登場人物
アウグスティヌス    ヒッポの司教。神学者にして哲学者(354年 - 430年)
トーノ=ハルカス      私(1985年頃~)

前回より約600年後、時空を超えた中世初期の北アフリカ、ヒッポにある教会にて。

「司教様、お早うございます」
「おや、ハルカスではありませんか。お早うございます。今朝はずいぶんと早起きですね」

「お忙しいところ朝早くからすみません。どうしても司教様に尋ねたいことがあって参りました」
「構いませんよ。教会の門は常に開かれています」

「何度か教会に足を運んで、司教様や教会の人たちの話を聞いていますが、どうも私には、神様というものがよくわからないのです。こう……なんといいますか、雲をつかむような存在で」
「なるほど、主の存在や愛について確信がもてない。こうおっしゃりたいわけですね?」

「はあ。司教様の前で申し上げるのも恐縮なのですが」
「とんでもない。私もよく神について尋ねていますよ。しかし、どれだけその名をたたえても、語りつくし、説明できるものではありません。聖書にもあるように、神は天と地を作られ、天と地に満ちています。存在するものはすべて主なしには存在しません。万物が神から、神によって、神のうちに存在するのです。しかし、その存在を実態として定義できるものではありません」

「実体がないということが、どうもしっくり来ないのです」
「ハルカス、あなたの疑念ももっともです。かくいう私も長いこと、神を形体の集積しか考えることはできなかった。形のないものは何でも存在しないものに思われたからでです」

「天も地もいかなる物体も神ではないということですか?」
「そのとおり。神はいわば内的人間の光であり、大地にも海にも大気にも天にもありません。感覚や肉体で捕まえられるものではなく、内側に依存する魂、精神としてのわたしが知るのです」

「精神ですか。これは難しい」
「わかりますよ。かくいう私も、神の愛をこころより信じ、洗礼を受けたのは30歳を過ぎてからのことでした」

「司教様ですらそうなんですか。意外です。なんというか、教会の偉い人は生まれたときから、自然と神を信じておられるものかと思っていました」
「罪なく清らかな者はいませんよ。地上に生きること一日の幼児でさえも清くはない。私も悪いことをたくさんしてきました。それでも、恐怖を感じないのは、神によって許されたためです。罪を氷のように溶かしてくださったことは神の恵みとあわれみであり、その他多くの悪事を行わなかったのも神の御業であることを知ったからです。
他に尋ねてくる方もいませんし、私の半生を語らせていただきましょう。いかにして、私が神を確信するようになったか。かまいませんか?」

「はい、むしろこちらからお願いしたいです」
「子供のころの話から始めましょう。私は子供のころから遊んでばかりいました。両親や教師の言うことも聞かず、それは勉強≠神の道と考えて、善い道を選んだからではなく、ただ遊びたいからでした。競技と虚偽の物語り、見世物を楽しみに生きていました」

「その頃は信仰をお持ちではなかったのですね」
「わたしたちに約束された永遠の生命のことは聞いていましたたが、洗礼も受けませんでした。悪い子供でした。数えきれないウソをつき、家の倉庫や食卓から盗みをしたことさえありました。両親をあざむいて親しい人たちにさえ嫌われていましたよ」

「ご両親は、神を信じておられたのですか」
「父は死ぬ間際に洗礼を受けましたが、それまでは母だけが神の僕でした。母は、父よりも主にわたしの父となることを切望していたほどです」

「お母様も強制はされなかったのですね」
「強制は、たとえそのなすことが善であっても、意思に反してなすものは善をなすのではなく、またわたしに強制したひとたちもけっして善をなしたのではないのですよ」

「先ほど、虚偽の物語とおっしゃいましたが、これは演劇のことですよね。そこが解せません。プラトンも創作を毛嫌いしていましたが、それに感動することもありましたよね」
「たしかにそれが架空のもので芝居にすぎないことがわかっていても、それに涙をしぼられると、ますますその役者の演技にほれ込み、ますます強く引き寄せられた。しかし、それは神から遠ざかっていたことを意味します」

