登場人物
ルネ=デカルト    フランス生まれの哲学者。近代哲学の父(1596年 - 1650年)
ハルカ=トゥーノ     私(1985年頃~)

前回より約1300年後、時空を超えた17世紀のネーデルラント・ライデン大学にて。

「デカルトさん、こんにちは」
「誰かと思えばトゥーノか。ご大層に椅子にふんぞり返って、いったい何を読んでいるんだね?」

「アウグスティヌスの著作を読んでいました。やはり古典を学びなおさねばな、と」
「私の経験でいえば、だ。人文学の本なんぞは捨ててしまって、旅をせよ、若者よ。書斎でめぐらす空疎な思弁に時間を費やすのは無駄だよ。無駄無駄」

「空疎とは聞き捨てなりませんね。たしかデカルトさんも人文学を修めておられていたのでは?」
「ああ、教えられた学問には飽き足らず、占星術や錬金術、手相学まで読破したさ。しかし、卒業するや、多くの疑いと謝りに悩まされていたものだよ。卒業してすぐに人文学をまったく放棄してしまって、世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心したよ」

「何を根拠にそうおっしゃいます。偉大な人物による著作は、価値あることでしょう。では大学の意味などないではないですか」
。「たとえば哲学が優れた精神の持ち主たちが培ってきたことは認める。しかしながら、その中身については論争の的にならないものはなく、真理はひとつしかないはずなのに、学者たちによって意見の違いがいくつもある。その点、数学はすばらしい。数学は好きだね。論拠の確実性と明証性において基礎がゆるぎない」

「では、デカルトさんは数学的なやり方で真理を探求しているんですか。哲学によってではなく。どうやって真理に向き合っているのか手ほどきいただけませんか」
「おいおい、構わないけれども、もっとすぐれた意見を自らは探究しないで他人の意見に従うことで満足してしまっているのは残念なやつのすることだよ?全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、出来うる限り真理の認識に前進していくことが本筋さ。」

「手厳しいですね。では、お互いディスカッションしながら話を進めましょう。私も私の言葉で真理に迫ってみますので。そもそも、すべての人間が真理に近づけるものですかね。言っちゃあ悪いですが、教育水準はこの時代むらが大きいでしょう?」
「この時代?いや、それこそ旅に出たまえという理由の一端だ。良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているもだよ。正しく判断し、真偽を区別する能力は生まれつきすべての人に平等に備わっている。私と例えば、まったく反対の意見をもつすべての人がそれゆえに野蛮で未開というわけではなく、私たちと同じかそれ以上に理性を働かせていることもある」

「意見がわかれるのは、理性のあるなし、あるいは多い少ないではなく、異なる道筋で思考しているということですかね」
「そうそう。そのとおり。良い精神を持っているだけでは十分ではなく、大切なのはそれをよく用いることだ」

「どうやって正しく用いるかということですね」
「正しさにこだわる必要などないさ。自分が見て知って間違えて反省して、そうやって真偽を見極めるんだ。君のようなタイプは才知とか技巧に頼りがちだが、もっともっと本質的なところからゆっくり迫らないと」

「では、わたしが今時までに受け入れて信じてきた、古い基礎の上に築いた見解すべてにたいして、一度きっぱりと取り除いてみましょうか」
「それはいい試みだ」

「ええ、この思考を建築にたとえますと、何人もの建築家が好き勝手に作ったり、昔の壁を利用するより、ひとりの建築家によって理路整然と作られた町のじょうが規則正しいく、完成度が高いですからね。ひとりで緻密に思考を築き上げるのは全然ありだと思います」
「基本的に合意するが、あまり調子に乗らないように。一個人が国家や学問の全体系をそのお根底からすべて変えたり。正しく建て直すたえめに転覆したりして改造しようとすることは理に反している」

「過激すぎる考え方に陥りがちですからね。そこは気をつけます。道徳は守らないと」
「ああ、私もこれだけは気をつけようと思っている。私の国の法律と慣習に従うこと。神の恵みを受けて子供のころから教えられた信仰をしっかりと守り続け、良識のある、穏健な意見に従って自分を導くこと。世界の秩序より自分の欲望を変えるように努めること」

