スコットランド独立が否決された。
住民投票に参加した人たちは、あるいは英国の統治が全うされたことを祝い、あるいは自治が認められなかったことを悔やんでいる。日本人の感覚でいえば、”よく分からない”、という感情が一番に来るのではないか。なぜ、独立運動にそこまで力が入るのか。単一民族による統治が長く続いた我々にとっては、北海道や九州がいきなり独立を宣言するような、そんな”有りえない”ことのように思える。
”有りえない”と思える行動をとったスコットランドの人たちの心情に少しでも寄り添うには、どうすればいいか。僭越ながら、少しでも理解しようとするならば、その歴史を探らねばならないだろう。しかしながら、メディアの報道をみてみたが、1970年代から石油で潤い、1999年にはスコットランド議会が設立したという、近現代の歴史にしか触れていない。そもそも、”スコットランド”と”イングランド”が如何にして成立し、対立し、連合王国になったのかという過程に触れていない。
また、文芸雑技団では以前”アイルランドの涙”という記事が投稿された。興味のある人は併せて読んでもらいたい。では、始めるとしようか。どこまで歴史を遡ればよいのか、考えてみたが数百年の歴史では足りない。どうか、2000年遡って、ローマ時代から紐解くことを許していただき、あわよくばお付き合い頂きたい。同じく島国である日本とは異なり、彼らの歴史は異民族の侵入にあふれている。あるいはイングランドの目線から語られることの多い、ブリテン島の歴史を、北方スコットランドから語りたい。
紀元前55年、ユリウス・カエサルがガリア一帯を席巻したとき、ブリテン島にも上陸している。ガリア戦記によれば、そこには野草で身体を青く染め、狩猟採集を行うケルト系ブリトン人の姿があった。異様な姿である。ローマはことのとき初めてブリテン島に上陸したが、長居はしなかった。
そして、100年後の紀元43年、ローマ帝国第四代皇帝のクラウディウス(ネロの父親)がブリテン島に遠征を行うと、南東部に属州ブリタンニアを設置した。後年ロンドンと呼ばれるようになる、ロンディニウムが発展したのもこの頃だ。そして、五賢帝の時代になると、ハドリアヌスが、またアントニウス・ピウスがそれぞれ遠征を行い、戦線を北へ北へと押し上げた。アントニウスの長城は、わずか20年で瓦解するが、100kmを超えるハドリアヌスの長城は、ローマ帝国の北限としてよく機能し、ローマはブリタンニアに4つの属州を設置することになる。
この頃、スコットランド一体はカレドニア(カレドゥニ族が語源との説がある)と呼ばれ、ピクト人が支配していた。ケルト系民族で、ブリトン人と同族という説も、ケルト以前の原住民という説もあるが、よく分からない。古くからブリテン島の北方に暮らしていたことは間違いない。
ひとつ言えることは彼らはローマの前に膝を屈しなかったということ。ローマ帝国はカレドニア全域を制覇することは終になかった。そして、西暦407年、ローマ帝国は崩壊を初め、ブリタンニア属州を維持することが出来なくなった。ハドリアヌスの長城は越えられ、北からはピクト人が、西のアイルランドからはケルト系のスコット人が来襲した。このままケルト系民族が再びブリテン島を支配するかと思ったが、そうはいかず、ローマを崩壊に導いたゲルマニア地方の部族たちがブリテン島にもやってきた。
ブリテン島になだれこんだのはアングル族、サクソン族、ジュート族。ブリテン島はローマの時代から、彼らの築いた7王国の時代となった。イングランドという言葉が生まれたのはこの頃だ。アングルの土地という意味から、イングランドが生まれた。
一方、キリスト教の布教もきっかけとなり、ピクト人とスコット人は数百年の時間をかけて融和し、810年のケネス1世による統一アルバ王国が成立した。やがてここに、ゲール語を話すケルト系スコットランドと、英語を話すアングロ=サクソン系イングランドという、全く人種の異なる二つの王国が、南北で対峙することになる。
