官。


五臓の中でもやはり心が一番重要視され、その次に重視されたのが肝です。心とつながり肝で血を貯めるという役割。そして、心=神がより生命活動に近いニュアンスを含むのに対し、実際の人格、魂を司る肝は大変重要でした。”肝に銘じる”や”肝が太い”という言葉によく表れていますね。また、驚も司るので、”肝を冷やす”とか”肝をつぶす”とか、びっくりしたときにも肝が登場します。また、河童がぬくという尻子玉は、肛門の傍にある謎機関ですが、肝という説もあるようです。

五臓六腑の具体的な解釈については、実際の中医学書を読まないといけませんが、あまりに古い概念なので、ひとくちに説明できるほどまとまっていませんね。陰陽五行説が生まれるのとほぼ同時代くらいからある概念な訳で、一筋縄ではいきません。ある程度目鼻がついたので、ここまでを回答とさせていただきます。

台湾紀行ー故宮編ー

旅の本題である故宮博物館に触れるのが遅れた。今回故宮内で撮れた写真はほとんどないので画像は割愛する。士林駅からバスで故宮博物館へ向かう時、私の胸にあったのは深い感謝だった。自身が宋代を代表する画家・文化人でもある北宋の徽宗に始まるとされるそのコレクションは、元・明・清と王朝や民族が変わっても、ますますその質と量は増えていった。そして、革命後の中華民国が、故宮・紫禁城に集められた至宝の数々を私物化することなく、散逸したものはあれど、その多くを日本の侵攻や内戦による戦禍から守り、そのうちの精鋭というべき7万点あまりが台北の故宮博物館に集められている。北京と台北の両方を合わせれば、百万点を超える中国美術の至宝の数々。千年に渡り、その価値を知り、これらを守り続けた各王朝と中華民国の人たち、そして今もなお誇り高く文化を守る人々に対して感謝の気持ちが自然と溢れ、毀れそうになった。今回、展示されていたコレクションについて備忘録的な意味も兼ねて、所感をまとめていきたい。


【101:慈悲與智慧】
一番最初に入ったのは仏像のコーナー。盛唐代の観音菩薩立像がベスト仏陀。腰つきの優美な曲線が素晴らしい。他の作品は、全体的にずんぐりとした印象を受け、日本の仏像の写実性とは違う方向に発展したと感じた。

【104:鄰蘇観海—院蔵楊守敬蒐集図書特別展】
楊守敬という男を知っている日本人はそう多くないと思う。私もこの人については何も知らなかった。1880年、科挙試験に受からず失意の彼のもとに、東京で大使館の随員のオファーが来た。東京で彼を待ち受けていたのは、急速な文明開化の名の下に、大量の漢籍が安く売り叩かれている状況だった。彼は漢籍を買い、もしくは借りたり贈与されたりして、なんとか散逸を防ごうと努力し、その結果1634部15491冊の書籍がその子孫を経て、故宮博物館に伝えられた。たくさんの漢籍は元は日本が大切に扱ってきた文化の集大成のはずが、急速に近代化を進めた過程で失い、忘れたものだった。集めることは大変だが、失うのは一瞬で、そして永遠に帰ってこない。大事な文化財を失わずに済んだことに、楊守敬に感謝したい。

【106:集瓊藻 院蔵珍玩宝展】
展示している作品の量、質ともに圧巻だった。圧倒された。二十四層にも渡る透かし彫りがそれぞれ独立して動くという超絶技巧の象牙球。鮮やかな紅と力強い龍に圧倒された雲龍紋剔紅小櫃。そして、最も気に入ったのが明清代の琺瑯器の数々。琺瑯器の美しさに心を奪われた。どれひとつとっても逸品。金属地に色を焼き付け、清代には西洋の技法をも取り入れた琺瑯器は、どうも私の琴線をかき鳴らした。青や黄といった色味が、どことなく西洋絵画を思い出させる鮮やかさで、なんだか目の離せない時間が長く、去りがたかった。

