毎年、この時期になると憂鬱になります。近所のスーパーがどこも一様に「ハッピー、ハロウィン!」などという垂れ幕をかけたり、店の一角に「ハロウィンコーナー」を設けてかぼちゃのお菓子や仮装用のお面とかいろいろな小物を売り出すからです。今日もスーパーに行ったら、なんとレジの店員が頭に奇妙な帽子をかぶっているではありませんか 仮装しているつもりなのでしょうが、こうなるとレジに並ぶ気持ちも急に失せてしまいます。
昔からクリスマスとかバレンタインデーが嫌いでした。なぜキリスト教徒でもないのにその日一日だけ、キリスト教徒になってケーキを食べなければならないのか、が分かりませんでした。ケーキを食べたければいつでも食べればいいのに、その日に「みんなと一緒に食べなければならない」という付和雷同精神が嫌でした。本来、日本の習慣にないものなのに人がやるとこうも簡単に右へ習へ、をするのか本当に不思議です。
ハロウィンというものが宗教行事であるということを日本人のうちの果たして何割の人が分かっているのでしょうか? もしよその国でこんなことをやったら「異教の教えを強制した」「信仰の自由を侵害された」という理由で大変な騒ぎになるはずです。同じキリスト教徒の中でさえさまざまな宗派があり、よその宗派との教義の違いや聖書の中の一節の解釈の違いからしばしば争いに発展します。一神教であるキリスト教やイスラム教はとりわけ細かな違いに敏感です。カソリックと東方正教会はミサの時に食べるパンがふっくらしているか、種なしのぺちゃんとしたパンか、の違いでいがみ合いました。第4次十字軍は東方正教会の都であるコンスタンチノープルを攻めて王を殺しています。一神教の信者にとって自分の信仰を否定されるということは相手を殺す十分な理由なのです。今、中東で起きている内戦や紛争はほとんどの場合、根っこに宗教対立があるのです。
日本人の宗教に対する寛大さ、というかいい加減さ、というのは、こうして見ると本当に特殊なものだということが分かります。お寺の中に神社がある国なんて世界中、どこを探してもないでしょう。しかしこれは、日本人の良い面でもあります。八百万(やおよろず)の神を信じ、海にも神様がいて、山にも神様がいて、ご先祖様も祀り、英霊も祀り、クリスマスも祝う、この日本人の融通性のお蔭で私たちは宗教戦争とも民族戦争とも無縁に暮らすことができました。今、イラクやシリアで繰り広げられている果てしない憎悪の連鎖を見る時、日本が宗教対立と無縁な国であって本当に良かった、とつくづく思います。
しかし長所と短所というのは背中合わせです。クリスマスやハロウィンぐらいならまだ許せるのですが、もっと大切な局面で日本人のこの寛大さが裏目に出るのではないか、ととても心配です。外国文化を排除しないということは外国人を排除しない、ことにつながります。日本を愛し、日本文化を尊重する外国人ばかりならいいのですが、そうではない外国人が最近、増えています。日本に住みながら日本語を話さず、自分たちのコミュニティの中でしか人と付き合わない外国人が増えています。それどころか積極的に日本文化を否定し、日本社会を破壊しようとする外国人がいます。その存在がどんどん大きくなって私たちの暮らしを脅かすようになっても、日本人は果たして彼らを排除することができるのでしょうか?
主権を守るということは時には冷徹に敵を排除する、ということだと思います。