国境は相変わらずハドリアヌスの長城一帯。しかし、スコットランドがイングランドの前に膝を屈することはなかった。、7王国はいずれも、終にローマ帝国と同様に、ハドリアヌスの壁を超えることが出来なかった。また、アングロ=サクソンの時代も、間もなく終わった。イングランドではヴァイキングの侵入が相次いだ。デーン人がが現れて国土の多くを接収すると、最終的には1066年ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドを制圧し、イングランド王ウィリアム1世として即位した。
スコットランド王国も決して平和であったわけではない。タニストリーと呼ばれる独特の相続制度があり、王が成年に達すると、次期王が合議で決められた。政権の空白期間を無くすという大きなメリットはあったが、新王を支持する一派が現王を暗殺するという事例が相次いだ。だいたい次期王は親族が任命されるので、肉親同士の血で血を争う抗争に至る。
肉親同士の殺し合いのすさまじさに着目したのは、劇作家のシェイクスピアで、実在のスコットランド王マクベスを題材に四大悲劇のひとつ”マクベス”を書き上げた。脚色が多いので実態と齟齬はあるが、史実が血なまぐさいことに代わりは無い。1040年、マクベス王は、兄のダンカン1世を殺害して王位に登り、反対者を次々に殺戮した。それでも17年の統治を得たのは、能力が優れていたのだろう。しかし、甥っ子にあたるダンカン1世の子、マルコム3世によって戦死の憂き目にあった。
そのマルコム3世は、30年以上の長期にわたり政権を担い、繰り返しウィリアム1世のイングランドを攻めた。服従を強いられても、4度敗戦しても懲りずに南進を進めて、終に5度目の戦役で没した。しかし、スコットランドとイングランドの関係は、敵同士というだけでは片付かない。マルカム3世の6男にあたるデイビッド1世は、イングランドでノルマン式の教育を受け、1124年に即位した後もノルマン人の友を招いて改革を進めていた。
イングランドに服従する羽目になったり、逆に友好関係を築いたり、目まぐるしく関係を替えながら150年ほど経過した。フランスとスコットランドが同盟して、しばしばイングランドを挟撃している。例えるなら、上杉謙信と北条氏政が組んで武田信玄に対抗したようなイメージ。スケールはもっと大きいし長続きしたけれども。
ここでどうしても触れておきたい人がいる。ノルウェーの乙女、と呼ばれたスコットランド女王マーガレットだ。スコットランド王アレグザンダー3世が急死すると、孫娘のマーガレットが即位することになった。男児がおらず、彼の娘とノルウェー王エイリーク2世の間の一人娘、マーガレット以外に直系の血縁者がいなかったためだ。わずか7歳のマーガレットを擁することになったスコットランドに対し、イングランドのエドワード1世ははここぞとばかりに僅か4歳の息子を婿に送り込んだ。どうしてだと思う?スコットランドの王位継承権を奪おうとしたためだ。幼い子供達は政治の道具にされた。さらに、マーガレットはノルウェーからスコットランドへの船旅で体調を崩し、到着直後に急死した。
国境を隣接している国同士というものは、絶えず緊張を強いられる。このとき、イングランドが王位継承に口をさしはさみ、息のかかったジョン・ベイリャルという男を傀儡の王として立てた。しかし、このジョン・ベイリャルがイングランドに反発するわ、ロバート1世は寡兵でイングランドを破るわ、散々だった。一時占領することはあっても、スコットランドをイングランドが長期にわたって支配することはなかった。
イングランドとの関係にも重要になるので、スチュアート朝について触れておこう。スコットランド王デイヴィッド2世には子がなかったので、スコットランド執事長のウォルター・ステュアートの息子、ロバート2世が即位した。ウォルターがロバート1世の娘を妻にもっていたためで、つまりデイヴィッド2世からみると、ロバート2世は甥にあたる。こうして、1371年に、”執事”を家名にもつステュアートが始まった。