【201,205,207: 土の百変化-中国歴代陶磁器展】
ほんとにさり気なく汝窯の水盆が置いてあったので、えっ!?と通り過ぎかけた。本当にきれいな青だ。見どころは他に唐三彩の仏像や立像など。自然と垂れてくる釉薬の色がイイ。ここの展示だけでも相当量の磁器があったので本当に底知れない。やはり日本人だなあ、自分はと思ったんのは、木葉天目や黒茶碗をみてなんだかほっとしたとき。結構みんな通り過ぎる人が多いけど、端正さがちょっと崩れて温かみのある茶器がみていて飽きない。あと、ここに限った話じゃないけど、乾隆朝の青磁などはほとんどストライクなので、乾隆帝と自分の好みは似ているなと親近感がわいた。

【202,208,210,212:明四大家特展-唐寅】
沈周や文徴明の方がメジャーだったのになあ、と正直思ったが、唐寅の書画もよかった。對竹図が気に入った。右をアップにして描きこみを増やし、左に進むにつれて川の流れとともに視界から遠くに山々が見える、といった、視覚的に”動”な感じが上手い。見ていて飽きない。

【203:定州花磁-故宮博物院所蔵定窯白磁特別展】
定窯の白磁。宋元代の逸品が百は下らないであろう。これだけ美しい白に囲まれて、感動に包まれた。白磁は遠目にみても近くから見ても、味わいが違って楽しい。白磁の涼しげな美しさと、近くでみたときの文様の鮮やかさが、もう何ともたまらなかった。そう、眼福という言葉がぴったりくる。

【302:天と人の合唱―玉石の彫刻芸術展】
白菜水玉と肉形石。白菜より個人的には肉の方が好み。なぜなら美味しそうだから。白菜はちょっと痩せてる。その点、肉はそのまま角煮に混ぜてもわからないようなインパクトがある。

【303:通嚏軽揚-鼻煙壺文化特別展】
欧州から伝わった嗅ぎ煙草文化が中国でも花咲き、美しい嗅ぎ煙草入れが生まれた。陶器や象牙など、贅を凝らした造りは、きっと好事家たちは沢山そろえたかったろうなと思う。なんだか、コレクター心をくすぐられ、あれもこれもと欲しくなる感じがたまらない。小さくてかわいらしく、そこに中華の美の技術が圧縮されていて、そのミニチュアの世界に潜む恐ろしさがたまらない。

【304:名匠の魂と神仙の業―明清彫刻展】
日本の彫刻技術は仏像に集約された歴史が長いと思うが、中国の彫刻の歴史は多様に思える。彫橄欖核舟のようなわずか数センチに刻む技巧の素晴らしさ。そして、やはりここでも象牙が目を奪う。清代の彫象牙四層透花提食盒。第一声は”なんじゃこりゃ”第二声は”マジかこれ”。薄い象牙の透かし彫りで出来たランチボックスだが、こんなに薄く精緻に削る技術を考えると気が遠くなる。頭が揺さぶられるようだった。

【306,308: 敬天格物-中国歴代玉器展】
きっと中国では玉が多くとれたんだと思う。石器時代の遺物で、石斧や鉄斧なんかは何度もみたことあるけど、玉斧なんて初めてみた。中国くらいじゃないか??古代から中国における玉の地位は、とっても高かった。玉刀や玉璧なんか、数千年経っても美しさを保っている。動物の形をかたどった玉もおもしろかった。玉蝉を口に入れて埋葬して復活を祈るって風習があったらしい。

【305,307: 古代青銅器の輝き-中国歴代銅器展】
何がすごいって普通に商代後期の青銅器とか、立派な造形のものがたくさんあることなんだよ。3000年以上前にこんな立派な青銅器が作られていたのかっていう感動が一番。日本の青銅器もすごいなあって思うものたくさん見てきたけど、さらに千年さかのぼる。造形はそりゃいびつなものもあるけれども、その時空を超えた感じがたまらなく素晴らしく思えた。


以上
 
Twitter プロフィール
文芸を愛する集団、文芸雑技団の公式アカウントです。文学、歴史(日本史・欧州史・中国史)、哲学、美術、民俗学、妖怪、神話、和歌、俳句…手広くブログで書いています。マイブームは平家物語。Twitterでは、文芸版”今日は何の日”を更新中。サブアカ:@halkatalk1
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

記事検索
  • ライブドアブログ