目黒という都心に自衛隊の駐屯地があるのをご存知ですか? 5月25日、「坂の上の雲を偲ぶ会」で目黒の自衛隊幹部候補生学校にお邪魔しました。かつては六本木にあったそうですが、そこを売って目黒に越してきたそうです。約50名をふた組に分けて陸上自衛隊幹部候補生学校と海上自衛隊幹部候補生学校の展示室を見せていただきました。
海上自衛隊幹部候補生学校のフロアに秋山真之(さねゆき)の胸像がありました。これはイタリア人のリナルディという彫刻家が作成したものだそうです。秋山真之が亡くなったあと、秋山を慕う学生たちがお金を出し合って作ることになったそうですが写真が1枚しかなく、秋山本人に会ったことのないリナルディはとても苦労したそうです。でも出来あがった彫像は見事なものでした。
土曜日で誰もいらっしゃらないので、私たちは図々しく校長室にまでお邪魔してしまいました。壁には「儲材鎮洋(ちょざいちんよう)」=人材を儲え、海を鎮めるという字の書かれた額。海軍大将だった伏見宮博恭王(ひろやすおう)の書かれたものだそうです。ところで私たちを案内してくださった東郷宏重2等海佐はなんと! 東郷平八郎の曾孫だそうです夏の軍服姿がとても素敵だったので、私はついついミーハーになってしまい、「東郷元帥の曾孫ということになると、海上自衛隊の中で特別扱いされませんか?」などとバカな質問をしてしまいました。でも東郷2等海佐はにこにこして「いや、まったくそんなことはありません。本人の努力次第です」。バカな質問をした自分に自己嫌悪・・・でした
秋山真之の胸像
展示を見たあとは講義室で平間洋一氏が講義をなさいました。テーマは「ロシアから見た日本海海戦」。防衛大学校の1期生でいらっしゃる平間洋一さんは先日、80歳になられましたがいやあ~お元気、お元気! 相変わらず歯に衣着せぬ「平間節」が炸裂していました。
戦後の日本では「日露戦争はギリギリ日本が勝てたけれども、危うい勝利だった」という説が流布されていて、私もそれを信じていました。でも軍事的には圧倒的な勝利だったそうです。ロシアの軍艦38隻中20隻が沈没、2隻が捕獲、3隻が拿捕され、無事にウラジオストクに帰れたのは巡洋艦アルマーズと駆逐艦2隻と輸送艦1隻だけでした。大国ロシアが東洋の小国、日本に負けたことは当時の世界にとって驚愕する出来事でした。ロシアの帝政は日露戦争の敗戦によって終わった、と言っても言い過ぎではないそうです。レーニンは機関誌「プペリョード」に「われわれの前にあるのは、単に軍事的敗北ではなく、専制政権の完全な軍事的破滅なのだ。ツアーリズムの全政治的システムの破綻としての、この挫折の意義は日本人によって加えられる新たな打撃の一つ、一つごとにヨーロッパにとっても、ロシアの全国民にとっても、ますます明瞭になりつつある」と書いています。
あまりにショックだったからか、ロシア人もこの敗北をどう受け止めたら良いのか分からなかったようです。その後の日露戦争観はロシアの中でも定まらず、くるくる変わっています。平間先生はロシアの時代ごとの日露戦争の評価を比較、分析して解説してくださいました。戦争の評価というものはやはり時代によって変わるものなんですね。
日本海海戦を観戦していた外国人武官がいたそうです。その人の書いた記録によると、日本の将兵は他国の将兵とはまったく違っていたそうです。例えばよその国の軍隊だったらいざ、戦闘開始! という時にはボロの汚れた服に着替えるそうですが日本兵は新品の服に着替えたそうです。また、いざ戦闘開始! となると日本兵は船の甲板に手早く砂をまいたそうです。相手の撃った砲弾が当たれば甲板はけが人の血でヌルヌルになります。滑って甲板を走れないと困るので、予め血を吸い取る砂をまくそうです。そういう細かい配慮ができるって、さすが日本人ですね~!
日本海海戦における日本の勝利は世界の有色人種に「有色人種でもやればできるんだ」という自信を与えました。それがその後の人種差別撤廃の動きへとつながって行きました。つまり日本海海戦には世界史的な意義があったわけです。