フランスとスコットランドが同盟し、イングランドと戦うという関係はひとつの典型は長く続いたが、百年戦争・ばら戦争で疲弊したイングランドとしてはスコットランドとの融和を目指していたらしく、ジェームズ4世の代で1502年に平和条約を結び、イングランドのヘンリー7世の娘を娶った。が、英仏の戦線が激化すると、やはりフランスに就き、ジェームズ4世は戦死した。なんだか浅井長政を彷彿とさせる。
息子のジェームズ5世も若死にしたので、生後6日のメアリー1世が即位した。一時はイングランドのエドワード6世と婚約したが、戦争状態に陥ったので、フランスに逃れ、フランソワ2世と結婚した。このメアリー1世が、イングランドの王位継承にも強く首を突っ込むことになるのだが、なぜそんな事態になったのか少し歴史の針を巻き戻す。
世の中にははた迷惑を地でいく人がいるが、それが王様だと国中に激震が走る。エドワード6世の父である、イングランド王ヘンリー8世がそういう王様だった。6人の妻を得た、これだけならまだ許せる気がするが基本的に横暴である。離婚を許さないローマ教皇と喧嘩して、イングランド国教会を作る。批判したトマス=モアを処刑する。離婚した妻をロンドン塔で幽閉したり刑死したりする…などなど、付き合う家臣は悲惨という他ない。
この結果、当然ながら跡目争いが起きた。エドワード6世が早逝すると、長姉のメアリー1世が即位した(同じ名前だがスコットランド女王メアリー1世とは別人、ただし血縁関係はあるので二重にややこしい)が、子供を残さずに死んだ。そして、エリザベス1世が即位したのだが、ここで父親であるヘンリー8世の悪行が活きてくる。母であるアン・ブーリンは死刑になったため、エリザベスは庶子扱いだった。直系の子孫が他にいないので即位したが、庶子から王位を継承したわけである。
これに目を付けたのが、フランスに逃れたスコットランド女王のメアリー1世(というより、たぶん夫のフランス王家の方)。庶子が継ぐくらいなら、ヘンリー7世の血を正当に継ぐ私が即位すべき、と主張。もっともな主張ではある。ヘンリー8世が妻を刑死するなんてことをしなければ、この問題自体が起きなかった。
そして、フランソワ2世が早逝した結果、スコットランドに戻ったメアリー1世だが、二人の女王の間で牽制と戦争が続いた。お互いがお互いの結婚相手に口を挟み、内乱を起こそうと画策しあう。メアリーが庶子が王位を継ぐことの不当を宣伝すると、エリザベスはスコットランド貴族をたきつけて内乱を起こさせる。そこにカトリックとプロテスタントの対立が深まってきて、結構混乱は続いた。
結局、メアリー1世は傍系の貴族と結婚して、子供をなすが、間もなく家庭トラブルから国が揺れる。関係が冷えた夫は暗殺され、愛人だったボスウェル伯がメアリー1世と結婚した。が、野心みえみえなボスウェル伯に反対する貴族たちによりスコットランドで反乱が相次いで、メアリー1世はイングランドに逃れた。当時メアリー1世は25歳、エリザベス1世が33歳。同世代で同性で女王同士、個人としてはお互い嫌いじゃなかったかもしれない。意外とメアリー1世は自由にふるまうことをゆるされた。が、しばしばイングランドの王位継承を口にしたので、1587年44歳で死刑を宣告された。
一方、スコットランドでは何が起きたかというと、メアリー1世の産んだジェームズ6世が即位した。健康かつ順調に統治していくと、思わぬチャンスが転がり込んできた。エリザベス1世が崩御した1603年、イングランド王に即位したのだ(スコットランド王ジェームズ6世、イングランド・アイルランド王ジェームズ1世)。エリザベス1世に子は無く、他に直系の親族がいなかったためである。メアリー1世の念願がかなったというべきか、母を殺した英国王位を継ぐ悲劇というべきか。しかし、本人はイングランド暮らしを気に入ったらしく、即位後は入りびたりだった。
