マダムの部屋

愛国女性のつどい花時計代表でもあるマダムが思った事など書いています。

2012年12月

映画「二つの祖国で」を見て

 今、「新宿K’s cinema」や「銀座テアトルシネマ」「銀座シネパトス」「横浜ニューテアトル」などで「二つの祖国で・日系陸軍情報部」という映画をやっているのを知っていますか? これはアメリカ陸軍の秘密情報機関(MIS)の中心メンバーであったアメリカ在住の日系人たちの貴重な証言と大東亜戦争の実写フィルムによって構成されたドキュメンタリー映画です。すずきじゅんいち監督の日系史ドキュメンタリー三部作(「東洋宮武が覗いた時代」「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」)の最後の作品で、音楽はなんと!喜多郎が担当しています。

 アメリカで生まれて日本で教育を受け、またアメリカに帰った二世たちのことを「帰米(きべい)」と呼ぶそうですが「MIS」の中心になった人たちは「帰米」でした。大東亜戦争が始まると、彼らは「敵国人」として収容所に隔離されました。しかし日本語が話せて日本人の習慣や気質を熟知している彼らを利用することをアメリカは考えるようになります。「帰米」の人たちも収容所でずっと過ごすよりも自分たちがアメリカの勝利に貢献して日系人に対する差別を少しでもなくしたい、という思いが強かったようです。

 「MIS」はさまざまな任務を負っていました。日本軍の暗号の受信と解読、資料の英訳、日本人捕虜を尋問するときの通訳、日本人に対するプロパガンダの放送・・・しかし、秘密情報機関という性格上、その実態は長く秘密にされていました。元MIS兵士たちもあまりにも辛い体験なのでこれまで人に話したことはなかったそうです。今回、すずき監督が80名にもなる元MIS兵士にインタビューをして、彼らの内面の葛藤をうまく引き出しているのは凄いことだと思います。

 日本とアメリカという二つの祖国が戦う戦場で任務を果たすMISの人たちの辛さが次々と語られます。ある人は弟が日本軍人として戦死したことを戦後知ったそうです。沖縄出身の人は沖縄に米軍が上陸したあと、敵となった弟とやせ細った父親に再会したそうです。日本軍捕虜となった幼なじみと尋問室で再会した人もいます。「立派な日本人になりなさい」と教えてくれた大叔父に一言、お礼を言いたいと思いながらも自分がアメリカ人として戦ったことがどうしても心に引っかかって戦後、日本に行っても結局会えなかった人もいます。

 すずき監督がこの人たちの思いをあえて説明しないところが良かったと思います。個々人の体験や内面を他人が説明することはできません。その時、その場にいた人でないと分からないことだと思います。

 戦争は悲惨ですが、もし「MIS」がいなかったらもっと悲惨だったでしょう。「MIS」は戦後の日本の復興にも大きく貢献しました。焼け野原から立ち上がった日本人の健気さも彼らの口から語られます。昭和天皇から「二世は日本とアメリカの架け橋になってくださいね」と声をかけられた人もいます。日系二世の立場はどれほど複雑だったか、と思いますがどの人も爽やかな表情で語っています。一人でも多くの人に見に行ってもらいたい映画です

 

 

 

 

 

 

 

 

花うさぎさんありがとう~ご命日に寄せて

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日本の心をつたえる会 田沼会長撮影


昨日12月27日は、花うさぎさんのご命日でした。
1年前、花うさぎさんにお別れした時の悲しい心細い気持ちを、今でもはっきりと思い出します。

花うさぎさんは、愛国女性のつどい花時計の、また私たち護国ママの一番の応援団でした。
花時計の初めての活動「「子ども手当」「夫婦別姓」反対・日本のお母さんパレード 」を大きく取り上げてくださって以来、小さな集まりやキャンペーンについてもいつも記事にして発信してくださいました。92番目の会員さんでもありました。
中でも花うさぎさんが一番喜び応援してくださったのが、平成22年秋の尖閣抗議デモに参加した「ベビーカー隊」でした。それまでの保守デモでは子供を連れて参加する人があっても人波に埋もれてしまい、また待ち時間が長かったりで子供たちに負担をかけてしまっていました。子供連れ参加者がまとまって行進することで注目を集めると共に、前方の悌団に入れてもらうことでなるべく負担なく参加できるようにするというやり方を取り入れたのは、保守系デモでは花時計が最初だったと思います。
子供を連れてのデモ参加は「子供を利用するなんて左翼と一緒だ」「ベビーカーが邪魔だから最後尾を歩け」などと批判やクレームを受けることもありましたが、花うさぎさんは「1台のベビーカーはデモ参加者何十人分にも匹敵する」と積極的に応援をしてくださいました。いつもドキドキしながら参加していた私たちには何よりも心強い言葉でした。
10.2 中国の尖閣諸島侵略糾弾!全国国民統一行動
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1825941/
ベビーカー隊が総勢60人にもなった横浜デモの日、ゴール地点の公園は秋の陽射しに照らされてぽかぽかと暖かく、子供たちは紅葉の下を駆け回って遊びました。その光景をニコニコと嬉しそうに眺めていらした花うさぎさんの姿が今でも鮮やかに浮かんできます。
11.13 中国のアジア侵略・人権弾圧を阻止する抗議デモ
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1890448/

