マダムの部屋

愛国女性のつどい花時計代表でもあるマダムが思った事など書いています。

2012年05月

韓国人は自国の文化財を大切にしてきたのか?

日韓併合から100年の節目だということで一昨年、菅直人首相(当時)が談話を発表したことはまだ記憶に新しいと思います。談話を出すというニュースを聞いた時から嫌な予感がしていたのですが、案の定、その談話の中に「朝鮮王朝儀軌」の韓国への返還、という、まったく筋違いの内容が入っていました。日本と韓国との間の文化財の取り扱いについては既に条約で決まっています。日韓併合100年だからといって、今更韓国に返す筋合いはありません。おそらく、談話の内容が何もないとマズイと思って菅直人がこれを盛り込んだのでしょう。

 その談話によって野田首相が李明博大統領に「朝鮮王朝儀軌」を返す羽目になりました。これだけでも私たち国民にとってはしらけた気分にさせられる出来事ですが、この軽率な行為がまた韓国人を図に乗せる結果となりました。「朝鮮王朝儀軌」以外の文化財も返せ、と言い出したのです。今年の夏には「日本に奪われた」文化財返還運動のための組織が結成されるそうです

 

日本の政治家の愚かさにもあきれますが、韓国人の自国の歴史に対する無知にも改めて驚かされます。彼らが「奪われた」と主張している文化財とは、実は日本人が「守った」ものなのです。

 

日本の美術館で時々「高麗青磁」「李朝の白磁」「李朝のやきもの」などといったテーマの展示が行われます。これを見た人たちは韓国人はさぞ陶磁器に関心が深いのだろう、陶磁器が日常生活に欠かせないものなのだろう、と思うでしょう。しかし韓国のレストランで出てくるのはステンレス製の味も素っ気もない器です。家庭で陶器を使っているのは富裕層だけで、庶民はやはりステンレス製の器で食べています。箸もスプーンもステンレス。朝鮮の歴史は戦乱の歴史です。戦乱のとき、庶民は箸や茶碗を持って逃げなければならないので、割れないステンレスが普及したのだと以前、聞いたことがあります。しかし今は豊かになったのですし、戦争もないのだから器に関心を持つ人も増えたのではないかと思うのですが、街で陶器を見かけることはほとんどありません。

 

大正5年(1916年)、朝鮮の骨董屋の片隅に置かれていた鉄砂の壺を買ったのは柳宗悦でした。のちに民芸運動を起こす柳宗悦は朝鮮の陶磁器に魅せられ、さまざまな陶磁器や素焼きの土器を買いもとめています。朝鮮総督府農商工部山林課の職員として朝鮮で暮らしていた浅川巧(たくみ)もまた朝鮮の陶磁器に惹かれていました。彼は仕事の合間に道具屋を回って普段使いの器まで次々と買い集めています。柳や浅川が朝鮮の陶磁器や民芸品について書きのこした文章を今、読むと、ちょっと不思議なぐらい彼らが「朝鮮の美」に魅了されていたことが分かります。柳は「朝鮮の美」を愛するあまり、朝鮮総督府の政策を批判し、物議をかもしたりしています。

 韓国にツアー旅行に行くと、観光コースの中に必ず入っている慶州の仏国寺というところがあります。慶州は新羅(しらぎ)の首都だった古都です。ここに洞窟の中に彫られた石仏があるのですが、それは1911年、偶然、郵便局員によって発見されるまで永く忘れ去られていました。朝鮮王朝は儒教を国教としたので仏教は迫害され、寺院は山奥に追いやられたまま人々の記憶から消えていたのです。郵便局員が発見した仏像を朝鮮総督府はていねいに修復しています。

 

 芸術品を長い年月の間、色や風合いを落とさずに保存するためには設備や技術も必要ですが、何よりも作品に対する愛情が必要です。しかし朝鮮時代、国教だった儒教はモノを作る人間を評価しませんでした。食べ物を作ったり生活に使う道具を作るのは低い階層の人間のやることでした。手先の、細かな仕事が好きで、得意な日本人とは対象的です。韓国人が今でも陶磁器に関心がないのは朝鮮時代の名残りだと思います。

 私たちの先人は朝鮮に埋もれていた美を発掘して、努力して普及させたのです。日本に文化財を返せ、と要求している韓国人は、自分たちが自国の文化をいかに粗末にしてきたか、を知るべきです。彼らが考えているのは「文化財というのは金になる」ということだけです。文化とは何か、が分からない韓国人が文化財返還運動なんて、滑稽としか言いようがありません。

 

 

 

日米開戦は30年前から決まっていた!?