しかし、ひとつ言えることは、スコットランドの王が、イングランド王に就いたのである。その逆ではない。スコットランドとイングランドが同じ王様を抱える同君連合になった後、ジェームズ6世の曾孫にあたるアン女王の治世で、グレートブリテン王国が成立した。これはカトリックを信仰する王様が即位して内乱が起きる可能性を削除するためだったが、結果として同じ国となった。13世紀からイングランドに服従する羽目になったウェールズ、今なお独立・内乱の火が絶えないアイルランド、対立を続けてきたスコットランドとイングランド。全く異なる4国が連合王国として併存し、今の英国がある。
近年、スコットランドが強く独立を言い始めたのは1970年代から油田によって経済が潤ってからかもしれないが、そもそもの背景として、もともと違う国同士なのだ。この点を理解せずに、日本の地方自治とスコットランドの独立住民投票を同列に論じる向きもあるが、私は別次元の話だと思う。その国には、その国独自の歴史や文脈がある。少しずつでもいいから、知って行きたいと思う。今後も独立の話は已むことはない。ジェームズ6世が即位してからまだたった400年あまりしか過ぎていないのだから。その歴史の重みを汲みつつ、彼らの重ねる歴史を同時代に住む人間として見守っていきたいと思う。もう流血沙汰にはならないで欲しい、と願いながら。
この稿を書いていて、ついぞイギリスという言葉は使わなかった。イギリスの正式名称は”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”である。4国のうち1国にすぎないイングランドを指すイギリスという言葉を使うのは、あまりに敬意がないように思えたためだ。英語だとU.K.で済むが日本語表記をすることが難しい。”連合王国”といってもピンとこない。Britishにはアイルランドが含まれない。
イギリス由来ではあるが、”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”の略称として外務省は英国と表記しているので、英語ではU.K,、日本語ではイギリスではなく”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”の略称として英国という表現を使おうと思う。
以上
住民投票に参加した人たちは、あるいは英国の統治が全うされたことを祝い、あるいは自治が認められなかったことを悔やんでいる。日本人の感覚でいえば、”よく分からない”、という感情が一番に来るのではないか。なぜ、独立運動にそこまで力が入るのか。単一民族による統治が長く続いた我々にとっては、北海道や九州がいきなり独立を宣言するような、そんな”有りえない”ことのように思える。
”有りえない”と思える行動をとったスコットランドの人たちの心情に少しでも寄り添うには、どうすればいいか。僭越ながら、少しでも理解しようとするならば、その歴史を探らねばならないだろう。しかしながら、メディアの報道をみてみたが、1970年代から石油で潤い、1999年にはスコットランド議会が設立したという、近現代の歴史にしか触れていない。そもそも、”スコットランド”と”イングランド”が如何にして成立し、対立し、連合王国になったのかという過程に触れていない。
また、文芸雑技団では以前”アイルランドの涙”という記事が投稿された。興味のある人は併せて読んでもらいたい。では、始めるとしようか。どこまで歴史を遡ればよいのか、考えてみたが数百年の歴史では足りない。どうか、2000年遡って、ローマ時代から紐解くことを許していただき、あわよくばお付き合い頂きたい。同じく島国である日本とは異なり、彼らの歴史は異民族の侵入にあふれている。あるいはイングランドの目線から語られることの多い、ブリテン島の歴史を、北方スコットランドから語りたい。
紀元前55年、ユリウス・カエサルがガリア一帯を席巻したとき、ブリテン島にも上陸している。ガリア戦記によれば、そこには野草で身体を青く染め、狩猟採集を行うケルト系ブリトン人の姿があった。異様な姿である。ローマはことのとき初めてブリテン島に上陸したが、長居はしなかった。
