今回のテーマは、もともと張飛のヴィジュアル(虎髭・ひげもじゃで目が怒っている)がいつから固定化したのか、にしようと思っていたのですが、承前として三国志(正史)における張飛の描かれ方をまずおさえます。

早速参りましょう。まずは蜀書の先主伝や張飛伝にみえる張飛の描かれ方について。(最後に張飛伝の訳と原文を載せています)

 蜀書を紐解いてみると、張飛は、兄貴分と慕う関羽とともに、劉備の若い頃からしたがっていたようです。その頃から転戦を重ねていましたが、大失敗もしでかしています。劉備不在時に下邳を任されたときのこと。張飛と対立していた曹豹がなんと敵方の呂布に寝返ったことで、下邳は陥落。劉備の妻子は捕えられてしまいます。なんとか呂布と和睦した劉備陣営ですが、この失敗は大きかったのでしょう。このときのことを反省したのか、以降の張飛は活躍が目立ちます。
 曹操とともに呂布を破った際には功績があったとして爵位を授けられました。曹操の参謀たちからは、関羽とともに”万人の敵”であると武勇が評判となり、警戒されているほど。群雄割拠の三国志世界でも、その武力はかなり上位にランクインしていたようです。それを推察できる逸話が、南郡当陽の長坂での有名な話。
 今度は曹操から追撃されて大軍に追われていた時、僅か数十騎で劉備の背後を守り、さらに橋のたもとで敵兵を恫喝し、「決死の覚悟でかかってこい」と威圧したところ近づくものはありませんでした。その結果悠々と逃げることが出来、益州に入ってからも功績を重ねて、破竹の進撃を進めて厳顔を生け捕りにし、張郃を撃退するなど結果を残して、順調に出世しました。が、最期は部下に寝首をかかれて横死しました。


 演義のイメージではかなり粗暴ですが、実際はそうでもなさそうです。たしかに若い頃の下邳陥落事件はヒドいですし、部下に厳しくて最期に寝首をかかれたことも大概ですが、演義の督郵を鞭打ちする逸話とか本当は劉備の話ですから、劉備関羽張飛の中で、粗暴担当な描かれ方をしてしまって割を食っている気がします。
 また、ついでに言うと桃園の誓いはフィクションなので、三人義兄弟というのも創作ですね。張飛は関羽を兄貴分と慕っていたようですし、張飛の長女は劉禅に嫁いで敬哀皇后になっているので、兄弟に近い存在ではあったようですが。
 日本では正直人気がない張飛ですが、中国では”登場人物のなかでも民衆にはもっとも人気があったようです(中国の五大小説上三国志演義・西遊記・井波律子・2008年岩波文庫)”。元代の三国志平話でも結構見せ場が多いようで、神のごとき関羽(というより神そのもの)よりも身近に感じたのではないでしょうか。

 今回オチも何もまったくない記事になってしまいましたが、そんな張飛のヴィジュアルがいかにして固定化していったのか、という点を次回記事で考察して、三国志を深読みしたいと思います。乞うご期待。


【蜀書巻6訳】
張飛。字は益徳。涿郡(現在の河北省保定市涿州市=北京の北の方)の人である。
若くして、関羽と劉備とつるんでいた。関羽は数歳年上だったので、張飛は兄事した。劉備が曹操に従って呂布を破ると、許都にともに帰った。曹操は張飛を中郎将に任じた。劉備は曹操から離れて袁紹、のちに劉表に従った。劉表が亡くなると曹操は荊州入りし、劉備は江南に奔走した。曹操はこれを追いかけ、一日と一夜で南郡当陽の長坂に至った。劉備は曹操が追いついたことを知ると、妻子を捨てて走り、張飛に二十騎を従えて後方を守らせた。張飛は水断橋に至ると、目を怒らせて矛を横にしてこう言った。「俺は張益徳である。来い。共に死を覚悟して臨もう」。敵はみな敢えて近づこうとする者はなく、逃れることが出来た。

劉備は江南に拠点を定め、張飛を宜都太守、征虜將軍に任じて、新亭侯に任じた。後に南郡に転任した。劉備は益州入りを果たしたが、かえって劉璋を攻めた。張飛と諸葛亮らは川をさかのぼって、定郡県で分かれた。江州に至ると、劉璋の将軍で巴郡太守の厳顔を破り、生け捕りにした。張飛は厳顔をなじって言う事には、「大軍が迫ったのになぜ降参して、戦を拒まないのか」と。厳顔が答えて言ったことには、「お前たちは無礼にも我が州を侵略した。我が州には断頭将軍はいても降将軍はいないのだ」と。張飛は怒って周りの者に連れていって首を切るように命じたが、厳顔は顔色を変えず「首を斬るなら斬れ。なぜ怒ることがある」と言った。張飛は男ぶりに感じ入って厳顔を許して賓客にした。

華陽國志に曰く、劉備が蜀に入って巴郡に至ったところ、厳顔は胸を叩いて嘆いて言った。「これは一人で山に座り虎を放って自らを衛ることだぞ」

張飛は進軍するたびに勝ち、成都で劉備と合流した。益州はすでに平定されていた。諸葛亮、法正、張飛、関羽に五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹を与え、他の者には与えるものに差があった。張飛を巴西太守にした。

曹操は張魯を破ると夏侯淵、張郃を留め置いて漢川を守らせた。張郃は諸軍を監督しながら巴西に下り、漢中に民を移そうと考えて、宕渠、蒙頭、盪石に軍を進めた。張飛と互いに防ぎ合うこと五十日あまりに及んで、張飛は精兵一万人あまりを連れて、他道から張郃を攻撃したところ、山道は狭く前後で味方と助け合うことが出来ず、張飛は張郃を破った。張郃は馬緣山を棄てて、配下十数人を連れて引き上げて、南鄭まで引き返したので巴郡は平和を取り戻した。