「作品の多くは、ギリシャやローマの神々をテーマにしていますよね。それは神ではないのですか」
「雷を轟かせながら姦通するゼウスは、神ではありません。どう考えても、この二つを同時に行うことはできないでしょう。にせの雷を体裁のよい仲立ちにして本当の姦通のまねをする口実をうるためであったと考えるのが自然ではありませんか」

「肉欲にまみれている神は、この教会で語られている神とは違うようです。しかし、肉欲も自然現象ではありませんか」
「たしかに自然なことです。私もそれを知らないとはいえません。16歳で家庭の事情から、一時的に学問をやめて両親のもとで暮らしていましたが、汚らわしい肉の情欲に目がくらんでいました」

「つまり、その、女性におぼれていたと?」
「要はそういうことです。愛の明るい輝きと肉欲の暗い曇りとがみわけることができませんでした。神は、神に忠実な母を通じて繰り返しわたしの耳に忠言しましたが、その言葉は一言もわたしの心中に入っていなかったのです」

「それは司教様だけに限ったことではありませんよね。それくらいの年頃なら」
「ええ、醜行が少ないことを、かえって仲間内で恥じていました。それだけではありません。さらに仲間内で盗み、ブドウ畑の近くになっている梨の実をどっさり持って帰ったりしていまsちあ。わたしたちが食べるためではなく、豚に投げてやるためでした。禁じられていることをするのがかえって面白かったのです」

「仲間との共謀が楽しかったんですよね」
「今となってはおろかなことをしたと思いますが、そのとおり。転機となったのは19歳のころ、弁論術を学んでいるころでした。キケロの書物を読み、哲学がわたしの情念を一遍しました」

「古代ギリシャはどうです?アリストテレスとか?」
「優れた哲学者も多くいます。しかし、アリストテレスは例えば範疇論を読んで、はじめこれを信じましたが、害悪でしかないですね。この世のものは実態・量・質などの10のカテゴリーに包括されるという、もっともらしい説明ですが、何の役にも立ちませんでした」

「なるほど。しかし、司教様のおっしゃる神は現れていましたか」
「いえ、哲学を学んで唯一物足りなかったことは、キリストの御名が見当たらなかったことです。そこで聖書を読んでみました」

「聖書ですか、私もチャレンジしてみましたが、難しいです」
「いや、私もすべて理解したとは到底いえませんよ。まして当時は、いまのように神秘におおわれた奥深いものに思えなかった。傲慢なわたしは、ぶっちゃけ単調なのにがっかりしました」

「がっかりですか」
「そうです。そこでキリスト教の道には進まず、当時流行っていたマニ教のとりこになりました。それだけではなく、多くの人々をこの邪教に誘い、さらに占星術にものめりこみました。母は激しく泣いていましたよ」

「それはどれくらいの期間ですか」
「9年くらいでうすかね。光に背を向け、わたしの目を光によって照らされるもののほうに向けていました。真理がどこから由来するか知らなかったのです」

「それはまさにプラトンのイデア論ですね。哲学はマニ教と比べてどうでした?」
「哲学者たちの多くの書物を読んでいたので、マニ教の冗長な作り話より、たしからしいと思いました。当時人気だった司教ファウストゥスに失望しましてね。哲学を学んでいたこともあいまって目が覚めましたよ」

「そこからはまっすぐ信仰の道に進んだのですか」
「いえ、まずミラノの司教アンブロシウスに心動かされましたが、まだあなたのように神を信じることが出来なった。実在しない神が、霊的存在ということが腹落ちしませんでした」

「まだ洗礼は受けていなかったんですね」
「そうですね。何か確実なものが輝き出て、わたしの進むべき道を示すまで両親がわたしに勧めたカトリック教会の洗礼志願者のままでいようと決心したのです」