 大東亜戦争敗戦後、日本人はそのショックからなかなか立ち直れず、なぜ負けてしまったのか、という自問自答を繰り返して来ました。日清戦争以来、連戦連勝だったので初めての敗戦がよほどショックだったのだと思います。しかし、敗戦直後の日本人の書いたものなどを読むと、日本が間違っていたから負けたのだと考えていた人はいなかったようです。正義の戦いであったことは確かだけれどもアメリカとの国力の差で負けただけだ、と捉えていたようです。それがGHQ(連合国軍総司令部)の洗脳によって日本は道徳的に劣っていたから負けた、間違っていたから負けたのだ、と考えるようになり、では何が間違っていたのか、という発想になり、犯人捜しを始めるようになりました。陸軍が悪かったんだ、いや海軍が悪かったんだ、いや関東軍が悪かったんだ、いや東條英機が悪かった、という議論を延々と60年以上も繰り返しているのです。

 しかし戦争というものは常に相手がいます。こちらが戦争を回避しようとしても相手が何が何でもやろうとすれば戦わざるを得ません。相手の国はその時、どういう状態にあったか、世界情勢はどうだったのかという視点が必要です。そういう意味でとても新鮮な視点を提供してくれる本があります。去年、出版された『日米衝突の根源 1858-1908』(草思社・3500円)です。著者は渡辺惣樹(そうき)さんです。

   P3190457

 タイトルの副題についている1858-1908という年号は何を表しているのでしょうか? 1858年は日米修好通商条約締結の年です。ペリー提督が黒船で浦賀に到着したのが1852年で、アメリカの圧力によって開国した日本との間に結ばれたのが日米修好通商条約ですから日本とアメリカが本格的に付きあい始めたのが1858年と考えていいでしょう。1908年はアメリカの大西洋艦隊が世界一周の親善航海に出発した年です。世界各国の港を訪問して友好を深める航海、と称していましたが、実はこの航海には他に目的がありました。横浜の軍港としての設備や日本海軍の能力の偵察です。

 

 日本の教科書に初めてアメリカという国が登場するのは「ペリー来航」でしょう。しかしその後、アメリカは日本史の中からしばらく姿を消します。次に登場するのは1905年、日露戦争の和議の仲介をしたのがアメリカの大統領のセオドア・ルーズベルトという人だ、ということでしょうか? 教科書からアメリカが姿を消していたこの期間にアメリカの中で何が起きていたのか、ということを米側資料に丹念にあたりながら解明したのがこの本です。大東亜戦争が起きた原因は実はこの期間のアメリカ側の事情にこそあったのではないか、というのが著者の問題意識です。かなり分厚い本なのですがすばらしい日本語で書かれていて、読みやすいので思ったほど時間がかかりませんでした。本格的な歴史書ですがあっと驚くエピソードもいっぱい入っていて飽きません。お勧めの一冊です

 

 著者の渡辺さんがこの本を書くきっかけになったエピソードがあとがきに書いてあるのですが、これがまた衝撃的でした。2009年、渡辺さんは取材旅行の途中、たまたま車を走らせていた時に奇妙なものを見つけたそうです。車から降りて近づいてみると大砲が連なる要塞だったそうです。案内板には「コロンビア要塞」と書かれていて、造られたのは1904年。砲台は砲身をまっすぐ太平洋に向けていたそうです。この大砲が何のために造られたのか、ということを渡辺さんは考えます。1904年は日露戦争勃発の年です。日本とアメリカとの関係は良好です。日露戦争を終結させるのに一役買ったセオドア・ルーズベルト大統領は日本の恩人だと学校教育では教えられています。しかし大砲は明らかに太平洋に向けられていて、太平洋の向こうにある強い国は日本しかいません。なぜこの要塞が造られたのか・・・?というところから渡辺さんの問題意識は始まっています。