そして、100年後の紀元43年、ローマ帝国第四代皇帝のクラウディウス(ネロの父親)がブリテン島に遠征を行うと、南東部に属州ブリタンニアを設置した。後年ロンドンと呼ばれるようになる、ロンディニウムが発展したのもこの頃だ。そして、五賢帝の時代になると、ハドリアヌスが、またアントニウス・ピウスがそれぞれ遠征を行い、戦線を北へ北へと押し上げた。アントニウスの長城は、わずか20年で瓦解するが、100kmを超えるハドリアヌスの長城は、ローマ帝国の北限としてよく機能し、ローマはブリタンニアに4つの属州を設置することになる。
この頃、スコットランド一体はカレドニア(カレドゥニ族が語源との説がある)と呼ばれ、ピクト人が支配していた。ケルト系民族で、ブリトン人と同族という説も、ケルト以前の原住民という説もあるが、よく分からない。古くからブリテン島の北方に暮らしていたことは間違いない。
ひとつ言えることは彼らはローマの前に膝を屈しなかったということ。ローマ帝国はカレドニア全域を制覇することは終になかった。そして、西暦407年、ローマ帝国は崩壊を初め、ブリタンニア属州を維持することが出来なくなった。ハドリアヌスの長城は越えられ、北からはピクト人が、西のアイルランドからはケルト系のスコット人が来襲した。このままケルト系民族が再びブリテン島を支配するかと思ったが、そうはいかず、ローマを崩壊に導いたゲルマニア地方の部族たちがブリテン島にもやってきた。
ブリテン島になだれこんだのはアングル族、サクソン族、ジュート族。ブリテン島はローマの時代から、彼らの築いた7王国の時代となった。イングランドという言葉が生まれたのはこの頃だ。アングルの土地という意味から、イングランドが生まれた。
一方、キリスト教の布教もきっかけとなり、ピクト人とスコット人は数百年の時間をかけて融和し、810年のケネス1世による統一アルバ王国が成立した。やがてここに、ゲール語を話すケルト系スコットランドと、英語を話すアングロ=サクソン系イングランドという、全く人種の異なる二つの王国が、南北で対峙することになる。
国境は相変わらずハドリアヌスの長城一帯。しかし、スコットランドがイングランドの前に膝を屈することはなかった。、7王国はいずれも、終にローマ帝国と同様に、ハドリアヌスの壁を超えることが出来なかった。また、アングロ=サクソンの時代も、間もなく終わった。イングランドではヴァイキングの侵入が相次いだ。デーン人がが現れて国土の多くを接収すると、最終的には1066年ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドを制圧し、イングランド王ウィリアム1世として即位した。
スコットランド王国も決して平和であったわけではない。タニストリーと呼ばれる独特の相続制度があり、王が成年に達すると、次期王が合議で決められた。政権の空白期間を無くすという大きなメリットはあったが、新王を支持する一派が現王を暗殺するという事例が相次いだ。だいたい次期王は親族が任命されるので、肉親同士の血で血を争う抗争に至る。
肉親同士の殺し合いのすさまじさに着目したのは、劇作家のシェイクスピアで、実在のスコットランド王マクベスを題材に四大悲劇のひとつ”マクベス”を書き上げた。脚色が多いので実態と齟齬はあるが、史実が血なまぐさいことに代わりは無い。1040年、マクベス王は、兄のダンカン1世を殺害して王位に登り、反対者を次々に殺戮した。それでも17年の統治を得たのは、能力が優れていたのだろう。しかし、甥っ子にあたるダンカン1世の子、マルコム3世によって戦死の憂き目にあった。
そのマルコム3世は、30年以上の長期にわたり政権を担い、繰り返しウィリアム1世のイングランドを攻めた。服従を強いられても、4度敗戦しても懲りずに南進を進めて、終に5度目の戦役で没した。しかし、スコットランドとイングランドの関係は、敵同士というだけでは片付かない。マルカム3世の6男にあたるデイビッド1世は、イングランドでノルマン式の教育を受け、1124年に即位した後もノルマン人の友を招いて改革を進めていた。