劉備が漢中王となると、張飛は右将軍・假節となった。章武元年(221年)、車騎將軍。司隷校尉となり、西鄉侯に封じられた。

策によると、「朕は天序を承り洪業を嗣奉して、残党を除くことで乱を靖んじたが、未だ理をあきらかにしていない。今盗賊の寇虜は害を作し、民は荼毒を被り、漢を思う士は首を延して鶴望している。朕は怛然としており、坐しても席を安めず、食べても味を甘しとせず、軍を整えて誥誓し天罰を行なおうとしている。君の忠毅は召虎に匹敵するほどで、名が知れ渡っていることから特に命じて、城壁を高めて爵位を進め、京師を司る事を兼ねさせることとしよう。大い天威を用いて、徳を以て服従するものを手なづけ、叛いて者を刑を以て伐ち、朕の意志をかなえよ。『詩経』も云っていないか、“疚ませず、棘るな。王国に来たりて極めよ。敏やかに戎功を肇して、爾に祉を錫らん”と。勉めよ!」

はじめ張飛は勇壮で猛々しく、関羽に匹敵した。魏の謀臣である程昱らは関羽と張飛を万人之敵であると称した。関羽は士卒には善くしたが士大夫には驕る態度を見せた。張飛は君子を敬愛したが部下には優しくなかった。劉備が常に戒めて言ったことには、「お前の刑罰で殺すことは行き過ぎてあるし、また鞭で叩いた男たちを左右に置くことは災いとなるぞ」と。張飛は反省しなかった。劉備が呉を征伐しようとしたとき、張飛は万人の兵を率いて、江州に向かった。出発しようとしたとき、部下の張達、范彊が張飛を殺して、孫権のもとに奔った。張飛の都督が劉備に報告へ向かうと、これを知った劉備は「ああ、張飛が死んだ」と言い、張飛を謚して桓侯とした。張飛の長男の苞は早死にして、次男の紹が嗣いで,官職について侍中・尚書僕射となった。苞の子である遵は尚書となり,諸葛瞻に従って綿竹で鄧艾と戦って死んだ。


【蜀書巻6原文】
http://ctext.org/sanguozhi/36/zh
張飛字益德,涿郡人也,少與關羽俱事先主。羽年長數歲,飛兄事之。先主從曹公破呂布,隨還許,曹公拜飛為中郎將。先主背曹公依袁紹、劉表。表卒,曹公入荊州,先主奔江南。曹公追之,一日一夜,及於當陽之長阪。先主聞曹公卒至,棄妻子走,使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」敵皆無敢近者,故遂得免。

先主旣定江南,以飛為宜都太守、征虜將軍,封新亭侯,後轉在南郡。先主入益州,還攻劉璋,飛與諸葛亮等泝流而上,分定郡縣。至江州,破璋將巴郡太守嚴顏,生獲顏。飛呵顏曰:「大軍至,何以不降,而敢拒戰?」顏荅曰:「卿等無狀,侵奪我州,我州但有斷頭將軍,無有降將軍也。」飛怒,令左右牽去斫頭,顏色不變,曰:「斫頭便斫頭,何為怒邪!」飛壯而釋之,引為賔客。 

華陽國志曰:初,先主入蜀,至巴郡,顏拊心歎曰:「此所謂獨坐窮山,放虎自衞也!」

飛所過戰克,與先主會于成都。益州旣平,賜諸葛亮、法正、飛及關羽金各五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹,其餘頒賜各有差,以飛領巴西太守。 

曹公破張魯,留夏侯淵、張郃守漢川。郃別督諸軍下巴西,欲徙其民於漢中,進軍宕渠、蒙頭、盪石,與飛相拒五十餘日。飛率精卒萬餘人,從他道邀郃軍交戰,山道迮狹,前後不得相救,飛遂破郃。郃棄馬緣山,獨與麾下十餘人從間道退,引軍還南鄭,巴土獲安。 

先主為漢中王,拜飛為右將軍、假節。章武元年,遷車騎將軍,領司隷校尉,進封西鄉侯,

策曰:「朕承天序,嗣奉洪業,除殘靖亂,未燭厥理。今寇虜作害,民被荼毒,思漢之士,延頸鶴望。朕用怛然,坐不安席,食不甘味,整軍誥誓,將行天罰。以君忠毅,侔蹤召虎,名宣遐邇,故特顯命,高墉進爵,兼司于京。其誕將天威,柔服以德,伐叛以刑,稱朕意焉。詩不云乎,『匪疚匪棘,王國來極。肇敏戎功,用錫爾祉』。可不勉歟!」 

初,飛雄壯威猛,亞於關羽,魏謀臣程昱等咸稱羽、飛萬人之敵也。羽善待卒伍而驕於士大夫,飛愛敬君子而不恤小人。先主常戒之曰:「卿刑殺旣過差,又日鞭檛健兒,而令在左右,此取禍之道也。」飛猶不悛。先主伐吳,飛當率兵萬人,自閬中會江州。臨發,其帳下將張達、范彊殺飛,持其首,順流而奔孫權。飛營都督表報先主,先主聞飛都督之有表也,曰:「噫!飛死矣。」追謚飛曰桓侯。長子苞,早夭。次子紹嗣,官至侍中尚書僕射。苞子遵為尚書,隨諸葛瞻於緜竹,與鄧艾戰,死。 


以上