 

 大東亜戦争を考える時に、私たちはつい負けたという結果から考えてしまいがちです。負けたのだから日本軍は弱かったのだ、というふうに考えてしまうのですが、20世紀初頭の太平洋を取りまく国々の中で実は日本の軍事力はずば抜けていました。移民社会のアメリカと違い、天皇を中心として一丸となる日本人の団結力はアメリカ人にとって脅威だったでしょう。アメリカがハワイ、フィリピンを併合した後、日本との衝突が必ずあることをかなり早い時期に覚悟して、準備していたと考えるのはまったく的外れではないと思います。

 

戦争が終わってもうすぐ70年になります。そろそろ私たちも歴史の真実を見つめ直せるようにならないといけないと思います。

 

 

 

 

 

韓国の最高裁判所は法律を知っているのか?

http://sankei.jp.msn.com/world/news/120524/kor12052419090004-n1.htm

 

 ↑の記事を読んでいただきたいと思います。共同通信が配信した記事を産経新聞が掲載したようですが、本当にこれを読んで驚いてしまいました。韓国の最高裁判所というところは歴史を知らないだけでなく、法律も知らないのでしょうか?

 
 この原告たちは戦時中、徴用工だったそうですが「徴用」とは何でしょうか? 大東亜戦争末期になると日本の健康な若者はほとんど徴兵され、昭和19年には大学生も「学徒動員」で出征しました。戦争を続けるためには武器や弾薬を造らなければなりませんが、若者が減ってしまったので中学生以上の生徒は「勤労動員」で軍需工場などに駆り出されて働くことになりました。朝鮮には戦争末期まで徴兵令が出されなかったので、兵隊に志願しなかった朝鮮の若者は戦地に行く代わりに工場や農村で働いていたのです。この原告たちが「徴用」されていた頃、内地(日本本土)では女子生徒までもが油まみれになって働いていました。当時は朝鮮も日本なのですから、物資を生産するために働くのは国民として当然のことです。彼らは戦後67年もたって、今頃、その「損害賠償」を求めて日本の企業を訴えているのです。


 

 1950年~52年、朝鮮戦争によって荒廃した国土を復興させるために朴正熙(ぼく せいき)大統領は日本との国交樹立を望んでいました。復興のためには膨大な資金が必要でしたが、当時の韓国にお金を貸す国などどこにもなかったからです。朴大統領は日本の陸軍士官学校の出身です。日本政府のほうにも、かつて共に戦った仲だという意識があったのかも知れません。長い交渉の末、1965622日に「日韓請求権並びに経済協力協定」が結ばれました。日本側代表は椎名悦三郎と高杉晋一、韓国側代表は李東元と金東祚でした。

 

 この条約は
4条から成っています。全文を読むと非常に時間がかかるのですが、要するに第1条では日本が韓国に対して経済援助をする、ということが書かれています。第2条には国民(個人、法人も含む)の財産、権利の請求権は「完全かつ最終的に」解決されたことを確認する、第3条には、もしこの協定の解釈や実施に関して紛争が起きた場合はまず外交上のルートを通じて解決する、第4条には、この条約は批准されなければならない、と書かれています。これを読めば、個人が戦時中の「損害賠償」を請求などできるはずがない、ということは誰の目にも明らかです。もし、こんなことが通用するのなら日本人が戦時中、韓国に所有していた家や土地、家財道具などに対する「損害賠償」もできるはずですが、そんな裁判を起こした日本人など戦後、一人もいません。日本人は恥というものを知っていますから、そういう発想自体がまずないと思います。


 日本の経済援助のお陰で朴大統領は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成しとげました。今、韓国人に「これまでの大統領で誰がもっとも偉大だと思うか?」と質問すると、「朴大統領」と答える人がもっとも多いです。しかし、朴大統領は韓国の経済発展を支えたのが日本からの資金だとは一言も言わなかったので、韓国人はその事実を知りません。

 

この原告たちは以前、広島と大阪でも損害賠償と賃金の未払い分の支払いを求めて提訴して敗訴しています。日本で訴えを起こしても負けるので韓国で裁判を起こしたようです。韓国の最高裁判所は日本の裁判所の判決に対して「植民地支配は不法な強制的占拠」だとか「日本の判決を受け入れることは強制連行を違憲とした韓国の憲法に反する」などと???なことを主張しているようです。韓国の最高裁判所は去年も「従軍慰安婦の問題解決を韓国政府が日本政府に要求しないことは韓国の憲法に反する」という判決を出したという話をどこかで読みましたが、この人たちは本当に法律家なのでしょうか?