イングランドに服従する羽目になったり、逆に友好関係を築いたり、目まぐるしく関係を替えながら150年ほど経過した。フランスとスコットランドが同盟して、しばしばイングランドを挟撃している。例えるなら、上杉謙信と北条氏政が組んで武田信玄に対抗したようなイメージ。スケールはもっと大きいし長続きしたけれども。
ここでどうしても触れておきたい人がいる。ノルウェーの乙女、と呼ばれたスコットランド女王マーガレットだ。スコットランド王アレグザンダー3世が急死すると、孫娘のマーガレットが即位することになった。男児がおらず、彼の娘とノルウェー王エイリーク2世の間の一人娘、マーガレット以外に直系の血縁者がいなかったためだ。わずか7歳のマーガレットを擁することになったスコットランドに対し、イングランドのエドワード1世ははここぞとばかりに僅か4歳の息子を婿に送り込んだ。どうしてだと思う?スコットランドの王位継承権を奪おうとしたためだ。幼い子供達は政治の道具にされた。さらに、マーガレットはノルウェーからスコットランドへの船旅で体調を崩し、到着直後に急死した。
国境を隣接している国同士というものは、絶えず緊張を強いられる。このとき、イングランドが王位継承に口をさしはさみ、息のかかったジョン・ベイリャルという男を傀儡の王として立てた。しかし、このジョン・ベイリャルがイングランドに反発するわ、ロバート1世は寡兵でイングランドを破るわ、散々だった。一時占領することはあっても、スコットランドをイングランドが長期にわたって支配することはなかった。
イングランドとの関係にも重要になるので、スチュアート朝について触れておこう。スコットランド王デイヴィッド2世には子がなかったので、スコットランド執事長のウォルター・ステュアートの息子、ロバート2世が即位した。ウォルターがロバート1世の娘を妻にもっていたためで、つまりデイヴィッド2世からみると、ロバート2世は甥にあたる。こうして、1371年に、”執事”を家名にもつステュアートが始まった。
フランスとスコットランドが同盟し、イングランドと戦うという関係はひとつの典型は長く続いたが、百年戦争・ばら戦争で疲弊したイングランドとしてはスコットランドとの融和を目指していたらしく、ジェームズ4世の代で1502年に平和条約を結び、イングランドのヘンリー7世の娘を娶った。が、英仏の戦線が激化すると、やはりフランスに就き、ジェームズ4世は戦死した。なんだか浅井長政を彷彿とさせる。
息子のジェームズ5世も若死にしたので、生後6日のメアリー1世が即位した。一時はイングランドのエドワード6世と婚約したが、戦争状態に陥ったので、フランスに逃れ、フランソワ2世と結婚した。このメアリー1世が、イングランドの王位継承にも強く首を突っ込むことになるのだが、なぜそんな事態になったのか少し歴史の針を巻き戻す。
世の中にははた迷惑を地でいく人がいるが、それが王様だと国中に激震が走る。エドワード6世の父である、イングランド王ヘンリー8世がそういう王様だった。6人の妻を得た、これだけならまだ許せる気がするが基本的に横暴である。離婚を許さないローマ教皇と喧嘩して、イングランド国教会を作る。批判したトマス=モアを処刑する。離婚した妻をロンドン塔で幽閉したり刑死したりする…などなど、付き合う家臣は悲惨という他ない。
この結果、当然ながら跡目争いが起きた。エドワード6世が早逝すると、長姉のメアリー1世が即位した(同じ名前だがスコットランド女王メアリー1世とは別人、ただし血縁関係はあるので二重にややこしい)が、子供を残さずに死んだ。そして、エリザベス1世が即位したのだが、ここで父親であるヘンリー8世の悪行が活きてくる。母であるアン・ブーリンは死刑になったため、エリザベスは庶子扱いだった。直系の子孫が他にいないので即位したが、庶子から王位を継承したわけである。
これに目を付けたのが、フランスに逃れたスコットランド女王のメアリー1世(というより、たぶん夫のフランス王家の方)。庶子が継ぐくらいなら、ヘンリー7世の血を正当に継ぐ私が即位すべき、と主張。もっともな主張ではある。ヘンリー8世が妻を刑死するなんてことをしなければ、この問題自体が起きなかった。