昨年お通夜にうかがった私たちは、そこで花うさぎさんの息子さんにお会いしました。今でも花うさぎさんのブログ「世界は腹黒い」を時折更新されている息子さんもまた、愛国者でいらっしゃいました。
父親として3人のお子さんを育てられた花うさぎさんは、愛国者が親になって子供を育てることの大切さを身を持って実感されていたのでしょう。三つ子の魂百までというように、親が幼い子供たちに日本の正しい文化や歴史を伝えていくことで、将来の愛国者を育てることができるのです。ああ、だからこそ護国ママの私たちをいつも励まし応援してくださっていたのだと、その時あらためて思いました。

私事になりますが、その頃私は2歳になった息子を連れて抗議活動に参加することが難しくなり、もどかしい思いを抱えていました。子供1人でも活動に参加するのが大変なのに、2人目なんてとんでもないと、今思えば本末転倒なのですが…。
花うさぎさんが亡くなってから、護国ママって何なんだろうということをふと考えるようになりました。子供を連れて抗議活動に参加するのが護国ママなのか…、自分は家庭内での役割を果たせているか…。花うさぎさんが護国ママ応援団として伝えてくださっていたことを自分なりに反芻するうちに、今は息子に向き合ってゆっくりと生活していこうという思いにたどりつきました。2人目の子供を授かったのはそれから間もなくでした。
この秋に生まれた娘が花うさぎさんの生まれ変わりだとは言いませんが、小さな体を腕に抱いていると、花うさぎさんがこの子との縁をつないでくれたのだなぁと実感します。そして、大切なことに気付かせてくださった花うさぎさんの応援に応えるためにも、2人の子供を日本人として立派に育てていかなければと思うのです。

この1年、花時計の活動はさらに広がりました。花うさぎさんはよく「こういう活動をマスコミが取材するようになってほしい」とおっしゃっていましたが、最近になってテレビや雑誌から取材依頼をいただくようになりました。花うさぎさんがいつもブログに取り上げて花時計の活動を広め、参加者を増やしてきてくださった、その成果が今になって出てきたのだと思います。花うさぎさんを通じて出会った方々とのつながりもずっと続いています。あらためて花うさぎさんが残してくださったものの大きさを実感し、感謝することばかりです。
まだまだ活躍していただきたかった、一緒に安倍政権の誕生を喜びたかった、今の花時計を見ていただきたかったと、悲しく残念な思いはこれからも残るのでしょうが、今もう一度花うさぎさんに「ありがとう」を伝えて、来年からも前向きに活動を続けていきたいと思います。

※今回はマダムではなく、小マダム(?)の橘が書かせていただきました。

司法も腐っている

 NHKが視聴者、1万人から訴えられているということをご存知でしょうか? 原告が1万人! これは史上最大の訴訟です。しかしNHKはもちろん、民放テレビ局も新聞もなぜかこのことを報じません。だからご存知ない人が多いと思います。

 訴えられたのはNHKの「ジャパンデビュー・アジアの1等国」という番組の制作スタッフと責任者です。この番組は近代に入り、日本がアジアの1等国になる過程とそのあとの没落の過程を描く、という製作趣旨の下、取材に基づいて作られた、とNHKは主張しています。その第1回が「台湾」でした。

 近代になって最初の戦争、日清戦争に勝って日本は清から台湾を割譲されました。台湾の統治を描くため、と称してNHKは台湾の山岳民族であるパイワン族を取材しました。ところがインタビューに答えたパイワン族の人の言ったセリフを番組制作者は勝手に作り変えたのです。パリで開かれていた万国博覧会に日本政府がパイワン族を「人間動物園」として出品して見世物にした、という事実無根の話をでっち上げた上で、番組スタッフがパイワン族の人にその時の写真を見せて「辛いですよね、その時のことを思いだすと」というような誘導尋問をしたのです。実はその人はお父さんの写真を久しぶりに見て、懐かしさに泣いていただけだったのに、父親が「人間動物園」の見世物にされた屈辱で泣いている、というシーンをNHKは捏造しました。