 

 最近の日本と韓国のいびつな関係を見ると、つくづく伊藤博文は偉かった、と思います。伊藤博文は日韓併合に反対していました。保護国として監督しながら朝鮮が独立できるようにすれば良い、と考えていたようです。しかし安重根という朝鮮人が伊藤を暗殺したので日本の与論が激高し、日韓併合が決まってしまいました。日本がいくら朝鮮と誠実に付きあおうとしても朝鮮人は決して日本に感謝することはない、ということを伊藤博文は知っていたのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

次期、教科書採択戦はもう始まっている

 育鵬社教科書採択の東京都大田区、区報に反対派の告知記事 「政治活動と気づかなかった」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120517/edc12051701310000-n1.htm



 去年の夏、中学校の歴史教科書と公民教科書で育鵬社の教科書を採択した大田区の教育長を花時計有志のメンバーが表敬訪問しました。左翼の嫌がらせや妨害をおそれて多くの教育委員会が尻込みする中、勇気ある決断をされた清水繁教育長に直接、お会いしてお礼を言い、また激励したかったからです。

 それから約10カ月が経ったわけですが、最近、教科書をめぐってまた不気味な動きが見られます。517日付けの産経新聞に「育鵬社教科書採択の大田区―区報に反対派の告知」という記事が載りました。この記事によりますと、大田区の区報51日号の「区民のひろば」という情報欄に以下のような告知が載ったそうです。

「エッ! 子どもたちが危ない?~大田区の教科書(歴史・公民)はどう変わったか~」講師は俵義文。520日(日)午後130分~4時。嶺町集会室で。会費500円。

 この講師の俵義文という人は育鵬社の教科書を「歴史歪曲」「戦争賛美」などといって批判している「子どもと教科書全国ネット21」という団体の事務局長で、かなり有名な人です。「区民のひろば」には政治活動に関する記事は掲載できないという規定があります。にもかかわらず区報の担当者は政治的な集会であることが明らかな、しかも自分の区の教育委員会が手続きにのっとって公正に選んだ教科書を批判する集会の告知を掲載したわけです。大田区選出の犬伏秀一区議(たちあがれ日本所属)は「タイトルを見て講師を調べれば、育鵬社反対の講演会だということはすぐに分かる。故意に掲載したのではないか」と怒っています。


 実は同じ520日に、大田区立消費者生活センターというところでも別の講師による同様の集会が開かれています。タイトルは「社会科教科書採択にあたって私が考えたこと」、主催は「公正な教科書採択を求める大田区民の会」、講師はなんと前大田区教育委員長の櫻井光政氏です
 

 櫻井氏は去年の教科書採択の時の大田区教育委員長でした。教育委員会は6人の教育委員で構成されています。教育委員は区長が推薦し、区議会がその人事に同意すれば決まります。職業はさまざまです。現職の教師もいれば、教育とは関係のない職業の人もいます。櫻井氏は弁護士です。大田区の場合、櫻井氏を除く5人が全員、育鵬社の教科書を支持したので育鵬社の教科書が採択されました。櫻井氏も反対の意見表明をした上できちんと議論をして決まったのです。

 櫻井氏の講演を聞いた人によると、櫻井氏は育鵬社の歴史教科書の記述を何カ所か取り上げて、批判したそうです。自分も加わって正式に採択し、今、学校で使われている教科書をなぜ外部の集会で批判するのでしょうか? 