「結婚はされていたのですか」
「これまで同棲していた女を離され、少女と婚約しました。別の女を引き入れたりしていました。前の女性との間に子供もいて、寂しかったこともあり、肉欲にしばられていたんです。使徒パウロの著作を読み次第にはらわたにしみ込んでいましたが、彼は独身をすすめていたが結婚を禁じてもいなかったので肉欲におぼれ続けました」

「その頃は、何が人生の目標でしたか」
「名誉と利得と結婚とに大いにあこがれていました。30歳にもなりながら、あいかわらず同じ泥沼の中にはまりこんで、気を散らすはかない現生の享楽を求めてこういったのである。わたしは明日こそ真理をみつけるであろう。肉欲の絆と世俗の仕事への隷属と、真理への道の間で、揺れていました」

「善悪でゆれていたのですね」
「いえいえ、そのような二元論はよくありません。、本性を異なる二つの善悪の精神があると主張する人々がいますが、それは違います。存在も意思もすべてあるものは善です。ただ、意思がまとまるまで争うだけなのです」

「つまり、信仰にいたるまではまだ時間がかかったのですね」
「そのとおり。証明できないものを信ぜよと命じる際にただ理性のみをもって真理を見出すにはあまりにも弱く、聖書の権威を必要とします。他の何よりもまず、聖書の由来がなぜ神によってもたらされたかと疑うものの言葉に耳をかさず、信じるということが大切です。そこに気づくまで時間がかかりました」

「いつごろの話ですか」
「信仰の弱いものをうけいれよ、という言葉があります。その言葉にも励まされて、31歳のときに弁論術教師をやめて洗礼をうけました」

「女性関係も整理されたのですね」
「女たちは、永久にあれもこれもできなくなるのか、と卑猥で汚らわしい言葉を投げかけましたが、洗礼をうけました」

「なぜ、そこまで信仰をもつ必要があるのでしょうか」
「幸福な生活のためです。人は幸せを求めて生きますが、それは人間の記憶の奥の院の奥には、幸福な生活が脳裏に刻み込まれています。一方で、私はどのような喜びを喜ぼうとも、自分を幸福であると考えるようなことはけっしてありません。肉欲、五感の誘惑、好奇の誘惑、こういった喜びの模造とはことなり、神の愛が喜びであるような人々にのみ与えられる喜びが存在するのです。」

「つまり、神への信仰は幸せのためにあるのですね。信仰を持たないもの、異教徒に対しても、それは幸福な生活を導くために説法をするのですね」
「そのとおり。真理の根源である真理そのものによって喜びをえるときはじめて幸福となるのです。それを伝えるために教会の門は開いているのです」

「なるほど、私はまだ神の存在を確信するにいたりませんが、キリスト教の愛の深さを知りました。そして、自分の精神と真理に向き合う過程で神に見えるかもしれないと考えるに至りました。そして、いつの日か確信が持てたときにもう一度教会の門をたたきます。それでもいいんですよね」
「たとえ話をしましょう。十枚の銀貨をもつ女性が、一枚のなくした銀貨をみつけたとき、それは十枚の銀貨をもつこと以上の喜びになりますね。神は、悔い改める一人の罪人のためには、悔い改める必要のない99人にの正しいものにまさって喜ぶのです」


ハルカス、教会を出る。ギリシャ哲学とキリスト教を知って、いよいよ西洋哲学と真正面から向き合うため、約1,200年後のフランスに飛ぶことを決意。

以上

次回予告: デカルト「方法序説」~西洋哲学11番勝負 その4~

参考文献
告白(上) 聖アウグスティヌス著 服部英次郎訳 岩波文庫 1976年初版 2007年発行34刷
告白(下) 聖アウグスティヌス著 服部英次郎訳 岩波文庫 1976年初版 1992年発行17刷