 パリの万国博覧会に出場できることは名誉なこととしてパイワン族の人たちは喜び勇んで行ったのです。パイワン族以外にも日本人の力士や舞踊家も出場しています。当時、台湾は日本の一つの地方なのですから地方の代表として出場することは名誉なこと、という感覚だったのです。それが歴史の事実です。しかしNHKの内部には反日左翼が多いですから日本政府が台湾人を弾圧し、搾取した、という先入観でろくに調べもせずに番組を作ってしまったのでしょう。視聴者から多額の受信料を徴収しておきながらNHKはこんなプロパガンダ(政治宣伝)まがいの番組を作っています。こんなレベルの放送局が日本の公共放送局なのですから呆れてしまいます。

 しかし、司法もまたNHKと同じように腐っていました。東京地方裁判所の小野洋一裁判長は原告の訴えをすべて棄却しました。パイワン族の原告二人に対しても訴えを聞こうとはしませんでした。インタビューを受けた当事者が訴えているのに棄却するというのはどういうことなのでしょうか? 裁判長の見解は「NHKは淡々と事実を描いただけで、何が問題があるのか?」というものだったそうです。判決が下った瞬間、法廷には怒号が湧きおこったそうです。本来、法廷では静粛にしなければならないので、これはきわめて異常な事態だと思います。それだけ判決が異常だった、ということです

 私もこの裁判の原告の一人としてとても残念です。しかし、これは第1歩でもあると思います。裁判というものが決して公平なものではない、ということを国民に知らせる良いきっかけにもなったと思います。普通に暮らしていると自分が裁判に関わるということはまずないでしょう。しかし、私がたまたま話を聞いたことのある数人の体験談からだけでも、日本の裁判官には相当問題がある、ということは分かります。例えば医療事故があって患者が死亡した場合、遺族が病院を訴えてもまず勝てません。ですからほとんどの場合、遺族は泣き寝入りするしかありません。マスコミの場合も同じで、マスコミが訴えられても負けることはほとんどありません。つまり裁判官の多くは権威に弱く、過去の判例を踏襲するだけだ、ということが分かります。

 2年10カ月の間、この裁判を支えて下さった弁護士、台湾フォーラム、李登輝友の会の関係者の方々はさぞ無念だったと思います。でもこれから2審、3審とあるのですから諦めずに頑張っていただきたいです。司法の壁に挑戦するのは大変ですが、これも日本の正常化へ向けての一歩だと信じて、私も自分のできることをささやかでもやりたいと思います。

植民地になったのは日本だった!

 16日、「維新政党・新風」の講演会があったので行ってきました。タイトルは「植民地になったのは日本だった!」・・・意表をつく、刺激的なタイトルですよね? 講師は維新政党・新風の国民運動委員であり「外国人参政権に反対する会」会長であり「自治基本条例に反対する会」会長でもある村田春樹さんです。私は村田さんの講演会にはいつも行っているのですが、行くたびに新鮮な発見があり、とても楽しみです。

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      村田春樹氏
 今、日本には「在日韓国人」「在日朝鮮人」と呼ばれる人たちが住んでいます。この呼び方自体がおかしいと私は思います。もし日本に帰化したのなら「朝鮮系日本人」と呼べばいいし、帰化していないなら単に「韓国人」あるいは「朝鮮人」でいいと思います。なぜ彼らだけのために「在日」という言葉を作り、彼らを特別扱いしているのでしょうか? それは「日本に強制連行して来られた可哀そうな人たちだから」という説明がなされるわけですが、これは本当なのでしょうか? 百歩譲ってかつて自分の意思に反して日本に連れて来られたとして、なぜ自由の身になった今、韓国に帰らないのでしょうか? 差別されるような嫌な国、日本になぜずっと住んでいるのでしょうか?

 明治政府は明治32年、外国人労働者の流入を禁止しました。景気の良い日本をめざして中国の日雇い労務者(苦力)が大量にやって来るのを防ぐためでした。しかし明治43年(1910年)の日韓併合によって日本と朝鮮は一つの国になり、朝鮮人は日本人になりました。朝鮮人はもう外国人ではなくなったわけですから職を求めて自由に日本に来ることができます。かくして大正元年(1912年)、日本に住んでいる朝鮮人は3171人でしたが8年後の1920年には30,175人と約10倍に増え、5年後の1925年には129,870人とさらに約4倍に増えています。1921年に関東大震災があり、その復興特需を当てにして多くの朝鮮人がやって来たからです。しかし今、在日朝鮮人は「関東大震災で朝鮮人が日本人に虐殺された」と主張していますよね? それが本当なら、なぜそんな恐ろしい国にわざわざやって来るのでしょうか? ここでも彼らの主張が嘘であることが証明されています。