 当日、会場で配られたチラシに「公正な教科書採択を求める大田区民の会」の活動内容が書かれていました。それによるとこの会は次期、2017年度の教科書採択戦に向けてさまざまな活動を繰り広げる予定だそうです。つまり次期採択戦はもうすでに火ぶたが切って落とされている、というわけです。



 去年の教科書採択の時、私も何冊かの教科書を読んでアンケートを書きました。公民はあまりきちんと読みませんでしたが、歴史は一応、目を通しました。歴史教科書を出している7社のうち、自由社と育鵬社を除く5社は明らかに自虐史観に基づく教科書でした。にもかかわらず、結局もっとも多くの自治体で採択されたのは東京書籍の教科書でした。東京書籍はなんと50%のシェアを誇っています。大田区も以前は東京書籍だったそうです。

 戦後の学校教育は日教組に支配され、特に歴史では自虐史観の教科書を使って嘘の歴史を延々と子供たちに教え続けてきました。「新しい歴史教科書をつくる会」などの活動によって多少は改善された部分もありますが、大きくは変わっていません。教育が変わらない原因の一つは教育委員会という複雑で不可解なシステムがあるからです。今、大阪市の橋本市長が教育改革で注目されていますが、私も首長が教育にもっと発言できるようにすべきだと思います。教育委員の任免、罷免も首長ができるようにしたらどうでしょうか? そして教育に熱心な首長を選ぶのは市民や県民、つまり世論です。

 大田区が次期採択戦でも育鵬社の教科書を選べるように教育長を支えるのも世論の力だと思います。大田区在住の皆さん、区役所の今回の対応に抗議の電凸をお願いします!


 大田区役所  区民の声課  03-5744-1135

        広報課    03-5744-1132







 

 

 

 

 

 

 

台湾に残る桃園神社

 日本が統治していた時代、台湾には68社の神社がありましたが日本の敗戦後、そのほとんどが取り壊されました。日本人が去った後、台湾にやって来たのは蒋介石率いる中国国民党(外省人)でした。中国共産党との戦いに敗れて台湾に逃れてきた国民党の軍隊の規律のなさ、横暴さに台湾人(内省人)は不満をつのらせ、それが1947年の「228事件」を引き起こしました。「228事件」によって台湾の知識人、約3万人が殺されたといわれています。

1949年~87年、台湾にはなんと38年間も戒厳令が敷かれていました。政治的発言も集会もデモも一切、禁止され、日本語を話すこともタブーだったそうです。神社は壊され、その跡地に「忠烈祠」や廟などが建てられました。台北から40分ぐらいの距離にある「桃園(とうえん)神社」も昭和25年(1950年)に桃園県が新竹県から分離した時に「桃園県忠烈祠」と改称されました。しかし、名前は変わっても内部は創建当時の姿がほとんど変わらないまま今も保存されているのです。

 

階段を上ってゆくと鳥居がぱっと目に飛び込んできました。ヤシの葉の中に鳥居がある・・・何とも不思議な光景でした。境内には玉砂利が敷かれ、左手に手水舎(てみずや)、右手に社務所があります。美しい銅製の神馬(しんめ)を右に見ながら進んでいくと狛犬が左右に控えていました。日本の神社と何も変わりません。なぜこの「桃園神社」は政治的迫害を受けずに残ったのでしょうか? 

P4290515

 元神社本庁の総長だった櫻井勝之進氏は「終戦当時の桃園知事や桃園市長らが『文化財』として残すことを強く主張したお蔭である」と書いていらっしゃいます。また
1987年にここを訪れた北海道・篠路神社の神職、森泰文氏は「桃園神社は住民投票によってその存続が決定し、境内整備が盛んに進められていた」と書いています。

 

 本殿の脇でコスプレをした女の子たちが真剣な表情で写真撮影をしていました。日本のアニメやゲームが最近、たいへんな人気でその中のキャラクターの格好をするのが流行っているそうです。どういうアニメが人気があるのか聞いてみたかったのですが、言葉が通じなくて聞けませんでした

 P4290512    P4290513

                            

 朝鮮、満州、樺太など戦前、日本だった土地に建てられた神社が跡形もなく壊された中にあって、この「桃園神社」が美しい姿を留めているのは本当に奇跡に近いと思います。きれいに掃き清められた境内に立つと、この神社を残そうとしてくれた台湾の人たちの苦労がしのばれて胸が熱くなりました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキングに参加しています

人気ブログランキングへ

愛国女性のつどい花時計
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