「穏健ということが大事ですね。とかく人は過激に走りやすい。真理を見出すにあたって、何をよりどころとするか、ですね」
「ふむ。では、こうしよう。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄しよう。その後で、私の信念の中にまったく疑いえない何かが残るかどうかを見極めよう」

「では、まず私のこれまでの考えは駄目ですね。絶対的に正しいか確信が持てません」
「そうだ。大学や他の学問・研究機関も、絶対に信頼できるとはいえない。さらに幾何学においても、単純なことでさえも推論を間違えて誤謬推理をおかすひとがいるのだから、以前に論証とみなしていた推理をすべて捨て去ろう」

「過去の哲学や本の類も真理かどうか、確定していません」
「ふむ、そもそも感覚は?これはだまされやすい。感覚から感じられるものもNoだ。感覚的観念は人を誤しうる。
たとえば、あれだけ大きな星も私たちには小さく見える」

「人から聞いた話。外部から発せられた何かも、何らかの感覚器官を通じて受信するわけで、全部疑わしいですね」
「とはいえ、たとえば夢。これは頭の中でだけで完結しているが、夢が真理とはとうてい思えん」

「なかなか難しいですね。他に何が残りますかね」
「ふむ、何もないか……いや、思考は?すべてを誤りと考えようとする間も、そう考えているこのわたしは存在する」

「たしかに、それはいえますね」
われ思う、ゆえにわれあり。この真理は堅実で確実だな。人間の動脈、骨、筋肉、神経、内臓を完璧に精緻に作り上げた自動人形(オートマータ)があったとしよう。それと人間を見分けることは出来ないだろうか」

「話の流れからすると、思考ですね。考えること」
「そう、思考を組み立て言葉にすること。認識すること。これが自動人間や動物と人間を隔てる壁だ」

「正しい気がします。身体も場所も世界もないとしても、自分はいますね。真理性を疑う自分がいることは存在することが帰結します。そうなると、思考がなくなると、存在がなくなりますね」
「だから、自分の拠り所は身体ではなく魂なのではないか」

「疑っている自分がそこにいますね。ですが、われわれが何を拠り所にして疑うのでしょうか。より確かなもの、完全である何かをどこから学んだのであろうか」
「完全なある本性から学んだに違いない。幾何学でいえば、三角形の証明には三角形の存在が含まれない。そんな架空な証明よりもっと確かな、観念がその中に含まれる完全な存在」

「それが神である、とおっしゃるわけですね。その存在がどこにあるか、われわれにイメージできなくとも」
「イメージするということは物質的事物に特有な思考法だよ。神は、感覚のなかにはけっしてない。思考と論理の果てにこそ存在すると、私は考える」

「では、デカルトさん、だいぶ時間もお取りしたのでひとつ質問させてください。あなたのお仕事は?これからなすべき仕事は何だとお考えですか?」
「そうだね。自然科学の研究もそうだが、こういった真理の探求についても書いてみようと思う。私は私がこれまでの真理の探究においてすでに成しとげたと思う進歩に非常な満足感をおぼえずにはいられないし、未来に対しても大きな希望を抱かずにはいられない」

「真理の探求、それを広い定義で規定すれば哲学ですかね」
「呼び方は自由だ。人間の職業、純粋に人間としてなせる職業のうちに、たしかに優れた重要なものがあるとしれば、それこそわたしが選んだ仕事だと信じたい。ふむ、考えが整理できたな、お互いに。有意義な時間だった
。では、これで失礼するよ」

デカルト、去る。トゥーノ、引き続きネーデルランドに留まり、数十年後のハーグに飛ぶ。

次回予告: スピノザ「エチカ」~西洋哲学11番勝負 その5~

参考文献
方法序説 デカルト著 谷川多佳子訳 岩波文庫 1997年初版 2005年発行16刷