 昭和14年(1939年)から日本の企業が朝鮮半島で職を求めている人たちのために求人活動を始めたため(民斡旋)さらに流入が増えて1939年の在日朝鮮人の数は961,591年。「民斡旋」では非効率だということで1942年から朝鮮総督府が窓口になって日本での仕事を斡旋したために(官斡旋)1942年の在日朝鮮人の数は1,625,054人。1939年に制定された国民徴用令によって徴用、つまり軍需工場や鉱山などで賃金をもらって働くためにさらに22万人がやって来ました。この徴用のことを在日朝鮮人は「強制連行された」と言っているわけですが、賃金も払われており、募集の何倍もの応募があったのに、これのどこが「強制連行」なんでしょうか? 民斡旋+官斡旋+徴用で約667,000人が日本に来たと思われますが、そのうちの22万人がなんと! 日本に来てから行方不明になっています。より条件の良い職場を見つけて行方をくらましたものと思われます。

 昭和39年(1964年)、法務省が「在留外国人統計」という資料を発表しています。これによると在日1世のうち戦前に日本に来た者=20.2%、戦後、日本に来た者=0.9%、不詳=11.0%・・・この「不詳」というのは何を意味するのでしょうか? 自分がなぜ日本に来たか、分からないという者がなんと11%もいるのです! この人たちはおそらく朝鮮戦争の時、韓国で徴兵されるのが嫌で密入国してきた人たちでしょう。つまり、今日本にいる「在日朝鮮人」は仕事を求めて自らの意思で来た者か、あるいは朝鮮戦争の時に密入国してきた者の子孫だ、ということがこれで分かります。

 彼らの「強制連行された」という主張が嘘だということが分かった以上、在日朝鮮人を特別扱いする理由は何もありません。今、日本に永住できる外国人は「一般永住者」と呼ばれますが、戦前から日本に住んでいる朝鮮人だけは「特別永住者」と呼ばれ、破格の特権を持っています。しかも「特別永住者」の特権はなんと!世襲できるのです。とんでもないことです。この「特別永住者」の特権を直ちに廃止して、彼らをごく普通の外国人として扱うべきだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は「天長節」

 今日は天皇陛下のお誕生日です。戦前は「天長節」と呼ばれていましたが、日本の敗戦後GHQ(連合国軍総司令部)によって名称を変えられてしまいました。また今日は、東條英機元首相など、いわゆる「A戦犯」が処刑された日です。東京裁判によって一方的に罪人にさせられ、絞首刑に処せられた方々は皆、当時の日本の指導者だった方たちです。どれほど無念だったでしょうか・・・。GHQは天皇陛下(当時の皇太子殿下)のお誕生日にわざわざA級戦犯を処刑しています。将来にわたって戦犯の供養をさせないように、23日を選んだのではないかと思います。アメリカ人の執念深さ、用意周到さは本当に怖いです。

 それはともかくとして陛下は手術後の経過も良く、お元気そうで何よりです。22日、皇居で恒例の年末の昼食会が開かれ、野田首相や閣僚、副大臣が招かれて19名が出席したそうです。皇太子殿下も臨席されました。閣僚の中には藤村官房長官、田中真紀子大臣など、衆議院選挙で落選した議員も含まれていたので、恒例の昼食会が「異例の昼食会」になったそうです。

 陛下は「皆さんが日夜、公務に精励されてきたことを誠にご苦労に思います。来年が良い年であるよう願っています」とねぎらいの言葉をかけられたそうです。79歳というお年で、それこそ「日夜、公務に精励されている」陛下からねぎらわれた首相や閣僚たちはどんな気持ちだったのでしょうか?

 民主党政権は皇室に対する敬意の薄い政権でした。確か中井洽だったと思いますが、国会で陛下のお出ましを立って待っている秋篠宮殿下と妃殿下に対してなんと 「早く座れよ。俺たちが座れないじゃないか」などという暴言を吐くなど、数々の非礼がありました。そんなことは陛下は百も承知の上でにこやかなお顔で藤村官房長官に「官房長官はお忙しいでしょうね。どうぞ体に気をつけて」などと声をかけられていたそうです。「公平無私」と口で言うのは簡単ですが、なかなかできることではないと思います。

 日本精神とは何か、という話を台湾の李登輝元総統から聞いたことがあります。李登輝さんは「公」という価値観と「誠実であること」「自然体であること」が日本精神だ、とおっしゃいました。天皇陛下はそんな日本精神そのものだと思います。そういう天皇をいただく国に生まれた感謝をこめて、今日は玄関に日の丸を掲げます。

 

 

 

 

 

 

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