そして、フランソワ2世が早逝した結果、スコットランドに戻ったメアリー1世だが、二人の女王の間で牽制と戦争が続いた。お互いがお互いの結婚相手に口を挟み、内乱を起こそうと画策しあう。メアリーが庶子が王位を継ぐことの不当を宣伝すると、エリザベスはスコットランド貴族をたきつけて内乱を起こさせる。そこにカトリックとプロテスタントの対立が深まってきて、結構混乱は続いた。
結局、メアリー1世は傍系の貴族と結婚して、子供をなすが、間もなく家庭トラブルから国が揺れる。関係が冷えた夫は暗殺され、愛人だったボスウェル伯がメアリー1世と結婚した。が、野心みえみえなボスウェル伯に反対する貴族たちによりスコットランドで反乱が相次いで、メアリー1世はイングランドに逃れた。当時メアリー1世は25歳、エリザベス1世が33歳。同世代で同性で女王同士、個人としてはお互い嫌いじゃなかったかもしれない。意外とメアリー1世は自由にふるまうことをゆるされた。が、しばしばイングランドの王位継承を口にしたので、1587年44歳で死刑を宣告された。
一方、スコットランドでは何が起きたかというと、メアリー1世の産んだジェームズ6世が即位した。健康かつ順調に統治していくと、思わぬチャンスが転がり込んできた。エリザベス1世が崩御した1603年、イングランド王に即位したのだ(スコットランド王ジェームズ6世、イングランド・アイルランド王ジェームズ1世)。エリザベス1世に子は無く、他に直系の親族がいなかったためである。メアリー1世の念願がかなったというべきか、母を殺した英国王位を継ぐ悲劇というべきか。しかし、本人はイングランド暮らしを気に入ったらしく、即位後は入りびたりだった。
しかし、ひとつ言えることは、スコットランドの王が、イングランド王に就いたのである。その逆ではない。スコットランドとイングランドが同じ王様を抱える同君連合になった後、ジェームズ6世の曾孫にあたるアン女王の治世で、グレートブリテン王国が成立した。これはカトリックを信仰する王様が即位して内乱が起きる可能性を削除するためだったが、結果として同じ国となった。13世紀からイングランドに服従する羽目になったウェールズ、今なお独立・内乱の火が絶えないアイルランド、対立を続けてきたスコットランドとイングランド。全く異なる4国が連合王国として併存し、今の英国がある。
近年、スコットランドが強く独立を言い始めたのは1970年代から油田によって経済が潤ってからかもしれないが、そもそもの背景として、もともと違う国同士なのだ。この点を理解せずに、日本の地方自治とスコットランドの独立住民投票を同列に論じる向きもあるが、私は別次元の話だと思う。その国には、その国独自の歴史や文脈がある。少しずつでもいいから、知って行きたいと思う。今後も独立の話は已むことはない。ジェームズ6世が即位してからまだたった400年あまりしか過ぎていないのだから。その歴史の重みを汲みつつ、彼らの重ねる歴史を同時代に住む人間として見守っていきたいと思う。もう流血沙汰にはならないで欲しい、と願いながら。
この稿を書いていて、ついぞイギリスという言葉は使わなかった。イギリスの正式名称は”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”である。4国のうち1国にすぎないイングランドを指すイギリスという言葉を使うのは、あまりに敬意がないように思えたためだ。英語だとU.K.で済むが日本語表記をすることが難しい。”連合王国”といってもピンとこない。Britishにはアイルランドが含まれない。
イギリス由来ではあるが、”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”の略称として外務省は英国と表記しているので、英語ではU.K,、日本語ではイギリスではなく”グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”の略称として英国という表現を使おうと思う。
以上